てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

逆説の三国志(1)― 馬謖幼常、登山家ではない。



 で最新作が登山家メインだったからってわけじゃないですけど、一発目は馬謖幼常です。三国志ネタでは必ずネタキャラの一人として描写される馬謖。街亭の戦いで、孔明の言うことを無視して、山上に陣取って大敗を喫し、北伐を失敗に導いた戦犯として知られています。そのため登山家・アルピニストとネタキャラ扱いされて、負の意味を込められてそう呼ばれたりしています。

 本当にそうだろうか?歴史上悪役といわれる人物は本当に悪役なのだろうか?と蒼天が始まるように、彼は本当にアホなのか?生兵法で、私欲に駆られて突っ走った結果なのか?

 己は、それはないと断言します。彼は断じて登山家ではありません。詳しく書くのは省きますが(長くなってめんどくさいから)、当時の状況を考えると蜀は初めて北伐に乗り出すところでした。歴史を読み解くには、当時の状況を考える必要があります。私たちは結果として五回という長きに渡って遠征を繰り返すということを知っていますが、当時の情勢・蜀の国力を考えれば、一度の遠征で結果を出そうと考えていたと想像するに難くありません。蜀は兵力・国力で絶対に中原を支配している魏に敵わないのですからね。

では、弱者が強者に勝つにはどうするか?
 ①局地戦もしくは一大会戦で相手の軍を壊滅させる(例、合肥のように相手の軍がその損害の大きさで暫く行動できないくらいのダメージを与える)。
 ②最重要拠点を奪う、占領する。


 その2つのどちらからです。しかし地勢は大軍がぶつかるのに十分な場所がない山岳地帯です。漢中というのは陸の孤島であり、そこ以外に十分な平地はなく、人が生活するのに有効な場所はあまりありません。唯一大軍同士がぶつかることができる場所が漢中くらいしかないのです。結論を言えば、守りやすく・攻めにくいという場所。天下の険、要害ですね。しかし裏を返せばこちらも同じ、長安という相手の拠点は守りやすく・攻めにくい。

 蜀が滅ぶまで何十年もかかったのに、漢中を落とされた後はあっという間でした。唐という王朝に至るまで長安というのは北方遊牧民に対して最重要防衛拠点であったように、ここを死守できるかどうかで、国家の存亡が決まるといっても過言ではない要衝でした。


 では本格的に馬謖のスタンスから見てみましょう。涼州との分断を図るために、天水・南安・安定と占領したところで、一体何になるのでしょうか?むしろ涼州の軍と挟み撃ちにされるだけです。蜀の軍で簡単に抜ける諸郡を、その蜀が長きに亘って守り抜けるはずがありません。守り抜けたとしても、いずれ魏の国力の回復の果てに抜かれることは必死。蜀の滅びる時間が伸びるだけでしょう。軍隊の規模、部隊から言って、二方面・多方面作戦を展開する軍事作戦では、蜀は必ず劣勢に回らざるを得ないのですから。

 誰もが考えるように、劉邦項羽に対して勝つことが出来た最大の要因は韓信という軍略の天才がいたこと。そしてそのもっとも有名な戦術が韓信の背水の陣*1です。韓信のように、相手の拠点・長安を陥とさない限り、北伐の意味はありません。

 彼が行った『登山』は韓信が行った戦術を真似したものでしょう。当時の状況を見ると、司馬懿荊州軍を孟達の反乱に向けて叩きに行っている。つまり、少なくとも二週間~二十日くらいの程度で漢水を遡って攻めてこられる危険性はないわけです。馬謖が命令違反しようとしまいと、当時の状況を考えれば、長安を落とす絶好の機会と見ていいでしょう張郃が中央騎馬軍、精鋭を率いて馬謖隊を囲んでいる。ならば、取るべき策は3つ。

 ①子午道であれ、斜谷道であれ、一気に北上して陳倉・郿を陥とす、②もしくは挟み撃ちで張郃の精鋭騎馬軍を壊滅させる。③また一気に長安を衝く。以上のどれかをしなくてはならない。なのに何も決断しなかった。責められるべきは司令官であった諸葛亮の決断力のなさでしょう。馬謖が行った背水の陣、『登山』の陣は大軍をひきつけ、死兵の覚悟を犯したのにもかかわらず、プランと違ったから、QBKだったからというトップの判断によって、単なる登山家として終わったのでありました。あわれ馬幼常。この意見を後に修正したので、リンクを→馬謖の山上の陣