てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

石井仁さんの『曹操』から(三節)

とうとう第三章。霊帝編です。霊帝名君論を提唱していた己としては放ってはおけないところ。霊帝の改革を詳しく見ていきましょう。あ、コレ章じゃなくて、節ですね、単位。節に直しておきます(^ ^;)。例によって太字拙感想。

前回の二節はこちら→石井仁さんの『曹操』から(二節) 四節はこちら→石井仁さんの『曹操』から(四節)

魏の武帝 曹操 (新人物往来社文庫)/石井 仁
魏の武帝 曹操 (新人物往来社文庫)/Amazon.co.jp

【三節】
 p63、諸葛亮・范曄は霊帝を暗愚としているが、討虜校尉の蓋勲(がいくんかと思ったらこうくん―と読むようですね)は、同僚の袁紹らに「お上は大変聡明、側近が悪い」といっている。むしろ、霊帝は覇気あふれる人物。光和三年(一八〇)、四本の剣を鋳造し、「中興」の銘文を刻ませた。彼の王朝再建改革策こそが、西園軍と牧伯制。中平五年(一八八)十月に、洛陽西郊の離宮―西園の平楽観での精鋭の歩騎数万からなる大軍事演習を決行。霊帝は「無上将軍」と称し、新軍―西園軍の成立を宣言した。順帝の陽嘉元年(一三二)に造営された西園には、後漢末、ちょうどフランス・ブルボン朝最盛期のベルサイユのように、政府機能が移転していた。
 コレまでの政治構造では既得権を持つものから邪魔をされるから、
改革を行う者は必ず改革しやすい新しい政体を作るか、実行の中心場所を移す。改革者としての順帝→霊帝がわかる。つまりバカ皇帝は後世の物語の虚像に過ぎない

 p65、後漢の正規軍は、①九卿のひとつ光禄勲所属の親衛隊―虎賁・羽林・左右羽林など、②おなじく衛尉所属の徴兵部隊―衛士(宮城の警備)、③執金吾所属のテイ騎(都城の警備)のほか、屯騎・歩兵・越騎・長水・射声の五校尉所属の営士などから構成される。いずれも、基本的な任務は皇帝の護衛(=宿衛)、もしくは首都防衛なので、外征の際には、地方軍や非漢民族の傭兵もまじえた混成軍が編成された。だが、後漢末、徴兵制が破綻し、親衛隊士の資質も低下する。だから、黄巾の乱がおこったとき、もはや既存の軍隊では対応しきれず、民間からの募兵にたよらざるをえなかった。
 これに対して、中蔵府の銭穀と西園の厩馬によって運営される西園軍は、いつでも出動可能な常備軍後漢末、少府所属の財務局―中蔵府が財政を担当し、西園内にはロクキキュウ(一八一年)など、皇帝専用の厩舎―内厩がもうけられていた。だが、当時の中国には数万の常備兵を維持する経済力はなかった。貧乏王族から即位した霊帝は、異常なまでに蓄財に固執したと批判されている。どうも、その一端は軍事費捻出のためだったらしい。
 まず①親衛隊②宮城警備隊③都城警備隊の三つの軍隊があった。どうみても、親征をする目的ではなく防衛を基本にすえたもの。もちろん遠征の際にはここからある程度の人数か選抜されているのだろうが。中央から地方、辺境を直接叩くための軍隊建設は、王道中の王道であろう。
 外征の際、非漢民族の傭兵が混ざったという点に注目したい。兵士の質が落ちるというより、平和になればなるほど、軍隊は必要とされなくる。よって軍費が削減され、待遇も悪くなったのだろう。良い鉄は釘に、良い人間は兵士にならないというくらいだから。直属軍は絶対王政の始まりとあるように、霊帝絶対王政型のkingと考えるのがすんなり理解できる。直属の軍以外に金と馬の機関を設けたのはどちらも経済と安保対策だろう。一端は軍事費捻出と記されているが、傾国を立て直すのにトップが使える金を集めて対策にまわすのは当たり前のことだと思うが、ほかに何があるだろうか?とにかく霊帝は既存の官僚組織ではなく、自己の意を中心とした改革を行った。当然既得権を侵害される人間は激怒する。悪く言われるに決まっている


 西園軍の指揮官として、八校尉が任命される。上軍校尉…小黄門の蹇碩、中軍校尉…虎責中郎将の袁紹、下軍校尉…屯騎校尉の鮑鴻、典軍校尉…議郎の曹操、助軍左校尉…議郎の趙融、助軍右校尉…議郎の馮芳、左校尉…諌議大夫の夏牟、右校尉…諫議大夫の淳于瓊。実質は上軍・中軍・下軍の三軍編成。古の諸侯のように霊帝は自ら三軍の陣頭にたち、天下布武の抱負を実現しようとした。
鮑鴻は鮑信の一族か?
 「無上将軍」の「無上」は、『太平経』にも頻出する、道教のキー概念。「太平の世」を実現する真君を意識したのか?反乱を起こしたものがこの「無上将軍」を名乗っている。むしろ彼らが先に道教の概念から反乱を起こして、霊帝は彼らの言い分を取り入れて不満を俺がかなえてやるぞ!という意味で使ったと考えるのが自然だろう(※追記あんまり末端の下層の道教信仰とつながりがあったと無理に考える必要はないかな。むしろどうしてそういう下層の願いをうまくシステムとして組み込めなかったのか、新しい社会制度として再編出来なかったのかに注目すべきではあると思う)
 太常劉焉の建白が採用され、牧伯制を採用。監察官である州刺史が次第に行政ブロックの長に近づく。コレを正式に認めて地方統制を強化しようとする。州刺史に「使持節・監軍」の権限を与え、軍政支配を容認。つまり将軍兼行政長官。九卿とおなじ待遇、秩中二千石&列侯の爵位が与えられる。結果、劉焉は益州牧、宗正の劉虞が幽州牧、太僕の黄琬が予州牧、議郎の賈琮が冀州牧―と四人が州牧となる。三公・大将軍のように府をかまえて幕僚を自選する権利― 「開府辟召儀同三司」を付与され、三公を兼任する事例まである。魏蜀呉の三国はすべて制度的にこの州牧の延長上にある。中興をもくろんだ霊帝の意図とはうらはらに、牧伯制は帝国を分裂にみちびく、いわばバンドラの箱だった。
 ―とあるが、これはそもそもおかしい。因果関係が逆。危機だから、大幅な権限を与えた。危機じゃなければそもそもそんなことは起こらない。うまくいけば国家が持ち直すこともある。しかし歴史の流れを見てむしろ分裂は必至。強力な権限を与えるということはもう、中央についていくよりも独立した方がいいという声に力を与えるに決まっている。先に地方単位の独立機運ありきの話。うまくいけば、成功した可能性もあっただろう。もちろんこういう意味で書いたのではなく、牧伯制に三国時代のきっかけがあるということを強調したいからこう書いたのでしょうけどね。一応突っ込みを

 p67、曹操の典軍校尉はおそらく大将軍何進の腹心袁紹の推薦か。
 p68、本来、将軍は有事の際に特設される最高司令官。臨時職の建前は維持。輔政の大臣が任官する大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍は、三公相当の格式をもつ。これにつぐのが、九卿格の左・右・前・後将軍と、外征を担当する「四征将軍」。後漢はじめ、馮異が征西大将軍、岑彭が征南大将軍を拝受したことから。後漢末の献帝代、征東・征北将軍、および鎮東以下の四鎮将軍、おなじく四安将軍・四平将軍をくわえ、合計十六将軍の総称となる。ほか一括して「雑号将軍」。また、将軍の下級武官として、中郎将・校尉・都尉・司馬などがある。
 曹操直属軍を「中軍」というのは西園軍から。初期の曹操軍には、八校尉とおなじ官職が設置されていた。のち四方の最前線には都督将軍府というものをおくが、これは牧伯制をベースに、四征将軍を組みあわせたもの。西園軍・牧伯システムは董卓袁紹そして、六朝時代の軍事制度にまで引き継がれる。曹操は、霊帝の無上将軍ビジョンを引き継いだという点で、霊帝の後継者。

 p70、言わずと知れた霊帝の二人の皇子、少帝劉弁献帝劉協。劉弁は、父の目から見ても平均以下、「軽佻浮薄で、威厳がない」。いっぼう、劉協の名は、自分に容姿が似ているという理由から、霊帝自身がつけたもの。どっかの北朝鮮じゃないんだから、似てるってどうなんでしょ?
 何も霊帝だけではなく、袁紹劉表は長男を後継者から外し、曹操孫権も散々迷っている。ただの偶然ではない。相続に関する意識が変化しつつあったのだろうか。―と石井氏は書いているが、別に取り立てておかしいところはない。むしろこういう乱世においては必然だろうと思う。普通の治世だったら問題なく、長男継承だけで何の問題もないからそうなるだけで。
 普通最初は権力基盤を安定させるために長男の家とのつながりを大切にする。しかしその長男の家の権力が大きくなりすぎて、次のリーダーに長男がなった場合、その裁量権、自己の意を通す余地が限りなく狭くなって、王朝が皇帝・トップの意で動かせなくなりやすい。だからこそ母の違う次男の家に任せるケースが多い。また逆の例もある。安定した次男の家の方が長持ちしやすいとかね。ま、ケースバイケースでしょうけど。そして何より若いこと。少しでも安定した政権になりやすいから、長男以外の若い者にしようかと考えるわけですね。至極当然の考え、常識です
*1

 p71、何進は、袁紹および虎賁中郎将の袁術らを腹心に、積極的に士大夫を登用する。王允を大将軍従事中郎、陳琳を主簿に起用したほか、逢紀、何顒、鄭泰、荀攸など、「海内の名士」二十人あまりを辟召。
 曹操が宦官一掃クーデターについて反対していたことは有名だが、曹操は現場の一将校ぐらいにしかみなされず、重要な決定の場から外されていた。何進の地方軍召集は、直属軍の強化であって、特におかしい策でもなんでもない。むしろ普通でしょう。騎都尉の鮑信は兗州、同じく王匡は徐州、司馬の張楊并州張遼は河北に派遣された。曹操も都尉の母丘毅や劉備らとともに、沛国・丹楊方面で募兵に従事させられた。どう見ても高い地位にあった人間がする仕事ではないな

 p73、召還する地方軍のリストに前将軍の董卓の名前があがると、反対の声はさらに大きくなる。ダーク董卓、クソッたれ董卓と貶められているので、こういうことをした何進はバカなんだ、アホなんだとマイナス評価をされることが多いです。むしろ逆で、最強精鋭軍の涼州の軍を取り込もうとした。そして当然それによって、リストラされる内地の将士が反発した。ただそれだけの話です。董卓とまともに戦えたのは孫権くらいですからね。曹操のキャッチコピーが三国志の真の主人公なら、董卓五胡十六国の真の主人公でしょうか*2
 父は頴川郡綸氏県の尉。董卓もまた、桓帝の末ころ、「六郡良家子」に挙げられ、羽林郎に任官する。遊牧民族と境を接する最前線から、騎射に巧みな者が選抜され、親衛隊士― 「郎」にとりたてられる者。れっきとした官僚なので、出世の道もひらけていた。これが、六郡良家子とよばれる、選挙法の由来。もちろん、孝廉・茂才の施行後、エリートコースではなくなる。董卓は、前代の遺物のような制度で官界に入ったのである。初陣は永康元年(一六七)の冬。使匈奴中郎将張奐の司馬となり、三輔に侵攻してきた先零羌を討伐する。羌・胡との戦いは「前後百余戦」におよび、段熲の推薦をうけて中央政界に転じる。黄巾の乱以降、東中郎将、破虜将軍などを歴任し、冀州涼州を転戦するが、はなばなしい戦果をあげたわけではない。父の頴川でのキャリアが董卓にどういった影響を与えたのかなぁ?経済の中心地である頴川を見てこのやろう!と感じたのかも
 董卓の軍にも含まれていた「秦胡」は、胡漢の混血児をさすという。梁冀の子孫が羌族の集落にかくまわれ、首長になったという伝承もある。だから、暴動をおこした羌・胡といっても、純粋な異民族ではないし、討伐する側も徹底的にやっつけたりはしない。西北の列将―皇甫規や張奐も、懐柔策を優先した。彼らのもとで学んだ皇甫嵩董卓は、その後継者だった。おそらく、董卓の「百余戦」は、悪くいえば、八百長試合。反乱軍にも、西北列将のもとで働いた将校・官吏が多数くわわっている。なかなか鎮圧できないわけだ。中平六年(一八九)ころ、朝廷は董卓を制御できなくなっていた。漢の枠組みから弾かれた、あるいは政争の敗者が紛れているわけですね。梁冀の子孫が~という伝承があるあたり、彼の西方辺境とのパイプの太さを想像させますね
 p74、董卓のほか、并州刺史の丁原、東郡太守の橋瑁らが洛陽をとり囲む。さらに、袁紹司隷校尉王允が河南尹に任ぜられ、官中に圧力をかける。追い詰められた十常侍たちは、二十年前に竇武を打倒したクーデターを再現しようと何進を暗殺する。丁原・橋瑁・袁紹王允董卓らはこのクーデターの仲間・サークルですね。んでこのあたりの政変事情がかなり不透明で気になるところである。そもそも何進士大夫側には距離がある。何進は名家に婚姻を求めて、一笑に付されたこともある。宦官を滅ぼして彼にメリットは何もない。その彼をなぜ宦官側が殺す必要があったのか。宦官融和派の何進を殺すのではなく、強硬派の袁紹を殺すのなら話はわかるのだが。それとも、袁紹も宦官の兵によって討たれる可能性があったのだろうか
 袁紹は叔父の大博袁隗とともに、宦官側の司隷校尉焚陵と河南尹許相を逮捕・処刑。兄に非協力的だった何苗も、何進の兵にうらまれ、討たれた。司隷校尉・河南尹が何人もいるものか?後付で袁紹サイドが任命したものの正式なものではないから、旧職のものがまだ実権を握って手放さなかったのだろう。そして注目すべきは袁隗の存在。梁冀を後押しして、後一歩のところで梁冀クーデターが成功する、禅譲プランが見放されたのに対して、今回のクーデターは外戚禅譲でないとはいえ、彼が首謀し、そして殆どうまくいっている。結果はもちろん董卓が最後にひっくり返したんだけど。何進が楊家の故吏であるというのなら、そのラインを切り捨てるという意味があったのだろうか?楊家は袁家と並ぶ四世三公でありながら、ここに至るまでの過程が極めて地味だ。献帝に付き従った楊彪が見えるくらい。晋にいたって一気に花開くわけだが、楊家は一体どういう方針で行動していたのだろうか…。
 かくて、百年ちかく、政治を動かしてきた宦官は全滅した。将軍の何進何苗兄弟も殺され、混乱を収拾するものがいなくなる。それは、朝廷の機能停止をも意味する。漢王朝は、事実上、中平六年八月の洛陽兵変をもって滅んだ。
 宦官・外戚滅んで王朝滅ぶ。さすが石井さんはツボを押さえているなぁ
 p75、そして霊帝と並んで評価の低い董卓が出てきます董卓が権力を握って、袁紹冀州に出奔。これに許攸・逢紀らが同行。袁紹董卓襲撃を勧告した鮑信、会議の席で異議をとなえた盧植らも、帰郷。自分の本家である汝南ではなく、冀州に出奔しているところから、明らかに冀州の勢力と結びついていたのだろう。宮崎市定氏は漢帝国の成立、そしてその後の内乱を楚漢戦争。辺境勢力のぶつかり合いとその本質を喝破したが、今回も同じだろう。北方遊牧民を中心とした辺境か、西方遊牧民かその違いに過ぎない。涼州・幽州戦争か。西は涼州しかないけど、北は幽州から并州果ては冀州に及んでいる。そういえばのちの劉備袁紹の合流はこの北方勢力の再結合だなぁ。元々、劉備袁紹はかなり近いのだろうなぁ、その政権構造が*3
 p76、宦官のポストを士大夫にあてる。侍中・黄門侍郎の定員化(各六名)し、両官は、中常侍・小黄門と競合する士大夫侍従職。以後侍中は隋唐の三省体制下、宰相の職となる。つまり董卓の制度改革が基本となっているわけだ。少府所属の諸内署―平準令などの帝室財務官を、士大夫のポストとして回収し、公卿の子弟をあてる。今でいう太子党ですね。彼らの歓心を買おうと人事を行ったわけです。滑り出しとしてはまあ悪くないものでしょう
 董卓は、吏部尚書の周毖、城門校尉の伍瓊、尚書郎の許靖に官界の粛正を推進させる。このとき、召しだされた士大夫は、荀爽、韓融、陳紀=この三人は頴川郡出身、蔡邕など。申屠蟠のような、大物の隠士までかつぎだそうとする。荀爽は九十五日で司空となる。蔡邕も、わずか三日間のうちに侍御史、持書御史、尚書を歴任し、侍中に転じる。董卓士大夫たちの歓心を買おうと、躍起になっていたことがよくわかる。スピード出世で彼らを自己のブレーンに置こうとしていたことがわかります。荀爽には荀彧・荀攸に対する役割、袁紹に対する袁隗のような役割を期待していたのだろうか
 韓馥(この人も穎川)を冀州牧、劉岱を兗州刺史、張咨(同じく頴川)を南陽太守、孔伷を予州刺史、張邈を陳留太守に起用。牧伯制の施行以来、州牧・刺史は重んじられ、南陽・陳留は人口の多い大郡。このような要職をおしげもなく、士大夫にばらまく。きわめつけは、袁紹勃海太守に任じ、邟郷侯に封じたこと。周毖らの諫言とも脅迫ともつかない意見を聞きいれ、譲歩に譲歩をかさねたのだ。面白いのが南陽太守の張咨。彼だけは董卓を裏切っていない。中立を決め込んで、孫堅に殺されている。このへんはもっと注目されてもいいと思う。単に頴川出自の士大夫で、どちらに転んでも自分の地位が安泰だからと説明できるが、それならなぜ他の士大夫が殆ど一斉に反董卓を表明したか説明がつかない*4
 p77、このころ、曹操はおもてだって廃立に反対するでもなく、模様ながめを決めこんでいたらしい。だが、ギョウ騎将軍を授けられ、朝政への参与を要請されるにいたり、態度を鮮明にせざるをえなくなった。おなじころ、左将軍に任ぜられた袁術は、南陽郡魯陽県に出奔した。曹操は陳留郡張邈の下へ逃げた。
 張邈と弟の広陵太守張超。これに呼応した兗州刺史の劉岱、予州刺史の孔伷、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺(字は伯業、袁紹の従兄)らが、続々と陳留郡の酸棗県に集結。南陽では袁術冀州では袁紹が、河内太守の王匡もこれに応じる。それぞれ数万の軍勢をひきいていた。
 p78、陳留郡己吾県。郡国こそちがえ、曹氏一族にかかわりの深い土地だったのだろう。この地で、曹操は挙兵の準備にとりかかる。衛茲は、己吾のとなり、襄邑県の士大夫曹操に会った衛茲は、一目で直感する。「天下を平定するのは、この人だ」。意気投合した二人は謀議をかさね、家財を投げだして兵士を募る。初平元年(一九〇)正月、諸軍の盟主におされた袁紹は、車騎将軍・領司隷校尉を号す。いわゆる反董卓同盟の成立である。曹操は行奮武将軍事(奮武将軍代行)に推薦された。もちろん自称である。泰山から歩兵二万・騎兵七百を動員していた破虜将軍の鮑信と、弟の稗将軍鮑韜。鮑信は曹操の異才に気づき、ひそかに告げる、「希代の才にめぐまれ、戦乱をおさめることのできるもの、それは君だ」と。衛茲と鮑信こそ、曹操の覇権をプロデュースした真の立役者。
 なのですが、ここで重視すべきは曹操が何故この二人から認められたのか。能力があるだけではなく、その背景に注目すべき。地元の英雄・名士がなぜ曹操に目をつけたのか

 p79、董卓軍団の中核は、涼州并州の兵(并州兵は、丁原暗殺後、呂布にひきいられて帰参したもの)。非漢民族の傭兵も、両州が供給源。だから、同盟軍との長期戦をたたかうには、長安に本拠地をうつすのが有利と判断したのである。
 長安遷都は当たり前のことですが理に適ったものですね。なぜか政治改革上遷都するのは常識だということは出てきませんが。ちなみに八種西羌という固有名詞を、董卓が最強兵といわれる六種を収めている―という説明で六種なのに何で八種?誤り?と『実録・三国志』読んで思いました(^ ^;)。いきなり六→八に変わって?と思ってしまいました
 p80、曹操の強硬論は、董卓を討ちはたしたとして、そのあと、どのように漢王朝を再建するのか。そういうビジョンも示されていない。だから、よくよく考えれば、スタンドプレーとうけとられてもしかたのない、机上の空論。
 というより、霊帝反乱のときからすでに、論点は新王朝再建、王朝じゃなくても新しい政体を確立することだったから、董卓を討つことは目的の二の次。その先にそって動いている。これは政治家の下にある軍人が戦略上というより、戦争上今なら勝てますと主張して、政治家に却下されただけのこと。それ以上でも、それ以下でもない。それより地盤・足元を固めるために、その支配を固めようと実権掌握に出る。改革・革命に出るものは強固な地盤・実権が必要。むしろこれは袁紹の方が当たり前の行動をとっただけの話。勿論そういう持久戦方針を取られたら、軍隊が駐屯したり、戦場になったりする地元の人は溜まったものじゃないですけどね
 で、やることのない曹操は辺境の兵集め。丹陽兵を求めにいく。揚州の江東は漢民族のフロンティア。地元出身の群雄、陶謙も多くの丹陽兵を従えていた。揚州刺史の陳温と丹楊太守の周昕が兵四千を用意する。とくに周昕は、前後あわせて一万人あまりを派兵したという。若いころ、陳蕃に師事した経歴をもつ士大夫。二人の弟、周コウ・周ギョウとともに、曹操とは旧知の間柄だったらしい。ことに周ギョウは、曹操の挙兵に際し、兵二千をひきいて合流している。また、陳温は曹洪と交友があったといわれる。
 しかし、せっかく手にいれた虎の子の丹陽兵は暴動をおこし、曹操の命をねらったあげく、大半は脱走してしまう。残留を希望したのは、わずか五百人。途中のチツ県・建平県から千人あまりを募り、なんとか体裁をととのえた曹操は、そのまま河内の袁紹軍に合流する。
 p81、董卓は名士を派遣しとりあえず講和を図る。派遣されたのは大鴻臚の韓融、少府の陰脩、執金吾の胡母班(王匡の妹夫、「八厨」のひとり)。董卓は反乱により、袁紹の一族を処刑している。その理由から使者をほうっておくわけにはいかないだろう。しかし殺さずとも軟禁するだけで十分なはず。何故即、処断したのだろうか?軍事上、下に示しが付かない、大義名分上殺さないわけにはいかないというのは一応理解できるが…。橋瑁も劉岱に殺される。
 よって袁紹は劉虞擁立に走り、張邈が疑心を抱いたとある。つまり袁紹は絶大な影響力を持つと言っても、袁紹を完全な支配者とするまでにはいかなかった構造にあった。さらには橋瑁も劉岱と争っているわけだし、別に強力な対抗馬、政策派閥・集団が存在する余地があったわけだ。そうじゃなかったら、張邈があっさりさようならとはならなかっただろう。あと自分と同じ「八厨」のひとりを殺されたことも大きいのかな?
 胡母班は袁紹に、陰脩は袁術に殺されているわけだけども、これは逆だったらどうなのだろう?袁紹派と袁術派に分かれるように、北方派=袁紹なのだが、西方派=董卓なら、南方派=袁術とみていいのだろうか?袁術南陽系、汝南・頴川が支持をしてくれたらスッキリするのに、そうなっていないから腹がたつなぁ(^ ^;)。袁術は謎の多い男です。本当にもう(笑)。ま、一応北方・西方・南方という区分、それで見ていいと思う。そう見れば流れがすっきり説明できるでしょう*5
 p83、後漢の人々にとって、光武帝はヒーローだった。袁紹袁術などは、悪くいえば、光武帝にかぶれていたふしがある。ふたりにくらべれば、よほど自由な発想のもちぬしだった曹操劉備でさえ、光武帝の幻影から逃れることはできなかった。即位前の光武帝とおなじ条件をもつ劉虞には、関東の支配者として十分な資格があると思われた。大司馬に任ぜられて河北を鎮撫し、功臣に推戴されて帝位に就いた事跡になぞらえられたわけですね。伝統主義の古代社会においては何事も先例が説得力を持ちますからね。このロジックはかなり説得力があったのでしょう。『魏志袁術伝に引かれる韋昭の『呉書』は、おのれの野望をみたすため、賢人を皇帝に戴くことに反対したのだ―となんでもかんでも袁術を否定するために言ってますけども、単に呉の正統性上から、袁術否定しただけですね。あと、北方派の人物を天子になんかされたらたまったもんじゃない、当たり前でしょう。
 袁隗も天子を見捨てなかった、董卓を滅ぼすことに義があると主張しているのが興味深いですね。結局、袁家の報仇、仇討ちこそが正統性になるわけです。一応、漢への名分も立ってますけどね。そういう意味で袁家の仇討ちが達成できなかったのは大きいですね

 p84、録尚書事となり、「承制封拝」―百官の任用・爵位の授与を執行するよう要請する。意志決定と論功行賞の所在だけでもはっきりすれば、同盟軍の解体を阻止できる。これすら拒否されて、袁紹の政権・政体は早速危機に陥ります。対照的に袁術孫堅を中心に攻めて成功する。
 p85、後方支援が袁術、前線指揮が孫堅。役割分担も明確な、同盟軍中、最強コンビが誕生する。両者の友好協力関係は、孫策の自立までつづく。誤解をおそれずにいえば、孫呉政権も、主客の立場をかえた、袁・孫連合の延長線上にある。どこが誤解なんでしょうかね?そのまんまだと思いますが
 参軍事(軍事顧問)の孫堅は、車騎将軍の張温に、反逆のきざしを見せていた董卓を斬るよう進言する。南方系と西方系の対立とはいえ、本当にそうしろって言ったら、むしろアホですね。西方董卓の主戦地で、彼を切ったらそれこそ取り返しがつかなくなるに決まってるでしょう。史家が脚色したんでしょう。孫堅の先見性をアピールするために
 兄の子東中郎将の董越をメン池、娘婿の中郎将牛輔を河東郡安邑県、中郎将の段煨(段穎の一門か?)を弘農郡華陰県に駐留。関係ないが、董卓が死んだ後の跡継ぎって誰になるんだろうか?董越・牛輔どっちだろう
 p86、劉虞擁立に失敗した以上、次の一手地盤の確保に動く。地盤なき軍は滅びてしまうから冀州獲得に。冀州の強弩兵は、幽州の烏桓突騎(烏桓族の傭兵)とならび称される「天下の精兵」(蔡邕『幽州刺史議』)で、張楊(賊の人ね)、亡命中の南単于於夫羅、および韓馥の将麹義袁紹側に合流。有名な冀州譲りなんだけれども、ここでちょっと思いついたが、公孫瓚を呼び出して危機を演出して、韓馥から州牧の地位を譲らせるという構図は洛陽の政変の図式と全く同じではないか?ひょっとして、董卓(もしくは丁原とか、)が攻めてくるぞ!→宦官に降伏させる。こういった筋書きだったのだろうか?その宮廷工作が主流・主眼であって、軍事はあくまで二番手、補助目的だったのか?そうだとするとその後の袁紹の行動も説明がつく
 p87、ちょうどそのころ、百万の青州黄巾が勃海郡に侵入する。袁紹の要請をうけ、幽州から南下していた
公孫瓚は歩騎二万をもって、これを迎撃。黄巾は戦死者数万、捕虜七万をだして敗走した。この時点まで公孫瓚袁紹の下にあった?共同作戦?劉虞を含めて三者の関係はどうなっていたのだろう?公孫瓚の威名は、一気にたかまる。また、張楊於夫羅とともに袁紹軍を離脱し、董卓から建義将軍・河内太守を授けられる。こののち、関東と関西の通路をおさえ、いっぼうの群雄として政局のキャスティングボードをにぎることになる。
 
 張楊於夫羅袁紹側から、董卓側への寝返り。ここはものすごい重要な話だと思われる。上の話と、この話をあわせれば、その後の袁紹の行動、結果を十分に結論付けられるではないか!おkおk。線は一つにつながった。金田一なら謎は全て解けたです。バーローです
 p88袁紹袁術の闘争が激化し、こうして、反董卓同盟は空中分解した―とあるが、実際は袁紹袁術は同盟を結んで戦ったことはなく、実質山東諸侯の乱であるから、反董卓同盟という視点で捉えるのは誤り。後世から見て曹操が参加していたから、魏の正当性を構築する上でそう捉えたから、
董卓同盟と記されているだけでしょう
 
公孫瓚は一時配下を刺史に任命して、本格的な南下、冀州の諸郡県は、なだれをうって降伏したといいますし、この辺が彼のピークですね。初平三年(一九一)、袁紹が界橋で公孫を破る。公孫は、徐州刺史の陶謙を味方につけ、体勢をたてなおすと、平原県の龍湊に進出し、袁紹曹操連合軍とにらみあう。翌四年(一九一)春、両軍は、長安から派遣された太僕趙岐の和解をうけいれ、それぞれ軍をひく。このときの和睦を演出した董卓の意図とは?背景に何があったか
 三月、袁紹が鍾鹿県の西、薄落津に到着したころ、本拠地、鄴の留守部隊が反乱をおこし、数万の黒山軍をひきいれる。黒山は、朝廷が任命した冀州牧の臺寿(―だいじゅというよみであるが、壺寿=こじゅ、じゃないんかな?
)を奉じていた。長安の李傕・郭汜らと黒山、それに冀州の土着勢力が手をむすんだ袁紹追いおとしのクーデターだったと思われる。反撃に転じた袁紹は、六月、太行山系(山脈の誤字かと思ったわ。山系ってなんだろ?)に侵攻すると、黒山の塢壁(要害の地に築かれた自衛・自治集落)を次々に攻略し、南下してきた大頭目の張燕と対戦する。決定的な勝利はのがしたものの、黒山を封じこめることに成功した。
 公孫
も同じく苦境にあった。州牧劉虞から食糧を頼っていたから。少し疑問に思ったのは裏を返せば、あるところまで劉虞は食糧を援助していたことになる。つまり袁紹に対立し、彼を潰そうとしていたことになる。劉虞の意図は一体どこにあったのだろうか
 
公孫瓚は、朝廷から前将軍・督幽并青冀四州諸軍事・易侯を授けられる。つまり、袁術より西方の董卓と手を結んだわけだ。よく考えれば、彼の政権の性質は董卓側に近い。当然そうなるだろう
 p90、禅譲、革命で王莽と曹操の中間にいる董卓
 中平六年(一八九)八月、司空・領前将軍。
 九月、太尉・領前将軍。郡侯に封ぜられ、節鉞・虎賁(弓矢?)をたまわる。
 十一月、相国。讃拝不名・入朝不趨・剣履上殿の殊礼をうける。
 母が池陽君に封ぜられる(「君」は公主に準じる女性の位)。
 初平二年(一九一二月)、太師、位は諸侯王の上。「尚父」と号す。諸子が列侯に封ぜられる。
 相国は、前漢の蕭何・曹参以来、だれも任ぜられたことのない宰相職。太師は、古代の聖人―太公望呂尚・周公姫旦らが就任した、伝説的な宰相職。前漢末、三公の上に四輔―太師・太博・太保・少博をおくが、後漢では大博以外、廃止される。なお、董卓が号した「尚父」は、太公望の尊称である。太公望羌族出身といわれる。異民族出身者と自分をなぞらえるところが、明らかに漢民族の視点を超えている点。董卓独特のものだろう。もし漢人だったら、まあ漢人なんだけど、周公旦になぞらえるのが普通だろう
 臣下の礼を免除される特権―「蕭何の故事」とよばれる殊礼。蕭何にはじまり、王莽、梁冀が許され、董卓が四人目。改革の手はずを整えたブレーンは蔡邕。董卓長安の東に築城し、太師府をおく。御史や尚書は指示をあおぐため、日参する。さらに扶風の郿県に「万歳塢」を築く。城壁の高さ・厚さはともに約十六メートル。当時の長安城とおなじサイズだった。三十年分の穀物が貯蔵され、董卓は「天下とりに失敗しても、ここを守れば、余生をおくるにじゅうぶんだ」と、豪語したと伝えられる。曹操が糞州攻略後、本拠地を鄴にうつし、許都の朝廷をリモートコントロールしたのも、規模を拡大しただけ。革命直前に出現する二重政府の発想も、董卓からはじまったものなのだろう。より詳しく言うと前に書いたように、梁冀→順帝→桓帝霊帝董卓曹操となる

 あー長い、疲れる(^ ^;)。さて、もうそろそろ、触れるものもないから、456まとめてやっちゃうかな。徐州虐殺ありえないくらいしかいうことないだろうし。

*1:追記、献帝の生母王美人は祖父が五官中郎将王苞で趙国の人、陳留王で兗州にコネがあるところが、曹操というか兗州系の人達に担がれたポイントなんでしょうね。また王美人死後は、董太后が養育・後継人。河間董氏、陳留王になる前には渤海王でもあった。
 冀州関係のコネが凄いのだけど、冀州統治を重視したはずの袁紹と折り合いをつけられないものなのか?逆に言うと袁紹冀州統治の妨げとなるようなコネなのかな?まあ実際に封国されていないから、コネが弱いという見るのが当然なのか。それでも都でそのコネ関係者が取り巻きになるはずだから、軽視できる程ではないと思うが。
 蔡邕なんか陳留の人ですし、董卓との関係を考えると、真っ先に皇帝の顧問的な感じになりそうな存在ですよね。ころころキャリアの中で最終的に侍中となったのがまさにそれっぽく思える。ここに献帝=蔡邕の繋がりを見いだせると思うのだけど、どうかな?
 渤海王である劉協を3ヶ月でわざわざ陳留に移して、袁紹渤海太守を任せるという配慮も見逃すべきではないのかな。この時劉協関係者の人は陳留に行ってしまうのか?派遣されてた劉協の配下はそうだけど、現地の人間はそうではないわけで。ここで袁紹と劉協にパイプが出来てもおかしくない気がするんだけども。
 あ、董卓の配慮は国替えちゃうわ。国が替わったのは董卓関係ないわ。霊帝崩御渤海で、3ヶ月で陳留だ。これは重視する冀州情勢のために劉協を封じたが、これが却って劉協こそ!というクーデターを誘発しかねないからすぐ国替えと見て良いのかな。で僅かまた2ヶ月で皇帝という流れなんだけど。まあ渤海を任せたことに配慮を見いだせることは間違いないんだろうけども。
 そういや中常侍曹節桓帝の弟である渤海王劉悝を自害させている。まあこれが冀州のクーデターに繋がるわけですね。これが劉協を封じようとした理由か。弟ということは、彼でも良いじゃないか!という声があったんでしょうね。年齢というか世代の問題で継承は無理筋なので、クーデーターで担がれる材料ということなんでしょうが。
 曹節は竇武・陳蕃を失脚させただけでなく、王甫・段熲が陽球により殺されても、こののち陽球や陳球排除に成功している。政争の中心にいますね。南陽の人だから?こんなにうまくいったのは?彼が宦官のドンで政治を動かしていた、そのボスが死んで彼のように上手くコントロール出来る人間がいなくなったことが、霊帝の宦官政治の混乱になったと見るべきか?曹騰とかそういうコネを持つ人間が消えたとかあるんでしょうかね?曹節が元は魏の人間というのがなんか関係していたら面白いですね。祖先の魏郡曹氏が曹操に協力とかだと面白い。

*2:まあ、リストラはありえないか。辺境の精鋭軍が加われば、自分たちの優先順位が落ちる・彼らの声のほうが大きく反映されるという事情の方を重視すべきでしょうね。

*3:関東VS関西の方がわかりやすいな

*4:まあ董卓が中央キャリアのない人間で門生・故吏コネも乏しいからだろうけど。あとは関東・関西派の違いか

*5:南方と言っても、弘農楊氏のつながりがあるようにやはり、西方への視野があるわけですね。袁術は。中央寄りの西方、プラスアルファで南もとかのほうが良いのかな