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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

貨幣の中国古代史 山田勝芳

 

ブログ引越し&見直しの再掲です。元は10/07に書いたものです

貨幣の中国古代史 (朝日選書)

貨幣の中国古代史 (朝日選書)

 

 当時の経済状況を理解するために必要だろうと思って読んだ本。

 ○まず貝・亀から始まった。支配者間で互酬・贈与が繰り返されたことから、次第に発展していく。また銅・骨・玉などで作られた倣製貝が使用される中で現物貨幣となっていく。商品貨幣として塩は古代から重要な役割を果たした。
 ○西周時代、経済的発展が顕著であった関中地域に比べて、関東地域(函谷関以東)の諸国では経済発展は遅れたが、長い時間をかけて周辺地域を開拓して行く中で着実に力をつけ、紀元前八世紀以降の春秋時代になると発展をみせる。そこでは、貝の伝統とは異なる新たな価値表示機能のあるものを生み出す。これが春秋時代からみられる布や刀の銅貨である。
 布や刀が重要となる=貝といった宗教的機能からより、商業・資本主義的な世界への転換を意味するのだろう。
 ○西周の関中地域の貝貨・銅貝貨による貨幣経済は、他地域に比べ発展の仕方が早熟であったため社会に定着しなかった。しかし、南方の楚では、右のような子安貝の形態をもった銅貝貨も流通した。
 ○「銭」は本来青銅製農耕具に起因した言葉。このような銅器が贈与・互酬の対象となり、さらには貨幣へ。布銭・刀銭は本来的に実用器。
 布というと衣服を連想するが、この布は農耕具を意味するもの。そして刀銭は本来、文字を木簡・竹簡の誤字を削る文房具である小刀。つまり、中国古代の文字文化と密接な関わりをもっていた。
 ○貨幣は霊力・神聖性を伴う。
 死者への必須アイテムとして供養に使われたように。銭はこの世とあの世をつなぐマジックアイテム。神聖性がなくてはならない。
 ○楚の豊富な金属生産。楚の金によって、金と銅銭との二重貨幣。金も銅銭も共に本位貨幣であり、その意味では金・銅銭併行本位とでもいうべき貨幣経済だった。
 ○「子母相権」論。大・小の二種類の貨幣を発行して、貨幣流通状況によりどちらかを「母」(基準通貨)、「子」(補助通貨)とし、このような複数通貨による貨幣経済の調整(「相権」)をする。
 ○前漢後期から後漢時代は、金・銭とともに布帛が貨幣として流通し始めていた。
 ○自国の貨幣を持たない「受け身の貨幣経済」状態にあった秦に対して、圧倒的影響を与えたのは、東隣の三晋(韓・魏・趙)とりわけ戦国前期の強国であった魏の貨幣と、金貨・銅貝が流通していた東南の楚の貨幣であった*1
 ○秦二世皇帝は貨幣統一に乗り出そうとしたが、反乱によって不可能となった。金・銅を貨幣の主として考えていた*2
 ○関野雄氏*3の説によれば、漢は膨大な金を保有して、それを背景として銭を自由鋳造させることによって一挙に戦国各国の貨幣を駆逐したとのこと。民間の自由鋳造によって、民間の鋼製武器を一挙に銭に変える刀狩りにも成功するという一挙両得の政策だったと。かつて民間武器を没収して金人を作った始皇帝のような強制とは対称的になるわけですね*4
 楚漢の抗争時期は、戦乱のため秦以来の官営王房では武器の生産に追われ、貨幣鋳造余力はなかった。また、人頭税徴収のためにも、銭はいくら供給しても足りなかった。戦乱終息後の経済復興を促進するためにも、この「民活」的方式による半両銭の自由鋳造政策は続けられたものと思われる*5
 ○呂后時代の禁止令、「盗鋳銭令」など歯止めをかけようとした。方針転換を図ったことがわかる。呂后二年の八鉄「半両」銭の発行は、王国での勝手な鋳銭を抑える政治的目的をも有していたとみてよい。
 ○呉王の盗鋳、彼は恵帝・呂后時代から丹陽郡で亡命者を集め勝手に銭を作った。また塩の専売による富の蓄積*6銭に見える劉氏諸王対呂后の図式
 ○文帝の寵臣鄧通による銭鋳造が大きな役割を果たした。鄧通の場合は、蜀郡厳道(現四川省榮経県)の銅山の銅で鋳銭した。武帝時代以前の銅産地について、司馬遷の『史記』貨殖列伝では巴蜀(現在の四川省)と呉(呉王国の領域)だけをあげているので、とりわけこの両地域の産額が多かったといえる。景帝即位直後に、「国境外に鋳銭を盗み出した」と告発され、有罪。富のすべてを没収。彼の家に集まった商人たちが国外に銭を持ち出し、密貿易を行っていた。*7
 蜀と呉における銅産出。既にこのころから顕著な傾向であることに注目。国境外に鋳銭を勝手に持ち出すことが許されないというのもポイントか。国・地域によって、銭の供給を勝手に増やしたり減らしたりされると困るということだろう。国家財政上の利益の問題だったり、統治上の安定を乱すなどという問題に関わるだろうから。
 ○傅挙有氏の研究によれば、長江中流の湖北省湖南省方面では、前漢前期・中期の鉄「半両」銭が発見されている。蜀の下流、呉王国の上流にあたるこの地域では、銅銭が不足していた。要するに、呉と鄧通の銅銭は経済的先進地域である黄河ベルト地帯(長安から臨消までに)吸い上げられ、鉄銭が盗鋳されるほど銅銭不足であったことになる。また、早くも前漢前期に鉄銭が登場していたということは、注意しておく必要がある。
 ○おそらく悪事としてあげられているから、郭解も盗鋳を行った。
 ○国家財政の向上。赤字に対して、特に戦争時。帝室財政の比較的安定という構図。
 ○専売制によって三十五倍以上の収入が得られることになった。
 専売制の崩壊が国家財政に与えた影響は大きいだろう。後漢はおそらく専売制が適用されていないだろう
 ○武帝はさまざまな手段で劉氏に財政負担を求めている皮幣や白金など。同姓の王国は王朝を支える、輔弼するものなどではない。帝国が財を吸い上げるための都合の良い存在に過ぎない。
 ○秦の半両銭→武帝の五銖銭→唐初の「開元通宝」という基準通貨の流れ。五銖銭は、元狩五年(紀元前118年)から前漢末まで、二八〇億枚鋳造されたという(『漢書』食貨志下)。前漢末を平帝元始五年(紀元後五年)までとすると、一二三年間の鋳造量となる。一挙に切り替えるために、大量の五鉄銭を供給しなければならなかったから、武帝代の鋳造数はこの二八〇億枚の半数程度を占めていた可能性が高い。
 唐に至るまで数百年単位で基準通貨が生まれなかったという状況に注目したい。  
 ○杉信威氏などの研究によれば、史料にみえる皇帝からの賜与金の数量を集計すると、前漢時代の単純合計額は、約九〇万斤(225トン)となる。これは、金一斤=一万銭という換算比率で、九〇億銭となる。しかし、この数字は皇帝が臣下などに賜う金だけであり、実際にはもっと多かったものと思われる。
 ○武帝当時、一〇〇〇戸の列侯の収入は銭換算で二〇万銭であった(『史記』貨殖列伝)。
 ○ローマ市民社会において、有知識者用の金・銀貨と、無学者用の銅貨という流通の二重性があった。中国古代では、このような流通の二重性はみられないし、銅銭は身分の上下を問わず流通した。しかし、実際のところ、金は皇帝・王侯・富人に集中しており、庶民レベルの者が金・銀を所有することは稀であるという意味では、二重性は存在したといってよい。
 ○秦代から前漢前期には、中央官の任官資格に資産額一〇万銭以上という制約があった。これを大きく減じて四万銭以上としたのが、第六代景帝後元二年(紀元前141年)のことであった。これは、これ以前の富重視の時代から、知識重視の時代への大きな転換を意味した。知識人=「官足りうる者」という図式が当てはまり、しかもその知識が、武帝代の儒家一尊によって儒学に限定されてゆく*8
 ○国庫の財政上のために武功爵が創設される。漢代の全二〇級のいわゆる二十等爵制とは別に、新たに全一一級の武功爵を創設し、この爵を軍功をあげて購賞を受けるべき兵士に授与するのである。第五級の官首を有する者は官吏に試補し、第七級の千夫を有する者は二十等爵の第九級の五大夫(官吏待遇。免役特権を有する)相当とし、武功爵一級で罪二等を減ずることができるなどの優遇をして、この武功爵を与えられた兵士から、民が一級、二級などと級数相当の金を出して武功爵を購入することで、それらの特権を得るというのである。 国家の目論見としては、その価格を一級について一七万銭とすると、全部で三十余万金(三〇億銭)の支出をしないですむというものであった。つまり元手がかからない売官爵そのものであった。しかし、社会的には、武功爵所持者の増加によって、免役特権を有する者が増加してその分一般民の役負担が増し、また罪人も金持ちは軽減ないし免除されることになり、社会的不安を増幅することになった。
 ○王莽が金国有化政策でかき集めた金は、七〇万斤(175トン)程度であったとみられる(『漢書』王葬伝下)。これは法的強制によって王侯以下から吸い上げた金であり、中国社会に存在していた金総量にかなり近いものであろう。前漢前期の二〇〇万斤以上あった金の量に比べて、三分の一程度に減少していたことがわかるであろう。
 なお、やはり後漢末に軍隊を率いて政権を掌握した董卓が首都洛陽を中心としてかき集めた金は二~三万斤であり、単純計算では前漢末に比べて三五分の一から二三分の一程度に減少したことになるが、社会全体では一〇万斤程度あったとすれば、七分の一程度に減少したことになる。減少率は後漢時代の方が大きいが、減少総額は圧倒的に前漢時代の方が大きい。中国社会の急激な金減少は、前漢時代中期以降のこととみなければならない。
 この金減少について、仏教が中国に入ってきてから仏像に使われたからとか、墓中に入れられることが多くなったからとかの説が唱えられてきた。しかし、仏教の影響は後漢以降顕著となるのであり、また墓中にはかなり金銀製品もみられるが、中山王劉勝や劉脩の墓でもきわめて大量であるというわけではない。やはり、宮崎市定氏や労幹氏の説のように、前漢代の金減少の主要な原因は、陸のシルクロードの西域ルートと海のシルクロードである南海ルートでの外国交易にあったとすべきである。また、中国の金産出は、前漢後期には大きく減少していたとみられる。産出が少なく、流出量が多いことが、中国社会において大幅な金の減少を引き起こしたのである。
 中国からの輸出品の主力は絹と金であった。武帝から王莽代までの約一四〇年間で、この外国交易によって少なくみても一三〇万斤以上の金が流出したことになる。年平均にすると約一万斤(二・五トンとなり、一キャラバン、一船舶の搬出量はかなり少ないものになる。交易によって高価な珍物が中国社会に流入したので、このゆっくりとした金の減少に伴う富の不足は感じられなかったのであろう。
 武帝=帝国の完成者。そのために、大盤振る舞いをしたのは想像に難くない。しかしそれだけで説明がつく事象ではない。いったい金と何を交換したのか、代替物の珍物はいったいなんだったのか?それはどうして消えてしまったのか?最終的にその珍物が中国社会での交換価値を失ってはじめて、中国不況の説明がつく。一体どうして、それに対する論考がないのだろうか?不思議でしょうがない。馬や動物か?安いものだろうが高いものだろうが、持ってくるもの次第。自ら赴いて買い付ければ安く買えるが、腰をすえて動かずに相手任せならば高く買わなくてはならない*9

 稲葉一郎氏は、一世紀中葉の『エリュトラ海案内記』の「黄金島」、一世紀後半のプリニウスの「黄金岬」、二世紀のプトレマイオス地理書の「黄金半島」などという西方世界で記録されたマレー半島に対する名称は、中国からの金の流出に関連してつけられたものであったし、ヨーロッパからみて最遠の港町とされた「カッチガラ」は中国の番禺を指していたことを指摘している。

 長い・・・半分くらいだけどもうめんどくさい。打ち切ります。俺たちの本当の戦いはこれからだ!
 王莽のケースだとか興味深いのもあるけど、もう必要なのは紹介したしいいや。

 儒家官僚の登場で帝室財政に官僚が口出して皇帝の財政運営が制約されていく流れ(官僚は中世・古代的な意味での官僚です。もちろん)。前漢後期には銅生産額が減少。貢高*10貨幣不足の打開策として、貨幣である金・銭の流通を止め、布帛を貨幣化する提案、また亀・貝の復活まで提案されたこともある。
 河西では「五」銭、蜀では鉄「貨泉」鋳造。更始政権でさえも漢制の復活者として五銖銭を発行したのに、更始以上に漢制復活者の立場を鮮明にしようとしていた光武帝は、漢復活の象徴である五銖銭復活にはあまり乗り気ではなかった。
 重要なデータを忘れてた。これは絶対必要なデータ。郿塢に蓄えられた金銀の価値を計算してみると、次のようになる。この二万斤(五トン)から三万斤(七・五トン)の金は、前漢・王莽代に比べると首都洛陽の富をかき集めたにしては著しく少ない。しかし、後漢時代は「一金」が、金一斤(二五〇グラム)ではなく、金一両(二五〇グラム)を意味するように変わりつつあった時期である。金一両が一〇〇〇銭から二〇〇〇銭程度に価格上昇したとすると、金と銅の比価は、前漢時代の一三〇対一に比べて高く、二〇八~四一七対一となる。また金対銀の比価が六・二五対一だとすると、金対銀対銅の比価は二〇八~四一七対三三・二八~六六・七二対一となり、金一斤は一万六〇〇〇銭から三万三〇〇〇銭、銀一斤は二五六〇銭から五一二〇銭となる。 金一両=二〇〇〇銭として計算すると、金二万~三万斤は六億四〇〇〇万銭から九億六〇〇〇万銭、銀八万~九万斤は四億九六〇万~四億六〇八〇万銭程度となる。

 つまり董卓の金銀の合計は一〇億五〇〇〇万~一四億二〇八〇万銭となる。ちなみに「跋扈将軍」と時の皇帝、第八代順帝期に言われた外戚の権勢者梁冀が没収された財産総額は三十余億銭であった。これは当時の国家財政収入の半分に相当した。董卓の場合は、金銀だけで一〇億以上あり、布帛類はその倍以上だとすると、これらだけでも合計三〇億以上となる。

 章帝時、銭・布帛・穀の三元的状況が現れた。穀価に連動して騰貴している布帛を主貨幣として用いれば、少なくとも洛陽の権貴・富者は布帛を大量に所蔵していたから困ることはない。当時、銭の流通の状況には偏りがあり、洛陽に集中していた。全国的にみて、首都洛陽に集中し、かつ政府・権貴・富家に集中していた。これは銭の「いびつな流通」といってよい。銭による最大の物資購入者は政府であり、ついで洛陽の権貴・富者である。

前フリ編その②<了>

*1:秦の軍事国家・対外拡大政策というのは貨幣の不足という経済的要因という視点も重要なんでしょうね

*2:秦の崩壊は、秦の強引な法による悪政というイメージがありますが、貨幣統一による既得権との衝突という視点が必要なのかもしれません

*3:多分上二冊くらいしか読まないと思うけど、忘れないようにメモ 

新中国の考古学

新中国の考古学

 
中国考古学論攷

中国考古学論攷

 

中国考古学研究 (1956年)

長沙馬王堆一号漢墓 (1976年)

半瓦当の研究 (1952年)

あなたの世界史―文明の起りと古代の世界 (1961年)

中国考古学研究

眼で見る古代の世界 (1956年)

中国考古学三十年―1949-1979 (1981年)

世界考古学大系〈第5巻〉東アジア (1960年)

*4:まあおそらくマネーサプライの増加によってもたらされる負の面もあったのでしょうけどね。というか始皇帝の政策の失敗を見ているからこそ、公有利な金人という政策を放棄せざるをえなかったとみるべきでしょうか。漢にとって秦の二の舞いを踏まないためにいかに民間の反乱の種を積むかというのは重大なテーマだったでしょうしね

*5:戦争=武器の需要=銭の減少=市場での物価の上昇という法則がありますね、以前どっかで書いた気がしますけど、重要なためにもう一度メモ

*6:辺境における亡命者と私鋳銭と専売というリンクは重要だと思う

*7:そういえば、後漢の初期においても、蜀の人士が重用されてましたね。前後漢通じて政権初期においては、蜀の銅を抑えるというのが非常に重要なんでしょうね。しかしそうだとすると、呉でも別にいいわけですよね。なぜ呉はダメなのか?まあ反乱を起こすからなんでしょうけど、どうして呉は反乱を起こすか?前漢時代ならともかく、後漢時代なら重用されても良い気がするが。あとは蜀から長安(涼州から西域でもあるし)ルートが近いということかな?交通は大変そうだけど。それとも荊州方面で洛陽直通か?呉もあの時代は交通大変だから交通事情で蜀>呉か。

*8:武帝期って儒教の博士というか重要古典・学問を選定しただけで、一尊でないのでは?なんか揚げ足取りみたいでやだけど。拙メモのミスかな?

*9:多分、鉄や銅じゃないかな?と推測。暫定愚説がチョロっと書いてあります→貨幣システムの世界史―「非対称性」をよむ 黒田明伸 

*10:貫高の誤字か、これ?わからん…