てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

日馬富士暴行事件の解説① 組織としての危機管理の認識の甘さとその能力の欠如


 相撲カテゴリがあるスポーツの方で書こうとも思いましたが、タイムリーな時事ネタで、他にあまり書くこともないのでこっちで。本当は選挙の話を先にしたかったですけどね。まあ、いつもの主張と変わることもないので目新しい話はできませんし、こちらから。

 

ポイント・要約
○報告義務を怠った加害者日馬富士だけでなく、部屋の管理責任者の親方である師匠伊勢ヶ濱親方に重い責任がある。 
○報告義務を怠ったという点では貴乃花親方も同じ。
○また協会への相談なき被害届の提出は理事という責任ある立場からして問題ある行動 
○我々が本当に問題とすべきは責任あるものたちの誰一人も報告義務を守っていないこと 
○問題発生→報告→担当部署→協議・処分という当たり前の順番の不成立。組織が機能していないこと
○常設の強力な機関・不祥事に取り組む専門部署を作るべきだったのにしていなかったこと=抜本的な不祥事対策をしていなかったことこそが本当の問題
○取りうる対策・監視員制度などを導入すべき
○今回も不祥事対策機関の新設・常設機関化を怠った。監視員も導入しなかった。問題の本質は変わってない以上、不祥事はまた必ず起こる。


■責任の所在は?一体誰が悪いのか?
 横綱日馬富士による貴ノ岩暴行事件によって、日馬富士が引退するということになりました。この件で誰が悪いのか、誰に責任があるのか?という視点から色んな意見が語られました。相撲協会及びそのトップである八角理事長、協会に報告せずに警察に被害届を出した貴乃花親方、加害者と被害者の当事者である日馬富士貴ノ岩日馬富士の親方である伊勢ヶ濱親方、果ては同席していた横綱白鵬までが悪い云々という意見が飛び交うことになりました。

 身内・相撲界の不祥事について協会に報告もせずに警察にいきなり行く、刑事や民事事件にまで発展させようとする貴乃花親方の振る舞いははっきり言って正常なことではありません。まず組織の人間としてしっかり報告すべきだった。経緯を見ると、日馬富士の親方である伊勢ヶ濱親方に相談、それを聞いた伊勢ヶ濱親方は協会に報告せずに示談してほしいと貴乃花親方に相談。それに不信感を持った貴乃花親方が警察に被害届を提出―という流れのように見えます*1

 貴乃花(以後親方略)としては、伊勢ヶ濱に話を通した際、彼が協会に報告をして、協会の裁き・処断を待つという態度をとると思ったのでしょう。ところが伊勢ヶ濱は協会に報告をしなかった。本来協会に話をして、それから協会の判断を仰いで今後どうするかの処分を待つべきだった。業を煮やした貴乃花は埒が明かない!と憤って警察に行った―とまあ、そういう流れのようです。

■一番責任が問われるのは報告を怠った伊勢ヶ濱親方
 この件について、他の部屋の親方である貴乃花から事件を知らされた伊勢ヶ濱は事態がどうなるにせよ、協会に真っ先に報告するべきだった。その上で貴乃花に色んな話をつけるべきだった。一番悪いのは、事件をこじらせた真の要因は、伊勢ヶ濱親方だということは間違いないでしょう。

貴乃花親方の行為は組織に所属する人間として逸脱している
 が、しかしこれは貴乃花の正当性を担保するものではありません。貴乃花伊勢ヶ濱の行動が不当なものである・間違っていて事態が進展しない時、すべきことは警察に被害届を出すべきことではなく、協会に事件の経緯を報告することです。組織の人間である以上、警察に行く前に協会に報告義務がある。これを怠った貴乃花親方が非難されるのは当然のことです。

 ここで抑えてくべきことは、貴乃花が間違っているわけではありません。貴乃花が警察に行く・行かないの是非はともかくとして、何よりもまずホウレンソウを怠ったことが問題になるわけです。暴力事件が起きて警察に被害届を出すこと自体は別におかしな話ではないのです。しかしそれより前に通すべき筋がある、協会・八角理事長に「警察に行く」という相談・報告を何故しなかったのか?なぜワンステップ挟まなかったのか?これが全く理解出来ない、言語道断な行為なわけです。

 警察に行くという確固たる意思を翻さなくても、「これこれこういう理由で警察に行きます」「警察に行かない限り真相は明らかにならない、業界の自浄作用能力が働かない」などきちんと説明しなくてはならなかった。きちっと報告して筋を通していたら、貴乃花の印象はまるで変わっていたでしょう。協会の理事という立場にありながら、協会・組織の意志決定に参画する者でありながら、なぜこんなことをしてしまったのか、理解に苦しみます。これは相撲協会の人間が反発するのも当然でしょう。どちらかというと、貴乃花の改革に期待する立場である己も、これには開いた口が塞がらない暴挙でした。

 もし、貴乃花がきちんと筋を通していたら、協会に報告をして、しかるべき部署(この場合危機管理委員会)で日馬富士に対する処分を話し合って、そこで処分を決着させていたら…。その後で警察に話を持っていったとしたら…。貴乃花に対する評価はまるで違っていたものになったでしょう。

日馬富士貴ノ岩も、伊勢ヶ濱貴乃花も誰も報告せず
 また、日馬富士貴ノ岩もこの出来事を親方に報告していなかった。この事件は時津風部屋の暴行死事件とは一線を画するもの。閉鎖的な一つの相撲部屋内部での事件ではない。兄弟子が暴行を加えたという点では同じですが、同じ部屋に所属している兄弟子ではないこと。そして何より親方が暴行を加えたという点で大きく異なります。親方と兄弟子=部屋の責任者と先輩では意味するものがまるで違うのです。
 今回の事件を時津風部屋での事件と働いている力学が同じとか、同一視するのは無理があります。角界の変わらぬ体質とか無理やり結びつけて論じる傾向が見られましたが、一つの部屋の腐った体質と部屋外部で起きた今回の暴行事件とは、次元が異なる話です(一つの部屋の―とはいっても無論、その他の部屋でも親方・兄弟子が弟弟子にパワハラ・暴力を加えることがないわけではないでしょうが)。
 今回の事件で角界の変わらぬ体質!!と大騒ぎをする人というのは、そもそも暴力事件が起こるなんてトンデモナイ!!という前提が故の発想・主張なのでしょう。暴力が悪い・許されないなんていうことは当然として、角界という世界を考えれば否応なく喧嘩や腕力に任せたトラブルが起こるのは必然。問題は、いかにそのような事件が起こらないようにするかということ。いかに発生件数を減らし、いかに悪質なものから軽微なものに抑えるかということ。そしてその不祥事をいかに裁くかというガバナンス・管理の問題なのです。例えるなら交通事故のようなもの。車がある以上、交通事故は避けられない。故にどうやって最少被害に抑えるかと論じるもの。理想論か現実論かという違いがわかってないのかもしれません。理想論通りになくせればいいですが、スポーツ選手・アスリートの不祥事をなくせというのはまず無理ですからね。格闘技であり荒っぽい世界であれば尚更です。

 話を戻します。本当に問題とすべきは、報告義務の無視・不履行なのです。今回のような事件が起こった際に、当事者が力士なら力士は、親方や協会に必ず報告をしなくてはならない。親方も同じで、親方が何らかのトラブルを起こしたり、把握した場合、協会に必ず報告をする義務があるのです。本当の問題は、力士・親方がそれを怠ったことなのです*2

■不祥事対策に取り組まなかった故の必然の不祥事発生
 野球賭博八百長などの不正行為、前述通り部屋内部での暴行などで協会の管理体制の甘さが問われた。不祥事を受けて、相撲協会は取り締まりを徹底的にしなくてはならなくなった。どんな些細な事件でさえ、親方や協会に報告義務がある。その報告を怠った日馬富士が引退に追い込まれるのはごく自然な話といえるでしょう。

 ところが、当然こういった道理・常識を角界が共有しているとは思えません。こんな当たり前の道理もわからないからこそ、これまで数々の不祥事を起こしてきたわけですから。
 
 2012年に危機管理委員会が設置され、不祥事が起きた時の担当部署としてあるわけですが、常設の強力な組織ではない。無論名目としては、常設なのでしょうけど、不祥事が必ず起こるものとして重要なポストとして作られてはいないでしょう。

■危機管理意識の乏しさを証明する天下り受け入れと兼職
 ちなみに初代委員長は宗像紀夫氏(元東京地検特捜部長)で、16年に高野利雄氏(元名古屋高検検事長)が委員長に就任しています。典型的な天下り受け入れ人事であり、天下りさえ受け入れていればなんとかなるだろうという甘えがそこに見られます。

 危機管理部長は、鏡山昇司理事(元関脇多賀竜)で、 指導普及部長・生活指導部長・監察委員長・危機管理部長・博物館運営委員―と、かなり多くの役職を兼ねています。本来なら協会のベスト2や3と言った役職の人間、出世人事のルートとして花形役職にならなければいけない部署。それが兼職される一つのポストでしかない。こういう事実一つを持ってしても、いかに危機管理に甘い考えを持っているかわかるものです。

 ※ただし、 10人の理事の内、協会本部の人間とされるのは3人しかいません。そう考えると理事長以下ベスト4に入る要職にある人物ということも考えられます。それでも兼職ということで、不祥事に対する備えが甘いことに変わりはありませんが*3

■導入すべき監視員制度を導入しなかったツケ
 力士は、犯罪・トラブルを起こす生き物、暴行や窃盗など刑法に触れる行為をする。八百長もするし、違法な賭博にも手を出す生き物。そういう認識を持って、常に目を光らせないといけない。そういう力士の行為を取り締まる組織を作らなかった、その時点で今回の事件が起こることは必然だったといえるでしょう。

 相撲という興行から考えると八百長が一番の問題で、その次に野球賭博八百長に賭博が加われば相撲賭博となって、興行が金銭・金儲けのために崩壊するため絶対に許されないこと。

 それとは別の次元の話として、社会的な観点から、組織内部で上のものが下のものにパワハラのレベルを超えて暴行死させるという話があります。これはもう興行云々の話ではなく、社会が許さないこと。

 そういった興行上・社会通念上の二つの問題がある以上、取るべきことは相撲部屋に監視員を設けるしかない。あるいは抜き打ちで調査員を派遣することしかない。部屋の透明化・情報公開を徹底するしかない。部屋内部で「かわいがり」があまりにもひどすぎるということになったら、親方・部屋のトップとしての管理能力無しとして、指導資格を剥奪すること。また監視員による採点、チェックを年度ごとに公開することなどもポイントになるかと思います。

 そして「八百長」については、支度部屋や各力士の通信機器の不定期でのチェック・及び盗聴や監視カメラの設置。付き人制度を超えた相撲協会派遣の監視員を力士につけることなどなど、考えられる限りの対策を取ることでしょう。必要とあらば親方制・部屋制度の撤廃ということも視野に入れなくてはならないでしょう。そこまでやっても個人的に「八百長」というか星の貸し借りという習慣を根絶できるとは思えませんけどね。

■結論
 今回の日馬富士の事件は、度重なる不祥事にも関わらず、組織としての危機管理に対する認識の甘さと対応ルールの共有欠如=未熟さ。再発防止策として然るべき組織の整備とその部署の重視を怠ったことがもたらしたものだということ。今回の事件には組織として行うべきことを怠ったという当たり前の事実・背景を我々は決して見過ごしてはならないでしょう。続きます↓

アイキャッチ用画像

*1:※参照―貴乃花親方がバッシングされても相撲協会と決裂した本当の理由

*2:協会が一手に情報を集約して、マスコミが動き出すよりも先んじて会見を開かねばならなかった理由が書いてあります。いい文章なので一読をオススメします。【日馬富士暴行】相撲協会の「暴走」、貴乃花親方の「警戒」 |

*3:職務分掌 - 日本相撲協会公式サイトより

浅野裕一著 『古代中国の宇宙論』

古代中国の宇宙論 浅野裕一

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 浅野裕一氏の『古代中国の宇宙論』のメモ。詩経書経には中原の上天・上帝思想がある。天帝が意志を示すという発想は時代を下るにつれ消えていく、鄭の子産・晋の叔向・斉の晏嬰などは政治から呪術を排除し、天に働きかけられるのは君主の徳だけと、天への働きかけを限定しようとした。

 董仲舒は上天・上帝思想と気の思想を折衷した陰陽災異思想を打ち出している。道家などが、天の意志という抽象的人格神の思想を排除して、抽象的非人格神である「道」などの概念を打ち出して合理性を高めたのだが、漢・武帝以降にまた天の意志が思想に持ち込まれて、合理性は弱まってしまったわけだ。

 天の意志という不合理なものを排除した道家&法家、しかしその不合理な「天の縛り」というものが排除された結果、君主がどこまでも裁量権を奮ってしまう危険性がある。実際に秦などはそういう方向に向かった。秦のように君主が国家の権力を最大限用いる危険性を考えると、思想的にそれに歯止めをかけるストッパーの役割が必要となる。故に、このような天の思想が復活したと考えられる。思想が非合理的に後退したのにはちゃんと根拠があると言えるでしょう。いかに正しくても時代や環境がふさわしくなければ正解にはならないという良い事例ですね。

 そもそも合理的な思想というのは、変革・改革の必要性、トップダウンで物事を進める必要性から生まれたものですから、漢のような統一帝国にとって必要ではない。
鄭の子産・晋の叔向・斉の晏嬰、そしてもちろん失敗したとはいえ魯の孔子も改革を肯定する人間。漢では、いかに国を改革して強くして拡大させるかではなく、いかに安定して維持していくかということが問われる。秩序の維持・安定には合理思想は合わないわけですね。家の安定、郷里秩序の安定、そして国家の安定という方向で思想が発展していくのも当然ですね。

 そういう忠孝思想、価値観というのは当然それ以前にもあったわけですけど、漢代に特に重視されていったわけですね。特に人為的にピックアップされて異常に奨励されたというよりは、今まで法家思想などで富国強兵的な価値観だったり楊朱のような個人を主体に考える思想だったりが、消えていった結果最後まで残った思想がそういう普遍的な当たり前な常識だったということでしょう。


 宋学宇宙論あたりは読んでいても何を言いたいのかよくわからないのだけど、同じように気の作用に注目して、その気によって宇宙・世界の生成を説明した。そうすることで、天の思想・天の意志を思想から極力排除しようとしたということか、なるほどね。宋学はこれまでの儒学の不合理な要素を排除しようとした結果なんでしょうね。

 黄老道を排除するために武帝董仲舒の天人相関思想を採用した。そこで道は天の下の概念として組み込まれた。漢末になれば、再び道・黄老道が台頭しそうなものだがそれはもうない。思想の担い手がいなくなったことと、帝国の思想としてまた危機における改革に「無為」は無力だろうからなんでしょうね。

 実際台頭して後の中心になったのは儒学。官僚を要請するための学校・それに用いるテキストブックがあるかどうか。そういう条件を黄老道は備えなかったでしょうしね。学問・学校・教師それを支える地方の学校、そういう体系的なものがないと学問としては生き残らないし、生き残っていかない。まあ地方の学校で人によって千差万別でいろんなことが教えられたんでしょうけど、オフィシャルで学ばせやすい性質を儒学が一番備えていたということでしょうかね。

 それこそ、漢以外の選択肢、華北のみの政権だったり、華南、江南のみの政権のような政権構想があれば別だったんでしょうけど、一度漢帝国という枠組みを経験したあとは、統一帝国以外選択肢はなかった。人々は統一帝国以外の政権を望んでいなかった*1。もう一度統一帝国を復活させよう、「漢」を復活させようという機運のなかで、抜本的な変革を求める合理思想、ラディカルなものは必要とされなかったということでしょうね。黄老道が漢末に出てこなかったというのはそういうことも背景にあるでしょうね。原始道教的なものはチラホラ存在していたし、中央に経典が上げられたりなどありましたけど、黄老道や黄老思想というかたちを取るべくもなかったでしょうね。担い手がいないので。


 老子の道だったり、『太一生水』や『恆先』などの思想は、中原の上天・上帝思想と一線を画す*2。だから辺境の楚で生まれたわけだがその背景は謎。個人的にはインドなど海洋ルートからはいった思想の影響かと思うが、どうかな。

 今後、老子について読んで色々やるつもりなのだが、道や宇宙論は他の二つの先駆と比較して考えないと結局、老子で書かれている真意はわからなそうだな…。だとすると老子だけを単独で読んで好き勝手にあーだこーだと解釈しても、無意味になる可能性が…。老子が生まれた時代に既に存在した『太一生水』や『恆先』といった先駆思想をしっかり抑えておかないと見当違いな解釈・文字の意味を誤解してしまいそうで怖いなぁ。これからやるつもりなのに。

*1:まあ割拠政権がいくつも出来たように、地方で独立したいという声はちゃんとあったことはあったでしょうね。それが多数派を占めなかったということですね

*2:そういう意味でも董仲舒の天人相関災異思想というのは中原本来の思想、先祖返りであって、江南の思想の排除とも言えるわけですね

浅野裕一湯浅邦弘著 『諸子百家〈再発見〉』

諸子百家〈再発見〉 浅野裕一

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  浅野裕一・湯浅邦弘著、『諸子百家〈再発見〉 掘り起こされる古代中国思想』のメモです。ずっと前にメモっといて、まとめておくのを忘れていました。個人的メモになります。

 p10、「挟書の律」、焚書などが思想に大きな制約をもたらしたという見方。学団の解体と書いてあるように、そちらがメインで。焚書はあくまで手段に過ぎないと思う。思想統制こそが目的で焚書という事業を全国的に徹底的に展開したとは考えにくい。統一帝国・秦に草の根レベルで抵抗して統治の障害になる学者集団の母体の解体こそがメインと考えるべきだと思う。

 公式に挟書の律が廃止されたのは文帝のとき、それまで厳格に取り締まったりしなかったから、漢代の学者は諸子百家を研究できたとある。がしかし、挟書の律について「学者を取り締まるべき」「いや、思想統制はすべきでない」とかそういう学者や思想統制政策について論じられていない。一大テーマだったという記録が残っていないことからして察しだと思うんですけどね。

 まあ、学者が自由に活動しづらかったという点では違いはあるんでしょうけどね。秦の治世も始皇帝死後は不安定化しましたし、そんなに長期間学問の自由が奪われていたと考えるべきではないと思いますね。始皇帝死後反乱が起こるに連れて次の時代を睨んで、新しい世のための学問・学者活動は徐々に活発化していったと見るべきだと思います。

 秦時代の思想統制焚書などが大々的な影響を与えたとみなすべきではないと思います。

 p12、河間献王・魯共王が古文研究。共王の場合は孔子宅から出ただけで、それを王国単位で熱心には研究しなかったんだっけかな?河間献王が熱心に研究したという先例がこの河間国に大きな意味合いをもたらすのかしら?封国が時代によって全然場所違うから要注意なのだけど、後漢まで続いている、封国のアイデンティティとして引き継がれているとすると面白い話。

 儒家墨家・兵家・道家、ほぼ時を同じくして出現する。兵家を除けば、三者は君主・国家権力の恣意的な行動を制限することを目的とした思想。兵家・孫呉の兵法は、それがまるでないわけではないが、斉から新興国呉に渡って、大国楚を五度に亘って破るという大々的な実績を以てPRするのが前三者と異なる所。

 要するに兵家は仕官してなんぼ。高官となってその思想を現実に実践できなければ、その思想の有効性が発揮されることはない。このような姿勢は合理的な思想をする荀子や法家に受け継がれていく。縦横家も同じ立場。思想家として政治に強い影響力を与えたのはこれらの立場であることは言うまでもない。前者(儒家墨家道家)は所詮思想家で、後者は政治家・実践家(兵家・法家・縦横家)。もちろん人・時代によって違いはあるのでしょうけどね。道家なんか後に現実的に政治を動かすにはどうすべきか?という者達が出てきますし、墨家もいかに城・国を守るかと現実主義的な色彩を帯びていくわけですね。まあ教団化の方向に行って結局は滅びましたけど。儒家儒教の変化は今更言うまでもないでしょう。

 p61、汲郡から魏王の墓から大量の文書が出土、この汲冢書の古文研究がなされ、邯鄲淳の古文、伝承されてきたものがやはり正しいと認められることに。正始年間に三字石経と呼ばれる学問の正統化がなされていたこと、その裏付けが与えた影響は面白そう。正始の音に間違いなく反映されてるだろうし。

 p75、この時代、紙や木簡はめったにない。殆どが竹簡、繊維質で加工しやすい。殺青、竹を炙って防腐処理をする。木の腐りやすさとどれほどの違いがあるのだろうか?それでも竹の加工しやすさ、厚さが0.1cmで済むという利便性は大きかっただろう。木ではまず無理だし同一に整えるのが大変。

 p91、郭店楚簡『窮達以時』には荀子の「天人の分」の思想がある。それまでは荀子が初めて人格神的な天を否定したと考えられていた。都市国家から領域国家へと変貌を遂げる前提に大きな思想的下積みがあると考えるのが普通で、孔子老子以前に思想的前提があったと考えるほうが自然だと思うのだが…。まあそういう理解をする時代があったということですね。

 p101、五十にして天命を知る=革命の天からの指令と解釈する。当時の常識的な寿命を考えるとかなり考えづらい。孔子が天命理論・易姓革命に天の指令がありうることだと考えていたとしても、大臣ですらない人間にそんな声が聞えるはずがない。聞こえていたらもっと痛い言動・DQN言動が多かったはず。

 『窮達以時』は個人の禍福の話だが、荀子は政治・社会レベルにまでその論を引き上げている。が、天命・易姓革命を明確に否定はしていない。それをしているのは商鞅。彼のロジックに「天」はない。「力」のみに注目している。周の文字・制度を取り入れていた秦は「天」も取り入れていた筈。その「天」思想の否定をした。

 徳・礼と政・刑が対立している(p156)とか、老子の思想はアンチ儒家だとか(p191)、どうしてこう硬直的な捉え方が多いのだろうか?特定の思想・学説が10か0かで他の可能性を考慮しない、排他的だったとするほうが想定しにくいだろうに。6:4とか7:3とかそれくらいの割合でいるものだと考えたほうが自然。なんででしょうね?普段から自説と違う立場の人とケンカばっかしているから、そういう捉え方しちゃうんでしょうかね?(笑)

 p194、馬王堆帛書や郭店楚簡の老子には「大道廃れて仁義あり~」のくだりが、「安」=いづくんぞを加えて真逆の意味で書かれている。大道廃れていづくんぞ仁義ありになっている。また忠臣の箇所が、それぞれ貞臣・正臣となっている違いもある。こう読むと大道がなければどうして仁義が保たれるだろうか~など、真逆の意味になる。しかし、「安」をつけて読んだ場合、あまり意味がある句にならない。逆説的な警句として意味がある文。本来の思想の逆説性を取り除くために、安の字をあとから付け足して換骨奪胎を図ったのだと個人的に思う。

 老子本人・本来の思想が儒家と相容れないものだったとしても*1、折衷派は当然いる。折衷を図ったそれぞれの思想のいいとこ取りをしようとする中間派が「安」の字をつけたのではなかろうか?黄老ならぬ孔老派かな?

 p218、公孟子墨子に向かって孔子は天子となるべき人物だったことを説くのだが、詩書・礼楽・万物に詳らかという事をもってその証拠としている。また古代の帝王伏犠や周の文王・周公旦などが易を作っており、その易に精通するのも孔子が天子となるべきだったという説の補完になっているという。

 師匠である孔子の絶対化・権威化を弟子たちは図った。そこで孔子=聖人だったとか、天命を受けていたとか無茶な話になってくるのだが、ゼロではないにせよ孔子にそういう意識はそこまでない。弟子たちがそういう主張をしていたのを以って、孔子がそういう痛い思想を持っていたとするのは無理がある。


 そうだ、「忠」といえば、忠とか性とかの話があったのだけど、そういうのはあまりこの時代の思想でポイントじゃない、優先順位高くないと思うんですよね。孔子が君主への諫言について語っている内容からわかるように、無条件の忠義を君主に尽くせという発想は出てこないし、そもそも当時には必要ない。

 君主は仕官を求める人材が毎日のようにグイグイ押しかけてくるわけで、誰を雇うのも大臣にするのもまあ自由だった。忠義よりも能力・結果を求めた。仕官を求める士も同じ。自分の主張が受け入れられなければ、さっさと次の土地へ行って重用される君主を探すだけ。そこに君臣の忠義云々という思想の需要は殆どない。

 まあ、今話題のブラック企業社畜に絶対の忠誠、全人格的服従を要求するようなそれはなかったわけですよね。ですから孔子も君主が自分の話を聞き入れないと思ったら、諫言は辞めなさい。そんなブラック企業辞めなさいと説くわけで。国家体制・王朝が絶対の前提にならないと「忠」云々は出てこないかと思えますね。

 孔子先生が教える!ブラック企業時代の社畜の生き残り方!!―なんて本でも作れば売れるかもと一瞬思ったが、じゃあどうやってその教えを実行して給与・高待遇を確保するかと言われれば、顔淵的生活をしなさいオチになりそうなので、売れるわけないなとすぐに素に返りました(笑)。

*1:親近感を覚えていなかったとしても、儒家を特別に敵対視していたとは思わないが