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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

ロシア・ソ連分析④ 日本=独占資本主義 念力主義、難解主義

まともな分析 哀悼・追悼 小室直樹

過去記事の再掲です。元は10/11に書いたものです。

 

―続きです。

 

【日本の社会は独占資本主義社会である】
 独占資本主義社会の論理は、典型的な予定調和説である。その論理のエッセンスはこうである。独占段階の資本制社会においては、何もかも独占資本、なかんずく金融独占資本の利益に結びつくというのだ。資本主義もこのレヴェルになると、外見上は、議会制民主制のかたちをとる。人びとは、自由に発言し、自由に商品を購入し、自由に投票する。あるいは、各国は、国益の命ずるところにしたがって、「自由に」競争をする。べつにどこかに独占資本家の「シオン同盟」があって、これらすべてが独占資本の利益になるべく行動している訳ではない。

 そんな陰謀なんぞ、現実にありうるわけがないではないか。それなのに社会過程が自由に作動した結果として、すべてみんな、独占資本の利益に奉仕したことになってしまっている。マルキストの独占資本論の論理は、畢竟、これにつきる。
 この独占資本主義社会の論理は日本で変形して、メディア・官僚・大企業などがそれぞれ独立して勝手に既得権を維持、確保しようとしているにもかかわらず、見事に彼らの私欲が満たされる状況と瓜二つである。

 つまり日本のメディア(テレビ・新聞)・検察・官僚の諸官庁・企業・警察・裁判所、すべてがすべて結託しあっているというわけではないのに、大体において自己の利益・既得権を維持・追求しようとしているだけなのに、見事に官僚のエリートを頂点とする支配構造・秩序が出来上がる。無論時々の政争で、それぞれの利権を争うことがあり、既得権を失うといった個々の例も散見する。しかし大本の官僚エリートを頂点とする天下りシステム三権支配(メディア含めて四権)は変わらずに維持される。日本型独占資本主義社会というものが予定説の形をとって、今現に我が国に存在する。
 そして傍線の通りに陰謀論は否定される。巨大な支配者などなくとも、見事に独占資本主義社会になってしまう。そういう意味で植草さんや副島さんが使う悪徳ペンタゴンという言葉は大丈夫なのか?そこのところわかった上で分析しているのかな?と非常に不安になる。無論ところどころの分析で、有意義で参考になるのも多いだろうけど、時折ウーンとなってしまうのが本当に多い。取り扱いには注意を要したい
*1


【念力主義・言霊信仰】
 神州不滅という念力主義・言霊信仰がある。神州不滅思想は人工と自然の区別をせず、かつ自然を尊いとする。つまり理想と現実の区別をしない。ここら辺は井沢元彦氏の言霊思想を連想させる。さらに戦争は全て日本側から仕掛けて、海外で行われている。よって神風史観から、自分達から戦争を起こそうと思わない限り、戦争は発生しないという奇妙な史観が誕生した。結局日本人は自分達のことしか念頭に無いのではないだろうか?日本の外というものに対して致命的に関心が無いことがもたらしたのではないか東京裁判史観で、正しき者は必ず勝つが、正しくなかったから負けたになった。今の史観神風史観の対偶に過ぎない。かくて戦前の日本全て丸めて否定することになる。
 さて、この重要な指摘とともに念力主義・言霊信仰について一考したい*2。なぜ、言霊信仰のような、そう言ってさえすれば良いという、現実を無視した観念があるのか?これは日本だけではなく、現実を直視せずに因果関係を明確にしないという行動様式は途上国ならどこにでもある。イヤ、中国・ロシアなども同様であろう。これはある種集合意識に基づくのではなかろうか?
 特定の集団に帰属するという帰属意識が強い。個人の人格よりも所属先への意識が強い=社会の一員としての意識・集合意識(人格)の方が強い。そういう社会においては個人の意志、因果関係を予測して指導する、提言する能力より、組織の団結力や規律=集団の和が優先される。もしくは、そもそもそういう時代には結果によって、勝者に付き従うもの、その従い方をどうするかということでパターンが決まっていた故の反応ということだろう。
 有機的連帯ならぬ機械的連帯が強い社会では、独立した個人による論争がそもそも必要ないから、成り行きに任せることで殆ど解決されたということではないだろうか?いわゆる空気を読むというやつだ。その時代は上の命令に従うだけで、その為政者は税金を取ること以外はあまり干渉してくることがないのだから。
 現実を無視して、空気を読む。その場その場の雰囲気、ニューマで動くというものは自分たちが、集団が、どういう行動をとらなくてはならないかという決断は重要ではない。むしろ集団としての意思統一が重視される。集団として意見が一致することこそ、その集団としての能力が強いということであるから。
 また博士は感情論理という用語も用いていた。貧乏はイヤ。よって貧乏は存在しないという。論理の導き方である。願望と事実の違いはそこには存在しない。いやな現実に向かい合う必要がない。因果関係で正しい選択をすれば、それがかなうという現実ではないのだから。いかなる現実でも否応なく従わなくてはならない。だからこそ嫌な言論、自分にとって好ましくない言論があった時には目にしたくない・効きたくないから弾圧を平気でする。もしくは集団としての集合意識を犯すから、統率性を落とすから、否定される。
 逆にいえば今のような時代はそこに個人の意志・能力が一応前提としてあり、社会が病んでいる、苦しんでいる。諸個人はどうして苦しいんだろう?と考え抜かざるを得ない時代である。このような空気支配や、感情論理や念力主義・言霊支配は世代が入れ替わるにつれて、時代が進むにつれて、薄れていかざるを得ない。苦しみぬいている、今の時代の人間はこの空気を脱して、解答を探って民主主義を守ろうという理想的な資本主義・民主主義の徒になる可能性がある。そこに一抹の希望はある。

【日本難解主義の原点か?】
 人間疎外・物化、マルキシズムの奥義。それが簡単であってはいけないという思いがある。福本イズムから黒田イズムまで、難解でなくてはならないというエトスがある。バイブル・コーラン・中国の経文の訳、わかりやすいのが言いとされる。日本の経文は漢訳のままでわかりにくいほどよいとされてきた。
 ここに日本の学術の問題があるのではないか?わかりやすく説明するのではなく、
なんでもかんでも、難解にこねくり回して、偉ぶって見せる。経文の時代から下層・大衆を支配するためにあえて難解なものを使っているのでは?そしてこれはそのまま官僚文章技術に相通じる。官僚にしか読めない文章によって官僚が行政を支配にかかる根源もここに起因するのではなかろうか? *3

*1:―ということを当時書いていますが、今では全く参考にすることはありませんねぇ

*2:今見るとわかりづらいな、ここ…。単純に前近代社会では、個人という観念がない・乏しい。そういう時代には、そういう意識は必要がないから論理的思考も論戦も特例を除けば育たない。言霊信仰・念力主義というのは、そういう時代にふさわしい思考形態だと言いたいだけなんですけどね。

*3:アイキャッチ

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