てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

石井仁さんの『曹操』から(一節)

メモ的に気になったところを抜書き&太字感想。例によって初見殺し。二節はこちら→石井仁さんの『曹操』から(二節)

魏の武帝 曹操 (新人物往来社文庫)/石井 仁

曹操―魏の武帝/石井 仁

 p8完全無欠の超人でもない曹操の実像にせまること。本書にあたえられた、ささやかな課題。蒼天の影響のことを言っているのかな?

 p12独立自営農の減少と、大土地所有者=大姓、豪強、豪族の登場。社会構造が根本的に変化していく
 州刺史、監察制度について。はじめ刺史は、副官の別駕・治中従事史などをしたがえ、管区内を巡回していたが、やがて郡県の統治にも介入するようになり、それらの上級官庁となる。
 州という中間の行政単位の必要性が高まっていたことを意味する。戦国の七雄のような国家単位ではないが、広範な行政単位が必要になったことは、大土地所有者の登場と無縁ではないだろう。また各地に封じた群国を次第に郡県制に近づけていくことは、必然的にそれらを統括する一つ上の機構が必要になることを示唆する(前漢の州牧はこれによるものだろう。そして後漢になりその必要性がないため刺史で十分になったと。後漢の場合は監察半分、上級官庁半分とそういう緩やかな感じだろう。)
 封邑=年金。租税の一部を受け取る。一部だけなんだ、てっきり支配権もって支配するかと思った

 p14曹操の出自について、先祖は一介の農民。曹操の祖父曹騰が宦官として出世してから。曹騰は、幼いうちに去勢手術をほどこされ、官中に入れられたのだろう。司馬彪『続漢書』には、曹騰の父曹節の人格を褒めるエピソード。
 どういういきさつで宦官になったかは全くわからない。しかし考えられるのは利発で、周囲から好まれる、つまり地縁があって地元の支持を得ていた人間だったのだろう。宦官に選ばれる、かつ出世する人間であることから、①庶民の生活を知悉している。そして具体的な解決方法を知っている②その出身地の顔役とも言える家の出身者(これは因果関係が逆になることもある、宦官になってから顔役になる、顔役の家から宦官が選ばれる―どちらも真なり。)簡単に、わかりやすくいってしまうとインフラ整備するために鑑真とか最澄の声を聞かなくては庶民の協力を得られなかったことと同じ。優秀な宦官をより抱えることは末端行政機構を支配する上で、必要不可欠であることは古今東西変わらない

 p15大将軍が後見役につくことを「輔政」という。前漢の雹光以来、輔政の大臣は大将軍(もしくは驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍)に就任した。朝廷には、宰相の三公(秩万石=年俸、後漢では太尉・司徒・司空をいう)、および国務長官の九卿(秩中二千石、太常・少府などの閣僚)がいる。しかし、大将軍・輔政の権力は三公をしのぎ、皇帝の秘書― 尚書を取りしきる権限(=尚書)、および兵権をにぎり、最高実力者として国政を運営した。
 漢政治のトップは外戚=大将軍。後見役が大将軍じゃなく、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍でも良いのは知らなかったなぁ。将軍・三公・九卿で今でいう内閣を構成するわけだ。しかし、三公はともかく、九卿=国務大臣の具体的な役職というか権限というか、そこら辺がよくわからないな。個人的に九卿=国務大臣というものが力を持っていたということが全くイメージできない。ここらへんをしっかり押さえないとなぁ~。でもそんな論文がまったくない気がする
 和帝は、側近の宦官鄭衆と図って竇憲を排除。これをきっかけに、宦官が国家機密に参考するようになる。参画じゃなくて?丁度ソ連をやったから、宦官=KGBのような感じをイメージする。あたらかずとも、遠からず。なんせ暗殺で名をはせるのだから。明に秘密警察・諜報機関としての性格を明確に整備されるが、始まりが暗殺だしね

 p16次にくるのが鄧太后の時代。鄧禹の孫で、南陽豪族。そりゃ政権も安定するって話。兄大将軍トウシツ。
このときの大将軍の力ではなく、母としての鄧太后後からの方が大きかったのだろう。母としての皇太后がいて、叔父としての大将軍がいての外戚政治の完全な形であることは抑えておきたいところかな
 曹騰は、中黄門に任官。任務は天子の身辺警護、いわば宦官兵。KGBとして重要なのは知性とともに、機敏な体力。蹇碩が体格堂々とあったように、曹騰もガチムチだったかもしれない。ま、それだったら記されるし、そうでもないかな
 鄧太后死去、閻皇后と、その兄で車騎将軍の閻顕が露骨な多数派工作にのりだす。安帝の乳母王聖や有力宦官―大長秋の江京・中常侍の樊豊ら、および安帝の母の弟、大将軍のコウ宝も、これに同調する。延光三年(一二四)、劉保は皇太子の座をおわれる。
 太后が就けた皇太子=南陽政権に都合のいい人物で、河南出身である閻皇后が河南政権を作るうえで、好ましい人物ではないからだろう。むしろ追放されない方がおかしいですね。楊震はこのとき自殺に追い込まれた人物。つまり一度失脚した人物である
 p17光武帝嫡系がとだえ、一端皇太子になりながら、和帝に位を譲った章帝の血が有力になる。良いのか悪いのか、清河王、千乗王(のち勃海王)、済北王、河間王の四王家存在した。後漢後半期の政治的混乱は、章帝の四王家による迭立という事情もある。
 孫程ら、十九人の中黄門のクーデターで、劉保は復権。彼らは功績を認められ、列候=「十九侯」に。第一の功臣孫程は、死後、車騎将軍を追贈される。宦官将軍のはじまり。襲爵を許され、陽嘉四年(一三五)、宦官の養子による襲爵が正式に認められる。

 p18永和四年(一三九)、中常侍の張キらが順帝に大将軍の梁商、曹騰、中常侍の孟責(河南の人)が謀反をたくらんでいると訴えた。張キらは逆に一掃される。
反対派を粛清するために意図的に反乱に踏み切らせたか、のち梁冀二代に亘ってまで及ぶ長期政権の性格上、反対派が我慢できなかったのかもしれない。いずれにせよ、順帝と梁氏政権が100%磐石な関係ではなかったのだろう。梁商→梁冀は本来異常な権力継承。それを可能にした背景も詳しく知りたいところだ。そういえば親子二代にわたって権力を継承する方式は曹家、司馬家にも受け継がれているな~
 父とちがって権力欲の強い梁翼は、太尉の李固など公卿の反対をおしきり、八歳の質帝を擁立する。やがて聡明な質帝を制御できなくなると考え、暗殺してしまう。公卿の意見を封殺して、桓帝を就ける。年長の清河王劉サンは宦官らに冷たく当たっていたという。曹騰は桓帝擁立の功をもって費亭侯に封ぜられる。曹騰とともに候に封じられた州輔という宦官は「六帝四后」に仕え、順帝のもとで小黄門、中常侍を歴任したというから、曹騰とよく似た経歴の持ち主。他の六人も、順帝恩顧の宦官なのだろう。これが一致団結して梁冀、および桓帝を支持したのである。外戚と宦官が相いれない水と油だったわけではなく、士大夫がつねに外戚や宦官を目のかたきにしたのでもない。
 権力欲の強いというのが何をさすのか不明である。禅譲やる過程で権力を一手に収めたことか?そもそも本当に梁冀が暗殺したのかも不明。政争の敗者に、死人に口なしとばかりに何でもかんでも押し付けた可能性は見過ごせない。革命をたくらんだ梁冀に二度も退けられた劉サン。そして、公卿らに劉サンを支援する勢力がありながら、曹騰など一部の有力な宦官に退けられたことは何を意味するか。宦官に拒否されるということは「六帝四后」という表現にあるように後宮を中心とする王室からノーを突きつけられたのと一緒。一体劉サンを支援するグループはどういう政策を持った集団だったのだろうか
 曹騰は皇后の侍従長―大長秋に昇任し、位特進を加えられる。大長秋は中二千石、公卿に準じる閣僚ポストである。特進は、列侯のうち功徳者にたまわる名誉職、三公に次ぐ待遇をあたえられる。宦官として位をきわめた。しかし政界に進出した一族で河間相の曹鼎が、汚職の罪で冀州刺史の蔡衍に弾劾され失脚している。梁冀に仲介を頼んでとりなしてもらおうとしたようだが、それも通用しなかった。
 発言権はあっても、子弟が政界で地位を保つことは難しい状況だったのだろう
 p20延烹二年(一五九)、梁糞の専権体制は、クーデターによって崩壊。このとき、曹騰が存命していたかどうか不明。しかし、あれほど癒着していたかにみえる梁冀の滅亡に、曹騰の一族がまきこまれた形跡はない。よほど、巧妙な予防措置をこうじていたのだろうか。また、曹嵩を養子にむかえた時期も不明。
 このクーデターの前に死亡していたと見るのが自然だろう。そうでなければ巻き込まれて一族が失脚するだろうし。後の曹嵩が大尉に就けるわけがない
 
 p21曹騰が推薦した人物―①司空の虞放②陳国相の辺詔③京兆尹の延固④太尉の張温⑤太常の張虻⑥五官中郎将の堂ケイ典―主な高官、まことに多士済々とあるが、どの辺が多士済々なのだろうか、門外漢にはイマイチ理解が出来ない。『後漢書』という書物士大夫=清流派という前提で描かれる。ここらへんは清濁といった南朝の官職の格付けと関係しているのかもしれない。当時の常識から、過去の歴史を書き直したのだろう。上記六名はいずれも当代きっての文人。むしろ文人でない高官なんているのか?と思っていたら、益州刺史の仲嵩がいた。彼は曹騰への賄賂を弾劾したが、曹騰は彼をうらむどころか、「能吏」だとほめた。のちに司徒に任ぜられ「私の今日あるは(があるのはの間違い?言い回しか?)、曹常侍のおかげである」と言った。つまり、曹騰が彼を引き立てた。父が定陶県令だったほか、先祖にめぼしい人物はいない。著名な文人に師事し、学問に精通していたという話もない。ただ、洛陽の資産家の家に生まれ、相続した遺産三千万銭をのこらず貧民にめぐみ、名声をはくした。儒家の徳目―「清廉潔白」に通じた人物だったわけである。文人であるか、貧民救済を実行するか、そのいずれかが出世する・高官に上る主な二つのルートと見ていいだろう。ちなみに石井氏は徳目を金で買ったと記しており、貧民に資産を配って名声を得るが、宦官は賄賂をもらって政策を実行するわけである。バックなき政治家はいつでも賄賂によって政治を執る。田沼意次然り、田中角栄然り。この政治力学はきわめて重要で、宦官と儒教的徳目の実践者が結びついたのがまさしくこの時代の政治の事実を象徴しているように思われる
 p23なぜ、曹騰が仲嵩にシンパシーをいだいたのか、理由はよくわからない。公平無私は為政者に重要な要素だからだろう。益州刺史という辺境のキャリアも好ましいもの。中央のキャリアしかないものは政策が偏りやすい。今の共産党のトップに必ず辺境統治のキャリアがあるようにね

 曹嵩の出生についての一部始終はよくわからない。伝統中国の家族制度には、ふたつの大きなタブーがあった。①同姓の男女は結婚できない(同姓不婚)、②異姓の男子は養子にできない(異姓不養)。曹嵩が異姓養子だったことは、まずまちがいない。曹氏と夏侯氏とのあいだに、通婚関係があった。曹氏という一族は、当時の家族制度のタブーを、何重にも犯していたのかもしれない。世間の非難を覚悟で、異姓の養子、曹嵩を
むかえたのは、それなりに理由があったと考えざるをえない。族子とされる曹真は、あきらかに異姓養子。父の秦ショウは曹操の身代わりになって殺された恩義から養育。また、側室杜氏の連れ子秦朗、おなじく尹氏の子何晏。秦朗はいっしょに育てられた明帝の寵臣となり、何晏も曹爽の政権をささえた。中国史上、かれらのような存在を「仮子」とか「義児」という。累代の門生故吏、あるいは有力な姻戚関係をほとんどもたない曹操は、かれらに政権の屋台骨をささえる役割を期待した。
 その性質ももちろんあるだろうが、曹王朝が上り詰めた後で有力名望家といくらでも婚姻関係を構築できただろう。何故そうしなかったのか?何進のように拒否された事例でもあるのだろうか?もうひとつやはり宗教的な要素を重視する社会学の立場から、己としてはむしろミトラ教なり、ゾロアスター教のような同姓不婚を積極的に歓迎する何らかの要素があったのではないか!?という点を指摘してみたい。もちろん今のところはなんの裏付けもありませんが、面白いじゃないですか。フフフ。

 p26光和元年(一七八)から、霊帝離宮の西園で、官位売買を公開する。売官そのものは、安帝のころから、臨時の財政補填策としてあった。これを恒常化した。関内侯(列侯より一級低い爵位、封邑なし)や虎賁郎、羽林郎(親衛隊士)。売買しても、実害のなさそうなものばかり。だが、実際には、公卿以下の官職、あるいは孝廉・秀才
の資格なども、非公開で売買されていた。その謝礼を「西園礼銭」、あるいは「助軍修官銭」という形で納めていた。三公は千万銭、九卿は五百万銭が相場とされるが、二千石の官職(九卿・郡太守など)は二千万、四百石は四百万で売られたという話もある。このほか、宦官などへの賄賂も必要とされた。どだい、裏取引なので、相場はあってないようなもの。つまり、付け届けのような慣例を公式化しただけの話。それだけ財政事情に切羽詰っていたということ
 曹嵩が太尉にのぼる際、一億銭を使ったという。公式相場の十倍。宦官の養子が、尊貴な三公の位を金で汚したと批判される。そうではないだろう、それは表向きで曹嵩が三公就任条件を吊り上げたことでより、高い金を納めなければならなくなったことへの恨みを重視すべき。一年限定で宦官の子弟が三公に就いている。孟郁は復帰して二度就いているが。大尉という地位は一番格が下だったのか、就き易かったのかその例が多い。対照的に司徒はない。人事権でもあるのか?最も格が高いのだろうか
 曹操が挙兵したとき、曹嵩はこれにしたがうのを承知せず、末子の曹疾(あるいは曹徳)らをつれて琅邪郡に避難した。そののち、兗州牧を領した曹操をたよるが、陶謙の手勢に襲撃され、殺害されてしまう。非業の死である。享年も不明。しかも、不思議なことに、曹操はあれほど多くの文章を残しながら、父については一言もふれていない。父子のあいだに何があったのか、史料は語らない。
 曹嵩が一億銭もポーンと出せたこと、琅邪に避難したこと。ココらへんに何か商売・経済的なものを見いだせるのではないかな?間違いなく、失敗すると思ったから逃げたのだろう。というか失敗するリスクを見込んで。董卓の死によって情勢が流動化して初めて曹操を頼ろうとした。なんせそのときは、袁紹という強力なバックボーンが後ろにいるのだから。己はそもそも曹操自体が曹嵩の実子ではなかった可能性があると思う。優秀な子を拾い集めて来て、その中で優秀な曹操がたまたま目立ったのではないだろうか?宦官一家で重視されるのは血ではない。才能だから

 p28、曹氏は二代つづけて、丁氏から正室をむかえている。幾重にも重なる婚姻関係で、沛国曹氏が郷里の夏侯氏、および丁氏・劉氏などとの提携を強化しようとしていたことがわかる。

 p29、明帝の大和三年(二二九)六月、曹騰に高皇、その夫人呉氏に高皇后という尊号が贈られた。たとえ追贈とはいえ、中国史上、皇帝になった宦官は曹騰だけだろう。

 曹植派丁兄弟の父丁沖は天子の奉迎をすすめた。献帝を許都にむかえたあと、丁沖は
司隷校尉に任ぜられるが、まもなく病没する。曹丕が片目の丁儀に娘をくれてやるのはもったいないといって取りやめた後でその優秀さを知って、たとえ盲目でも娘をくれてやったものを。まんまと小僧にはめられたわ―という有名なエピソードがあるが、曹丕が丁一族を取り除こうという意図を持っているのなら、新しい政権構想から国の同郷集団を視野に入れていなかった可能性が高い。この辺をもっと注目してほしいな。丁謐は曹爽政権時の失脚者。記録がそもそも存在しないゆえに丁氏の列伝は作られなかったのだろう。

 p31丁沖は長安の朝廷に出仕し、天子の侍従官―黄門侍郎、侍中を歴任している。献帝の即位後、董卓は両官を六名ずつおき、全滅した宦官のポストを補完しようとした。(董卓はこれまで存在した宦官が就いていたポストを廃止&その分他の官僚にポストをひらいてやった。今で言えば財務省を廃止して、他の役人の所轄を増やしたようなもの。他の省庁の役人が大喜びしたのは言うまでもない。基本的に魏晋は宦官制を強化していないから、この董卓が始めた制度をそのまま引き継いでいることになる。己的にはこれを成功とはみなさないが、当時の士大夫からは大歓迎されたことは間違いない。)任用されたのは、公卿以下の子弟。董卓が政権をにぎった中平六年(一八九)ころ、丁沖は洛陽にあり、父兄に公卿クラスの高官がいたことがわかる。

 霊帝の末期、三公を歴任した「
国」の丁宮という重臣がいる。中平四年(一八七)五月、光禄勲から司空に昇進。五年八月、司徒にうつり、六年七月罷免。董卓の政権掌握は、同年九月。このとき、尚書(令?)の丁宮は、董卓の廃立を積極的に支持したという。だから、こののち長安遷都に同行した可能性もたかい。交趾刺史の縁から士氏兄弟を引き立てる=曹操政権とのパイプをうかがわせる。

 p33世代的にみれば、丁官と丁沖は父子、丁沖と丁夫人は兄弟姉妹ぐらいになるのだろうが、それ以上の断定はできない。ただ、二人がきわめて近い血縁関係にあったのはまちがいない。もし、この仮説が正しければ、丁夫人が実家をバックに曹操にたてついたこと、丁沖と曹操が義兄弟のつき合いをしていたこと、丁沖が董卓の与党が支配する長安の朝廷に仕官していたこと、さらには曹操が無条件で娘を丁儀にとつがせようとしていたこと、これらがきれいに整合する。
 
国の曹氏と丁氏はそれぞれ中央の地位はあるが地方はない、地方はあるが、中央のパイプはないといった利害関係を共有して婚姻を深めていった。曹操は両家の合体が生んだ最初の人材、双方の資質をうけついだ期待の星だったのかもしれない。曹操の次の世代が丁氏と結婚することも、あらかじめ決められていたのだろう。丁家、丁氏を排除したのは、曹丕の生母でないこと、曹丕を支える家=外戚のような存在足りえないこと。自己の後継者としての地位を脅かしかねないことだけだろうか?別に丁家から嫁もらって、子を作って、王の一人にでも封じればいいだけの話だと思うのだが…
 p34丁氏一族の女性が後、南斉の末期蕭衍に嫁ぎ、あの文選の昭明太子を産む。事実上の皇后になるわけだが、それよりもむしろ数百年単位で名を残す豪族の連続性に驚く。

さて、こんなペースで大丈夫か?大丈夫だ問題ない―と言ってられるかどうか…。ちょっともっと飛ばしていこう。あとどうせ三節までしか細かく書かないだろうし。そっから後は時々気になった箇所に触れるくらいで終わると思うしね。続き→石井仁さんの『曹操』から(二節)