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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

『経済はナショナリズムで動く』 中野 剛志 『日本経済の突破口』東谷暁

本・読書―批評・批判・感想・レヴュー

 

ブログ引越し&見直しの再掲です。元は10/01に書いたものです。

経済はナショナリズムで動く

経済はナショナリズムで動く

 

 を今回は取り上げたいと思います。この書は

日本経済の突破口

日本経済の突破口

 

 ―で取り上げられており、米のグローバリズム戦略とは米のナショナリズム、自国の国益追及のために行なっているのに過ぎない。それを経済ナショナリズムという言葉で詳細に分析しているというので、読んでみました。


 まず、東谷 暁さんの方からです。構造改革・グローバルスタンダード導入がいかに間違っていたかということを主張します。公共事業を止めたことにより、十年で地方に流れるはずだった、失われた金額は70兆円に及ぶという話や、BIS規制導入などが必要なかったという話。などが出てきて、一面的にはなるほど!という内容が結構あるのですが、どうも全体的に納得できない、おかしいと感じました。それは
 政治と経済を一体化して、捉えていない、分析していない

 という事実に尽きると思います。政治経済という一体化したジャンルを学んだ己としては(もちろん大学時代そんな重要な概念は一ミリたりとも教えてもらわなかったのですが(^ ^;))、根本的におかしいと指摘せざるを得ません。政治は政治、経済は経済という単位に分割して、学問・研究することは有意義な手法ではあります。しかし、その後で政治経済という一つの単位として捉え直さなくては、全体像の中のどの部分なのかを見なくては、現実を見落とす理論倒れになります。現実が先に存在し、理論はその現実を映す鏡に過ぎません。生きた人間をバラバラ死体にして分析して、もう一度くっつけても人間にならないし、人間のことなどほんの一部しか理解できないように、全体像を抑えなくてはなりません。学問は多面性を重視します。多面性の中で、一つのものの見方を提供しようというのは重要ですが、全体像にその場所を見出せない、当てはめることが出来ない理論は無意味なのです

 特に学問に携わる人間は理論倒れになりやすいですし、細かいジャンルで分析するならば、全体像をまず見通して、その中のどの部分を取り扱っているのか、その新研究成果によって全体像をどのように見直せるのかということを明確化しなくてはなりません。トマス・クーン教授のパラダイム論ですね。
 例えば、「中国史」というジャンルがあって、秦漢・隋唐などの時代区分があります。その時代を研究することで、新発見によって「中国史」という全体像にどのような新しい見方を加えることが出来るのか?また変更を迫るのか?などということを明らかにしなくてはなりません。さらに「中国史」という見方が変わることで、「歴史」という大きな見方が変わることがあるのです。同じく、ビザンツ史、ローマ史という異ジャンルから新しい発見が、それが応用されて物の見方が変わることがあります。だからこそ、今何をどのように分析しているのかということを明確化しなくてはなりません。

 経済政策が如何に誤っていたかということを論じるわけですが、政治の前提として①小泉氏の採りうる政策の幅が狭かったこと、②目的は官僚依存政治という構造を改めること*1の二点を始めから見落とすならば、経済政策としての誤りを論じても意味がないと言えます。

 地方切り捨ては確かにそのとおりでしょう。しかし地方を切り捨てなかったら、中央まで腐ったかもしれない。なにより、公共事業という利権に群がる官僚・既得権たちを一掃する事が本来の目的であり、そうしなければ政治改革ができなかったのです。公共事業は必要不可欠のものであっても、必要な公共事業を行うごとに莫大なムダが抱き合わせ販売されるという悪質な状況があったのですから。本来ならその悪い点だけを改められればいいのですが、そうすることができない状況でした。ガン治療でいう良性なら、体に負担の掛からない治療を採れたのに、悪性だから体に悪い薬、手術をしなくてはならない状況だったと己は捉えています。今のところは*2
 BIS規制は8%を守ることで金融秩序が維持されるという研究が出ています。それを知らないのでしょうか?それはさておき、最もポイントなのは危機においては金融が悪化する規制を行わないという当たり前の事実であると思います。どんな国でも弱っているときは、今回のサブプライムのように会計基準を緩めました。その必要な処置が採られなかったことこそが真の問題でしょう。ことごとく論点がズれています。

 そして肝心要の政策ではどうすればいいのか?という政策は何も指摘がなく、説得力がないマネタリズムが間違っていた、新自由経済主義が間違っていたとかいう、理論の根本的誤りを指摘するのはおかしいと思います。そんな根本的におかしい理屈ならば、学問としてそもそも誕生しません。問題なのは、その理論に基づいた政策がどう実行されたかという点でしょう。

 小宮さんの本でタクシー規制緩和で業界が苦しんだ話がありましたが、あれは理論が間違っているのではなく、現実をしっかり分析して、その理論が適用されるのか?という分析を怠ったからこそ問題が発生しているのです。日本の今の現状にその理論が合うのかどうかという分析も無視した結果があのザマなのです。むしろ管轄の国土交通賞の無策を責めるべきでしょう。彼らは自分たちの利権が拡大するなら、いいやということであれを実行したのですから。

 

 んで、中野剛志さんの主張なんですが、経済とナショナリズム=思想という二つの分野・ジャンルを間学問的にアプローチしようという切り口は一定の評価ができます。前回取り上げた山下さんのように、言葉・用語を自己満足に取り上げてそれでおしまい、読めないということはなかったです*3しかし、経済にナショナリズムが関わるっていう主張なんですが、

  国益を守れ!を言い換えただけじゃね?
で、終わってしまうんですよねぇ(^ ^;)。国家という政治単位が厳格に存在して、それをもとに経済を行われているなんて当たり前の話でしょ?まぁ、あとがきでもアタリマエのことを書いただけ、と書いてあるんですけど。これを書いたことで、どういう新しいこと、筆者独自のこと
言えたんでしょうか?経済学的にこういう当たり前のことを指摘しないといけない事情があったんですかね?

 察するに経済政策・理論に普遍のものなどない。グローバリズムというものは幻想で、そんなことに惑わされずに、日本は日本のあったやり方を行えばいい!―ということなのでしょうか?もし、そうならそんなことアタリマエのことで、己も賛同します。ただ、構造改革についてなのですが、小泉改革が行ったものは失敗に終わったものも数多いですが、根本の理屈は間違いではありません*4

 筆者は次のように主張します(ギル亀さんもよく言ってますが)。『小泉構造改革が日本の共同体、古き良き観念、日本を崩壊させた!(#゚Д゚)ゴルァ!!っ』。しかしこのような現象は、今問題として取り上げられている問題は、小泉以前に既に噴出していたのです。もちろん彼がそれを食い止めなかったという指摘は出来るでしょう。しかし古今東西の歴史を見ても、
 社会・経済構造が大きく転換しつつあるときに、旧来構造を維持しようという行為が成功した例はないのです

 問題なのはサッチャー政権のように、改革で痛みが出たとしても、それに変わる新しい成長産業なり、構造が生まれ、それが失敗や損失を補うということなのです。市場の原則は退場と新規参入です。小泉改革の真の問題は、退場が中途半端に終わり、新規参入が殆どなかったという点なのです。日本の真の、最重要な問題は改革がしにくい、構造転換を行ないにくいという前提風土にこそにあるのです。日本の歴史を見ても、改革(そして成功)の例は数多くあっても、『旧来構造を破壊する』改革を戦争なくして行なったという事例は殆どないのです。

 批評をするならば、それまでの流れ・前提がどういう状況にあったか、ということを説明しなくてはいけません。生物学で進化にジャンプはないという言葉を聞いたことがあります。生物の進化は、必ず前後から段階を追って説明が出来るという意味です。政治も同じように、これまでのステップ・段階を受け継いでおり、そこから改革を行なったわけなのです。その流れを受け継いで行なっている以上、小泉改革があのような中途半端に終わったのはむしろ必然といえます。小泉・竹中氏のみに全てを押し付けようとする論者は、歴史の流れを無視しようとする卑劣な論者だといわざるを得ません。

 真の問題は①経済理論の原則が通用しない日本経済であり、②そのような欧米原則で生まれた理論を乗り越えて、日本経済独自の論理を打ちたてていないこと(日本経済型では、このような改革が正しい!というモデルがないこと)こそが真の問題なのであります。この二点を抑えていない、そこを前提に出発していない経済論を己は基本的に信用しません。

 結局構造改革ダメ!日本の素晴らしい日本wayで行け!で終わってしまうのでしょうか?日本のオリジナル、強みを活かすのはもちろん当然重要であり、大事なことです。しかしそれをどうやって活かすのか!?という政策提言のほうこそが重要であり、そちらの分析なくして本論の主張の妥当性も何も判断できないのではないか?
 筆者と己のスタンスが異なるとはいえ、もし納得できる経済政策・成長戦略が述べられていれば己も、その素晴らしさや先見性を賛美いたしますが、それがないのでは、何のために筆者が筆を執ったのかわかりません。オチのない漫才。犯人・トリックの説明なき推理小説といった感が否めません。あるいはデート後、いよいよこれからのときに、明日朝早いから帰るねといわれる感じでしょうかΣ(゚∀゚;)アマゾンレビュー評価高いですねぇ…

 で、昨日の産経かな?東谷さんが一面で小泉改革の否定、小沢氏の言う「普通の国」が国連への主権移譲だとかいう的外れな主張をしていました。ただ時の政権を的外れに批判するだけで、ジャーナリストですか…*5

 ※結局、米一極・単独主義グローバリズムの話をここ15年くらいずっとしているわけで、その流れにある本なわけですが、今は、グローバリズム批判以外に、こういう風に改革をすれば、問題解決が出来るよ!っていう良い提案されてるんでしょうか?結構本出してるみたいですね。まあ読むかどうかはわかりませんが、もし手に取ることがあったら続きを書きますかね。

*1:今振り返ってみると官僚依存の政治を改める気なんてもとよりなかったでしょうね、郵政改革なんか見てたらそう思ってましたが、結局自分が対決する官庁限定でしたからね。

*2:今現在は、さあどうでしょうね?あんまり必要な改革のポイントをわかってなかった気がしますね、小泉さん。そもそも地方を斬り捨てる云々という視点がおかしいですね。公共事業を止めようが止めまいが、結局公共事業にまつわる構造を変えられなければ意味が無いわけで。小泉から安倍まで自民党はなんでもできるパワーを持つ大事なときに大事な改革に切り込まずに時間を浪費する傾向があるのでしょうか

*3:山下さんの帝国論について書いたものは、危険だったのでスキマ送りにしました。個人について過剰に叩くのは危険だからしまっちゃおぅね~。

*4:理屈が間違いでないとしてもやってる人が小泉だったということで、今や理論自体が否定されそうではありますね。「いつ」「誰が」「何を」やるかで言葉・改革の意味はまるで違った意味になってしまう。「小泉改革」も結局は否定的に評価されて終わるでしょうね

*5:そんなこと言ってて、この先生きのこれるんですかも自主規制で消しました