てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

(続) 世界の歴史を見れば秦漢帝国とは途上国・後進国にすぎない

秦漢帝国とは途上国・後進国であるの続き。書きまくるって言ってたのに全然書いてない(´・ω・`)。

秦漢帝国が途上国であるというテーゼから語ったこの話。※今改めて見ると散らかり具合が凄い。何がいいたいか全然伝わらないですね。唐と言えども世界的には大したことない。中国がようやく世界史に中国ここにあり!と言えるようになる。つまりそれ以前中国というのは辺境にある国・地域だった、世界史的に大した事ないレベルの規模でしかなかったということがいいたいだけだったんですが、要約とか要所要所でまとめていないから垂れ流し感が半端ない…。

一応見出しを付けてみた

>政権末期で急激に国家が把握する人間の数が膨張したと類推してかまわないと思います。
>いつの時代も大規模国家、帝国が好ましいとされる時代は商業ネットワークが確立されているときと相場が決まっているものである。その商業ネットワークの崩壊こそが帝国を崩壊させ、帝国を復活させなかった理由でもある。
―って指摘の続きを書きます。

 

遊牧帝国について、遊牧民は東を目指し、後に南下する

 だがその前に遊牧民について。定住王国、帝国・遊牧帝国とか結構いい加減に使ってますけど、そこら辺はスルーでお願いします。単于という称号の登場は中国の統一に始まる現象である。中国が統一されてしまえば、これまで南下して交易、略奪などで得ていた主要商品が手に入らなくなる。もしくはバラバラの市場から選択して買えたものが統一されるゆえ、今まで以上に高い値段で購入しなくてはならなくなる。秦の中国統一は確実に冒頓単于の登場とリンクする。実際には鶏・卵で相互影響をもたらしながら展開してきたものだと考えられるが、まぁ、そういうことは気にしない。この称号は撐犁孤塗単于というものの略称で、天の霊験を受けたものという意味がある。天そのものではなく、周までの天子の観念に近い発想である。シャーマニズムなら当然だろう。対して秦の方は天の意思、上帝=最高神そのものになろうとしていた。漢になって劉邦匈奴に破れ、皇帝をより緩やかな従来どおりの王のようなものへと格下げしていったのと無関係ではない。敗戦は大きな影響がある。事実ここにおいて、兄弟関係=匈奴(遊牧帝国)>漢(定住帝国)の図式が生まれた。

 余談になるけれども、単于は族長会議で選ばれ、実力主義で決まるが、匈奴の中心氏族である攣鞮(れんてい)氏のみから排出される。そして母の血統が重視される。これはのちのモンゴル帝国にいたるまでの基本図式。殆ど変わりが見られない。しかし実力あるものが選ばれる代わりに、このようなシステムでは君主の権力基盤、継承は安定しない。母方重視=身分が低く、実力のあるものがのし上がるには、高貴な血筋=過去の成功者の娘を娶ればよい―ティムールのようにね。これにより「抜擢システム」が成立する。当然、定住王朝のような安定した官僚機構、儒教に基づく権力継承ルール・文化がないために脆い。気候や疫病によって家畜がやられるとあっという間に力を失う。

 鮮卑が次の中国の主役となり、事実上のターキーエンパイア=唐に至るまで変わらない(北魏だけでなく、燕もそう。)。それどころか、現在のトルコ共和国に至るまでトルコ系は世界を支配する広大な活動をする。もちろんその次はモンゴルの世界帝国時代であり、アラブ→トルコ→モンゴル→…という流れで世界史は展開する。中国の場合はその本場トルコの発祥地であってアラブの影響が薄く、トルコの印象が強くなる。

 話がそれた。まぁ、いつもそれるんだけど(^ ^;)、ソリドゥス金貨、それるだす金貨だな。重要な流れなんでね。そういえば1500年~2000年周期でセム系が、アラブのように人口爆発を起し、民族大移動を起してきたという説を見たことがある。人口政策に失敗すれば、中東は再び同じようにアラブではなくとも、イスラムを軸とした民族大移動が起こるだろう。そしてそれには核なんて通用しない。日本刀の前の楊枝のようなものでしかない。国家、近代兵器には強くても、膨大な人間に対して何の意味ももたらさない兵器だから。

 それまで部族単位で行動し、大人という称号で呼ばれていた。鮮卑は当然先駆者の匈奴を真似して、単于という称号を名乗るんだけれども、のちに柔然という集団が可汗を名乗り、モンゴルに代表されるハーンという称号になる。北魏において既に使われていたらしいとも言うが、なかなか詳しい研究(というか分かりやすい文献)がないのでなんともいえない。おそらくは宗教的意味であり、君主権を強化する思想を持ったものなのだが、いかんせん己にはなんともいえない。単于という称号、遊牧版天子は中国に隷属して以後、封建される称号となってしまい。その神聖性が落ちてしまった。そして世界的にどんな王朝、国家にも臣属せずに自分たちこそが主人でありたいという意味もこめて新しい称号が広まり、新しいスタンダードとなったのだろう。

 歴史上初めて大帝国に対決するという意味で登場する遊牧勢力といえば、やはりペルシア戦争のきっかけとなった。スキタイであろう。農耕系スキタイ、遊牧系スキタイなど色々分岐しているが、これはおそらく遊牧に典型的な分裂と新興部族の登場。さらには現地人の奴隷化、組み込みなどがあっただろう。歴史の流れだけを見れば、遊→農を連想するが、厳しい自然環境の中では必ずしも農耕だけが絶対ではない。その逆もある。というか両方出来るように確保しておかなくては遊牧帝国が長期に渡って続くことは厳しい。中国周辺の遊牧王朝が長く続いた例はあっても最盛期は僅かで、名のみ残っているということが殆どだ。征服王朝で多少息が長いものが出来るようになったが、基本的にその傾向は変わらない。当初のアイデンティティを維持しながら大帝国としてあり続けることが出来たものはない。100年もった遊牧王朝が稀であることから良く分かるだろう。その存続期間を見れば、大体、ある一定のサイクルで消滅していることが分かる。

 そのスキタイもハカーマニシュ、ギリシアといった歴史の波にいつの間にか消えていってしまったように、一時の無敵ぶりは一体なんだったのかといぶかしがることだろう。何も中国の遊牧帝国だけではないのだ。そして、中国を待つまでもなく定住帝国が登場して、遊牧帝国が登場したこと。そしてこの遊牧帝国起源がおそらくモンゴル高原であることに注目したい。

 モンゴル高原起源の遊牧民がなぜ西アジアの草原で大帝国を築いたのか?定住王国と違い遊牧の場合、商業ネットワークが何よりものを言う。あらゆる物産を自然から獲ること、モンハンみたいな生活をしているから活動範囲が広ければ広いほどいい。なおかつ交換する商業・貿易拠点も多ければ多いほどいい。その条件で中国<中東いわゆる西アジア辺りが好ましかったのだろう。無論気候など様々な条件があったのだろうが。ひょっとしたら通貨が金銀が主であるということもなにかあるかもしれない。銅を使う生活に思えないし、何より銅であればかさばって仕方ないだろう。この時代本格的な貨幣経済は始まってはいないが、ディアドコイに代表される後継王朝では既に主流となる。というかギリシアがあそこまで影響力を発揮できたこと=貨幣経済の成立がある。この時代まだまだ、本格的な貨幣経済に達していなかったとしても、中国と比べてはるかに発展していたことは間違いない。なんせバビロンの時代から間接金融が発展していたくらいだ。手形や為替ドンと来い!だった。ちょっと覚えてないが、物凄い発展していたことはウェーバーの指摘にもある。地図で見ると西域から小アジアまではかなりの距離があるが、地球儀などで確認すれば分かるように、経度、球形の直径赤道に比べ比較的短いことが分かる。シルクロードといわれる交易の道はそれほど長くはないのだ。もちろん平面的な地図での思い込みよりも短いという意味だが。

 

漢帝国だけでなく、匈奴の帝国も世界史上「遅れてきた帝国」

 匈奴以前に遊牧帝国が登場していないということも世界的潮流から言うとかなり遅い現象であることが分かる。というか文明世界は西アジアのみであったといっていい。すぐ近くにさらにインドという文明圏まである。ローマにせよ、漢にせよ、紀元前2世紀に至るまでは所詮ペーペーに過ぎない。違いはローマが後輩魂を発揮して、この西アジア経済圏に熱心に挨拶に伺い、ご機嫌を取ってきて必死に参入しようとしたのに、漢は殆ど興味を示さなかったことであろう。ローマは猫で、西アジアに猫まっしぐらだったが、漢にとっては興味がない犬のような存在だった。おそらくぺディグリーチャムか、愛犬元気だったらやってきたのだろう(^ ^;)。勿論そんなエサの問題である訳はなく、地理上の問題距離がかけ離れているという問題なのだが。

 遊牧然り、世界的潮流然り、中国は少し遅れている。なぜか?泰斗市定氏いわく、文明は先天性の優劣で決まるわけではなく、異なる文明・社会との交流があったかどうか。いかに交通の要衝にあって、様々な文物・思想が流れ込んでくるかで決まる。西アジアはまさに様々な文明が早くから分立、乱立、そして混交してきたからこそ世界の中心、いや初期においては世界そのものだった。おそらく15世紀までの人間にとってそれ以外の歴史はインド、中国など異国興味、―的関心を除いて殆ど必要ないだろう。その時代までそれ以外の歴史など何の意味もなかっただろう。遊牧の動向くらいではなかろうか、重視すべきは。オスマンが全く他国に関心なく、西欧の辞書すらなかったという事実が如実に示していると思われる。いずれ触れるかもしれないが、東アジアという地域の重要な地政学的性質は世界から孤立していることだ。それは極東という言葉に端的に表れていることから良く分かるだろう。ヒマラヤ山脈によって、断絶はしていなくても隔絶しているのである。世界から孤立していたのは何も日本だけではないのだ。初期中国においては日本と殆ど一緒なのである。

 そしてさらにこのような展開、潮流から遊牧の流れを見ると中国が東西から南北に歴史のベクトルが変わったように、遊牧も東に展開を図っていった。後の遼・金・清に至るまで、元でもその東方のみならず、北方に活動領域の限界を広げている定住民が江南を開発したように、遊牧民も活動領域を広げていったのだ。日本ははるか後の話になるだろうが、朝鮮半島の情勢も影響を与えたかもしれない。彼らが一定のアクターとして国際政治に参与するようになって、生産力をつけることによって初めて、遊牧も活動範囲を広げることが出来たのかもしれない。確か柔然突厥の時には鋼鉄、鉄の精製に特別な技術を持っていたという。遊牧=交易ルートを通じて、西アジアの技術・商品などによって、なにか可能になるものがあったのだろうか?この辺はまだよくわからないが、とにかくまだまだ未開拓だった中国を開拓させる要因、圧力、環境があったということだ。唐に至るまで、至ってからもだが、大開発時代であった。それは江南だけでなく、遊牧においてもそう見ないと話は分からない、歴史の流れは分からないということだ。

 東限=東の限界に至って、南下=中国、西方=西アジア、中東に行くようになった。匈奴帝国は一時しのぎというのも変だろうが、まずそこでなんとかやっていく。しかし武帝にあっさり敗れたように、限界がすぐやってきた。その後遊牧王朝を築くのではなく、そのまま定住化の道を歩むものと遊牧王朝に分かれた。柔然突厥のような安定した王朝はかなり時間がたってからになる。やはり遊牧王朝が生まれるまでの時間はその発展、拡大のために要した必要な時間と見るべきだろう。このようにしてできた楔によって、東、南、西とそれぞれ活動領域を広げていく。時代の転換点は征服王朝あたりだろうか?そこが世界の中心となって、遊牧民たちが移動する起点となっていく。

 

東西ルートのち南北ルート、そして東西南北無視な海洋ルート

 アラブ&唐の登場によって世界史の中心は確実に流通経路である東方にシフトすることになる。より本格的に物産を東方に求めるようになった。イスラムの登場と唐の世界史的意義とは商業、交通ルートの開拓により、東アジアを世界市場の一部として編入したことだ。またこの時代にインド洋を中心とする世界市場の基礎が誕生した。初めて明確に中国が世界経済に組み込まれることになった。これは唐の経済力の根本的な成長なくしてありえない。物ではなくカネで納めさせる両税法=財政国家への転換がようやく達成された。このことが中国経済の成長を示す何よりの証である。

 さて、秦漢~唐まで一つの流れ、時代としてみなければいけないという主張のために一応遊牧と世界的流れをつないで見た。山田勝芳氏の著作にあるように前漢→新→後漢→三国(一応三国としておく)時代の移行に経済的衰退、混乱状況が見られるわけである。果たしてこの経済的問題の原因は一体なんであるかということを解くために、イチイチ語ってきたわけである。人口の話は出来なかったが、帝国と商業ネットワークの話は世界史的潮流の中からいくらか補足出来たと思う。三国政権それぞれ異国との商業ルートを開拓しようとしたのにはわけがあるのである。開発と世界市場との結びつき、その流れの中に三国政権もあった。

 

イスラムの登場は世界の歴史の流れを変えた

 そして唐の時代に見られるまで時間がかかったことから分かったように、西アジアイスラムが登場するまで、誰がどのような政治、政策を打ち出そうが結果は殆ど変わらないのである。この時代の中国政治家を評価するならば、西アジアイスラム誕生前後のどちらに生まれたかによって、評価が大きく変わることを踏まえなくてはならない。そうでなければ正確な評価は絶対に出来ない。無論ムハンマドが布教活動を開始しだしたころと唐建国では殆どタイムラグに差はない。ムハンマドがいきなり、イスラムを布教して世界帝国に至るまで、その地域に商業的成功がなかったと見るべきではない。むしろイスラムはその後を押し、完成を助けたと見るべきで、元から下準備は整っていたと見るべきである。

 事実サーサーン時代から交易ルートの開拓は行なわれている。751年タラス河畔で両文明圏がぶつかり合ったのは、単に勢力圏を拡大させるためではない。むしろその地域は、その後殆ど独立勢力の手に落ちている。重要なのは交易ルートの確保なのである。勢力圏の確定という意味合いもあっただろうが、ルートさえ確保できればいいので、その後たいした懸案事項になっていない。現地人も仲介でこそ生きるために、荒らしたりはしない。世界史にあった唐の全盛期の地図など、日本の大東亜戦争の最大領土くらい無意味なものだ。サラセン帝国であれ、唐であれ当時の帝国にそんな広域を支配できる技術があろうはずがない。ジャガーが描いたピヨヒコの似顔絵みたいに「なんで、そこでっぱんてんの!」みたいな画は中国人のナショナリズムを刺激するだけだ。日本人が大東亜の最盛期を見てそうなるように(^ ^;)

 イスラムが登場するまで、と書いたが正しくは中国まで交易を可能にする理由。おそらくはホスロー一世あたりなのだろうが、その時点以前・以後では全く異なるのである。何でそういわずにイスラム以前・以後にしたかというと、まずそれが解き明かされていないため、わかりにくいこと。イスラムを指標に出した方が歴史の流れを理解しやすいから。あといつ転換点なのか、詳細な研究が日本でなされていないこと。これを解き明かすことはものすごく大事なことだと思うんだけどなぁ…。何でこれ解き明かそうとしていないんだろ?イスラム研究はしてもその前身であるサーサーンの研究はかなり薄っぺらいのが我が国の特徴である。ここら辺は青木健さん一人に何とかしてもらうしかないのかな…。インドを中心とした海洋研究は家永さんいるけど、この時代に絞ってるわけではないのでね…。

 重要なこととしてイスラム、このころはアッバースだが、それと唐の両国が陸路を開拓して結びつけたことである。166年日南郡つまりベトナムにローマの使者が来たことは有名であるが、これが陸路でなく、海路であるということに注目すべきであろう。陸からなんてとてもとてもいけなかった=安全でなかったということもあるが、何より交易路として使えないということである。この時代まだ五賢帝最後のマルクス~の時。つまり交易をしようと思えばルートが開拓されてもおかしくはなかった。しかしそうはならなかった。ちなみにローマは五賢帝というよりは、その後の時代状況が悪くなったゆえ、懐古され五賢帝と呼ばれただけだろう。330コンスタンティノープル遷都も陸路では不可能であるゆえ、海路の開拓のため、何よりローマでは陸・海ともに交易に絶望的だからだ。イーストシフトしなくては帝国は生き残れなかっただろう。このころどの程度出来たか、無論わからないが、最終的にはインドから中国に行こうというもくろみ、ビジョンがあっただろう。ローマとサーサーンの海上ルートを巡っての抗争は非常に良く知られている事実である。そして仏教徒に代表される航海記もまたいわずもがな。海上ルートをいかに切り開くかという動機と無縁ではない。中国のみならず様々な人間・国が新しい世界市場を開拓しようとしていた時代だったのである。

 仏教が東南アジアの主要宗教であるように、中国にもたらした影響は計り知れない。ここで仏教を持ち出したのは次で人口の話を持ち出す時にこの仏教を取り上げたいから。といってもたいした話は出来ないのだが、一応ヒキとしていいだろう。二つを一気にまとめるのはやはり無理だったな。でも人口について、それほど深い話が出来る話も出来そうにないし…。

また次回へ続く。