てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

西川利文氏論文『胡広伝覚書』の覚書

 

 

DLできる論文で読んでみた。Ciniiでエラーになりますね。http://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/index.htmココでググらないとだめですね。そうすると論文出てきます。『東洋史研究』がweb公開へ!ってありましたけど、いったいいつになったら進むのやら…。その恩恵をあんまり受けてないような気が?己だけか?

 

 昭熹さんの袁家にまつわるコメントへのリプライをもう2週間以上書こうとして書いてない。つか、今書いてある感想が長すぎるし…。で、今一番己が興味があるのは、つかメインテーマ、関心事は梁冀。やっぱり梁冀がわからないと何もわからない。三国志というか、前漢末→後漢→漢末にいたるキーとなる人物だから。外戚霍光、王莽に連なるって意味でね。

 

 それはやはり建国に貢献した功臣集団の一員=梁氏の一人であること、竇武も然りだ。前漢見ればわかるけど、この功臣集団の粛清。後に劉氏王に代わって、地方の諸勢力を潰すことによって漢帝国は完成した。中央集権体制が確立された。後漢光武帝も当然この流れを引き継いだ。ただし、光武帝は劉氏、劉姓を封じて、それを強硬的にドカドカ潰したりするようなシステムを選ばなかった。むしろ外戚という新しいシステムの中に地方の不満勢力を取り込むシステムとした。そのシステム=外戚に大幅な政治権限を持たせる、それによって地方の不満を先んじて解決する―で後漢政治は動いた。ま、彼一代でなく、明帝とかの功績が大きいと思うんだけど、そういう話はしない。

 

 で、梁冀なんだけど彼は後漢末、王朝の崩壊→二袁戦争に至る前、涼州反乱や黄巾の乱の前にすでに漢王朝に「もう漢王朝のシステムは限界ですよー」とアウトの判定を下した人物。党錮の禁が漢末の政争に大きく影響を与えているように、この党錮の禁を無視して漢末を語る人間はいないだろう。当然歴史の流れとして梁冀→竇武・陳蕃のクーデター&党錮の禁→宦官&皇帝専制という流れを決して無視することはできない。

 

 梁冀が目指した政治。新王朝を作るうえで当然、王莽をある程度参考にしただろうし、彼のクーデターの方式は王莽方式にならざるを得ないから。だから、孺子擁立なんてまんま同じことをやった。外戚だから権力を握れたというだけでは梁冀のパワーバランス、後漢におけるその権勢をすべて説明しきったことにはならないと思う。袁家がどうして権力を握れたか、四世三公の地位を獲たか、その鍵の一端は梁冀時代にあると考える。袁氏が本格的に政界に食い込んだのはこの時代にある気がしてならない。

 

 おそらく、梁冀自身が涼州出身であるから彼の関心事は涼州情勢であったのだろうとは思うが、それ以上に彼が目指した政治モデルとは何なのか?清流・濁流なんてチンケ・陳腐な構図ではなく、彼はどういう勢力の何派に値するのか?そしてもし梁冀のクーデターが成功していたら、どういうビジョンで運営され、その後の政治は進んだのか?これがわからない限り、この時代の研究は先に進まない。袁家に限らず、その時代の家の名声=名望家であること、血の高み、血縁重視の政治の流れは梁氏→袁氏そして、司馬氏にまで及んでいると思う。そして当然その後の貴族制の血縁重視の時代にもね。この流れをどうやって解くか・・・(やはり王朝の制度の成熟かな?中央にあるポスト、官位があまりにも大きい権力を持つようになりすぎた。その結果中央のポストにつくことが地方行政にとって死活的な意味を持つようになる。中央ポストの猟官運動の重要性が、任官の順番・序列を明確に設定する必要に迫られて、一番わかりやすい血統によって決まるにいたったとか?)

 

 まぁ、そんな問題意識の中で、どうにかして梁冀を調べようと考えまして、PDFで見られる論文がなんかたまたまでてきたので読んでみたわけです。ああ、リプライの中で三公調べてたときだな。以下西川利文氏論文『胡広伝覚書』の感想、私きのこるの注釈になります。単に気になったところをメモしてるだけですが。PDFコピーして抜き出してるので、漢字が間違ってますが(特に人名)、脳内保管してください。

 

 

博学・通儒胡広―『漢官解詰』を残し、彼の弟子蔡邕の『独断』『十意』に受け継がれる。十年以上一人三公という栄誉に属する大政治家は学術上の成果に基づくわけですね。蔡邕の師匠なんだ

 

順帝は占いで皇后を決めようとした。これに対して胡広は尚書の郭ケン・史ショウと上疏して、占いによる決定は今までなかったことで、また必ずしも賢者を選べるとは限らないから「宜しく良家を参じて、簡らぶに徳有るを求め、徳同じうすれば年を以てし、年均しければ貌を以てし、之れを典経に稽え、之れを聖膚に断ずベし」と諌言した。そこで順帝はこの言葉に従い、梁氏が「良家子」であることによって陽嘉一冗年正月に彼女を皇后に冊立した。この一件は、胡広が梁氏との関係を持っきっかけとなった。

 私、きのこるは考える。この当時はまだ梁商が大将軍の地位であるから、梁冀とはどうだかわからないという説明をしている。うーん、素直に梁冀評価の方向には行かないのか。胡広評価ですら、これまでまともになされていないのだから、仕方がないのか。良家、血統を重んじる流れはこの胡広あるいは尚書を中心とする胡広グループに基づくものである。ひょっとして始まりもこの胡広なのか?もし占いで皇后が決まっていたら、何進の妹みたいに貧しい家の出自が皇后となって、脱外戚政治に進んでいったかもしれないな

 

孝廉科改革―尚書令左雄察挙年齢を四十歳以上とし(限年制)、察挙された者は公府において、諸生には章旬、文吏には臆奏の試験がそれぞれ課される(課試制)というもの。張衡と黄墳は、左雄の改革案で「孝」の基準が軽視されていることに、胡広は同じく前述二人と「蓋し選挙は才に困り、定制に拘る無かれ」として、限年制・課試制そのものを否定した。

 私、きのこるは考える。左雄という人物が人事制度に定年制ならぬ、募集資格:大卒以上みたいに任官資格を設定したことは知ってましたが、この時代だったのか。人事は言うまでもなく後漢末政争の中心中の中心、核心といってもいい。それに40まで任官できないというルールを持ち込んだインパクトは想像以上に大きい。このことはもっと注目されなくてはならない。本で読んだことないな、この人について触れてるものに…。そして儒教の任官制度=人格・徳に基づく、外面規範に基づくシステムが起こす矛盾が現れる。優秀な人材は年齢によって決まるものではないと主張、反論をするのだが、その才を図るシステムが根本的に欠如しているのだから。じゃあ、どうやって優秀だかどうだか証明するのよって話になってしまう。いうまでもなく科挙制度が確立するまで中国の官僚システムというのは根本的に人材を選抜する基準がない

 

改革が左雄の独断専行によって行われたことを批判している。その上で胡広は「百官に宣下して其の異同を参り、然る後に勝うや否やを覧択して、詳らかに販の衷を採る可し」として再審議を要求した。しかし順帝は、それに従わなかった。順帝自身が一旦認めたものを覆せるはずはなかったからである。ただ漢代の政策決定が会議によって行われたことを考えると、批判にも一理ある。特に同じ尚書系の官僚にも諮らず順帝の承認を得ただけで改革を実行したことに、胡広は納得できなかった

 私、きのこるは考える。順帝が行った裁断はほんの少し前小泉氏が自民党政治で行った改革とまったく一緒。組織にはトップダウン、リーダーが決定してその決断がそのまま履行されるシステムと、合意を重視する採決重視型のシステムがある。思いつきで書いてるから、うまくないな、文章が…。ま、とにかく合意を重視するシステムなのに、自民党の歴史にこんなことは今までなかった!合意前に決定されておかしいじゃないか!って小泉氏が首相になる前に怒鳴ってました。アレとまったく同じ現象ですね。システムが合意重視型から、リーダー決定側に移行する。

 そもそも光武帝が、柔よく何とか、最低でも金!ママでも金!って人ですから、光武帝時代と次の明帝くらいまではともかく、その後は重臣、高官の合意が重要となるシステムに移行したんですね。つまり桓帝霊帝がおこなっているリーダー独裁型の政治の端緒はやはりすでに順帝時代に見られるというわけです。

 

 

伝五一左雄伝 広陵郡の徐淑は年齢が四十歳に達していなかったが、詔に「顔回・子奇の如きもの有れば年歯に拘らず」とあるのを盾にとって自らの正当性を訴えた。それに対して左雄は「昔、顔回は一を聞いて十を知る。孝廉は一を聞いて幾つを知るや」と詰問し、それに答えられなかった徐淑を広陵郡に送り返した。そして同様に基準に達しない孝廉を察挙した胡広をはじめとする十余人の太守を罷免し、察挙された孝廉の中では汝南郡の陳蕃をはじめ三十余人の者だけが郎中に拝されたという。ここに罷免された太守として胡広が挙げられていることは象徴的である。恐らく胡広は、前の経緯から徐淑のような若年者を孝廉として察挙することによって、身をもって孝廉科改革に反対した

 左雄VS胡広。このとき数少ない枠に残った陳蕃はやはり優秀だったのでしょう。しかし、キャッチコピーに顔回ってつけて推薦したやつはなにを考えているんでしょうか?ちなみに彼は孔子に後継者に指名された人物で、数学で言ったらガロワみたいな天才って言えばわかるでしょうか?しかも、じゃあ顔回にたりうるものを見せてみろって言われて、何もできないとか…顔まっかっかになりますよ。恥ずかしい(笑)

 

伝二八膝撫伝に、順帝末期に国内各地で起こった反乱の鎮圧に功績のあった牒撫の論功行賞に当たって、当時太尉に就任していた胡広は直官の意を承けて、逆に膝撫を降格処分にする。

 私、きのこるは考える。トウ撫、トウで読みあってるかな?わかんないや。漢字が出ない。宦官についてよく言われる。宦官のダーティーさを協調するために何が何でも悪者にしたい表現が多々あるので要注意。もちろん宦官は正義は集団ではないので、いいことをしたり、正義の実践者なんて見方で見てもいけないけど。軍事指揮官は勝利をしても、更迭される、罷免される、賞されないなんて当たり前。それは目的とあっているかどうか、反乱の性質によっては三ヵ月以内、半年以内と任期が決まっている。勝って当たり前、いかに迅速に鎮圧して傷口を広げないかが問われる。詳しいことがわからないので、このケースについてはなんともいえないが、ただ宦官のやろうがまたやりやがったぜ!なんていう史家のお決まりの非難に乗ってはいけないことは確か

 

李固は建和元年(一四七) 一一月に起こった清河王蒜を天子に擁立しようとする清河甘陵人の劉文らによる謀反に関連して獄→誅殺される。

 私、きのこるは考える。むしろ梁冀を除いて、先んじて蒜擁立に李固が動いたと見るべきではないか

 

この当時の多くの官僚は、梁葉の専権に反発しつつも、治を行ったのである。その意味では、当時の官僚はほとんどが権道派一方では梁葉と妥協しながら政であったともいえよう。しかしこの評価は、李固を基準としたものである。前に見たような事情から李固が桓帝擁立に反対したとしたら、決して李固の立場を「美化」して評価してはならないだろう。むしろ李固以外の官僚の態度が一般的だったと考えられるのである。

 私、きのこるは考える。決して特定の誰かを評価する、誰かから見て正義派、悪者なんてレッテルで捉えてはならない。歴史を分析する上で正義、悪なんていう分析法をやるのは、最低の歴史家と相場が決まっている。梁冀を一方的に専権などという評価をするほうが?と思わざるをえない。

 

三公がそろって罷免されていることから考えても、それは梁糞への「阿附」が原因なのではなく、梁冀誅殺という「凶事」に関連して三公が責任をとらされたというのが実情なのではないだろうか。それは次に改めて見るように、胡広は庶人とされたにもかかわらず間もなく官僚として復帰している

 私、きのこるは考える。この関係性、梁冀と胡広は董卓蔡邕との関係そっくりである。その後も復帰できた胡広に対して、復帰どころか処刑されるにいたった蔡邕。やはり、董卓にいやいや加担した蔡邕という見方も当然正されなくてはならないだろう。そして同時に通儒、学者としての声明が重要であることをも裏付ける。

 

伝二四梁伝に「其の官の連及する所の公卿・列侯・刺史・二千石の死す者数十人、故吏・賓客の免馳せらる者三百余人、朝廷、空と為り、唯だイン勲-袁肝及び廷尉カンタン義のみ在り」と記されるような状態であった。このような状態であれば、当時の中央官僚のほとんどが梁糞と何らかの関係を持っていた

 私、きのこるは考える。梁冀派の中心であったろう袁成に対し、反梁冀派であった袁肝。一つの籠に盛らないとは投資上の黄金原則であるが、こんなところに袁家の名声の理由が見出せるだろう。ただそうすると後の宦官一辺倒の説明がつかないな…というより別に宦官一辺倒でもなかったのか?袁滂・袁逢・袁隗は?袁紹が反宦官派の急先鋒となったところなんか、こういうところから説明がつきそうだ。そして袁術が既成権力ととことん妥協的なのも董卓、リカク、朝廷と徹底的な対立をしない。袁術が対決したのって曹操袁紹劉備くらいではなかろうか?劉備を目の敵にしたのは身分が低いからかな?自分の門閥、グループに属さないものだからか

 

「屡しば補嗣の益有り」といわれる点に注目したい。「補闘の益」とは、彼の生い立ちのところで見たように、胡広が経学ばかりではなくあらゆる典章制度に通じていたことを指す。その結果、彼は「万事理めざれば、伯始に問え。天下の中庸に胡公有り」と諺に称されるほど、朝廷で重きをなすようになる。すなわち胡広は、自らの幅広い学、聞を武器として、混迷する政界にあって政治向きのあらゆる問題を適切に処理する実務派官僚だったのであり、左右に大きく揺れる官界の輿論を「中庸」にまとめることこそが、三公としての彼の最大の役割だったと考えられる

 私、きのこるは考える。中庸というスタンス、かえってどちらにも属さない。学者という中間勢力が一定のバランサーであったことを意味する。だったら袁家も、中庸を装いいつの間にか学者&名望家→門生・故吏ネットワークを持つ一大勢力にいたったと考えるほうが自然なのかしら

 

後漢紀』巻二三霊帝紀に「此の時の公輔者、或いは私恩を樹てて子孫の計を為し、其の後累世、公卿に致る。而るに広の子孫は二千石を過ぐる者無し」とある記事である。ここには、胡広が「私恩」にすがらなかった姿が描かれている。もっとも胡広の子孫が大官に昇進しなかったのは、彼の子孫の多くが夭折したことに一因がある。しかしここで注目したいのは、公卿の多くが「私恩」によって子孫の栄達を図ったと記されることである。この構造は、いわゆる清流派・党人に対して浴びせられる批判に通ずるものがある。すなわち胡広は多くの故吏を持ったが、彼らの「私恩」を通じて自らの子孫の栄達まで図ろうとはしなかった。胡広は最後まで、官僚として公人の立場を貫いた

 私、きのこるは考える。最後まで貫いた―コレなんて蒼天?なんて思ったのは己だけだろうか?これによってあるいは、故吏を引き立てた袁家・引き立てなかった胡広なんて比較分析が可能かもしれない。果たして、その違いはいったい何に基づくものなのか?袁家には家名・血縁を絶え間なく広げてネットワークを形成しなくてはいけない環境・理由でもあったのだろうか?                                  <了>