てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

後半―諸葛孔明と卑弥呼 著田中重弘

続きです。

諸葛孔明と卑弥呼―『三国志』が解く古代史の謎/光風社出版

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【三章】

p113案批、戸籍に人相・面貌を書いて記録すること。

p116「文帝紀」に「典論」はわずかたりともでてこない。当代の文人の記録が残されなかったのはなぜか?陳寿には記せない理由があった。

 「三国志」にはこうあるだけである。「建安年間、袁紹次男の袁熙のために甄氏を嫁に迎え入れた。袁熙が幽州刺史となって地方に出ると、甄氏は残って姑の世話をした。冀州が、曹操の下で征定されると文帝はその地の都鄴において甄氏を迎え入れて寵愛し、明帝と東郷公守をもうけた。延康元年(二二〇)正月、文帝は(漢の)王位につき、六月に南方征伐に向ったが、甄后は鄴に残って留守をつとめた。黄初元年(二二〇年)十月、文帝は(漢より禅譲を受けて)帝位についた。文帝が帝位に登った後、山陽公(漢の献帝)が(自分の)二人の娘を魏王朝の側室として送り出し、その郭、李、陰の三人が后として、また貴人としてそろって寵愛を受けたため、甄后はひどく失意に陥って怨みごとをいった。文帝は大変立腹して、黄初二年(二二一年)六月、使者を遣して自殺させ都に埋葬した。」(魏書第五)

 文帝が死んで甄氏の子明帝が即位すると、担当の官吏が上奏して死号を追贈し霊廟を建立するよう要請した。(官吏らが示す)地面を掘り出すと玉璽が出てきた。「天子羨思慈親」(天子は慈悲深い母親を慕う)とあった。そこで明帝は母方の親族をそれぞれの身分や血縁関係にふさわしい処遇を与え、莫大な下賜品を授けたという。

 余りに美しいが故に自分の意志とは関係なく人生が決まって行く薄幸の女性というのは小説やドラマによくあるタイプである。美貌の甄氏もそうしたよくあるタイプの一人と考えたくなるが、よく考えるとこの話はどこかおかしい。すでにお気づきかと思う。初婚の夫が遠方とはいえ同じ中国で生きているのに無理強いですんなり他の男のものとなる女性、それを知っていながらそのままにしておく夫、夫の任地に同行しない妻、これはおかしい

 しかも甄氏の義母である劉氏は先に夫の五人の寵妾を皆殺しにしたというすごい女である。そのことを伝えるのが「典論」を著わした文帝である。「その文帝の父、武帝(曹操)は劉氏と甄氏が住んでいた鄴を平定すると、袁紹(劉氏の夫)の基に赴いて祭り、哭して涙を流し、袁紹の妻をいたわり、その下僕と宝物を返してやり、杵・綿の類を授け、かんから富士舞を与えた」(魏書第一)のである。

 袁紹曹操の若い時の友人であったという。その上、袁紹の祖父の祖父は漢の司徒であり、それから四代続いて三公(司徒・司馬・司空)の位にあったという名門の出である。「三国志」にも「そのため(一家は)天下の人々に大きな影響力を持っており、袁紹も堂々とした威厳のある風貌の持主であったが、身分にこだわらずよく士人に対して下手に出るので、大ぜいの人が彼のもとに身を寄せた」とある。したがって袁紹の妻はそのような人物にふさわしい家柄と育ちの女性であるはずである。そこで彼女の身元を割り出すものがないかと考えて「三国志」を読み直すと、彼女が漢の皇室の劉家に属するか、あるいは極めて近い家柄の出身らしいとわかる状況証拠がある。

 袁紹は大后の異母兄である大将軍何進と行動を共にしており、何大将軍の掾(正補佐)として公務を始めて司隷校尉にまで登っているのである。また宦官を皆殺しにした時も、それは極めて徹底しており、その数二千人余りの死者を出したという。老若を問わずに殺していったので中にはヒゲがないため間違って殺されたり、殺されそうになった者もいたという。ひどい場合には下着を脱いで正常な男であることを見せて助かった者もいた。

 この事件で袁紹が漢の皇帝のために働く者であることがわかる。しかもそれまで何度も計画の段階で秘密が漏れて逆に宦官たちに誅殺されるのが普通なのに、この場合は完全に計画が相手方(黄門侍郎や中常侍という宦官の高官たち)に知られてしまい、逆に彼らから謝ってきているのである。これは相手方の誅殺しにくい身分の者や地位の者が計画を立てていたからであるとしか考えれられない。結局、何進だけが宦官の計略によって殺害され、その報復に袁紹が軍を動かして、すでに述べたような惨劇を見ることとなった。

 ここで注意しなくてはならないことは何進は妹と母を異にして、外戚であっても漢の劉家とは関係のない血筋の人間だということである。むしろ殺されなかった袁紹の方が劉の血筋に近かったと考えてよい。この場合は袁紹の子が劉の血筋を濃く受け継いでいると考えた方が矛盾がない。

 このことを裏づけるのが、その後董卓袁紹を呼び寄せて、少帝を廃して陳留王を漢の皇帝に立てようと相談を持ちかけた時の袁紹の反応である。袁紹がそれに賛意を見せて「これは重大なことですからひとまず大傅と相談して返事をしたいというと、董卓は『劉氏の血統などあとに残すまでもない』といった、そこで袁紹は答えずに刀を横に抱いて会釈して去り、退出してすぐ真州に逃亡した」とある。これはいずれわが子三人が劉氏(妻)の血筋をひくので殺されてしまうと判断しての行動だと見たい。

 父系社会なのに?そんなこと言ったら、何人の人間を虐殺しないといけないのだ?かなり強引な推測だろう。袁家という名門ならば、皇族を娶っても何らおかしくもない。準皇族であるから、宦官に殺されなかった。何進だけ殺して、それで手打ちができると宦官側が考えた。なるほど、コレには一応の説得性はある。そのあと袁紹外戚=大将軍となれるから。この可能性はどこまで妥当なのだろうか?(まあ、もちろん劉氏皇族を嫁にもらっといてそれが史料に記されないことはありえないのだが)

 想像をたくましくすれば、袁紹と宦官は組んでいてあらかじめ何進暗殺についてある種の合意があった。次期大将軍のための取り決め、工作として宦官とも一定のパイプがあった。しかし袁紹はあくまで平和的なら大将軍にもなるが、何進を殺してまで、そしてその後宦官と妥協してまで、大将軍=外戚になる気はなかっただろう。その両者の思惑のズレが結果として、何進暗殺と宦官虐殺事件になったのかもしれない?

 

 史官の陳寿は単純に袁紹の失敗(息子たちが曹操に負けてしまう)の原因は、袁紹が嫡子をしりぞけて庶子を後継者に立てたところにあるという指摘(評)をしている。世間の通念に基づいて嫡子を世継ぎとしなかった故だとするのである。この場合の嫡子は長子を意味するのであるが、袁紹とその妻劉氏は美男子の末子袁尚を後継者として選んだというわけである。この理由づけは中国人には納得の行くものである。

 中国では美男子が世継ぎの選択基準のひとつだと考えるからである。どうしてなのか。その理由は男っぶりが良ければ、品行を整えなくとも中国を統一する王朝の祖となれた曹操の例を見ればよいのではなかろうか。もちろん権謀に長けていることも必要であるが、それは後々教育できる。しかし美しさだけはどうしようもない。生れつきだと中国の人たちは考えたのである。

 美貌だけなのか?むしろ年長者ではなく、年若い者を養育する・後見することで母である劉氏がより実力を保つことができるからなのでは

 

 袁紹が死ぬとその寵妾五人を劉氏が殺してしまったというのは解せない。劉氏が袁紹の息子たちとともに漢朝を継ぐつもりであったならば、妾の子といえども袁紹の子は多ければ多いほど良い。なぜなら、禅譲を受けると直ちに当時漢の王族たちが占めていた各地の王侯領を引き継ぐことができるからである。関係ない、取り潰して、また一族が増えたら、そのとき王国作るだけ。むしろ緩やかな改革になるので一定以上は余計。確実に妾とその背後の勢力が邪魔になるから、殺さなくてはならない状況があっただろう

 

 しかし劉氏は妾とその一族を自分の息子たち三人とで殺してしまったという。本当に殺したかどうかは別としてこの行為は単なる嫉妬からでないことは確かである。袁紹の死後、妻の劉氏が直に袁一族の実権を握った。そして美男子で自分の意のままに動く元服そこそこの最年少の息子袁尚を世継ぎの息子として選んだ。

 もちろん長子の袁譚は反逆した。一家は分裂したが、もうひとりの息子袁熙の反逆は未然に防ぐことができた。袁熙の若い妻、甄氏とその幼い子(多分二人)を人質にとってしまったのである。袁紹の妻が袁家の実権を握っていたことは彼女が袁紹の死後、その城を守り続け、しかもその城が陥落した時、彼女は皇室(城の中心にある四方に壁がない式典の間)に美女甄氏とともに座っていて自らを後手に縛らせていたことでもわかる

 曹操の息子整と袁譚の娘との結婚を考えついた。しかしこれは袁尚という年少の者を後継者とした袁紹の部下たちには計算外のことであった。

 彼らは幼い子だと自分たちの意見に従うと考えて最年少の者を選ぶことに同意したのである。部下たちの最大限の協力を得るにはそれしかないと袁紹の妻は考えたのであろう。また幼い者を後継者に選ぶと長期間安定した主従の関係が期待できるという古来からの知恵も生かされたのであろう。

 

 翌年の二〇三年十月には、操は自分の息子整と袁譚の娘との縁組を実現させた。喪が明けていない間のことであるから、実際にどのような形でこの縁組が実現されたのか疑問があるが、これについては記載は何もない。しかしその翌年袁譚の娘を袁譚の拠点である平原へ送り返し、それからしばらくたってから平原を攻めた。袁譚は恐怖の余り逃げ出して南皮に移った。袁譚を攻め、自分の息子整の嫁を送り返したのは先の劉氏と甄氏が曹操に下ってからのことである。袁紹の死後、その拠点であった鄴は翌年陥ちた。

 その時、曹操は劉氏を慰労し、特別扱いしている。この原因はどうやらその前年の出来事にありそうである。曹操はその年黄河を前にして袁紹とその長子袁譚の軍を破った。袁紹袁譚黄河を渡って逃げたが、曹操は彼らが残して行った輜重、図書、珍宝類を全部没収した。その中に袁紹宛の手紙類もあり、許昌(曹操の城であると同時に漢の献帝の仮の都)の城下(すなわち漢室)からと皇軍の将からの書簡も入っていた。しかし奇妙なことに「それらをすべて焚いた」と「三国志武帝記は伝える。

 結局、曹操はその手紙類を焚いてしまったことを理由に、すべての関係者を許し自分の味方につけてしまったのである。そうして袁紹の妻が美男子の末子を後継者に選んだのも知ったのである。袁紹こそは漢の最後の皇帝、献帝が自らの期待をかけた漢朝の星であった。その希望の星には漢の献帝やその他の武将から多くの情報と期待が寄せられていたのである。袁紹父子は常にそれを持って戦っていた。

 疑問だなぁ…。そうだったら、絶対もっと多くの学者が明確に指摘しているような気がするけど。すなわち袁政権は既存の漢王朝構造をそのまま引き継いだものなのか?戦う敵と初めからつながっていて、なあなあに、ズブズブになっているのならば、戦で勝てるはずがない。戦で個人の能力を発揮し、出世する余地がないのだから、モチベーションがあがらない

 

 袁紹と長子の袁譚が皇帝らの書簡を携行して行軍していたのである。この時、輜重(軍隊に必要な糧食、衣服、武器等)の他に図書と珍宝を曹操が奪ったと「三国志」は伝える。袁紹の妻劉氏と末子の袁尚は鄴に居りながら、袁氏の財宝の管理は任されていなかったのである。翌年曹操が鄴を攻め陥とした時、劉氏と甄氏は袁氏代々の家宝の類を持っていなかった。このことは曹操は劉氏を慰労したことでわかる。「袁紹という男はひどい奴ですね、妻のあなたに財産のひとつも与えずに逃げまわっていたのですね」とかいったのであろう。劉氏が持っていた宝物は嫁ぐ時に自らが持参したものだけであった。

 ひどい、ひどくないという以前に袁家と劉家が明らかに別物であったことを意味するのだろう。遊牧民の男が戦争に家を空けている間は、母がその主役となるために母の権威が強い=母の家の力が強い。それと似たような構造をとっていた。確か劉虞が母の家を軽く扱うことができなかったために、家の内部では娘や妻たちに豪華な暮らしをさせていたはず。当時の社会状況はそれが普通だったのだろう。父系社会の、外婚制。つまり妻は一生夫の家に入れない他人。

 おそらく呉も似たような構造なのではないか?母の影響力が強いし。あるいは単に形の上で母を敬うことが残っただけなのだろうか?こういう流れを考えると明確な母の家が出てこないのは蜀だけであり、孫家の娘を娶った意味合いが明確になる。劉備が家を空けている間は孫家が主人になることだからだ。事実上の臣従とみていいだろう。それが呉に帰ったということは杯を返上する。しかもかなり、喧嘩を売る形で返すことになるのだから。荊州情勢は一触即発。バルカンならぬ、長江の火薬庫状態だった。

 孫呉が魏でなく、荊州に攻めたのは長江沿いに国を作るという戦略だけではなく、呉の国内基盤が孫家単独を支援する、支配者として認めるという強力な図式が成立していなかったからだろう。だからその権威をつける上でも、なめられっぱなしで引っ込むわけにはいかなかった。そういう面子の問題が、これまた考えられるだろう。

 

 曹操袁紹宛の諸武将の書簡を焚くと、冀州の諸都では城邑を挙げて降伏する者が続出した。お前達の手紙は見なかったことにすると伝えさせたのである。その効果は見事なものであった。続々と地方の主だった者たちが下ってきた。劉氏は夫、袁紹とその長子袁譚のやり方に反対していたので末子の袁尚とともに鄴を守ろうとした。袁紹が失った書簡の中には長子を後継者に選んでそれを伝えたのに対する承認の書簡が入っていたと思われる。特に許昌の漢の献帝のそれは貴重なものであったろう。曹操はそれを焚いた。その為、歴史上は(正史「三国志」の伝えるところでは)袁紹のこの相続問題は袁紹の死の直前まで、「公表していなかった」ことになっているのである。

 魏の文帝の著書である「典論」が伝える劉氏の袁紹の寵妾五人の殺害は事実であろう。袁紹の妾五人とその子らが相続権を主張すると袁紹の領地は完全に混乱状態に陥るからである。袁紹に幼い子があり、その赤子を特にかわいがったという話が正史「三国志」に載せられている。曹操劉備を討うと向ったところを田豊後から討てという進言をし、袁紹は息子の病気を理由に拒絶し進軍を許可しなかったエピソードが知られている。

 袁紹には末子と伝えられている衰尚の下にも何人かの子どもがあった。しかもそのうち一人は生まれたばかりの幼い男の子であったことも田豊の嘆きでわかる。劉氏は夫の死後の混乱が更に拡大するのを恐れて五人の妾を殺したのであろう。嫉妬心からだけではない。五人の妾を殺したのは曹操の命令であったと考えた方がよいかもしれない。劉氏は自分の手では殺す命令を出せなかったとしても曹操という征服者の命令ならば反対はできなかったであろう。曹操としても袁紹の子どもやその女方の規族が介入してくる危険を排除したかったにちがいない。

 いずれにしろ袁紹の妾とその子どもたちはすべてこの世から抹消されてしまったのである。それだけ曹操は本命であった袁紹の血筋を恐れたのであろう。だから曹操はその妻の気持を見事に利用して袁氏の一族の影響力を完全に消してしまったのである。そうしてその殺害劇を史上からも抹殺するため曹操の子文帝(曹玉)はその著「典論」に入墨事件を載せて劉氏の嫉妬のせいにした。要は鄴占領後この劉氏と結託して占領工作をして、用が済んだら罪を全部被せてポイすてしたといいたいのだろうか

 この作り話を思いついた文帝は実にもうひとつ惨酷なことを後に実行させる。文帝は鄴で劉氏とともに捕えられた甄氏を后にするのであるが、文帝を継いだ明帝が甄氏の子であることはすでに述べた通りである。更にその明帝が鄴陥落の二年前に生れた計算となる件も指摘した。しかもその後三年間も夫である袁熙が生きていたことを考えると、明帝の生出は極めて異常な状況におけるものであったといえる。

 その上、明帝に子どもができなかったことも異常であることもすでに指摘した。更に明帝の母甄氏が明帝が即位(文帝の死)の年の五年前に文帝の命令で誅殺されていることも異常である。その命令が明帝の母でもなく、しかも子どもを全く生むことができなかった郭后への寵愛が原因だとされている不自然さについても述べた。

 しかしこの不自然・異常さは「三国志」の記述をよく読むと消えてくる。明帝を立てるに当って郭后が絶対的な力を発揮した件についてもある程度述べたが、郭后と甄氏を年代を追ってその関係を見て行くと郭后の果した役割がよりはっきりとしたものとなる。

 郭后に子どもがなかったことは「明帝記」に書かれている。しかも郭后は氏が迎えられる以前から文帝(曹玉)の妃となっていた。彼女は知恵がある上、謀りごとにも長じていたという。文帝が武帝を継ぐことができたのも彼女のおかげであり、甄氏が殺されたのも郭后への寵愛が原因だと「后妃伝」は言う。

 要するにインテリで才走った女性であったというわけである。その女性に子どもができなかったのはわかるが寵愛されたのは明らかにおかしい。文帝はこのインテリ女性に子どもができないので甄氏の子どもを養育させる役目を与えたというが、これは全く不自然なところがない。斐松之が引用する「魏略」には「文帝は郭后に子どもがなかったので、詔して彼女の子どもとして明帝を養育させた」とあるが、これは本当であろう。文帝が当初明帝を好まなかったとあるが、これは自分の子どもではなく甄氏が連れてきた子どもとすれば理解できる。郭后は甄夫人(皇后と称すのは死後その子明帝が帝位についてからの謚号による)の死の翌年皇后となる。しかも文帝の皇后は彼女が最初である。その上彼女が皇后となるのはもともと妾の身分であった関係で宮廷内で問題となったことも伝えられている。「側室を正夫人とするような礼は存在しない」という理由からであった。

 こうした記述から推測すると、甄氏と袁熙の子どもである明帝は幼い時から郭后によって育てられ、育てるうちに愛情が移って甄氏と対立し、甄氏を殺してしまったということになる。明帝が皇太子として公の場に出ることが全くなかったことも伝えられている。因に斐氏注釈に引用されている「世語」に「明帝と朝臣とはもともと接触するところがなかった」とある。そこで即位した後も朝臣らはその人柄をあれこれ想像しては語り合った。これは明帝が狩やその他の宮廷行事にも参加していなかったことを示すものである。明帝は甄氏が殺されるまでどこか別のところで郭氏によって育てられていたのである。しかも郭氏を強力にバック・アップする一族がいた。司馬氏である。

 司馬懿=郭皇后=明帝と言いたいわけね。うーん…

 

 p130司馬朗、司馬懿(仲達)、司馬孚の三兄弟が揃って将臣の重要ポストを占めるのは明帝の代になってから。

 明帝の代では将臣のポストそのものが増やされており、曹休・曹真の二人が大司馬、大将軍という新しい将相の座に就いている。二人は曹操の族子で文帝とともに育てられたが、根っからの武人で司馬仲達らとともに軍人仲間を形成していた。明帝は郭后とこれら武人たちによってかつぎ出されたと見てよい。血のつながりがあるかないかはともかく、一貫して魏王朝が、王位継承がかなり危うかったことがわかる。不安定さをはらむ魏政権の性質に注目すべきだろう

 しかしどうして彼らは曹操とは血のつながりがない明帝を擁立したのであろうか。また擁立できたのであろうか。この原因はやはり当時の最新科学である人相見がものをいったからであろう。

 明帝は容姿が生れつき秀れており、立つと髪が地に触れ、どもりで余りしゃべらず、沈着で決断力があったと「魏書」は伝えている。どもりながらとつとつとしゃべる人がどうして沈着毅然と決裁を下すことができたのか想像しにくいが、どうやらどもりぐせがあるためやたらしゃべらないというところが好都合と考えられたらしい。

 しかし明帝は計算通り皇族(曹氏)を大切にするという維城の基を疎かにして国家権力を将臣にまかせるという偏りを犯して皇室の根本を忘れてしまった、何と悲しいことよと老人たちがいっていたと伝えている。陳寿も「いきなり秦の始皇帝漢の武帝を真似して宮殿の造営に力を入れて先祖の事業(特に農地造成)を継続するという魏朝の美徳をないがしろにした」と指摘している。

 要するにすべての伝や記録は曹氏の断絶と読み取らせようとしているのである。正史であるから表向きは変えられない。しかし読み取れる人はそれでもって真実を知って欲しいといっているのである。

 甄氏と袁熙(美男子袁紹次男)との間に姿形が美しい理想的な男性が生れるのは当然であろう。しかしその美男子の明帝(曹叡)は教育ママならぬ教育妾郭氏の手でモーレツにしごかれた。どもるようになったのはそのせいであろう。幸いそのどもりのために口数が少ないので皇帝にかつぎ出されたのである。

 甄氏は郭氏のモーレツぶりにわが子がかわいそうになって抗議をしたのであろう。そうしてモーレツ郭氏にいびり殺される形で病死したというのが真実に最も近いであろう。

 郭后が文帝に寵愛されたのではなく、明帝が養母に寵愛されていたのである。実のわが子への寵愛では考えれらないような異常さと冷い打算がそこに働いていたことはいうまでもない。

 ・・・全部筆者の妄想だなぁ。ここらへんは全く賛同できない。それはともかく正史を読めば正統な血族ではないという邪推はそれによって、王朝の、皇帝としてそもそもふさわしくないんだよ!というメッセージだろう。それは次の新王朝にとって有利だから、そう書いただけだと思うが

 

 p132孔明のこのときの出征は血の断絶、不安定さから。ローマの養子皇帝時代のように世襲より、養子のほうがうまく行く。明帝が偉丈夫で式典・儀式で民衆の畏敬を集めることができた。孔明は甘かった。

 

 p同~p134、孔明にも跡継ぎに対する悩みがあった。劉備は四回家族を奪われており、呂布の二回以外は取り返した記録がない。劉禅趙雲に救われたとされているが、偽者の可能性がある。彼はその後大して優遇されず、謚も張飛馬超龐統黄忠に遅れて翌年、二六一年に出された。

 章武元年(二二一年)五月、劉備は皇后に呉氏を立て、子の劉禅を皇太子にした。劉禅が帝位を継ぐとそのまま皇太后として、漢朝廷における皇太后と同じ役割を果せるようにした。これは劉禅が呉氏の子であることを示すものと見たい。

 呉氏(穆皇后)は劉備より前に漢末のどさくさを利用して蜀の地の牧として支配権を得た劉焉の第三子劉唱の嫁。未亡人であった彼女を劉備が娶った。これまた人相見から選ばれた。つまりこのケースも既得権の嫁の家との政略結婚。

 p134呉の将兵つきで嫁いできた孫夫人。演義では女性が武装した男勝りとごまかされているが実際は、本当に軍隊が駐屯していたのだろう。帰還後人質にして連れ帰った、怒って殺してしまったかも?

 陳寿は蜀を劉備よりも先に制した劉焉が息子の嫁を選ぶに当って人相見に頼って失敗したと指摘している。ところが同じ失敗が再び劉備によって繰返されるのにそれについては何も語らない。

 これは劉禅が呉氏の子でありながら、それを隠して帝位に立てられたことを「三国志」の編者が知っていたからと思われる。孔明劉禅が明帝に勝る王者の容貌を持っていたことに勇気づけられて北伐に出たと考えてもよい。人相見が最高の人物だとする劉禅孔明にとって漢再興の切り札であった。何しろ相手の明帝は劉氏の血筋はひいていても劉禅ほどには濃くはない。

 要するに筆者は劉氏の濃さから両方とも選ばれた偽者と考えたいのだろう。強引と感じるのは己だけか?なんでこんな劉氏の血万能論にこだわるんだろうか

 

p138漢朝は後宮の秘密を保つため黄門(侍)郎には皇帝の娘を姿った者や皇后の兄弟などが選ばれていた。この制度は魏になって廃止される。陳寿はそれを「すべての王者の規典とし後世に伝える憲範とするに足る」と評した。しかし外戚支配がなくなったが、袁氏やその他の漢皇室に近い貴族でも同じように外戚の影響が排除されていたとはかぎらない。肝心要の魏朝でも明帝とその後の少帝の擁立には皇太后が関与したと考えなければその推移が理解できないところがある。

 「三国志少帝記」に「宮中のことがらは秘密に属するので斉王らの出生や経歴を知る者はいなかった」とあるように魏の後宮の動きは知ることができなかった。宦官勢力の殲滅で曹操はこの勢力の再結集を図った。外戚はなくとも宦官勢力、宦官とのパイプはより堅固なものとなった。孔明死後宦官の影響力は強くなったが、魏への宦官と宦官同士通じ合っただろう。

 根拠がない、むしろ逆。宦官集団、勢力は二重スパイのようなもの。大規模な懲罰が行われていない、あるいは役立った諜報が記されていないのならば、たいしたことはなかったであろう。ただ山越えのような奇策に地理情報提供などがあったこと可能性はあるだろう

 曹操の勝因は女の城を先に固めたからである。それは同感だが、その後の宦官勢力とのパイプが成立して、そこを抑えたというのなら、その後の司馬家台頭に説明がつかない。王家に忠誠を尽くす宦官が革命を許さない。一貫した説明が必要だろう

 劉備に子供は少なかったが、劉禅に男子が一応そろって、それが王朝作りの基盤は整ったと考えた。よくわからない理屈だ…

 殺された皇子が劉ヨウ一人、宦官の黄皓と対立していたから。―ではない、皇太子だからに決まっている。それに最後まで徹底抗戦派の人間を処刑せずに済ませられるわけがない

 

 p142宦官黄皓の手によって蜀が滅びた。p144漢の代に負けない立派な後宮づくりを始めた孔明の策が裏目に出た。うんなバカな

 

 p150商人感覚で築かれた魏を、軍人感覚の晋が滅ぼした。どういうコト?どうして急にそういうロジックが出てきた!?わからん…

 

【感想】

 前半は納得できるものが多かったものの後半は殆ど???後宮がどうだったか、婚姻政策というものがかなり重要であるというのが問題になるというのは非常にありがたい点だった。婚姻政策、そしてそれによる勢力の構築。そこら辺がキーですね。これはさらに司馬家の権力確立、その後の晋の体制にまでつながってくる話ですからね。晋王朝が滅びたのは、この後宮問題、婚姻政策=諸勢力との横並びのシステムが大きくかかわっているのでしょう。少なくとも後世かかれた皇后=強欲クソババアたちのパワーゲームで滅びたということはありえないですからね。あと皇帝制度、皇帝候補の明確な人間がいなくなること。外戚が消え、宦官が消え、女達が姿を現していくことと、八王の乱に代表される皇帝の無力化。コレが一連の流れにあるのだろうきっと。魏からこの傾向が始まることを決して見逃してはならないだろう。

 女の力が重要な役割を果たしていた!というと某映画のキャッチコピーみたいだな(´-ω-`)。女と歴史というものをアピールすりゃたいていの作品は、需要が見込めて売り出せるからなぁ。いずれ三国志もこのような大奥物が出て取り上げられるのかもしれない。この分野での作品書いた人は見たことないもんなぁ。いずれ女達の三国志!的な本が出てくるかもしれませんね。無双あたりではまった歴女を狙ってね。

 

誤字多いなぁ。あと空白削る作業も疲れたので放置。※今更ながら、見直してみました。まあ、なんだこれって感じですね(笑)。見返す価値もない。