てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

日本政治の「親米・反共右派」VS「親共左派」という歪な構造、なぜ「反米右派」が台頭しないのか?

 需要があるのか?と言われそうな去年のCS・プロ野球の話を無駄に時間かけて延々書いてようやく終わりましたので、本家のブログを再開したいと思います。書くネタは一応いくらかあってたまっているので連投したいと思います。まず一番短そうで、簡単に書けるものから。「親米右派」≒「反共右派」。「反米右派」や「親共左派」≠「反米左派」という話です。

 たまたま昔の雑誌、SAPIOを目にする機会がありまして、チラ見していて面白い記事があって、そこからインスパイアされるものがあったので、書きたいと思いました。この号ですね。↓

SAPIO(サピオ) 2016年 11 月号 [雑誌]/小学館

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 元ネタは小川寛大氏の『徹底比較 GHQに叩き潰されたトラウマが神社本庁の「反米右派」思想を生んだ』です。

 神道政治連盟については、公明党以外の全大臣一九人が参加している。遺族会が衰退し、神道政治連盟の方が今は影響力が大きい。山谷えり子氏は参院選の比例で一九人中七位で当選し、医師連盟・農政連の推薦候補を上回った。その集票能力を見せつけた。今自民党内では「昔遺族会、今新政連』という声があるほど。TPP五品目を守るとか、診療報酬引き下げ反対と言った政策協定・対価を払う必要もなく、非常に頼りになる存在になっている。

 ―という、なかなか面白そうな話が武冨薫氏の『恐るべき政治力 「神道政治連盟」にあらずんば大臣にあらずの時代』で書かれています。また『組織とカネ 全国7万9000の神社から10億円の収入 神社本庁「組織と集金システム」の秘密』なんていう記事があって、神社組織のポテンシャルを考えると、色々面白そうな展開を見せることも可能で興味深い所。まあ、深く掘り下げてみない限りなんとも言えないことですが。

 で、本題の小川氏による神道政治連盟の話に入ります。右派・保守という面で、日本会議と性格が似ている。しかし、神社本庁GHQに戦後徹底的に潰された過去があり、共産主義の脅威からお目こぼしを受けた他の財閥・政官・軍隊組織とは異なる。故に彼らは「反米右派」という性格を持ち、「時代に即した憲法改正を進める」というスローガンの自民党とは違い。大日本帝国憲法という理想に帰るという立場を取っている。

 自民党や読売などの戦後保守は基本的に「親米右派」。日本会議の前進の一つである「日本を守る会」も共産主義による信教の自由の侵害の危機感から生まれたもので反共的意味合いのある団体である。

 つまり戦後右派、保守本流というのは本質的に「反共・親米右派」といえるわけですね。昨今、保守勢力の中でも反米を唱える「反米右派」も出てきた。そういう中で、戦後七〇年一貫して反米だった神社界はどういう影響力を持っていくのかと、小川氏は問いかけて文を終えています。

 小川氏の主張に違和感はなく、まあそのとおりでしょうと思うくらいで付け加えることはないのですが、今回指摘しておきたいのは日本の政治界の・政治思想界の歪な構造についてです。

 今の自民党というのは清和会の流れにある、親米勢力。日本が「属国」であることに違和感を持たない。属国体制・構造を維持することによって、恩恵を受ける既得権益保持者達が中心となっている政党です。

 その国の体制がきちんとしたものか、民意の支持を受けているのか、フェアなものなのかということを問わない。民主主義であるかどうか知ったこっちゃない。米の世界戦略を支えてくれる体制なら、米にとって都合のいい環境を維持できるなら、独裁政権だろうが腐敗政権だろうが構わない。中東や中南米の米同盟圏にある国家の典型的な構造を取っていますね。ある意味米の傀儡政権とみなされてもやむを得ないところがあるでしょう。

 占領期から「独立」した戦後保守というのは、「反共」を旗印に、親米路線を進んでいくわけで、これには功罪あれど、基本的には正しかった。共産主義の脅威の前に他に選択できる道はなかったといえるでしょうから。と言うかそもそも選択の余地自体なかったと言うべきか。

 戦後直後はともかく、冷戦後にはその「反共」という大義名分がなくなっている。「反共」故の「親米」という大義名分が消失して、「反米」の声が大きくなるのは至極当然なわけですね。日米戦争・戦争後の歪な構造などの歴史を見ても戦後体制批判、「反米」の声が起こるのは避けられないでしょう。

 しかし、こういう流れの中にありながら現実的に「反米」「反米保守」が大きな力を握っているか?と言われると政治思想ではともかく、政治界ではピンとこないというのが現状でしょう。民進党の有力議員、自民党の有力派閥などが「反米」を声高に主張しているかと言われると、ピンと来ない。

 「反米右派」勢力が伸びてこずに、未だに安倍晋三の主張を見れば言うまでもなく「親米右派」が政治の中心であり続けている。そしてその安倍晋三の主張というのは以前書いたように、「反共右派」なわけですな。

 「アンチリベラルサヨク*1という話を以前したわけですけど、自分たちの思想を論理的に構成して、そのスタンスの違いから相手の非合理性を説く。自派の論理のほうがより妥当であることを主張するわけでなく、相手の思想のおかしいところだけを指摘し、揶揄・攻撃する傾向が昨今見られるわけです。穏健な単なるツッコミレベルから、過激な過剰反応まで幅広いので、そういう指摘をする人をちょっとおかしいのではないか?いかがなものかと一概にまとめて釘を刺すわけにはいかない難しい所があるのですが。そういう人達が勢力を持っているのは「親共勢力」が過去に歪な思想・主張を繰り返してきたからであるという話も以前したと思います。

 親共勢力また彼らの共産主義思想・政治・外交論などなどが間違っていたわけで、それを否定するのはかまわないと思います。しかしいつまでそれをやっているのか?彼らが間違っていたことなんかもうわかりきっていることだし、そういう勢力・思想を未だに支持する人なんて殆どいない。そんなものを相手にする力・時間があるのか?何故そんな無駄なことにエネルギーを割くのかまるで理解できない。

 その「アンチリベラルサヨク」=「アリサヨ」の話は一旦置いといて、「親米右派」のロジックのおかしさについて触れたいと思います。

 現今の国際関係から考えると、日本は「反米」という基本・論理を無視できない。中国や北朝鮮という眼前の脅威を無視できないから「反米」を引っ込めざるを得ないと考える人もいるでしょうが、それは正しくない。日米同盟を最重視・堅持しながらも、「反米」を主張して、米に強い態度で挑む・反省を求める姿勢を取ることは十分可能である。米の言いなりになって、米の世界戦略を忠実に行使しなければ、日本の安全保障は全うされないわけではない。日本なくして米の世界戦略は成り立たないのだから、もっと対等の関係を要求することは十分可能である。

 「親米右派」は米に対して対等な要求をしない、現今の体制、「属国」であることを良しとする。米との外交交渉での衝突を根本的に避けている。こういう姿勢・政治勢力は個人的に大嫌いなので、彼らを支持することはありませんし、何度も否定的に言及してきました。

 そして今回言及したいのは、彼らは「アリサヨ」、左派・「親共左派」の否定(時に罵倒)を軸として、仮想敵を叩くことで自己の「親米右派」という勢力の伸張にしているという図式があること。本当の批判、正確な現状認識に対して論戦をして、より良い結論を導き出していくのではなく、そういう「愚かな敵」もっと言うと「悪」を創り出して、「悪」を叩くことで自分たちを「正義」として演出するという論理があるようにおもわれます。

 日本会議云々が一時期話題になりましたが、個人的に全く興味がありませんでした。そんな勢力に政治を変える・動かす力があるはずがないですしね。件の森友学園のように、歪んだ思想を歪な形で発露させて壮大な自爆をするのがオチでしょう。

 で、その日本会議が反共思想の流れをくむことから、その日本会議を警戒するのは誰かと言われれば、当然旧「親共左派」の人々であるとみなすのが自然でしょう。

 要するに日本会議がどうしたこうしたという一連の政治思想の話は、「反共右派」と「親共左派」という時代錯誤の冷戦時代の異物の発想を引きずったものたちの対決であるといえます。一体何時の時代に生きているのだと突っ込まざるをえない、驚き呆れる話です。

 現今政治情勢・国際秩序などを考えると、「反米右派」や「反米左派」という思想が軸にならなければいけない。その彼らの登場によって、カウンターパートの新「親米右派」だったり「親米左派」*2が生まれて、より政治勢力が切磋琢磨して、民主主義・議会政治を発展させていくべき。

 ―であるべきなのにも関わらず、冷戦が終わって日米対立の時代があって、米一極構造の時代があり、その時代にも変化が見えつつある時代の流れにおいても、未だに冷戦時代の「親共」「反共」という古臭い構造を引きずった思想を持つ人間が政治の中枢を占めている。90年代で冷戦直後ならともかく、もう10年代も後半に差し掛かって20年代に突入しようかという時代にこの有様。いかに政界に人材がいないか、優秀な若手が参入していないかを象徴する出来事でしょうね。

 「いや自民党には優秀な中堅・若手が綺羅星の如く控えている。「反共右派」・「親米右派」という清和会系統の太子党らがのさばっているだけで、彼らが失脚すれば自民党はきちんと生まれ変わるのだ!黙って見てろこのこわっぱが!」

 ―と自民党の反主流派のお偉いさんにでも説教されるような状況にあるのならば、良いのですけどね…。とりあえずは今の自民党政治が政党内の主流派交代で事実上の政権交代が起こるのを願うばかりですね…。

 ※追記、忘れていましたが、現在の「反共親米右派」が反共のロジックを捨てて一からあるべき保守政党・保守政治を目指さなければならないのと同時に、「親共左派」らもその姿勢を見直さなければならないわけですね。与党のまずい点を指摘するだけで、野党サイドのそれを指摘するのを失念していました。

 現在の野党、共産党を除いて、「親共」である政治勢力・政党は殆どないと言っていいでしょう。がしかし、旧社会党などその影響で、民主党・現民進党にそういう親共的な思想はある程度残存しているわけですね。以前、民主党労働党を目指せという話を書いて、旧社会党路線に先祖返りするのか、それとも労働党の方向へ進化するのか、そういう論理があるという話を何処かで書いた覚えがありますが、現在民進党は「民主党」から更に「進んだ」政党になっていないといけない。民主党の悪い性質、「親共」的なものと脱却・決別していないといけなわけですね。

 それは単純に共産主義を指すのではなく、戦後言論空間で非現実的な主張を繰り広げた空想的平和主義など非論理的・非現実的な思考形態を指します。そういうものからの脱却が果たして出来ているのか?

 個人的に鳩山由紀夫を評価していたわけですが、かれは頭が良くとも政治家としては無能だった。目指すべき方向性はあっていても、非現実的で、それを実現させる手段に欠けていた。理想を掲げる・ビジョンを描いたことは素晴らしいと思いますが、それを実現できないなら意味はない。かのような非現実的な思考をすること、正論・理想を説いてそれで改革に失敗して、支持者の失望を招くような事態を二度と招いてはいけない。政策・理念・理想の実現化には、かのような抽象的・空想的傾向から明確に決別する必要性がある。

 現在北朝鮮の脅威が叫ばれている中、殆どの国民は安全保障について危機感を覚えるわけですね。よくよく考えれば、現在の脅威の度合い・レベルはそれほど深刻なものであるとはいえない。しかしそんなこと殆どの人はわからない。大丈夫なのか?という恐怖をまず抱く。そういう時に民進党が政権を取ったら、安全保障で大丈夫なのか?民進党の新首相が国を守れるのかという不安がある人が一定数いる。そういう人々に果たして現在の反安倍攻勢で国会に向かう態度でいいのか?反安倍姿勢を崩すなというのではなく、安全保障について自民党の甘さを指摘し、民進党なら自民党のずさんな管理ではなく、もっとうまくコントロールできる。より安全に透明性を高めて国を守れるという点をアピールしないといけない。そういう中で安保通の長島が離党ということを見ると、一体何をやっているのかと思わざるをえないわけです。どうするんですかね、一体。長島さんが小池新党に参加して政界再編にでもつながればいいですが…うーん。

*1:沖縄の事件に見る「アンチリベラルサヨク」という思想

*2:親米左派と言わるとちょっとピンとこないのですが、政治勢力・思想上ぶつかりあった結果生まれ得ないわけでもないので一応書いておきました

小室直樹・山本七平共著 『日本教の社会学』の推薦文

 前回*1でようやくTポイントの話をし終えました。ああ、そうか更新しても最新日時で公開していないのから、読者の人でも知られていない可能性があるのか。穴埋めで書いてたし、内容もまあそんな大したことではないので、まあいいか。個人的に気になってしまってTポイントを入り口にして思いついたくだらないことを延々書いただけですし。追記しまくったので、もはや最初に書いたオリジナルの原型をとどめていないかもしれません。あの話がなかなか面白いなと思っていただいた方はもう一度読んでいただけると幸いです。そんな奇特な人いるのかな?(^ ^;)

 で、この前書きたいなと言っていた話を書こうと思っていましたが、先にこんな話を消化したいと思います。レビューを書いたらTポイントが50ポイントもらえるというキャンペーンやっていたので、復刊ドットコムでレビューを書いたんですね。そしたら字数制限があって物凄い中途半端・消化不良なレビューになってしまったので、せっかくなので書いたものをこちらに載っけたいなと思いました。あとメモ帳に保存してあるのが邪魔なのでさっさと消したいのでこちらから先に手を付けたいとおもいます。

 小室直樹山本七平共著の『日本教社会学』です。

日本教の社会学/ビジネス社

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 再販されたことで気になっていたことと、この本を復刊ドットコムで自分でリクエストしたので、まあ読んどいてオススメですよ!とPRしないとせっかく再販なされたビジネス社さんに悪いかなと思ったので。復刊してほしい!とリクエストしたわけですから、ちょっとでもPRに協力したいなと思いましたので駄文を書いておきます。


 今から30年以上も前(1981年)に出版された本でありながら、その内容は未だに古びて廃れてしまうことがない。それは両著者の優れた視点・指摘もさることながら、日本の抱えた問題が30年以上も未解決のままであるということである。巷間では「失われた10年・20年」という用語が広まっている。この「失われた~年」というのは本質的には変化をすることができなかった「変われなかった~年」と言える。

 バブル期の日本において、既にこの「変われなかった」という性質は存在していた。バブル崩壊後に「失われた」のではなく、日本社会と言うのは元々近代社会・民主主義社会において重要な「変革」という因子が存在しなかったのである。失われたのではなく、元から病理や危機を日本社会は孕んでいた。ただ単純に未曾有の好景気・経済成長が存在していたために、内在的なリスクが発露しなかっただけなのである。

 この日本が抱える潜在的な危機がいつか爆発するということを見抜いていた小室は、日本社会の預言者として、警鐘を鳴らし続けてきた。その姿勢は一貫して変わらず、単著を初めて出したときからその主張を唱えていた。日本社会はこのままでは深刻な事態に陥る。内在的な危機が発露して大変なことになるということを小室は『危機の構造』(1976)で既に指摘していた。小室を一躍有名にしたのは『ソビエト帝国の崩壊』(1980)であり、ソ連の崩壊を経済体制・共産主義思想・アノミー・技術力・組織の機能不全性など様々な要因から論じ、それが現実化したことで小室直樹の学問・論理は文壇の注目をあつめることになった。

 前述通り小室は既に日本の危機を指摘していたわけだが、当時の時代の空気ではまだまだ十分には浸透していなかった。故に日本の国家や社会に警鐘を鳴らすために、民主主義国家として近代国家としてあるべきはずの常識がない日本社会の異質性・特異性、つまり前近代性を改めて論じることになる。そのパートナーとして「日本教」や「空気」で有名な山本七平氏が選ばれ、共著を出すことになった。

 小室は山本七平を、丸山真男同じく「浅学非才」(もちろん否定的なニュアンスで使われたものではない)でありながら、正当な学問を修めたわけでもないのにあれ程の発見・業績を残すことが出来た点を高く評価している。が、しかし個人的には山本七平には学術的な「方法論」が存在していないと思われる。小室は社会学的な構造機能分析を山本が行っているというが、山本には学問を行う上での方法論が欠けているゆえに、それぞれ論じる内容に一貫したロジックが見えにくいのである。

  「空気」の研究や、本人の体験に基づいた上での日本軍に関する分析、ユダヤ教と日本社会・「日本教」を比較分析したものなど、それぞれ素晴らしいものではある。しかし、では、それらの発見・結果を総合的に、体系的に学術の形としてまとめ上げることが出来たかと言われればかなり疑問が残る。

 学術的なアプローチ、いかなる手段・方法を持ってして問題を論ずるか、対象領域を研究し、重要な法則を発見するかという「方法論」が確立されていないがゆえに起こるものといえるだろう。故に山本の指摘、分析は断片的であり、優れたものとそうでないものの差が激しいと個人的には思う。

 ―と、以上のような山本批判をしながらも、それでもやはり山本の指摘には優れたものも数多くあるのは事実である。それをもって山本の主張に触れずに捨て去ってしまうのは惜しい。当時の時代を知る上で参考されるべきものであることに異論はない。


 出版以前の状況や個人的な山本への評価はさておいて、本題に戻って、日本社会はなぜ変わることが出来ないのか?それは民主主義社会ではないからである。日本人は民主主義というものをまるで理解していないと言っても過言ではない。民主主義とは何かと言われれば、皆決まって戦争や専制主義の真逆の概念である。自由と豊かさと平和がセットになった、なんとなくいいものが民主主義であるという浅薄な思想が本書で記されている。もちろん民主主義とはそんなものではない。現代でもこのような浅薄な理解で民主主義を捉えている人は珍しくはないだろう。それこそ日本社会の危機の源泉、社会の病理なのである。

 小室の学問とは、多岐に及ぶが一つだけエッセンスをあげよと言われれば、それは資本主義や民主主義とは何なのか?ということである。民主主義や資本主義が素晴らしい、素晴らしいからそれを守りましょうなどという事を言いたいわけではなく。そもそも現代のシステム・社会の基礎となっている民主主義や資本主義というものの論理を知らなければ、それを使いこなすことが出来ない。

 民主主義や資本主義というものに批判は昔からある。共産主義というものが力を持って世界に広まったのも、その批判が人々の心を捉えたからこそである。資本主義・民主主義に欠陥があるがゆえの現象であった。が、しかしその失敗を見てわかるように、現状の制度をより良いものに改革をするには、その民主主義や資本主義というシステムの本質を正確に抑えておかなければならないのである。今の制度の本質がどんなものなのか理解をしていなければ、制度を改革するのも、全く新しいシステムを創り出して行くことも出来ないのである。

 まず現代の社会の基本的なロジックを正確に抑えなくては、社会を変えることも良くすることも何も出来ないわけである。社会を政治を経済を良くしていこうと思うものはこの基本を何よりしっかりと抑えておかなくてはならないのである。

 小室の学問の真髄は問題発見能力もさることながら、優れた現状認識・現状分析にある。であるが故にその価値は未だに廃れてしまうことがない。継承するにせよ、批判するにせよ、その論理はどこにでも応用が効くものである。是非一読されたし。 対談本という性質上読みにくさもある。小室直樹の本は多数あり、読みやすいものは多いので他に読みやすいものから読むことが良いかもしれない。読みにくければ無理せず読みやすいものから手を付けることをオススメする。


 当時の日本は軍国主義などではなかった。軍国主義であれば国家のありとあらゆるものを総動員して戦争相手を研究していた。そして勝てないとわかれば戦争をするはずがない。何故軍国主義がそんな戦争をするのか?軍国主義だったのならば、戦争は避けられた・戦争をするはずがなかった。多くの日本人はそんなことも理解できない。―とまあ、そんな肝心の中身には触れずにおしまい。いずれ内容読んで追記するかもしれませんけどね。

*1:

キングコング西野の絵本無料公開の話

 そういえばこの話を書いていなかったので、一言二言触れておきたいと思います。まあ、有名な話でいちいち説明する必要もないでしょうからしませんけど、芸人(元?)のキングコング西野氏が絵本を書いてそれを無料公開したんですね。それについて声優さんから疑問の声が上がって賛否両論炎上騒動になった話です。

 自分で書いた本の権利をどうしようが、本人の自由ですから特に問題はないでしょう。フリーミアムという手法、無料でだれにでも見られることで知名度を高めて売上に繋げるという方法もマーケティングとしては面白い取り組みだと思います。最近、良い悪いおいといて、色んなコンテンツが溢れていて手に取ってすらもらえない。だからマンガがAbemaでも一巻目が無料公開されている。もうそういう時代になっているということを書きました。まあそういう話に通じることですよね。

 しかし、そういうことを出来る人というのは限られるし、フリーミアムという手法は大ヒットかゼロか。リスクを取らずに最低限の収入を確保したいという考え方だってある。この西野氏は初めから知名度があって、それ故にクラウドファンディングで資金を集められて、個人ではなく複数の集団チームで絵本を書いている。本業(だった?故に貯金・資産が適切かな)として確実な収入があって安定した立場にある人間と、知名度すらない不安定な立場の人間では考え方が違うのは当たり前。

 自分がいかに強い立場・有利な立場にあるか、それを自覚していない書き方、物の考え方だなとブログの文章を読んで思いましたね。

 強いものには責任がある、強いものは意図せずとも慣習・ルールを創り出してしまう。それによってこれまでの絵本業界に不利益・不都合をもたらす可能性がある。そういうことを考えないといけない。そういう警鐘だったり弱い立場にあるものの不安の声として件の声優さんのツイートを受け止めないといけなかった。しかし彼はそうではなく、バトルをしてしまった。

 彼のやってることは間違いではない。しかし、物事の進め方・考え方に問題がある。新規参入者が業界を荒らす可能性ということに思いが至ってない。もしそういう発想があれば、無料公開後、絵本業界がどうなったか。あるいは無名作家の支援の場を作る。援助をするなどと言ったそういう話になったでしょう。

 「なんで人間が創り出した道具のはずのお金に人間のほうが支配されているの?」といった一文には、ああマルクス共産主義の時代の流れを知らないんだろうなぁ。もうそういう人が出てくるような時代になったんだなぁと個人的にはしみじみ思いました。

 恩で世の中を回したい。そういう思いは個人的にもあるので同感するところなのですが、それは無料公開とかそういうことじゃない。それこそ成功者なわけですから、稼いだお金を寄付・慈善事業で奉仕するのが資本主義・民主主義では正道、常道なわけです。絵本を無料公開することよりも、お金に困っている子供を救う方法はいくらでもある。というか絵本読みたいという動機よりもよっぽど切実でしょう。普通はそちらにまず目がいくでしょう。

 まあ、結局絵本業界・構造がよくわからないので、無料公開が正の効果をもたらすのか、負の効果をもたらすのか知らない。なのでなんとも言えません。前者なら「西野よくやった!」になりますし、後者なら「だから言ったじゃないか馬鹿野郎」になりますね。ですから絵本業界に詳しい人の分析を聞いてみたいところです。そもそも絵本というのは1人で書くもの。それを運慶・快慶なんかチームプロジェクトだったと最近言われていますけど、そういう作業に変えることがいいことなのかどうなのかという話は気になりますしね。

 後、もう一つそもそもになりますが、テレビで名を上げた人間が異業種に参入・転換する上でその業界や先人に対する尊敬・感謝の念というものは必要不可欠。彼にはそれが感じられない。

 M-1グランプリで漫才をやっていた時も、そうでしたし、あんまり才能・センスを感じないんですよね。はねるのトびらという番組でドランクドラゴンの塚地、ロバートの秋山・馬場、インパルスといった他の面々は面白いなと感じても、キングコングというコンビにはそういうものがなかった。

 芸事で頂点を極めたいというよりも、目立ちたい・売れたいというようなそういう変な気持ちのほうが強いのでは?という気がします。立ち居振る舞いが自己顕示欲が強いタイプだなという印象がありましたね。

 毒舌芸人だったか、ちょっと前に出てきた芸人が西野氏に「しょーもない大学生みたいなボケするな」と言われたことを根に持って「あの時の大学生です」というネタをやっていたのを思い出しましたが、彼はそういうふうに敵を作るんですね。アメトークだったかで、自分に好意的なツイートを検索してRTしまくって、反対意見・敵対意見は攻撃したり晒したりそういうことをするみたいな話を見た記憶があります。まあ、そういう人間なんですね。

 だからまあ今回のように反対意見があったら、戦おうとしてしまう。自分が正しいと言いたがる。JASRACが授業に使われる歌に使用料を払わせるという話で、「JASRACさん、炎上を持っていってくれてありがとう」とか、「ほら、無料公開で誰でも使えるようにした方がいいじゃないか。僕のほうが正しいことが証明された」みたいな事を言うように地雷原だったり、戦場に突っ込んでいくことをいとわない人なんですね。

 最近、ヤングジャンプ読んだのでキングダムで例えますけど、初めて戦場に出る兵士、若武者が手柄欲しさに大将首取ろうとするようなもんですね。まあ経験がないわけでもないので、そこそこの将軍としましょうか。功績を焦って独断専行で大失敗をやらかすタイプという風に個人的には見えました。今回の騒動はこういう感じで終わりましたけど、いずれまた何かトラブルを起こすだろうなという気はしますね。

キングコング・西野さんの絵本無料公開を批判するクリエイターは、今後確実にくえなくなる ―という中嶋よしふみ氏の文章を見ました。労働問題云々で参考になった人なので覚えていたのですが、見事に取り違えていますね。ここで述べられていることは正しいんですけど、そういう話で反対している人達は反発しているわけじゃありませんからね。この方も自分の言いたいこと、語りたいことを語るタイプなのでしょうか。まあ、そう言って人のふり見て我がふり直せという話になるのでしょうけどね。