てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

三国志の本色々

読んだ本の覚書。

群雄三国志―諸葛孔明と勇将、激闘の軌跡 (歴史群像シリーズ 28)/著者不明

つまんない。あんまり読む価値のある記事はなかった。

三国志 下巻 (歴史群像シリーズ 18)/著者不明

 これも同じ、だけど、田中重弘さんの書いた文章が非常に参考になったので書いておこうと思った。
藤家礼之助さんいわく、漢の税率は10分の一から30分の一。それが魏は100分の一。人間単位で把握できないゆえ、戸単位で税をかける戸調制へと転換した。対して、屯田民。客といわれる民でもない、奴隷でもない身分には50%という超高税率。266晋になると屯田制は廃止され、課田制になる。
 晋になって呉が滅ぶと、大屯田地帯(南京東~蘇州西)は廃止されたが、東晋崩壊によってママ、またそこが屯田地帯となった。貨幣経済の退行。曹丕の廃銭令はそれを助長するもの。ただ屯田において典農官が商業をやって農業の倍利益を上げたという。農業主義の魏はこれを批判した。呉も商業は盛んで、長江を利用して盛んにやっていた。もっとも盛んだったのは塩などの物産が盛んだった蜀。

○田中重弘さん編 牛に左右された作戦と兵站
 蜀呉=米作地帯に対し、黄河は畑作。作物種類が多い黄河では牛が必要不可欠。牛は干草あればどこでもいける。南方は水牛はいるが、水牛は水分の多い生の草。水牛は輸送用に使えない。対して北方では牛糞を大量に確保して畑に還さなければ、作物が育たないために大量の牛を保有していた。夏は農耕で、冬は牛車=輸送だった。馬の農耕用の道具が発達していなかったため、牛が主流だった。四輪馬車の利用で西洋は東洋に決定的な差をつけたといわれる。五~六世紀スラブ民族→九世紀西洋へ。
 史書を読むと驚くほどに牛という字に出会うと思う。それは牛の速度=輜重の速度だからだ。黄河流域では冬季にしか輜重を運ぶ牛を使えないという事実にもっと注目すべきである。牛が使われたのは常識、車=牛車だから。記されないことに注意しなくてはならない。263蜀の鍾会が行軍で橋の整備に失敗して軍馬の足を落ち込ませた責任者を斬っている。これはそれほど重大だったことを意味する。牛を春までに農家に帰せなくては司馬昭に自分が斬られてしまうから。魏は大軍動員時には特に冬に限った。秋に輜重を送って、基地を作り冬に動く。官渡の前に勢いづいたのは敵の牛車、輜重、報償用の高価な品を大量に手に入れたこと(この当時の報償用の高価な品ってなんだ?)。運河と道路の整備もこの輸送にある。春から夏に運河の水位は満ちる=使える。
 呉の部曲は封建武士のようなもの。隊ごとの運用能力は高いが、大軍として動く能力はない。魏は警戒して大軍で防衛すればよかった。呉に大軍運用能力がないということは、放っておいても問題ないということ。だから後回しになった。つまり合肥の戦いとは張遼無双だけではなく、呉にそもそも大軍動員能力がない=オペレーション実行能力がないゆえの敗北であったことによるものなのだろう。う~ん、合肥の戦い特集をなぜやらなかったし。
 諸葛亮存命中に蜀滅亡作戦が開始された(これが何をさすか不明、魏は一貫して防衛で、積極的なものは周ホウのものと曹爽のものぐらいしかなかったはずだが…)。そして諸葛亮の行軍速度は牛より遅い。「木牛」という一輪車に頼っていたというから、さもありなん。こんな劣った軍で強大な魏に立ち向かうのもまた疑問符がつく。蜀は気候的に逆に冬が忙しくなる。
 蜀には史官がない=諜報機関がないということだというが、これは本当なのだろうか?国家に正式な情報収集機関がなかったことにつながるのだろうか?そして不正確な情報にだまされてホイホイ北伐に出たとしているが、ここは疑問。

別枠孔明、兵站確保の苦悩
 四川、蜀は日照時間が年1200時間と黄河の2500時間と比べて貧しい土地。冬に育つ農作物があるので、農閑期がない。穀物は取れるが米が取れない。良たんぱく質の生野菜があるから栄養上は問題ない。しかし補給で野菜は無理。孔明が進駐に選んだ場所は麦も米も向かないところ。殆ど収穫はなかっただろう。231春には収穫不足でその地の秋蒔き小麦を刈り取っている。補給路=逃げ道さえ確保されていれば米はいくらでも輸送できる。つまり米は取れなかったと考えていい。蜀は灌漑ないから焼畑だったろう。
 関中盆地は農作物に水が足りない。始皇帝のように大水利工事をしないと、実らない。地元農民との摩擦はなかったとあるから、未開墾地を耕した。五丈原は掘っても水が出ない。つまり焼畑しかない。そして特産物の粟をうえたのだろう(ここは現地の民と摩擦がないという記述からの類推であるが、別に現地民と同じ麦を蒔いてもそれが即摩擦になるとは思えないが…?)。南征で連れ帰った人間が従ったのは四川盆地で粟が良く実ったから=収入増。牛を使う農法を知らないために失敗した可能性が高い、牛糞を利用しなければ連続した収穫は無理だから。234秋8月、これまでの経験から、育たないとわかっていたのにもかかわらず良い気候と土地にかけて屯田をしたが結局粟は実らず、孔明はショックで悶死した。この視点は重要で最後の北伐に三年期間をあけたのは農業の地盤、地質改善を待ってからの行動だったのかもしれない。まぁ、五丈原に何度も耕してるわけじゃないから、それはないかさらにこのような農業の失敗を見れば、孔明の内政官としての卓越した技術という定説にも疑問符がつくことになる

 ※追記、―のだが、果たしてこの農業論がほんとうに正しいのか?という気がする…

 さらにもう一本。赤壁の戦いで日食が起こっている!天文について扱った文。司馬徽こと水鏡先生は天文・暦のプロ。龐統諸葛亮劉備に聞かれて同日に日食が起こると予言した。154、189の周期から確実。そして北伐にも227年から定期的に起こる日食を利用した!これは非常に重要な指摘であろう。井沢元彦さんなんかもヒミコは日食で王殺しにあったって言ってたしね。
 ただし赤壁は7月~12月の戦い。10月に日食が起こって、即退散ではない。それでどういう影響を与えたのか?孫権伝に疫病と食糧に苦しんだとある。官渡ならともかく、華北を手に入れてからも食糧で苦しむとは考えにくい。日食で民が動揺して補給に影響が出たのだろうか?以前もったいぶって書いたが、赤壁での戦いは曹魏政権建設のための内との戦いでもある。内と外を同時に戦っている。その複眼的視点がなければ、赤壁を考える意味がない。赤壁の謎は読み解けない。孔融の処刑に代表されるようにね。内部反乱とまではいかなくても、何らかの業務停滞、サボタージュ・ボイコットがあったとみるべきだろう。特に周瑜は二世三公の名門中の名門。彼に様々な情報が流れていたのではないか?

真三国志〈1〉曹操の鋭鋒と官渡大決戦 (歴史群像「中国戦史」シリーズ)/著者不明

渡辺さんが「名士」というキーワードで語るとき、一抹の不安がしこりのように残るなぁ…。
 袁紹=アホみたいな捉え方で官渡を語られてもなぁ…。孫子にあるような高い諜報能力が袁紹曹操の決戦で差を分けたねぇ…。信長みたいに捉えたいのかな?違うと思うなぁ。
 公孫瓚討伐後、袁紹主簿耿苞が帝位を勧め、皆に反対され彼を処刑したとある。先に帝位に就くか、後に帝位に就くかという性質の違いで袁術袁紹の違いがある。袁紹も全く帝位につかないという考えで固まっていたわけではないことがわかる。
 浅野裕一さんが兵学に長けた王朝創始者は稀と書いて、曹嵩の影響ではないか?と見ている。これは正しくそのとおり、だが今一歩踏み込みが足りないなぁ。 曹操曹丕曹植と建安文学をリードしたのも単に才能があったからではない。環境が整っていなければ、学問はできない。宦官の出で、金があったからこそ学問ができたという視点が重要なんだけどなぁ~。
 中林史朗さんの公孫瓚評いいな~。書くのめんどくさいからかかないけど。

真三国志 (2) (歴史群像〈中国戦史〉シリーズ)/著者不明

 水戦の常識を無視した布陣を曹操は採っている。端から戦う意図がなかった。当時の軍船は竜骨がないから二つの船をくっつけた双胴船。楼船といわれるもの。 特攻用の艨衝。10人単位の露橈。最初に弓矢、次に接近しての槍、乗り込んでの戦い。船から落とした後、小型艇で殲滅する。
 布陣に攻撃用の戦艦が大量にあれば、本陣がやられてしまうことはありえない。初めから、攻めるつもりがなかったとしか考えられない。そういえばCGで再現みたいな珍本が出ていたが、その中に周瑜は全権を委任された総督ではなかった、ってあったな。程普と軍を分かち合ったと。あ、違った都督だ。全権委任された都督は陸遜からだっけ?忘れた。軍事上の危機において全権を委任しなかった。それでも勝ってしまう周瑜が凄かったというより、曹操の攻めがいかに稚拙だったかということになろう。
 高島俊男氏は諸葛家の系譜から、諸葛瑾子瑜と諸葛珪(一説に字子貢)こそが兄弟、また魏の高官に璋という人がいてこれも兄弟の可能性が高い。王という編で共通している。つまり家族関係の兄弟ではなく、宗族としての同世代間の兄弟を意味する関係だった。玄・亮・均は貧乏な一等下のグループだと考える。三顧は三省とおなじく、多くのという意味。この当時劉備孔明もたいした人物ではないからそんなことをやってる余裕がある。天下三分=名戦略も、陵中対も荒唐無稽。そもそも実際の会話を史家が知りようがない。当人二人だけの話。史家は平気で話の内容を勝手に作る。それを忘れてはならない。
 ちょっとしたメモとして、孔融を処刑したときの曹操の名目は不忠・不孝という名目。これから儒の価値観をひっくり返そうというときに、その価値観で処刑をしたというあてつけ、当てこすりのやり方。孔融にとって最もつらいやられ方だったろう。
 二宮事件で太子和とともに弾圧された名士は呉・会稽・丹陽のいわゆる呉三郡。中小豪族孫家のパワー確立のため。
 文人張飛はしってはいたが、張飛が刻んだ文章としてかなり残っているらしい。実際に文章が残っているのは知らなかったなぁ~。
 劉備諸葛亮は果たして何語で会話したのか?当時はプートンファなんてない。史書に見えるのはいくつか方言があることだけ。その中でも呉だけはかなり特異で際立っていたことがわかる。今、一つ江南王朝が脆弱だったこと、名士に弱かったことはこの言葉にあるのではないかということを思いついた。こういう常識は重要だ。彼らは標準語を話せないから、江南の言語ゆえ意思疎通が取りづらく難しかっただろうからね。

こっから三巻
 曹操の出身地沛と同じ出身地の丁氏。そして魏諷も同じ沛出身。このことが乱と何か関係があるのか?
 中林史朗さんいわく孫・陸対立はない。名士の弾圧はないと書いてるが、二宮事件は明らかに君主権を確立させるための権臣粛清なんだけどな~。まぁ、豪族・名士を含めて弾圧しているから、名士のみと対立したわけではない。そりゃ、決定的に対立したら国家が崩壊するから、しないだろう。自分の君主権が強化されればいいんだから、トコトンやるわけないだろう。
 渡辺さんいわく、三つの食料生産圏がある。山東~琅邪にかけての中原地帯・関中一帯・そして四川盆地。兗州豫州あたりも含まれ、むしろ曹操のほうが袁紹より食糧確保で優位にたってしかるべきなんだけどな~。冀州って地盤的には豊かじゃないのだろうか?袁紹の優位は冀州が豊かではなく、曹操の地盤が戦乱で荒れまくっていたことによるのか?
 津田資久氏いわく、司馬懿が仮病を使って仕官を断った相手は曹操ではなく、曹洪。仮病司馬懿のとき李勝の荊州着任人事の報告は本籍地赴任は慣例として認められなかった。それに反発するかどうかのテストがあった。福原さんは簒奪の現実的な段階を、司馬師の252の東関の戦いで罪を問わなかったところからとしているが、それはあまり意味のない見方。曹爽を処刑した時点で王朝を輔弼する宗室軍がなくなり、軍権を掌握したんだから、もうその時点で行き着くに決まってる。王朝転覆を阻害させる事実を探すほうが早いんだから。それくらい新王朝移行を阻むものがなかったんだから(というか、そういうことがいいたくて書いたわけじゃないのかな?この指摘は)。
 王濬の蜀戦略、陳瑞という教団(教団、これ重要)を征伐して、そこから御神木を使って大船団を建設して、征呉に備えた。蜀の名士何攀を重用したことなど、征呉=蜀人士が中央政界に進出する最後のチャンスだったのだろう。しかし王濬が権力闘争の敗者だったため、それもむなしく終わった。この視点は陳寿三国志の執筆動機に繋がってくるのだろう。むしろここで王濬が成功して、益州人士が取り立てられたら、書かれなかっただろう。中林さん結構好きなんだけどなぁ~。孫皓暴君論か…。そりゃないわな。

あれ?龐統って周瑜配下だったっけ?イマイチ魯粛孔明、孫・劉・周関係がはっきりしてこないな…

真実の『三国志』―活劇!三国志正史 (宝島社新書)/大沢 良貴

 偽黒さんが紹介していたので、読んでみた。どこにもなくて正直参った。んで結局あんまり…っていう本。もちろん悪くはないんですけどね。正史三国志を読む上で通史ベースに書いてあるものってあんまりないし、決定的な間違いも殆どない。袁紹=優柔不断を採っていないし。三国以後の歴史の流れがしっかり書かれているものは本当にないな~。むしろ三国崩壊期の方が、その次の新時代に向けて面白いと思うんだがな~。その後の三国志だったかな?あれも小説だしな~。
 ○豫州刺史郭貢が兗州反乱=呂布のとき、荀彧に数万の兵を引き連れて駆けつけている。荀彧は危険だと言われたが、彼は今迷っている。このとき会わなければ、敵方に組みさせてしまうだろうと会談して、中立にさせている。
 メモがてらに―というか中立なのかよ!曹操側につかねぇのかよ!この時期豫州刺史多すぎだろ。劉備孫賁もそうだし、んで前者は陶謙推挙で、後者は袁術か。考えられるのは袁紹派か董卓派(=長安朝廷が任命したという意味でね)。その後の歴史に姿を見せないところを見るとまぁ、どちらかで間違いない。しか も両方と遠いところから見て、ほとんど日和見だろう。なんとな~くいうこと聞いて、行動する人物。もしここで曹操派に転じていたら、ものすごい出世したん だろうな。かわいそうに。あ、袁紹はないか周キン?周グウ?かなんか任命していたし。でも戦死してたから、その残党を集めたのか?まぁいいや。いずれにせよ、本来有数の豊かな豫州は群雄の草刈り場と化します。草刈ババア化します。んで李傕残党に荒らされ、あっという間に没落する。曹操が傘下に入れられたのも、これがあったからでしょう。草刈ババアは豫州戦争が終わると、徐州になるわけですね。ココが次の戦乱のポイントでしょう。
 ○徐州で劉備を裏切った許耽は丹陽兵を率いていた。
 ○建安正月袁術配下萇奴と董承VS曹洪献帝をめぐって戦っている。この萇奴は名前からして異民族だな、間違いなく。異民族を従える袁術政権か…。
 ○呂布に対して曹操は騎馬に対し伏せて、一斉に突き上げて驚かせて騎馬戦隊を無効にした?
 ○国号陳?仲じゃなかったっけ?

ろくでなし三国志 本当はだらしない英雄たち (ソフトバンク新書)/本田 透

 立ち読みした。あんまり読む価値はない。劉備孫権の家臣として行動したこと。孫家は実際にはバラバラ。孫策が暗殺されたとき、都合よくペラペラしゃべって、張昭に後を託すのは調子が良すぎる。
 そんなところかな、価値があるとすれば。孫権は実際にはなんの実権もないまつり上げられただけの若殿だからな~、初期は。どんな君主でもそう。成績を挙げなければ、下はついてこない。社長が急死して、若殿が後を継いで、全権を託す会社などない。社長を育てる!とかなんとかいって、寡頭体制になるのは当たり前。
 政治家と官僚の違いが全くわかってなくて、後漢末の政治分析はメチャクチャ。正直読んでいて不快なところが多かった。的が外れているところに、独断的な文章が合わなかった。無論好きな人は好きなんだろうけど。他に何か色々書いてる人みたい。多分すでに個人的にファン、読み手がいるんでしょう。だからこういった書き方ができる。しかし己はもう結構と思いました。

正史「三國志」完全版/岩堀 利樹



 あとこんなのもあったなぁ。パラパラ~って見たけど普通のことが並べてあるだけという印象。可もなく不可もなく。

 どうしようかな。実録三国志と石井さんのまとめ書こうかな。この二冊が一番参考になるっていってもいいしな。