てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

三国政権の構造と「名士」

三国政権の構造と「名士」/汲古書院

¥10,800
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 を読んで思ったこと。この本どこにもおいてなさすぎ。わざわざ新宿行かなきゃなりませんでしたよ(^ ^;)。
まず、参考になったこと、感心した事。

公孫瓚劉備は商人を重視
曹植の文学に、何晏の玄学と二度にわたる価値基準の転換。人材登用基準を「孝」からそれぞれ変えようとした試みがあった。そしてその失敗。文学グループに丁氏が後押しをしていた。
 陳寿が金くれないから列伝建てられなかったという説があるように、石井さんは丁氏の伝がたてられていないところにちょっと意外な感があるって言ってたけど、政争の敗者ならむしろ、事細かく書かない方が自然のような気がするが、どうなのだろう?
袁紹政権の考察-袁紹の人物批判、袁紹の欠点はママ名士尊重の裏返し。
○汝南=袁紹政権に対する、潁川=曹操政権。
孫皓の君主権確立、名士との闘争。張昭・孫権対立以来の流れ→二宮事件。これも同じ。孫皓の試みもその延長。そしてその失敗、失敗するとわかっていたがそれでも突き進んだ君主。この捉え方は己も一緒、孫皓=暴君論に組しないところは流石。

なるほど、なるほど。参考になった。


んで、疑問というか、かなりの違和感。ありえないだろ~と思ったところ。
諸葛亮に政治・軍事的な才能があった。また、重視していた自己の政権基盤に当たる荊州閥の李厳をその罪のために、処分せざるを得なかった。
党錮の禁=権力の私権化、そしてそれに対抗する名士
○徐州虐殺→兗州反乱、漢朝奉戴せざるを得なくなり、将来政権の限界をきたすことになる。そして結局荀彧を殺すという名士層との決定的対立にまで至る原因に。


 劉備孔明に後を託した時点で荊州閥に偏るのは当然。つか、孔明くらいしか政権の中心に立てる人物がいなかったといったほうが正確か。実際、李厳にも後を託しているわけだし。孟達の離反は彼が法正組だから、法正死後彼が政権内で生き残るのは難しく、処分されるのを恐れてのことだろう。そして李厳を漢中に持ってきて要職に就けたのも、孟達が帰ってきた後、ちゃんと生きられるように見せるため。李厳孟達がそれぞれ孔明の下で機能する組織構造になることを示す狙いがある。つまりは孟達が死んだ時点で李厳は用済みになるということでもある。そういう図式がなぜ出てこないのだろうか…。別に己だけじゃなく、加来耕三さんとか、安能務さんとかも、李厳は政争で孔明に失脚させられたという説を唱えている人はいるんだがな…。

 党錮の禁とは宦官などの権力の私物化に対する名士の抵抗ではない。どんな文だったか忘れてしまった。宦官と名士、それぞれ一枚岩ではありえない。公的権力の私物化というなら、名士も地方名望家であり、地方政治の私物化に他ならない。無論、石井氏などの著作に目を通しているはずだから、こういう意味で書いてない可能性が高いけど、宦官の公的権力の私物化という書き方はまずすぎるだろう。あるいは、この論文部分だけ、古いものか?党錮の禁によって名士が生まれたのではない。真逆であろう。名士という地方ネットワークの存在が脅威であるからこそ、党錮の禁に発展したとみるべき。無論どっちが先なんてことに意味はないが、あえて当時の政治を説明する、理解するためにはそういう捉え方をしないとこの時代は理解出来ないだろう。

 もう一つおまけに、はっきり書いてないからそういう意味で書いたのかどうか断言できないが、孫権が文学のような新基準を導入しなかったことを否定的に書く一文があった。そりゃそうだろう。だってそんな新基準導入したら、魏の方が優秀な人材がいることがわかって、そっちの方に人心が流れて、どんどん亡命しちゃうじゃん。新しい価値観の導入は辺境・地方政権にとって致命的だ。

 史料偏重主義か…徐州虐殺といい、史料に書いてあることを、そのまま史実として書いても歴史の真の姿は読み取れない。結構びっくりしたんだが、石井さんも曹操を感情に流されるお調子者、その時その時の感情に流されるおっちょこちょいの助だと言っていて、満田さんも同調していた。イヤイヤありえないから。史料だけ読んでたらそう読めるに過ぎない。どうしてその記録が残されたか考えれば、そんなことは当然ありえないという話になるのだが…。
 んで、徐州虐殺の話なんだが、NHKのなんかの本で石井さんもやはり、徐州虐殺→天下取れないという理屈を展開していた。おまけに司馬炎のような小物に統一ができて、曹操のようなもっと上の人間に天下が取れなかったのはそういう点にあったという。これは明らかな誤りですね。
 三国志系でいつも不思議に思うのが、誰しもがどうしてこうなったんだろう?どうしてあの人は勝てなかったんだろうとか、そういう疑問を持って研究をするとおもう。それなのに謎に対する独自問題設定が無い。渡辺さんは名士に注目し、石井さんは軍制に注目している(満田さんはどうなんだろ?)。それでまぁ、いろいろわかることはわかると思うが、その前にどうして疑問提唱がないのだろうか?数学だって問題がまずあって、それにそもそも解があるのかどうかが、一大テーマになる。アインシュタインだって、光に乗ったら、モノは一体どう見えるんだろうという子供の頃の疑問が相対性理論を創りだした。
 演義から入った人間は、どうして劉備が、つまりは正義が勝てなかったのか?という疑問をもつだろうし、逆に正史を追う人間はどうして曹操が天下を統一できなかったのかという疑問になるだろう。前者の疑問は現状問題なく説明できるだろうから、問題ない。しかし、曹操にいたって言えば二つの解き明かせない大きな疑問がある。すなわち何故徐州虐殺を行ったのか。そしてもう一つは蒼天で、後書きで書いてあったように赤壁の戦いが何故起こったのかということだ。作者が言っているように、軍事上の経歴から照らせば、南征の目的はすでに達せられている。ここで、呉に攻め込む理由はない。驕りが生じて、そのまま呉に攻め込んだという見方では、何ら有意義なものにはならない。さらには陳寿の歴史家としての能力を疑いたくなるほど、赤壁の戦いには記述がない…と。
 蒼天は信長にならぶ、ツァオツァオ厨を創りだした。かくいう己も蒼天の影響で魅せられた一人だ。しかし何でもかんでも、うまくこなす時代を操る寵児より、苦悩し理想と現実の狭間で懊悩する曹操の方が好きなんだけどねぇ~。その曹操がどうして虐殺をしたのか、そして最後の最後で大ポカ、大ミスをしてしまったのかどうしてそれに対する論及・論考がないのだろう?これを解き明かせずして一体何を解き明かすというのか?不思議でしょうがない。
 んで、ようやく、最近わかりました。偽黒さんの論文(でいいと思います)や、満田さん監修の図解三国志群雄勢力マップ見てて、ピンと来ました。曹操は「徐州虐殺」していません。もちろん、南京虐殺みたいに、あったかなかったかという論点ではありません。そんな捉え方は無意味です。解説はしません。こんなオイシイ話を公開できるかってんだい!いつか作品として発表するまでネタバレは勿体無いんでね。聞いて、へぇ~なるほど~と思わせられるに値すると思います。一応逆説の三国志ってテーマだし。赤壁の戦いの方は一応大まかな解答があるんですが、それに対する補強、背後が未だに固まりません。話が大きすぎてまだ整理できない。こちらは別に誰でも思いつくことなんで、また別枠で書きます。話がそれそうなので。


あと、袁紹公孫瓚のところからかな?
 名士と地方軍閥の融合系が三国政権。名士を重視した劉表袁紹は君主権を確立できずに滅んだ。対照的に、公孫瓚呂布董卓も名士を用いられずに、糾合力・求心力がなく、政権は瓦解した。結局生き残ったのはハイブリッド型の三国政権だけだと。政権内部をチラッと見通せば、誰でも気づく事実。しかしこれをどう捉えるか、名士も大事だし、軍人も大事という在り来たりの結論にしてしまっていいのだろうか。お金が大事?それとも愛が大事?みたいな話だ(^ ^;)。
 注意しなくてはならないのが、三国時代とは名ばかりで所詮、この時代は『魏その他愉快な仲間たち』が本質。呉も蜀もムツゴロウさんを引き立てるペットでしかない。後世において初めて三国鼎立という観念で切り取られたにすぎない。つまりは中原で覇を競った公孫瓚呂布董卓袁紹袁術と呉や蜀に割拠した二つは意味合いが全く違う。袁術くらいしか、国号はないけれども、前者の方が曹操のライバルにふさわしい。孫堅をどう捉えるか、本人が死んで政権が瓦解してしまったこと、本拠がやはり辺境の南にありすぎたことを考えると、う~ん考慮に入れるかどうか…となる。初期の劉備、のしあがった後の徐州持ったころの劉備はまた別物として捉えていいかもしれない。前六政権と後二政権そして魏晋という捉え方が重要と考える。私裴松之は考える。
 蒼天で後編パワーダウンしたなんて言われるように、そりゃそうだ。だってまともに戦える相手がいないんだもん。勝つか負けるか、ギリギリの戦いをしてきた前編に比べて、後編は勢力・パワーの対決じゃなくて、人間力対決になるんだから。そこんところが読み取れない人間にとってはつまんない。面白いと感じられるわけがない。
 少年ジャンプでいきなり、バトル編に突入する打ち切り前のてこ入れみたいに、あれ?この漫画こんな作風だっけ?となってしまうんだから。むしろ最強曹操になってからの方が、視点が変わって面白いんですけどね、個人的には。そういえば、かの名作スラムダンクでさえ、人気が出なかった時のために恋愛編・バトル編の前フリがされていたというから驚きですね。そうやってみると、ああ~だからこんなシーンがあるんだ。と感心します。
 話が明後日に行ってしまった(^ ^;)。名士と融合しなかったから駄目なんだ!あるいは偏重しすぎたから駄目なんだ!バーカ!バーカ!では歴史の流れが読み取れない。前五政権(前六)と後二政権の違いをしっかり認識しなければならない。名士といっても主流派ではない人間たちが流れ込んだ、流寓・割拠政権といわれるその性質をしっかり抑えなくてはならない。もちろんこれも名士をさっさと取り込めば、もっと上手くいったんだ!公孫瓚にしろ、董卓にしろわかってないな~とまでは書いてないから、渡辺さん本人がどう捉えてるかよくわからないから、そういう勘違いをしているかどうかは言い切れない。

 全然関係ないけど、寛治という単語があったので、そこから思いついたこと。どうして名士は寛治を重んじるか。対して国家側である曹氏王朝は肉刑に代表される重罰に流れやすいのか?名士たちが正義の士(`・ω・´) キリッだから、彼らは優しい統治を進めるのだ!と考えてはならない。
 初めから刑罰が重いものだったら、彼らに裁量権が発生しないからだ。つまり、司法権において裁量権が国家や皇帝にあるか、それとも地方に任されるかという違いなのだろう。こう考えると、魏でさえ重刑をかけることができなかった。すなわち地方名望家の強さを見ることができるのではないだろうか?
 そして対照的に諸葛亮の厳しい法治の意味合いもよく理解できるだろう。彼ら蜀にはまだまだ自立的な名士像など望むべくもなかった。強力な国家統治なくして成り立たなかったわけだ。

 袁紹も、董卓も、呂布もまぁ、評価できるし、わからなくもない。公孫瓚はもう、史実にあるとおりそのまんまの捉え方で十分まっとうな評価になるし、己がとりたてて独自の分析をする必要がない人間だ。袁紹董卓呂布については誰も示してない独自の視点を示せると思う。しかし袁術は難しい…。
 袁術はどうなんだろうか?劉備も含めて前六者は、すべて北方、遊牧民の影響を強く受ける辺境地域と関わりがある。だから評価がしやすいし、説明もしやすい。しかし猿術は難しい。なんでよりによって南へいったんだ…軍閥政権?それとも名士重視?袁術には名士があまりいないし。うーん。
 あと2~3本書評と通貨や経済についての分析、黒田さんの貨幣システムの世界史ー<非対称性>をよむと、貨幣の中国古代史 山田勝芳さんの本はぜひ取り上げなくてはならないだろう。当時の経済状況の類推。そしてあまり取り上げられることのない、己が何より重要だと考える人口動向だ。これについて考察しなくてはならない。経済と人口、これを考えることによっていろんなことが説明つくような気がする。
 ただし、商業については未知数・仮説の感が否めない。だから、この経済、商業と人口で袁術を説明したとき、かなりあやふやで自信がない。それでも、一応袁術論としては筋が通る、己としてはだからこそ袁術がああいう行動に出たのではないかというふうに説明がつく。もっと言えば腑に落ちるのだ。論じる根拠は己の感のみ(´-ω-`)。まぁでも一応ストーリーになるんで、駄目なら駄目でも小説のネタにはなりますからね。書くだけ書きましょう。