てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

石井仁さんの『曹操』から(二節)

毫釐の差は千里の謬 《「礼記」経解から》―この言葉ずっと気になっていて最近ようやく思い出しました。メモメモ。

 

さて、こんなペースでいいのだろうか?そして誰得なのか?第二節です。拙意見太字。前回の一節はこちら→石井仁さんの『曹操』から(一節)  三節はこちら→石井仁さんの『曹操』から(三節) 

魏の武帝 曹操 (新人物往来社文庫)/石井 仁

曹操―魏の武帝/石井 仁

 

【第二節】
 p35から、党錮の禁の話。清流派の座り込みから始まったという話がないな…。この時代の政治はトップの意向、決まりきったルート以外から反対の意を示すことは事実上のクーデターに近い。今でいう反日デモか。政府・政権には無謬性があるから、批判はご法度。清流だなんだでスルーしていい話ではない。おそらく、この時代ですら膨大な官僚士大夫予備軍がいて、職にありつけない彼らが不満を爆発させた結果だろう。宦官や外戚なんかが所有している余計な分のポストを明け渡せという感じだろう。そして今の政治が悪いのはダメなやつらが政治を動かしているからであって、自分たちが政治をとれば、その欠点を補って上手く統治できる!といったところか。実際は全くそんなことはないのだが。構造=機能分析で見れば、宦官は必要不可欠な存在であり、そんなことあるわけない。重要なのは士大夫候補層のダブつきと、政治状況の悪化が背景にあったこと。ま、いうまでもないけど一応。
 ちなみに董卓はその後彼らの望む宦官排除=職・雇用を増やしてやり、彼らのハートをがっちりつかむ。しかし、その董卓からして一種の擬似外戚として政権を振るわざるを得なかった。もちろん外戚として排斥の対象になる。董卓のようなキャリアを持つ人物は、そもそも彼らの本来の出自=キャリアからして折り合えるところがかなり少なかったといえる。ま、詳しくは後ほど

 二次党錮の禁(169)。梁冀のクーデター(159)から、わずか十年。舌の根も乾かぬうちから、この有様。漢王朝の根本的機能不全。構造改革の必要性が問われていることは間違いない。
 漢はいわゆる個別人身支配を前提としたスタートした国家。西嶋センセーがいう、その個別人身支配がどこまで貫徹するかはさておいて、あくまで一種の理念型(思考のモデル、byマックスウェーバー)で捉えていいと思う。民主主義は独立した個人を前提とするように、豊かな生産力があった秦・漢初期は積極的に個人の意志・意欲・能力を最大限に発揮させられるようなシステムをとっていた。実際はもちろん六千万人全員が全員独立自営農のようなことはありえず、一億総中流までではないけれども、かなり分厚い中間層があった。個人単位で税をかけて、それで運営できる時代だった。
 それが後漢に至って南陽を豪族のトップにおいて、地方の豪族をある種の序列に組み込むような緩やかな形のシステムになる。おそらく武帝をピークにしてその前提は徐々に崩れていくのだろうけども。独立自営農・中間層がかなり減ったけども、それでもまだ大半くらいはいた(あくまで構想なので7割でも6割でも5割でも4割でもいい)。とにかく減ったにはしても、地主的な階層、高所得、ハイクラスが増えてもやっていける後漢システムに移行した。
 そしてその自営農が豪族の肥大化の結果、とうとうやっていけなくなる。自営農階層が消えていく。そしてその豪族が貴族となって、のちの貴族制へと繋がっていく。絶対的な身分の壁が厚い時代。ある種の荘園経済のような(大地主でも何でも良いけど)、そういう経済システムでないとやっていけない時代になった。これが南北朝に至る流れであろう。まぁ、確かに小生産単位でもやっていける農業技術の進歩とかあったけど、基本そういう理念型で捉えてよろしいだろう。前漢(ブ厚い中間層型)→後漢(半中間層・半豪族型)→西晋東晋(豪族型)豪族型ってのがちょっと気に入らないな…。もっと上手い表現方法ないかな?
 大体そういう流れがあったことをちょっと再確認。そうしとかないと歴史の流れ、必然性、予測が出来ないからね。晋という名前が戦国を連想させるけど、春秋時代の豪族社会に非常によく似ている、宇宙は一巡したではないけども、歴史が一巡したって感じかな*1

 p37、曹操最大の理解者橋玄。郡の区画は異なるが、沛国譙県とは目と鼻の先にあたる梁国碓陽県の人。七世祖の橋仁は、「橋君学」と号された大学者。梁国橋氏は、典型的な儒家官僚の家門だった。橋玄も孝廉に挙げられ、地方官をつとめたのち、九卿の少府・大鴻臚などをへて、建寧三年(一七〇)八月、司空に昇任。翌年三月、司徒にうつり、辞職後、尚書令に任官。光和元年(一七八)十二月、太尉を拝命し、みたび三公にのぼる。翌年三月、病気のため引退し、光和六年(一八三)、七十五歳で亡くなる。
 予州従事史のとき、濁流梁冀の賓客・陳国相羊昌の汚職を摘発し、天下に名を知られる。だが、不思議なことに、『後漢書』の列伝によるかぎり、橋玄と清流派をむすぶ接点はみあたらない。そもそも党錮に連座することもなく、霊帝のもと、三公を歴任したのである。―と氏はいうが、特に清流・濁流といったスタンスになかっただけだろう。学者としての名声があって、そのまま行動しただけだろう。むしろこういうバックのない人間の方が君主としては使いやすい。①優秀②時の権力者梁冀に立ち向かい周囲にコネがなかった③学者としての名声、すなわち実務能力の高さ。こんな理由で三公を歴任したのであろう
 橋玄の評価は『魏志武帝紀、裴注ある『魏書』、『世説新語』にあり、そこからまとめると①将来の混乱群雄天下取りレースを治めるのは「乱世の英雄」、曹操しかいない。②しかし、曹操は「治世の姦賊」。自分は老いさき短く、いつまで庇護できるかわからないから、自重しろ。③曹操は出世するから妻子を保護してほしい。
 まあ大抵。こういう予言的な人は誰にも誉めまくって、その中の成功した一人のことだけが歴史に記されるというオチである。あえて史書はこういう当たりをさも神通力のように記したがる(※追記、曹操は将来の出世が見込まれている人物。そういうことを考えると予言しても特に違和感があることでもない)。だが重要なのは近い将来必ずもう王朝は持たずに混乱がおきるという予見と、それを治めるに足る人物であるという認定。「治世の姦賊」すなわち改革的なスタンスの曹操は政敵ににらまれて失脚しかねないそういうところが読み取れると思う。
 p38、橋玄は六十歳をすぎ、尚書令。しかし、二人の出会いを劇的に語るのは、やや見当はずれ―蒼天のことか?まあ橋玄の出会いの過剰評価への注意か
 p39、辺境対策の官位―護羌校尉、護烏桓校尉、使匈奴中郎将、度遼将軍あわせて「四夷中郎将校尉こういう辺境対策は全て曹騰人脈(李鷹、段頴以外)。つまり梁冀亡き後辺境対策の一手を担ったことになる。当時の政治状況から、内乱および辺境の制圧が必要不可欠になることを知っていたのだろう。特徴は文武兼備、曹騰に認められた張温もおそらくそう。「在外三公」―兵を領して出征する初めての三公となった。本来、三公である必要はない。辞任して、その上出征すればいいこと。強力な権限を備えた将軍の必要性。この辺りが州牧を設置して大規模な改革に取り組もうとした霊帝の一つのテストだったのではなかろうか(追記、そういや州牧は三公主体の改革でしたね。霊帝主導じゃなくて在外三公はどっちだろうね、まああんまりはっきりしないのだろうけど)
 p42、李鷹の遺児、東平相の李瓚は、曹操の才を認めた、数少ない士大夫の一人。子に、「今まさに動乱がおきようとしている。天下に英雄は多いが、
張邈袁紹はだめだ。かならず曹操をたよれ」という遺言をのこす。ここは将来の張邈・袁紹曹操を考える上で重要な指標になる。張邈はともかく袁紹曹操は大して違いがないと思うのだが、それも曹騰人脈ゆえ辺境情勢は強硬派の曹操でないと駄目だ!ということなのだろうか?李膺の関係からそうだとすれば説明がつくのだが
 ママ引用―いつでも、どこでも、およそ変革の動きは辺境―マージナルな場所から起こる。地理的な辺境は、同時に社会の辺境でもある。中国文明に感化された胡人と、周縁に追いやられた漢人後漢時代の西北辺境では、両者がいりまじり、壮大な民族融合―胡漢融合の実験がはじまろうとしていた。西北の列将たちは、その現場を目撃し、変化を肌で感じとったのだ。だから、橋玄らが、近い将来、漢帝国の体制に異変が生じることを予言したのは、根拠のないことではない。
 見事な指摘と思う。ほぼ同感。ンで付け足すともう漢システムの限界が来ていた。辺境に追いやられたという意味では南部の長江の方が主流であろう。北方に逃れる人間はかなり特殊。涼州が主戦、混乱要因になったように、ここに行く漢人は間違いなく交易を基にしていたのだろう。というより西域の頃から交易ルートであり、遊牧民にとって略奪と交易は殆ど同じ。辺境が荒れたというより、もうそうしないと食っていけない。漢帝国内の生産量が落ちれば、外への交易量が落ちるのは自明の理。ま、己は金・通貨減産・流出による没落説を採るけれども。胡漢融合は結局、唐に至るまでの重要なテーマ
 辺境で活躍した者たちは「入り手は相、出ては将」。まぁ大臣&将軍ってとこ。両方を同時にこなせる能力が必要とされる。なぜなら、革命時、王朝創設時には両方の能力が必要とされる。根本から新しく作るときにはどっちかだけのスペシャリストだと改革がやりづらくなる。「矛を横たえて詩を賦す」曹操はこの延長上にあった。将軍だと、一部隊の隊長みたいに取られるから指揮官・司令官の方がいいか
 橋玄涼州の大姓・豪族皇甫氏の汚職を摘発し、自分の息子が誘拐されたとき、息子もろとも犯人を討たせた。要人誘拐テロに絶対屈しない見事な手法。後漢王朝の基本的な統治方針は、しばしば「寛仁」「仁恩」という言葉で説明される。その一方、「寛猛相済」儒家・法家との折衷的な考えも根強かった。曹操諸葛亮が、この延長線上にある。
 p45、曹操は、後世いわれるほど、政界で孤立していない。曹騰恩顧の士大夫から、英才教育を施されていた。西北列将の後継者、将来の動乱を収拾する切り札として、大事に育成された。乱が起こらなければ、おそらく西北列将の一人として終わったのだろう。
 後漢中期ころ、孝廉は人口二十万につき、定員一人。豪族層が増えれば増えるほど、人口当たりの官僚志望層は増える。この程度では到底志願者数の定員としてふさわしいものではなかっただろう。前漢なら別に平民が官吏になれなくてもそこまで怒ったりはしないものだっただろうからね。科挙に至るまで一貫して豪族層、官吏志願層の増大があると思う。ま、途中で貴族制のように官職を必要とせず、地方の支配権を持つような影響力を発揮する方向にむかうのだが
 p49、コネが出世に大きくかかわる。中央地方問わず、長官には辟召という部下の自選権があった。三公・将軍の辟召がエリートコース。三公・将軍経験者は、必然的に多くの故吏をもつことになる。こういう意識は、学問の師弟関係にもおよび、それを「師君―門生」の関係という。高名な学者は、高級官僚でもある。実際に学問のてほどきを受けなくとも、高官の門生であることはステイタスとなりうる。学者の家として知られ、代々三公を輩出した汝南郡の袁氏が、「門生故吏は、天下の隅々にまでいる」と称されたのは、そういう理由から。単なる実利関係だけではなく、それが美徳という倫理、行動様式(エトス)であることを考えると袁氏の影響力の大きさはいうまでもない。王朝に仕えるという忠という大きな概念がまずあり、その忠が王朝が崩壊・混乱状態にあって崩れ、この
門生故吏という倫理が次にくるわけだ。この最も大きいネットワークを持つ袁家が台頭するのは必然と見ていい
 p51、官僚、わけてもブレイン養成所だった。門下省の前身ともいうべき侍中寺が設置されるのが、烹平六年(一七七)。「無行趣勢の徒」と批判された侍中の楽松・買護らは、鴻都門学出身。素行や家柄などは二の次にされたので、士大夫たちは同列になるのを恥じたという。だが、曹操も、張芝・張昶兄弟(張奐の子)につぐ草書の名手として知られ、音楽・囲棋・医学・化学にも長じていたという(『魏志武帝紀注引張華『博物志』)。鴻都門学がうちだした唯才主義の洗礼をうけていたことがわかる。古今東西、名君の条件は出自にとらわれず、実力で人を用いること。年功序列ではなく、結果を出したものを取り立てる。これだけで霊帝が名君であることが良くわかりますね~(追記、なんか色んな大事なものを見落としている気がする。諸生を集め、『皇ギ篇』を編纂させた。はじめは儒学に精通しているものを用いた―とあるように最初は儒学の中から自己の改革に都合のいい箇所を選び出そう、改革としての儒学だったけども、それができないから段々そこから離れていくことになった。文字の研究、新文字の創造はまさしくそれだろう。新文字の創造と尚書による郎から県長への認定という人事権の強化を考えれば、霊帝尚書に権力を集めてそこからトップダウンを図ろうとしたってことが一目瞭然じゃまいか。なんでこんなことに気づかなかった(´-ω-`)。
 唯材主義ってのと囲碁とか、音楽とかそういったものがどうつながっていくのかいまいち不明なんだよなぁ、張奐の子学者&西北列将の子が文字だけではないにせよ、どうして書の方に走ったのだろうか?まあ古文復活=新文字創造=文章形式なり、新時代の政治に都合のいい古典の解釈をするためであろうけど。改革の原理は近代以前は昔にあったものから探してくるものですからね。音楽も正しい音楽の復活とかそういうことなんだろう。文字・音楽はいいとしてその他の才能称揚ってあったのかな?気になるところ。
 霊帝直属の人事担当者である梁鵠が曹操を選んでいない。この時点で霊帝曹操ラインは消えるんだ。なぜこれに気づかなかった。のちに曹操は「俺を選ばなかったな、てめえ、このやろう」と当時の人事について恨み節を言ってます。ただし孝廉の初任官としては別に普通のようですね、北部尉(四百石)というのは。曹操が希望した洛陽令(千石)なんてのはありえない。ただこういった諸事情を考えると、霊帝=実力重視→曹操=実力最高→霊帝&梁鵠は曹操を高く評価して抜擢→初任から即千石というものを想定していたのではないでしょうか?逆算すると曹操も鴻都門学の徒ではないにせよ、そこの人士とかなり深い交流を持っていたんじゃないかな?って気がしますね

 p53、司空になっても曹操は清名たかい宗承に交際を断られている。曹操が地位を得ても磐石でいられなかった貴重な実例ですね
 p54、光和元年(一七八)十月、霊帝の宋皇后が謀反の罪で廃位され、その一族が誅殺される。その事件で姻戚がいたために曹操は免職となる。曹氏全体にとって、大きな痛手だった。また霊帝の寵臣、小黄門塞碩の叔父を禁令違反で殴り殺しているから、曹操は貴重な宦官系として注目を集める前に、なんて融通の利かないやつなんだ!と霊帝の怒りを買っていたのかもしれない。のちのキャリアからわかるように塞碩は霊帝の片腕ともいえる人物だ。心から信頼していたか、それとも使い捨てにするつもりだったかはわからないが*2
 光和三年(一八〇)六月、公卿に「古文尚書・毛詩・左氏・穀梁春秋に精通するものを一人ずつ挙げよ」という、詔がくだる。このとき、曹操は議郎に復帰する。前章であったように一族がいかなる存在かがこの時代に重要なファクターである。この事件が一体どれくらい曹家の地位を落としたのだろうか。あと曹操の修めたのはなんだっけな?春秋?これとは別に単に復帰しただけかな?古文尚書が先ほどの流れなら、後ろの3つもそれに何か関係するのか?詩が深く関わっているように詩によって学問の解釈をどうこうできた可能性があるのかな
 p56、黄巾の乱の功績で、曹操は皇帝の侍従武官―騎都尉(比二千石、奉車都尉・駙馬都尉
とともに三都尉という)に任ぜられ、穎川黄巾の鎮圧に活躍する。戦後の論功行賞によって、済南国の相(二千石)にうつる。ここでも、国内にある十県のうち、八県の令長を贈収賄の罪で罷免した。豪腕ぶりは、またしても権臣・貴戚のうらみを買う。「家禍」をまねくことをおそれた曹操は、病気を口実に郷里の譙県にひきこもり、読書と狩猟の日々にあけくれた。
 このとき自分一人ならどこまでも改革をやれたのだろう。家の支持がなければ立身できないとはいえ、家の被害を恐れてやめざるを得なかった。なんかどこかの国の首相の引責辞任を思い出す。でもちゃんと結果を出してるけどね
 ついでに黄巾の乱について一言言うと、演義的な賊のイメージは最悪で。末端は統制できないから暴徒化しただろうけど、むしろ多くは変わりつつある大土地所有制についてけない。弾かれた貧民を吸収した団体。宗教による統率力を発揮した。また、大土地所有豪族の中にも変わりつつある現実に対応できずに、参加したケースも多いだろう。デュルケム然り、急激な階層上昇で付き合うネットワークを持たなければ、頼りようがないからね。ま、宗教から見るのが己の専門ですから、一応こういう指摘をね。まさか学会で黄巾を否定的にしか見ないなんてことないだろうけど。黄巾を意外とただの賊だと軽視するケースをチラホラ見かけることありますからね。
 黄巾の乱の主な地=関東・江淮(淮水と長江にはさまれた地域)、および江南。これまでは辺境だった。またあっても、散発的なものだった。それが全国規模で一斉に。全国規模の反乱など例がない。国内で多くの民が社会から弾かれた。既存の秩序では最早限界ということを認識させたのは間違いない

 p58、閻忠が皇甫嵩にクーデターを勧めたり、冀州刺史王芬が霊帝暗殺計画を立てたりしている。王芬の霊帝暗殺計画は河北巡幸中を狙う。いわば自分の管轄区内であるから、事前に発覚していなかったら、成功した可能性がかなり高い。危機一髪だっただろう。このように、もうあっちこっちでてんやわんや。刺史が反乱って…。プロデューサーさん。刺史ですよ!刺史!刺史が暗殺考えるなんてちょっと考えられないですからね、普通。王芬って名前があと華歆の件しかでてこないからよくわからないんだよな。このクーデターの背景がよくわからない。*3陳蕃の子陳逸、天文暦数にあかるい襄楷、許攸、周旌をはじめ、多くの士大夫が一味にくわわっていた。不満分子とみられた曹操も、華歆、陶丘洪とともに誘われたが応じなかった。
 ここで気になることが、この冀州クーデターの性質。涼州における反乱同様、この冀州でも北方の遊牧情勢を巡って、もうこのままではやっていけない。辺境対策をしないと国が滅びるという危機感があっただろう。もちろんここいらの地元のおいらたちの暮らしをなんとかしてくれ!という声を背景にクーデターに踏み切ったに違いない。涼州を己は重視していたが、こちらも大きなところがあるな。見落としていた。よく考えれば、黄巾とそれ以前の乱でここら辺がダメージを受けていたのだから当然か。

 襄楷、華、陶丘洪は平原郡の人で、彼らは今言った地元勢力に値する。この点はよし。それ以外のクーデター勢力で、 周旌と曹操沛出身という共通点がある。ここに必然性を見出せるのだろうか?たまたま沛出身者が重なったのだろうか?それとも沛という場所に汝南・頴川・南陽といったいわば一流人士のすぐ下にある序列の中に組み込まれていたからなのか?(追記、沛は曹操が出たからそれに関係して色々人が出てくるものだと思ったが、沛という土地柄になにかあるのかもしれない、まあ道教的に関係が深い土地だし、まあ下になんだかんだ書いていますけど、結局劉邦との関係・王国発祥の地というのが大きいのでしょうか。黒山・白波の蜂起ってのが大きいんでしょうかね、やっぱり。視察もその影響を確かめようというものでしょうしね。仮にクーデターが成功したなら、皇帝代えてそれで治まるのか?という気がしますけどね。黄巾→黒山・白波、これもしかして対応しているのか?色と名詞で黒山・白波の対応はわかるけども、山賊から川賊までってことでしょう、もしかして黄巾の名前と関係あったりして?ちょっと面白いなこれ。)
 p46、第六代の陳王劉寵は弩射に秀でて、十発射れば、十発同じ場所に命中したというものと併せて、p48にあるように沛国の桓氏は、明帝の教師となった桓栄以来、「累世帝師」と称された名門。この二つから次のことを類推できる。前漢の時代ならともかく、後漢の時代になって出来た王侯というのは、粛清・権限削減を前提とされたものではない。すなわち王朝を輔弼する人材バンクのような役割を担わされたと類推しても、あながち間違いではないだろう。そういう理由から、本来推奨されない儒学以外の実用的なもの、軍事学や法律といった学問が発達する。あるいはスペシャリストを養成する。そのような伝統がある土地となったのではなかろうか?無論沛国の桓氏は儒学であって、儒学も当然やるだろうが。
 またもう一つ仮説が考えられる。それは中常侍だった王甫の養子王吉も沛国相の任に就いている。彼は酷吏伝に乗せられ、その任の間に一万人を殺したという。曹操も済国の相だ。つまり、皇帝直属の宦官グループによって率いられる部下が改革を実行に移す際の実験台の地として存在していたということ。この性質もぜひ検討しなくてはならないだろう。また王吉は寡婦となった桓氏という女性が貞節の誓いのため、みずから耳をそいだことを賞賛して、朝廷に報告している。つまり儒教倫理を賞賛することも忘れない立派な儒教の徒であった。やはり、儒法兵に渡ってそういうオールマィティな人材を育てる要素があったのだろう。
 ちなみに父の王甫が司隷校尉の陽球に弾劾され、太尉の段頗らとともに連座。王一族は滅んでいる。なんともまあ、わが国の改革派政治家が『記載のズレ』という理由でパクられ、一時失脚する―といったことを連想してしまう。改革派政治家としてやりすぎた結果潰されたのだろう。*4
 さきほどの桓氏一門の桓典(家学の『尚書』を修め、数百人の門徒アリ)は、王吉の「故孝廉」、王吉は桓典の「挙主」「挙将」といった関係にあり、王甫父子が死んで、親戚友人は礼を行わなかった。しかし一人桓典だけが王吉の遺体を埋葬、三年の喪に服し、礼をつくした。
 石井氏は吉利の幼名がこの王吉からとられたものだと類推しているが、きっとそうなのだろう。王吉は橋玄曹操ラインの中間に位置し、桓典は法家的なものがあったかわからないが、少なくとも儒教学問上の交流はあったのだろう。石井氏はまた曹操になれたかもしれない人物とも書いている。橋玄曹操への気をつけろ!という評価は彼の失脚に基づくものだろう。
曹操を推挙した人物の名が残っていないのは失脚したからで、おそらくこの王吉としている。 
 そして想像をたくましくすれば、橋玄の猛治、厳しい方針に恨みを持つものが、報復として狙いやすい宦官の系列である王吉を狙ったと考えることが出来る(もしくは沛国系統、西北列将系統を狙ったのだろうか?)。あとで触れますけど、曹操が名門楊氏の楊修=鶏の人を打ち殺して、親父の楊彪にねぇどんなきもち?どんなきもち?とばかりにネチネチいやらしく詰問してますが、一族にとって一番ダメージは跡継ぎを絶つことで、自分の息子を殺されるだけでなく、一族が傷つくわけですから、楊氏はダメージを受けたでしょう。ちなみに楊彪曹操より長生きしてるんですね。四世太尉ってどうなのかな?大尉ってやっぱり三公の中で格が落ちるのかな?袁家亡き後は文句ない第一の名望家、家になったんだろうけど。楊家は三国では目立たなくても、その後の晋でキーになりますから気になるんですよね。
 それと同じように改革派を潰すには本人じゃなくて、その後継者を叩くんですね。それが対改革派テロの基本です。田沼意次だって後継者の息子殺されちゃって、追い詰められましたからね。それと同じですね。別に改革派じゃなくても同じですけどね。北と交渉する上で有利にすすめるために一番いいのは、将軍様じゃなくて三男坊いつでも殺せるぞっていう諜報を行うことなんですよ。もう、将軍サマなんてほっといたらいつか死ぬでしょ。後継者がいるから、死んでも別にそんなに混乱しないんですよ。彼のスケジュールを100%抑えて、ここにいましたよっていうサインを常に示す。いつでも殺せるぞってね。ま、また毎回言ってますけどこういう歴史学の教訓は何一つ生かされませんけどね(ちょっと王吉飛ばすつもりだったけどやっぱり重要だな~と思って書いたから、ページ順が遡っちゃいましたので参照なさる方はご注意を)。
 んで、またもう一方の人脈メインの汝南・頴川・南陽系列が許攸・何顒が南陽で、袁紹が汝南。この事件に袁紹
何顒は関与してはいないだろうが、『奔走の友』つながりで。この関係性が非常に重要である。このメインの汝南・頴川・南陽系列が本格的にかかわっていなかったことが失敗の原因ではないか?ま、これは因果が逆だが、所詮冀州&北方の欲求から起こったクーデターに過ぎなかったというところであろう。
 袁術いわく、許攸は「性行不純」。貪欲で金に目がなかったという。だが、居合わせた陶丘洪が、「許攸は義のためなら身をかえりみない」という。おそらく張邈のように私財をポンポン援助してやる任侠的な人物であったのではなかろうか?しかしそのエピソードが残ってないんだよなぁ…。任侠的な人だから、曹操が権力を確立した後も自由に振舞って、オレルール・俺の生き様!を貫き通して処刑されてしまったのだろう(このように義侠的な人物と見るべきか、それとも豪族的経営者と見るべきか、クーデター参画でわかるように早くから冀州の社会・経済と関係が深かったのではないだろうか?曹操冀州統治に乗り出す上で障害になったからこその抹殺ですかな)。

 p59、この頃から袁紹袁術では派門があった。袁紹はこの時点で北方に目を向けることが確定だろう。『奔走の友』が冀州クーデターのフィクサーみたいなことやってんだから。おそらく彼らはあんまり学や家柄でのし上がれる要素がなく、勢力間の調停をこなす裏方として最適だったのだろう。だからクーデターなんかやるわけで、天下の情勢が落ち着いたら用なしになってしまう。薩長同盟を作り上げた竜馬なんかにこの点似ている。車も電話もない時代にフィクサーやるのはそれ自体が一仕事ですからね。そんなこと井沢センセー言ってましたし。袁紹の家に客がひっきりなしっていうのは、そういう情報が彼のもとに集まっていたということでしょうね

 汝南郡汝陽県の袁氏は、弘農郡の楊氏とならぶ、後漢きっての名門。『孟氏易』を修めた袁安以来、三公を輩出し、「累世三公」「四世五公」と称された。袁紹の父は早世するが、叔父の袁逢・袁隗も三公を歴任する。ツテはあったわけだ袁紹は、二十歳で任子(高官の子弟を任官させる選挙制度)に挙げられ、郎に任官。濮陽長として治績をあげ、「清名」をえる。その後、洛陽で隠居生活をおくるが、中常侍趙忠に警戒されたため、大将軍何進の辟召に応じ、虎責中郎将にうつる。
 袁紹は袁逢の庶長子、生母は、身分のひくい婢。のち亡くなった伯父の養子になった。だから、士大夫社会における評価も、決して高くなかった。袁術に「わが家の奴」と罵詈雑言をあびせ、敵対した公孫瓚も、「微賤」の生まれと決めつけている。そのため袁紹は虚誉・虚名を求める。たとえば、濮陽令を辞めたとき、わざわざ供まわりを減らし、単車で帰郷した。月旦評で有名な許劭の謗りをうけないためだったといわれる。母が死んだとき、すでに亡くなっていた父の分を合わせて六年の喪に服した(これは宮崎市定氏の著書にあったように全く無意味な行動。それでも時代はこういう虚行をもてはやした。六年の喪→雒陽隠遁という流れだっけ?)。
 p60、袁紹が、師とも兄とも慕ったのが何顒。清流派の幹部―郭泰・賈彪に目をかけられ、友人の仇討ちに手をかして名をあげた士大夫である。第二次党錮の際、汝南郡に潜伏し、党人の逃走を支援する。これに協力したのが袁紹。二人は「奔走の友」―義兄弟となる。党錮が解除されると、政界に復帰し、董卓の長史などを歴任するが、董卓暗殺の密謀をめぐらし、獄死した。
 名声を求める袁紹と、膨大な政界のコネを必要とする
何顒の思惑が一致したのだろう。しかし党錮の中心人物の後継者か…何顒は。この関係性から袁紹の宦官皆殺しという事件はつながるわけか
 他の「奔走の友」は、張邈(東郡)、伍ケイ(汝南郡)、および呉子卿の三人。張邈は清流派の幹部、「八厨」の一人(厨は「財を持って人を救うもの」の意味)。窮乏するものを見れば、家財を投げだして支援したので、「長者」と称された。のちに、反董卓同盟のフィクサーとなる(同じフィクサーなのに許攸とは違う人間類型。家の格の違いから来る立場の違いからか?)。伍ケイも「大節あり」と評され、董卓のもとで官界の綱紀粛正を推進するが、挙兵した袁紹らとの内通をとがめられ、殺される。一説には、董卓暗殺に失敗したためだという。呉子卿は呉班の父呉匡か?なぜ字が記されてはっきりと特定できないようになっちゃったんだろう
 許攸や張邈のように、曹操を共通の友人としているものも多い。なかでも、
何顒「天下を安んじる者」と評した。経歴からいって、袁紹の方が十歳年上で花嫁泥棒のようなエピソードはありえない。実際、彼は終始曹操の庇護者をもって任じている。
 「奔走の友」には、後漢末の動乱期に主役を演じた群雄・謀士が、顔をそろえている「奔走の友」は、結果的に、ポスト党錮・ポスト宦官の政局を動かす主流派に転身した。―とあるが、主役を演じた群雄・謀士とは誰を指すのだろうか?許攸以外は曹操袁紹決戦の際に死んでいるわけで、このように言うことが出来るのだろうか?それとも董卓政治で数多く採用されたことや反董卓同盟以後の群雄乱立の事を指しているのかな*5

*1:―って書いているけど、春秋時代の豪族社会ってなんだよ。今見返してもわからん

*2:順帝以来の旧宦官系よりも霊帝自身で選抜・徴用した新宦官を好んだ。旧宦官VS新宦官的な世代対立があったのかもしれないなぁ。曹操蹇碩の叔父をブチ殺しているのもその政争の一環なのかも。王甫が曹操と繋がってるから、王甫辺りとも関係微妙なのかしら?

*3:追記、涼州ならともかく、冀州の刺史が反乱というかクーデターを企むというのは、皇帝を自分の思う人物にしないかぎり、冀州の政治は上手く行きっこないという危機感から。皇帝を河北派・河北重視派の人間に代えないとどうにもならないという背景を考えるべきか。袁紹が河北に割拠したのも、曹操が魏国を作ったのも、同じ背景によるものなのかな。

*4:追記、別にオールマイティーである必要はないけども、皇帝=皇族・王国=人材バンクのルートはもっと注意すべきことか。通常の太守の管轄下にあるルートと違って、王の管轄下にある人材がどういう傾向を持つか抑えておくべき。いずれやろう

*5:追記、そういやこの「奔走の友」は袁紹が出奔したあとでも董卓政権に参加しているのか。目的は反宦官で宦官排除だから、別に董卓政治でもいいと見なせるわけだ。袁紹が出奔して初めて董卓袁紹かを選ばなければならなくなったわけで。前述の冀州の事情を考えると、袁紹冀州に行っちゃっても、反乱よりも安定化とみなせるからわざわざ後から渤海の太守を追認したんじゃなかろうか?董卓袁紹と折り合えると考えてもおかしくなかったわけだ。