てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

正史の偏向の話と「名士」VS「軍人」


 中途半端な終わりになって、逆説の三国志(3)の前に、袁術編書く前にの続きです(^ ^;)

正史の偏向の話

 反董卓連合に触れたのは正史の偏向性、勝ったもの側の視点で記されるという典型的な例を伝えたかったので書きました。んで、董卓が勝ってたら関東諸侯の乱で終わりだったでしょうと。
 んで正史の偏向性ともう一つ重要なのが、正史は重要なことを記すより、列伝に代表されるように、人間中心で捉える・記すということ、本当は宗教的な意味合いが強く反映されてるんだけど、書くと長いから省略。重要なのは人単位で切り取って歴史を書くから、歴史にならない。普通は重要な事件中心に因果関係、どうしてこの経済状況かとか、政治の重要懸案であるとか、戦争が~とかそういうことをとりたてて、研究していくでしょう。そういう風になってないんですね、この時期の歴史編纂だと。逆説的ですけど、実は中国のそういう意味での「歴史」の発展はものすごく遅いんです。

 陳寿の書いた三書(『三国志』でないことに注意)には赤壁の記述が殆どないことなど象徴的でしょう。どうして三国の国に分かれる政治状況・構造になったのか!?これが決定的に重要なことであるにもかかわらず、まったくといっていいほどそれが疑問になることもなければ、記されることもないんですね。まぁ、歴史は終わってから記される。原因・真理から結果が導かれるのではなく、歴史家が結果から理由を導き出しているんですね。理由だけならまだしも、事実も結果によって平気のへのざで捻じ曲げられていくのです。だから、袁術は「皇帝を僭称したクソやろう」になるし、袁紹は「優柔不断で曹操に負けた」ということになるわけです。

古代中国の虚像と実像 (講談社現代新書)/落合 淳思


 これなんか結構史書の誤り・虚構を指摘していて、参考になったのですが、アマゾンレヴューなんかボロクソに言われますね。専門書じゃないんだから、この本人の新説ではないとか、否定ばかりで鼻につくとか、ちょっと感想としてどうかなぁ、そりゃあんたの気持ちでしょうとしか思わないのですが…(´-ω-`)。
 確かに曹操の父の売官が賄賂だから、っていう誤りもありますけどね。一般的には『史記』のような話が史実となって捉えられてますから、それを多くの人に知ってもらおうってことでいいじゃない┐(゚~゚)┌

 話戻して、つまり人間を描写することに主眼があって、歴史の理由・法則なんて彼らにとってはどうでもいいことなんですね。というより歴史の法則は古にあって、なるべく古のものと変わらないように無理やり記すんです。だからこそへーゲルがいう「持続の帝国」になるわけです。本当は全然違うんですね。岡田英弘さんなんかも、「元史を見るとまるでモンゴルが中国式王朝になったかと錯覚するけど実際は全然違う。無理やり中国式の歴史に当てはめて記しただけだ」と説いてますしね。

 なんか、いろいろ省いてるからわかりづらくなりそうだなこれ…。まぁ、いいや。本当ならどうして「正統」である「中国」の王朝が三つに分かれたのだとか、そしてどうして晋が滅んでしまったのかという因果関係の研究になるわけですが、そうではなく、どれが正当の王朝であるとか、またそうでないとか、そういうことに注目が行くわけです。政治・経済現象ではなく、軍事でも戦争でも外交でもなく、「正当」性に注目が集まって、その正当の正しさの論理や論点は、また道徳的正しさに帰っていくわけですね。現代人から見れば、おかしいんじゃないか?っていうくらい歴史の視点、論点がずれるのはこのためです(前近代社会では、あるいは非西欧文明では、政治的正しさと一般的正しさが不可分と捉えられていたので、これは当時の常識からすると当然の思想なんですけどね)。
 清になっても劉備荊州取った取らないとか、入蜀が不義とか平気で論じられてますからね。正統で行ったら、唐でも、元でも、清でも明らかに異民族侵略なんですから、断絶でしょう(笑)。武力で正統性なく侵略したものが、数百年経ったら正統になるってどんな進化ですか?ポケモンならBキャンセルですよ。

 まぁ、中国の言う「歴史」が、現代的な真理・法則を解き明かそうとがんばってる歴史学とは違うんだっていうことがわかればよいです。この三倍くらい書かないと理解しにくいでしょうけど、まぁこんな感じで一旦終わります。

「名士」VS「軍人」

 三国志を論じる前に、董卓公孫瓚のような辺境=最前線の軍人系と中央で名を上げる(まぁ中央でなくてもいいんですけどね)名士系がいます。キャリアや文官と考えてもいいですけどね*1。後者の代表が袁紹袁術なわけです。前二者、最強軍人があっさりと天下取りレースから脱落したように、彼らは名士の支持つまり文官の支持を得られずに、政治運営が行えないがために、退場していきました。

 名士といえば四姓三公の袁氏の他に楊氏がいます(始まりが楊震さんって人で、天知る地知る我知る人知るってエピソードで有名な人です。賄賂のやりとりがどうして他人に漏れるんだよ!ってツッコミ入れるのは己だけか?そういう美談を何故お前の胸の中だけにそっとしまっておかなかったんだい?と邪推してしまうのは己だけか?(笑) )。楊氏と言われても三国志の正史の方の人間でなければ、まず知らないでしょう。
 ゲームだと鶏で有名な楊脩がこの名門の出なので、そんぐらいでしょうか。この楊氏は袁氏程当時の歴史の舞台に出てはきません。それは袁氏のように「若い頃遊侠と交わり~」というような着々と乱世を睨んで行動をしていないからです。

 名士と言ってもここでまた、乱世を見込んで軍閥や軍人と積極的に交わったものと、そうでないものの違いを見てとることができます。二袁は着々と政治状況を見据えて行動をしてきました。その点でまず此の二人は大したものだと言っていいでしょう。しかしやはり、名士であるが故の悲しさ。大胆な軍事運営にその力を注ぎ込むことは出来ずに敗れるわけです。三国が全て軍人を中心とした政権であることと対比してみれば一目瞭然でしょう(もちろん名士と協力した上での軍事政権ですけどね。いちいち細かく書かないんで、おかしいぞ!と言ったツッコミはしないように)。

 いつの時代でも軍人がその力で政治を変えようという動きは強行的な動きであるといわざるをえない。文人が内側から平和的に変えようという、改革の力学から見れば急激ではなく漸進になる。その漸進的な人間がことごとく破れていったというところに時代の必然性を見出すべきでしょう。ちなみに禅譲もその平和的な改革手段であるんですけどね。あんまり注目されることないんですけど…。決して個人の資質の問題ではありません。組織の問題、集団の性質の問題です。またしても史書は個人の資質に起因して描くから注意が必要ですね。

 歴史を個人に注目して描くのがミクロ歴史学とでもいうなら、己の歴史学は集団や組織、もっと大きな時代の流れから見ますからマクロ歴史学とでもいいましょうか。むしろ殆どが運命論・必然論に傾きますね~。己なんか、歴史説くときは殆どそうなります。

 中央の協力=文人・文官の協力が得られずに滅んだ辺境の軍事勢力に、軍事的な機構を中心に据えることができずに、より強い軍事勢力に滅ぼされた名士系、二袁。この流れをしっかりと抑えておくべきでしょうね。

 だからこそ軍事的に名高く人望を集め、間違いなくクーデターをやれば成功しただろうという張奐や皇甫嵩は決起に踏み切らなかったわけです。張奐が宦官に騙される訳ないでしょう。宦官対清流派でどっちも危うかったわけです。なら、今権力を握っている強い方につこうとしただけです。そしてその後の危うさをわかっていたからこそ、要職も断った―という流れに決まってます。皇甫嵩なんか間違いなく最強の軍人なんですけどね(´-ω-`)。呂布は確かに個人的な武勇ではナンバーワンですけど。そんなもんあんまり意味なくて、皇甫嵩みたいな軍事指揮官としての指揮能力がどれだけあるかが問題で、彼はその時代間違いなくナンバーワンでしょう。キャリア、実績飛び抜けてますからね。

 蒼天でなんでこの二人がもっと良く描かれなかったのか…。張奐はまだしも皇甫嵩orz。張奐は丁度曹操の師匠役で、軍事・戦争の
実情を手取り足取り、机上の学問とは違う生の経験を詳しく教えたみたいな描き方にしてほしかったな~。董卓が辺境の軍人としてどこまでも強硬派、涼州の現地重視派だったのに対して、二人はあんまりそこまで強硬にはなれなかった。そして実際決起に踏み切った董卓の失敗を見れば、改革は決してできないという当時の政治状況が如実に見えてきますね。

 ひろおさんが「梁冀・外寇・党錮・董卓と、後漢末の凶事を全て経験した張奐」と記したのは卓見と言ってよく、まさに後漢末の危機と改革が激しく揺れ動いている時代だったということです。己の場合は梁冀も董卓も改革者として評価しますし、党錮は霊帝の改革運動の一環ですから、これもまさに政争そのもの。実力を持ちながら、その政争にまきこまれないようにしていた。実力を持つものが、その実力を発揮出来ない状況。どっかの我が国みたいですね(^ ^;)。

 こんなところでいいかな?そういえば渡辺精一さんの『全論諸葛孔明』読んでたら、袁術が揚州刺史を任命したってあって、それが皇帝位についた後だと、んでその人物が何故か名前が不明。んでそのご劉繇を孫策が討ったと。
 この流れを見て、どう見ても袁術孫策を揚州刺史に任命したでしょう。
どう見ても孫策が揚州刺史に見えるんですけどね。孫策は独立するにせよ、しないにせよ権力基盤を強化するうえで、当初袁術に協力したでしょうし、間違いなく袁術皇帝即位を後押ししたでしょう。曹操が強力になった。もしくは王朝が許に来て、近くになった段階、漢が蘇った後か、もう袁術の権威がいらなくなったあとで裏切ったに決まってると思うんですがね。揚州刺史任命→不明=孫策と己はすぐ食いついたんですが、袁術論者・専門家のひろおさんがくいついてないのはなんででしょ?

 渡辺さんの本↓読んでたら、馬謖論ちょっと見直さなきゃならんとこが出てきた。やっぱ、馬謖=登山家説をおかしく思う人は己の他にもいたんですね~。高柳城と街亭の位置関係がイマイチよくわかんねぇな…。

全論・諸葛孔明/渡辺 精一

*1:渡邉先生の影響を受けてか文人、キャリア政治家を「名士」と書いていますが、不適切ですね。袁紹なんか監察系のキャリア歩いていてバリバリの軍人と言えますからね。正確にはどっちもイケるということですが。