てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

ヨーロッパ覇権以前:もうひとつの世界システム(上) ジャネット・L.アブー=ルゴド著

 

ブログ引越し&見直しの再掲です。元は10/09に書いたものです

ヨーロッパ覇権以前〈上〉―もうひとつの世界システム

ヨーロッパ覇権以前〈上〉―もうひとつの世界システム

 

 上巻から、原著が1989なのに、翻訳が2001。どうりで内容になんか古さを感じるわけだ。ちなみにリオリエント↓の作者と討論して彼を論争の天才として、あんたにゃあかなわねぇよ。みたいな感じで結論の違いでちょっと対立している。己的には彼の方が正しいと感じる。あ、ちなみに上の作者は女性です。

リオリエント 〔アジア時代のグローバル・エコノミー〕

リオリエント 〔アジア時代のグローバル・エコノミー〕

 

  の本のほうが面白い。このヒトは強引に中国・日本のような資本主義システムの方が強みがあるといった現代資本主義の基礎を無視したような説明をしているが、そこに至るまでの過程がかなり斬新で、18世紀に至るまで中国・インドの生産力が圧倒的であったことを説く。本格的な産業革命まで欧州は世界を支配したことなどない。欧州が世界において一貫して優位を占めていたというは幻想だと論じていますね。800Pくらいあるけどかなり読み応えがある。たるい部分も多いけどね。


 単に思いつきで書いてるんじゃなくて、このあとの小室直樹シリーズの感想書くときの資本主義に触れるときに必要だから。および中国やインドの経済発展は「何故市場経済の法則をある種無視しているのに発展しているのか!?」という疑問に答える際にこれに触れておいたほうがいいと思ったからで。現状の経済学だとインドや中国の経済発展の理由をうまく説明できてないでしょう。ま、現在の経済学なんて知らんけど。一応書いてみようかなと思ったわけですよ。論文なんて精度に程遠いけれどもね。

 あと、覇権について論じたいのかな?すべての主張を点検していくとなるほど、なるほどという点が少なくないのに、最後の結論がよくわからん。何を言ってるか分かりません。おそらく将来の覇権、世界運営像、多極的なシステムを求めたいのだろうが…。当時冷戦後だから、そういう時代のこれからの国際政治の構造、世界システムを論じたみたいですが、最後がわからないってどういうことなの…。

 で、世界システムの話です。欧州がいきなり世界システムを作ったんじゃない。既に世界システム―世界的な交易の大枠はエジプトだとか、イラクだとか、インド、中、東南アジアいたるところで交易の組織の発展が見られて世界的なものに発展していた。ウォーラスティンが言うような、欧州が一から作ったのではなく、その他の国々がその世界的な交易システムから退出しただけなんだ―という話です。そしてマックスウェーバーとも、マルクスとも資本主義発展の原点は違うと考える。

 翻訳がまずいのかな?うーん。なんか文章の書き方がおかしい。変な修飾、説明が多くて読みにくい。そんなにきっちり訳さなくても重要なところを抜き出せばいいのに、あれ?メモっといたと思ったら忘れたかな?。ものすごい読みづらくて、殆ど無駄な言葉が挿入されている文章があって、あまりにも悪文だから書こうと思ったのにどっか言っちゃった。ま、とにかくすんなり読めるところをややこしく書いてあって、正直イラッとします。
 あ、ありました。p92「交易には地理的要因が死活的に左右する。シャンパーニュの衰退は世界システムが大きく成長し、増大する需要に仏中・東部の定期市ではその需要を満たすことが出来なかったことによる。」―なにこれ?どういう意味?日本語として、文章としておかしいでしょ?
 添削するなら、「地理的要因によって、交易は死活的に左右される(交易の運命が決まるの方がすっきりしていい)。世界システムが大きく成長し、需要が増大した結果、仏中・東部の定期市ではその需要を満たすことができなくなった。よってシャンパーニュは衰退した。」
 こんなところですかね?もっと色々ありますけど、とにかくこの書き方がまずいということだけ分かっていただければそれでいいです。一事が万事、論理構成を追う時に詰まる。機械的に翻訳した成果、学者にある頭がいい故、適当に勢いを重視して書いた結果か?あるいは文章が下手なのか?その両方か?己には知る余地もありませんが。

では中身へ~
 支配者たちに途方もない繁栄をもたらした一三世紀の「世界経済」を探索し、それがいかに達成されたかを検証するのが本書のテーマ。
 世界システムは静止しているのではなく、常に進展し変化している。
 本書の重点は、起源を確定することではなく、むしろ歴史上の転換期を検証することにおかれている。時代についていえば一二五〇年から一三五〇年の一世紀が世界史の支点、あるいは危機的な「転回点」であったとする立場であり、地域についていえば、東地中海とインド洋を結ぶ中東の心臓部東西のバランスを保つ地理上の支点であったとする立場をとる。本書の命題は、このシステムを東方にではなく、西方にとって有利に改変する歴史的必然性は、本来なかったということである。あるいは東方の文化を近代世界システムの元祖とすることを妨げる歴史的必然性も、本来なかった。
 マムルーク朝下のエジプトでも奴隷制が大きな役割を担っていた。それでも独立した商人たちのギルドが強い力を持っていた 。どの文化圏でも同じシステムがあり、西洋に独立自由な商業が成立していて、アジアは専制的だとみなすのは間違っている。西欧でも強制的に借用され、寄付金を強要された。欧州の都市国家に市民による政府があっても、シャンパーニュの大市では都市監督者である伯が市を強力に管理し、フランドルの織物都市やイタリアの都市国家では、大土地所有者や資本家からなる少数の独裁的な貴族たちが、自らの利益を合わせて国政を運営した。それ以降の欧州の覇権を説明するのは社会内部の独創性やユニークな冒険精神の向こう側にある。

 重要なのはモンゴルによる世界帝国の成立とその崩壊。ま、言うまでもない。重要なのは黒死病。世界的なダメージを与えて世界の交易構造を大幅に組み替えた。ちなみに一応十三世紀末までに北大西洋航路を開拓したのはイタリア都市国家ガレー船であった。
 十三世紀以前に存在していたシステムが、十六世紀に欧州主導のものへ移行した。十三~十六世紀を移行の時代と見る。十三から十六世紀の欧州を比較することでいかに劇的に中央舞台へと移行したかを見る(むしろ十八世紀の産業革命を待つまで経済的には全く大したことなかったと己は見るが…)。
 
三つの大きなシステム東アジア、中東、ヨーロッパと八つのサブシステムがある(十三世紀の時点で、西欧を一つの単位として扱うのに?と思わざるをえない)欧州のものだけ拡大して、その他はすべて衰退、解体していった。
 ここまで序章の抜書き。なんかもうめんどくさいから、メモのっけるだけで。拙メモで論旨を追いにくいとは思いますが、気になったところの抜き出しなんで。へぇ、とかほう、とか思ったら各自自分でチェックしてください。

第1部 ヨーロッパ・サブシステム 古き帝国からの出現
 p54、第一回十字軍で陸路を通ったのは北欧州と地中海勢力が分裂していたためであった。しかしそれ以後はイタリアの船が軍隊を運び、両地域が再び統合されたことを意味する象徴的な出来事だった。
 p56、十字軍により、南北ヨーロッパで同盟が形成された。敗北で何の結果がなかったとしても、十字軍によってローマ帝国崩壊以後断絶された世界システムに再び入ることになった。十字軍は北欧を世界システムに加入させるメカニズムを持っていた

 二章シャンパーニュ大市の諸都市(p61~
 定期市は曜日順で商人が追って移動していく。遠距離交易の条件は「安全性」―隊商による護衛(ほぼ兵士)と為替や支払いが滞ったときに、強制的に執行させる機関である。
 p68ラニィ、プロヴァン、トロワ、バール・シュール・オーブの四つ=シャンパーニュ地方が北欧の生産と交易の中心として大きな役割を果たした。安全な交易の保障と経済システムの執行者に伯が利益を得てあたった。仏国王、教皇とも戦った。フランドルとイタリアの中間にある位置が発展の基礎だった。しかし、一二八五年仏王の支配下に置かれることによって大市の特権を失う。一二〇九年仏王はシャンパーニュ伯に対し、王領内通行の保障条約を結んでいる。安全が保障できないときには時間を確保するために三ヶ月前には通告することになっていた。また「大市監視人」という市場の秩序を維持する役人がいた。このような補償*1が定期市の独占状態を生んだ。
 仏王がこれを独占しようというのは自然の帰結。そしてフランドル商人が締め出されたこと、大西洋ルートの確立で伊商人が直接海路から交易するようになったことがシャンパーニュ衰退の理由。最終的にリヨンに中心が移る。
 p75、布なら布で市では決まった時間にならないと売買できない。遠距離交易都市が損をしないため、いっせいに売買が開始される時間が決まっている。
 p79、一二七〇年でもティボー五世は自らのことをシャンパーニュとブリの「王」と称していた。毛織物と銀行業を同時にこなす。農奴から解放され、都市民となり、人頭税から解放されて、都市に税金を納める。こうして彼らは都市に属する階級を構成してプロレタリア化していった。
 p78、一二二三年ティボー四世はギルドに対する独占権を認めて、プロヴァン以外での布地生産を禁じている。都市=経済と伯=政治のつながり。
 p81、シャンパーニュ伯アンリは中東に積極的で、エルサレム女王と結婚してエルサレム王にまでなっている。ラニィ、バール・シュール・オーブなどは余り、市の反転による変化をしなかった。大市での布地生産は、都市があるから、交易するから発展した。布地を作るから都市が出来たのではない。周辺から材料がこないと作れない。
  p83、一三五〇年シャンパーニュが衰退したのは、伊商人が出て行ったから。信用・簿記・銀行は彼らがもたらしたもの。複雑な取引が不可能となったため。
 p89、一二九七年ジェノバブリュージュへの海上ルートを開拓。ヴェネツィアがドイツへのアルプス越えの道を発達させ、さらにシャンパーニュの重要度は落ちる。
 p90、R・ドルーヴァー説―書簡取引の増大に、伊人がよりフランドルに住むようになった。
 p91、R・ボティエ説―伊の工業化と貴金属史上の革命化説。一因でしかない。シャンパーニュ衰退を全て説明しきることは出来ない。
  p93、欧の成功が正当な理由によるものではないように、シャンパーニュが間違えたわけでも、ブリュージュが正しい手を打ったわけでもない。都市が発展していても、まだ完全に政治的権力から独立して自由であったわけではない。この資本主義を自由放任主義とはいえない。西洋の史家が言うように交通ルートは安全ではなかったし、中東の商人がマムルーク=封建諸侯に支配されていたわけでもない。むしろ相違点より類似点の方が多いのである。

第三章ブリュージュとヘント―フランドルの商工業都市
 ヴァイキングの進入が終わって、人口流出が止まり増大に向かい、海上・陸上ともに安全なルートが開かれ本格的に都市が発展する。シャンパーニュのような政治的要件で発達したのではなく、工業化・都市化→商業の発達というステップを踏んだ。まずヘントついでアントワープがその中心となる(港が泥で埋まる?)。R・ヘプケが「世界の市場」と呼んだブリュージュイングランドとドイツを結ぶ地にある。織物産業がきっかけ、発展するたびに城壁を広げて囲い込んでいった。そして労働者を上層階級から区別するために、問題を起さないように城壁の外に追い出した(?城郭の外?城壁の外?労働者は保護対象外?)。
 二、p101、人口密度が高かった。11世紀に本格的な技術革命。生産性三~五倍。ジェノヴァが毛織物をレバントへ輸出。ようやく金や銀の赤字を相殺できるようになった。ヘントは工業の町で、ブリュージュのような商業・金融の中心は溝が深くなり対立する。
 p104仏・英の争いが大枠で十三世紀末にはシャンパーニュ=ブリ伯領を併合したばかりの仏王とフランドル伯との間で争いが起きたために、イタリア商人はシャンパーニュフランドルの布地を購入するのが困難になった。よってガレー船で直接航路を開いた。伊商人によって国際港となったが、彼らに支配されることに。汚泥で埋まるため、絶えず新しい港が必要になる。
 三、p108、フランドル諸都市の労働者は英と結びついて貴族に立ち向かう。ヤーコプ・アン・ファルデヘルテの時代に貴族をしのぐような社会勢力となるが、イングランドに織物業のお株を奪われると、労働争議も変容していった。イングランドからの羊毛に依存していたため、フランドルイングランドと特別な関係にならざるを得なかった。そしてイングランドで織物が作られるようになると、ブリュージュは本格的に国際商業仲介地として転換していく。
  p115、ブリュージュにはさまざまな民族が同郷集団を形成して、商館を設け、ネットワークを形成していた。
  p125、多国籍企業イタリア商人によって、製品のマーケットに対する支配力を失い。産業資本主義は抹殺された。日干しにされた?


第四章ジェノヴァヴェネツィアの海洋商人たち
 p128、ジェノヴァには、早くも紀元前五世紀に人びとが住み始め、第二次ポエニ戦争カルタゴ人たちにほとんど破壊され、紀元四世紀にこの町を新しい壁で取り囲んだローマ人たちによって再建されたが、その後、東ゴート人、ランゴバルド人の手に落ち、ランゴバルド人は、五八八年にビザンツ帝国に再征服されるまでこの町を占領した。ジェノヴァは、六世紀から八世紀の間、コンスタンティノープルの名目的な支配下にあったが、住民が自給自足で生活しているだけの、ありふれた漁業と農業の町にすぎなかった。
 十字軍は、実際には、一〇世紀に始まったと言える。というのは、そのときまでにすでに、ジェノヴァは地中海西部のムスリム諸国家と戦争中だったから。九二四年から九二五年にかけて、ファーティマ朝*2の艦隊がジェノヴァを襲撃し、略奪を行った。ジェノヴァ人が、ビサ人の援助を受けて反撃し始めたのは、ずっと後になってからである。彼らは、一〇六一年にサルディニア島コルシカ島ムスリムに対して、また、その後には北アフリカにあるファーティマ朝の旧首都マフディーヤに対して、遠征軍を派遣した。この軍隊は、一〇八七年、マフディーヤを短期間占領し、貢納を要求すると同時に、初めて、そしてこれが最後というわけではないが、ムスリム君主から「通行税の免除」という交易上の譲歩を引き出したのである。一一世紀の終わりまでに、ジェノヴァ人は東ローマ(ビザンツ帝国)から事実上の独立を獲得しており、コンパーニャという自治組織、すなわち、三年の任期で選ばれた六人(後に一〇人となる)のコンスルの権威のもとに置かれる市民団体制度を確立していた。ムスリムと互角に戦える海軍力が後の十字軍の要請にこたえることにつながっていくのである
 p131、一〇八〇年ヴェネツィアはノルマン人のアドリア海封鎖を破る。海路開放の手助けをする。その報償として一〇八二年ビザンツ皇帝から金印勅許の免状を得る。交易特権と通行税免除である。
  p138、戦況が悪くなるにつれて出される異教交易禁止令。これによってコンスタン帝ノープル、ロードス、クレタ、キプロスなどのキリスト教商人の地位が高められる。イタリア人とギリシア人の競争。一一八二年「イタリア人の大虐殺」で、居住区に火がつけられる。すなわちラテン帝国の成立とはジェノヴァヴェネツィア・ギリシア勢力の争いの果てに帰結した事件。ヴェネツィアは帝国の八分の三と香辛料貿易を行なうクレタ島を手に入れた。
 三、p145、インフラ整備と防衛費は税ではなく、公債。国家運営とは両国にとって投資であった。どんな貧しい民でも投資できるシステム。期待が出来る社会こそ最も魅力的な社会である
 四、p160、ジェノヴァはカイロ・ブリュージュ同様絶頂期にあった。モンゴル以後、全てのネットワークが一つに繋がる流れであったが、そうはならなかった。十四世紀中ごろに停止したのではない。ヴェネツィアが十四世紀後半、十五世紀に東方との交易を拡大したように。いくつかの狭い行路へ単純化していった。ヴェネツィア=カイロだけが、全体が収縮する中で拡大していた。
 五、p161ヴェネツィアの人口は一二〇〇年、八万。一三〇〇年には倍の十六万。一三三八年に頂点で、ペストまでは維持されたろう。ジェノヴァ十四世紀初頭十万人更に、郊外にも膨張していた。一三四七年世界的交易を行なっていた両都市はペストでやられる。モンゴルの病源菌がクリミア半島から持ち込まれた。人口の消失、停滞によってその後港の拡張工事は100年以上止まる。すなわち港湾、交易国家が全く成長をしなくなったことを意味する
 重要なのはなぜヴェネツィアがその危機を乗り切り、ジェノヴァがそうではなかったのかということ。社会主義福祉国家的だったヴェネツィアが国家の補償があったのに対し、個人主義的なジェノヴァはそうでなかったということが言われる。地中海の西がジェノヴァヴェネツィアは東。ジェノヴァの勢力範囲はコンスから、黒海中央アジアへの内陸路(というよりモンゴルへの内陸と北海への海岸ルートを押さえているなら、独・仏からの大陸へのルートをも視野に入れている内陸&シルクロードルートとインド洋ルートの違いといえる。そしてその次に新大陸か、旧大陸かという分裂圏の話になる)。ポルトガルやスペインが大西洋へ向けて海洋ルートに挑戦しだして、ティムールにより、モンゴルルートも絶たれる。
 六、p168、二つの都市国家の教訓は―自分たちの支配が及ばない地域事情の変化は、どうすることも出来ないということ。ヴェネツィアマムルーク朝に航海ルートを握られてどうすることも出来なくなった。中東商人の仲介を排して直接アクセスするには海上の二十倍の費用が必要だっただけでなく、到底現実的に不可能だった。陸上ルートは海上の二十倍では衰退するしかない両都市が合併して新しい国家を作ろう、次世代に備えようという動きを見せなかったのはなぜなのか

第2部 中東心臓部 東洋への三つのルート
 p173、オリエントヘの三つのルート、①コンスタンティノープルから中央アジアの陸地を横切る北方ルート、②地中海とインド洋をバグダード、バスラ、ペルシア湾を経由して結びつける中央ルート、そして③アレクサンドリアーカイロー紅海とアラビア海そしてインド洋とを結びつける南方のルートである。
 p182、ティムールは中央アジアを統一した。そして陸路を破壊した。これはつまり西方との交通ルートをアクセス遮断することで、中央アジアに割拠する必要性があったのではなかろうか。というか世界規模の交易圏は無理。彼の構想の中では中国があればよし。小世界が(十分広大だが)、最適とみた。その範囲が最適生存権と判断したのではないか
  p184、五世紀ペルシアからのササン朝により、湾岸=インド洋の連結はなくなり、海洋ルートは崩壊した(つまり六世紀はその復活だろう)*3
 p186、モンゴルと十字軍によってエジプト、マムルーク朝は城砦国家へと変質した。それによりシリアまで確保したが、経済発展や商業上マイナスとなる(興国=軍事国家で、のちに文人、商人国家へと変容していく定型的パターンが見出せる)。

第五章モンゴルと北方の道
 p200、漢代の中国人は綿が水羊の毛を梳いて作られると考えていた*4
 p218、ヒマラヤからモンゴルの馬に乗ってペスト菌馬に始まり、馬に消えにし、わが身かな。難波のことも、夢のまた夢。って感じでしょうか?今で言ったら、コンピューターによって世界が発達したのに、ウィルス一つで世界が破滅的危機に陥ったようなものでしょうからね。
 p226、長春真人の『西遊記』によれば、ムスリムの住民の土地売却は妨げられ、カラキタイや中国人の監督下にあった。さらに、中国人労働者があちこち暮らしていたことが分かる。つまり、中国本土だけではなく、支配者たるモンゴルは、人民を移して管理下において、支配していたことがわかる
  p228、ティムールは内陸ルートの横断的統一には成功したが、ニ、三の通路を通る狭い物にしてしまった。

第六章シンドバードの道―バグダードペルシア湾
 p232、教皇の異教交易禁止令があるため、1291アッコン陥落により、小アルメニアと地中海の島々に交易拠点を移すようになる。つまりジェノヴァヴェネツィアはイル・ハンであろうとマムルークであろうとインド・中国にアクセスするにはイスラム圏と通商しなくてはならなかった。ガザンの改宗でイスラム挟み撃ちという甘い幻想は潰えた。交易ルートという点で深刻な影響をもたらした。バグダード・バスラを回避してペルシア湾=ホラズムを中心とするルートをイル・ハンは設定し、対してキリスト圏は内陸ルートと紅海ルートに活路を見出すという図式になる。
 p235、ちなみにイル・ハンは欧商人の横断を拒否しない。対してエジプト人はイタリア商人の領土横断を許さず、香辛料については特権的なカーリミー商人と取引せざるを得なかった。エジプトのスルタンは外国との貿易を徐々に独占するようになった。よって自由な通商ルートはペルシア湾のみとなった。
 p238、紅海は岩が多いので日中しか航海できない。さらに外洋に出なくてはならないが、ペルシア湾ルートなら陸伝いにそのままいけるという利点がある。
 八~九世紀のバグダードの黄金時代とは異なって、ホラムズを中心とする首都タブリーズが根拠となる。バグダードはブワイフ以来長年にわたる戦乱と災害から復興することはなかった。バグダードは地方州に格下げされ、高税を絞り取られた。バグダードは地域の商業センターに止まっていたものの、遠距離交易はバグダードを迂回したために経済的衰退は明白であった。モンゴルのバクダード征服後、五十年の内にシリアやエジプトとバグダードとの定期的な交易は切断され、十四世紀初頭にようやく復活するとアシュトールは述べる。深刻なのはインドとの交易ルートが切断されたこと。モンゴル征服以前は香辛料などインド産品はバグダードやアンティオキアを経由して地中海沿岸に運ばれていた。カイロのスルタンはアンティオキアを征服した。このカイロ・タブリーズ闘争が交易ルート変化の大きな理由のもう一つ。ここだけでなく、地中海の出口であるアレッポとアンティオキアを迂回した。バグダードの荒廃はカイロへの人口流出と繋がり、ナーシル・ムハンマド時代のカイロの建築物にイラン・イラク的影響が見られることに影響している。バグダードの衰退はインド洋との仲介交易都市であるバスラの衰退。ホラズムに集約されていった(ここまでp247)。
 p250、ペルシア湾の優位性によって、アラブ人よりペルシア人が航海に先んずる。758カントンでのアラブ人、ペルシア人共同で襲撃したのは、750アッバース朝建国、バグダードとリンクする(ティムールのホラズムはより東へシフトしたことだと分かる。)。
 アッコン陥落に代表されるような地中海都市の喪失は次第にペルシア湾ルートの商業が絶たれることを意味していた。イラクとペルシアが結びついたとき農業革命のような繁栄が起こる。二つの地域が統合された場合には文明・商業の発展が期待できる。統合することだけが選択肢でないのは、その後のモンゴルが示している(というより、最早イラクの土壌が農業にふさわしくなく、発展は不可能だったのではないか?)。しかしもっと重要なのは九~十世紀のような繁栄には中国の発展と時期が重なっていたことである。インド・中国の経済状態が交易に直接影響する。十二世紀に西洋が参加して、世界システムにはずみがつき、十四~十五世紀の貿易の減少に当たって、世界システムは衰退した。モンゴルとエジプトは少なくなったパイを奪い合うことになる。そしてその勝者はエジプトだった。

 

 

〈考察〉

 都市の発展・ローマ帝国の分裂・商業の発展をもたらしたノルマン人の動向を軽視しすぎ。あ、この本じゃなくて、世の中的な話でね。ジェノヴァヴェネツィアが切り開いた十字軍に代表される通商ルートは地中海と中東をローマ時代以来再び結びつけることになる。欧州と中東といった観念はあまり正確ではない。このように捉えると世界史の近代以前の正確な姿は三日月戦争であることが分からなくなる(エジプトに入植都市による多様性がないのはエジプトの土着性質、エジプト的一体性の強さゆえか?現にマムルークやファーティマなど王朝ごとに生まれている。しかしその実態は多様な入植者に支えられていたか?)*5
 ヴェネツィアは航海に乗り出してメジャーパワーになるまで何百年もかかっている。その要素は?ジェノヴァヴェネツィアコンスタンティノープルの関係性の方がローマを見るのに適していると思われる。西東という観念より都市ローマ、交易ローマと領域制国家から分裂していったと考えたほうが正しいかもしれない。いずれにせよイタリア都市国家とコンスの邂逅は旧ローマ時代の地域圏・地中海の再来を意味するだろう。黒死病に連なるパックス・モンゴリカの崩壊と供にマムルークの台頭と北大西洋ルートの開拓。これがイタリアを衰えさせていく。金融・商業技術においてはイタリアに一日の長があったはず。対仏戦争などにより商人たちは蘭に流れたのか?
 イタリアを考えるに、ローマという政治単位がふさわしくなくなり、交易=自活を図る上で、もっと小さい政治単位が好ましくなった。ビザンツ(中世・東ローマ)は領土や内陸ルートに絞ったものとみていい。しかも地中海からシリア・エジプトまでのアクセスも確保できる。ジェノヴァヴェネツィアが地中海東西で交易が分かれたように、イタリアローマは西欧を相手に細々やるしかなくなった。そのため小都市国家が望ましい形。しかし欧州が成熟し、もっと大きい単位が好ましくなっていく時代になぜ統合が図られなかったのだろう。やはり世界に多様に展開しすぎて統合するにふさわしい核となる思想がなかったゆえか。*6
 思いつき・テーゼ、商業はネットワークを重視するが共同体を破壊する。つまり大きな規模を持つことに否定的に動く。イタリア都市国家の成功もその規模が最適であるゆえ。つまり英・独・仏といった大きすぎる規模では上手くいかないもの。それが国民国家へと発展していく上で、修行規模を拡大させてもよい、むしろ拡大しないと上手くいかないという形に変化していった。少数のエリート、組員だけでないと上手くいかないものが、そういう性質がなくなったということではなかろうか?
 イル・ハンのホラズムといい、ティムールのタブリーズといい、明らかに東にシフトしている。西との交易を望んでいない。世界帝国の始まり、モンゴルの時代のあとの課題はいかにグローバリズムから脱却するかであり、明朝の鎖国、つか海禁もその延長上にある。穀物輸出禁止の要領で、国内の富、格差配分をうまくやるという意味合いが大きいのだろう。史上初めて自由貿易の弊害による調整の時代になったと見た方がすっきりする。だからこそ、管理がしにくい西とのルートを遮断した。徹底的に破壊したのはそういう意味合いと見たい。*7

*1:保障のご変換だと思うけど、ひょっとしたら本当に万一の時には補償していたのか?

*2:北アフリカムスリム王朝、九〇九― 一一七一年

*3:ティムールにせよ、サーサーンにせよ、海洋ルートを遮断して陸路による自分たちの強みを最大限に活かすという傾向がありそうな気がする。無論自分たちでも海を利用した交易はするだろうけど、ティムールの陸路の破壊など、世界システムと繋がるとその分グローバル化によるマイナスが大きいから、反グローバル化なんだろう、きっと。世界的な傾向なんじゃないかな、明もそんな感じだし

*4:あ、中国には綿がなかったのか。晩唐・北宋頃の話なのか

*5:おそらくウェーバーがいう官僚制の性質がエジプトには強いから一体性が保たれたんでしょうね

*6:上でもそんな疑問を書いたが、政治利権というより支配者層というのはたいてい硬直するもの。大胆な合併に動くような事ができない。政治共同体同士が手を組んで一つの組織として再出発するのが難しいのは当然の話ですね。どういうやり取り・模索があって、どう失敗したかというのは知りたいテーマに変わりないですけどね。

*7:しかし相変わらず誤変換が多いな…。修正しました。後読みにくいところを適宜修正