てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

貨幣とは何だろうか (ちくま新書)/今村 仁司

 

ブログ引越し&見直しの再掲です。元は10/05に書いたものです

貨幣とは何だろうか (ちくま新書)

貨幣とは何だろうか (ちくま新書)

 

 また評価に困る本。ちょっと貨幣関係を調べることがあってかいつまんだ。前書きで、大体本の価値・筆者の頭の程度がわかるのだが、最初に墳墓・贈与・貨幣・権力は人間にしかなく、動物には見られない現象。言語、家族や社会、思考はまだ動物にも存在するとみなしていい。しかしその四つに見られるものは違うと。貨幣と死は贈与というシステム、交換するということでつながっている。死によって人は祀る、祀りによって人はその交際範囲を広げる。贈与については、論ずるまでもないだろう(ここでは書かれていないが、権力というものも、政治の本質がパイの配分であるかぎり、贈与と同じ力学が働くのだろう、きっと)。少なくとも近代以前は、そうすることで人間は世界を広げていったのだ。

 この最初の説明で食いつきました。これはいいなと、しかしその後があんまりいい展開ではない。ゲーテ・ジットの小説を取り上げて解説しているようなのだが、つまらない・意味わからない。時間かけて整理すればわかるかもしれないが、あんまり価値あると思わなかったのでパス。

 ○ウェーバージンメルの影響を受けてプロ倫を書いた?ちょっと疑問。(まぁ、後述のようにマルクス主義や唯物史観に対する反論としてきっかけになるというイミならわかるが。問題関心もテーマも全然違う気がするのだが…)

 ○プラトンからマルクスにいたるまで、貨幣を嫌悪し続けた。貨幣は人格を破壊する。よって貨幣なんてものをなくしてしまえば、世の中はよくなると考えられていた。貨幣(#゚Д゚)ゴルァ!!死ね、お前は、ホンマ死ね!最終電車をギリギリで乗り過ごせお前は!っていう貨幣唾棄・嫌悪という思い込みが拭いがたくあったわけですね。それを根本から捉えなおして、イヤ貨幣というのはそんなものではないのだ。貨幣というものをなくすことなどできるわけがないのだと証明したのがジンメル貨幣をなくしても、貨幣形式は残る。それに代わる交換作用が必ず働くと。1900年出版、目的は社会主義共産主義の管理社会・貨幣廃棄の無謀さを訴えることであった
 なるほど。これで始めてジンメルのすごさがわかった。確かにデュルケムの自殺論みたいに、貨幣の本質を捉えなおしたってわけだと。今から見たらそんな問題関心ないから、そんな視点から書くなんて思いもよらないですよね。ジンメルの『貨幣の哲学』を読んでもわからないはずだ。

 ちなみに読んでても面白くもなんともなかった。ところどころふーんってくらい。古典は殆ど、ドリフのコントみたいなところがあって、面白いはずないんですよね。問題関心が今とはかなり違うので。今、貨幣なくす?アホかお前は?で終わっちゃいますからね、そんなこと論じるなんて思うわけないですもん。解説書何冊か読んだんですが、そんなことちっとも書いてなかったんですが、それは大丈夫なんですかね…?*1


 ○当時の社会主義国家社会主義として、個人の自由は貨幣にあり、それがなくなれば、個人の自由はなくなると見ていた。マルクスに反対命題を出したのもジンメルだけ。社会存在に対して、人間の存在論によって根本的に反論したのもジンメルだけ。なるほど、これでこの人別にたいしたことないな~としか思ってなかったのが、そういう意義がある人・本なんだってことがよくわかりました(まぁ、読みませんけどね)。

 ○ファシズム=国家資本主義、国家に集中させる→その失敗が貨幣の不滅性の証明というのは少し違うような…。ファシズムってのは確かに一国に資本を集中させようとしたが、それが貨幣の不使用とは関係ないと思いますが。管理経済にいたっても、貨幣の使用がなくなったわけじゃないし、日本みたいにクライディングアウトが起こるから消費を強制的にストップさせることもなかったですしねぇ。ヒトラー経済は唯一その当時大成功してたはずですし、ヒトラーの経済政策は国民甘やかし政策だったというのも常識だと思うんですけどね。ここんところが明らかに違う気がするのだが…、どうなんでしょうか。

 ○ミル・ワルラスケインズにおいてまでも、貨幣なき経済は一つの理想だった。
 ○貨幣がなくなれば、人間が人間を管理せざるを得ない。貨幣とはその仲介・媒介様式によって暴力を回避する装置だったのだから。それがなくなれば大混乱と虐殺が起こるのは当たり前。ってことは毛沢東ポルポトの治世下で貨幣なくなった?大幅に制限されたのか?

 ○ギュゲス物語=僭主制と貨幣の登場。言い知れぬ不安や恐れ。歴史に切断をもたらす、新事態。
 ○未開社会のビックマン制度、貨幣を扱う人間を限定して他のメンバーが貨幣に触れることをなくす。貨幣の肥大は共同体にとって危険だから。境界人によって貨幣の取り扱いを制限する。権力の封じ込め、権力は政治的貨幣といってもよい*2。一人の人間に封じ込める。
 ○スミスもリカードも貨幣ではなく、労働の方に本質を置いた。貨幣廃棄論の一端。貨幣を「モノ」と考える延長上にある。しかしジンメルは貨幣を「形式」で捉えた。交換すること、そのシステムこそが貨幣なのだと何が貨幣かは重要でない、どう交換されているかが本質なのだとジンメルは主張したというわけですね。貨幣廃棄の大実験は、共産主義の虐殺によって不可能だと証明された。これも共産主義とはいえ、レーニン主義的なそれ。本来の共産主義というのは議会政治も民主主義もあっての共産主義であったわけですから、これをもって貨幣廃棄は不可能というのはちょっと違うというか、論理がワンステップ飛躍している気がするんですよね。無論、貨幣廃棄は無理だと思うんですけどね、今後は新テクノロジーの発達云々次第でまたそういう話が出てくるかもしれませんが。


 面白かったのは、面白かったが、途中のところは専門の人じゃないと面白く感じないんじゃないかな?と思いました。あとせっかく最初のテーマはよかったんだから、交換・贈与・死・葬儀などをもっと挙げた上で、貨幣論じた方がよかったんじゃないかな?と思いました。

 言及されていたスミス、リカードワルラス、ミルなど、そこら辺の思想を把握しておくこと、彼らが貨幣について何を論じたかちゃんと抑えていないとわからないってことかもしれませんね。

*1:例によって暴言は自主規制しました

*2:権力は政治的貨幣っていいですね