てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

霊帝改革の道教施策について

さて、暫定的ではあってもとりあえず道教についてのまとめを。

霊帝道教について】

 霊帝道教改革ではなく、霊帝の改革のうちの道教施策ですね。霊帝はあくまで道教を利用しようと、統治政策に取り込もうとしましたが、結局失敗したという点。この点に注目しなくてはならない。ま、仏教とかその関係が色々あるのでしょうが、とにかく利用・参照できる資料があんまりないし、さらに役立つ文献も本当に少ないから。類推に類推を重ねるしかない。鈴木中正さんくらいしか参考になるもの読んでないなあ…。

【中国の宗教の未発達性】

 一つの道教の完成点は寇謙之の新天師道。当然これが中間点、最終的なゴールは唐の玄宗あたりか?まそれはおいといて、李氏王朝において道教仏教とともに国家の政策の中心となる。中国は統治階級は儒で、下層は仏・道を信仰する。現世利益・来世の転生などのあの世との発想がないためにどうしても、仏・道が力を持つようになっている。外面規範の儒では、宗教としての信仰力がどうしても他の宗教と比べ劣る。唐以前まで本格的な宗教の発展がなかったのは、それほど中国というところにおいて経済力が高かったのだろう。既存の社会システム・農村の延長で国が治まるのだから。国防・経済において問題がないから宗教がはぐくまれる余地が少なかったのである。

【宗教=貧民救済】

 宗教団体の特徴とは貧民救済である。一神教の発展形態をウェーバーの古代ユダヤ教にみるまでもなく、ゾロアスターのような強力な神の存在を主張することは統治階級の権力を抑制することになる。一神教が世界の殆どを占めたのも、皆が絶対神の平等の奴隷になることによって、統治者も被統治者も平等なのだという意識を植え付け、権利を保障するためである。

 一神教の教義を見れば、いかに為政者の恣意を制限するか、大衆の社会・経済上の権利を確保するかということに肝胆を砕かれていることがわかる。こういうことを厳格にしているからこそ、民主主義が発生していくわけである。ギリシアなんか見ると民主主義を持ってはいても奴隷、非市民権者には全くそのような寛容性はない。無論ある程度の権利は保障されているけども。同じ一神教内では奴隷でも、階級に応じた権利が承認される。

【対してインド・中国の宗教】

 一神教、中東におけるセム的一神教と比較して中国・インドにおける宗教はそのような発展は見られなかった。インドは絶え間ない争いの中、宗教階級の超越、優越が確立されていた。その階級の存在が社会安定装置として機能していた。インド宗教の先見性・発展は説明するまでもなかろう。

 では中国はどうか?春秋のころ盛んに外敵の進入はあったが、彼らは『帰化』している。中山国のような例は殆どなく、当時中国という国家観念は成立していなかったからその一部に夷狄が進入して一国家を作ってもさほどおかしいことではなかった。戦国・秦・漢と経て統一的な枠を持つようになる。それでも外敵の進入に悩まされても国が崩壊に追い込まれることはなかったし、生産力にかげりが見られるということもなかった。


【中国宗教の後進性→宗教国家唐の登場】

 中国の宗教の後進性というのは政治・社会の先進性ゆえ発達させる必要がなかったのである。無論もっと中国という地域の広大性ゆえ統一的な思想を培養する余地がなかったし、さまざまな原因が考えられる。それぞれの地域によって道教は成立していたし、場合によってはその地域内でも統一されていなかっただろう。

 唐に至る間までの未曾有の危機において宗教が花開いて、中国の宗教の原型が完成したのは全く無関係ではなく、むしろ必然であるわけだ。儒教というのはこれまで政治がうまく収まる環境、社会前提の上によって成り立っている。農村郷里構造を基にしており、それが破壊されてしまった以上有力な思想足りえるのは難しかった。孔子のような時代には危機があったから、色々な危機に応じた策も考えたであろうが(実際、孔子イデアリストではなく、マキャベリズムも真っ青な現実的政治家であったし)、後世の儒教の要請は、統治階級がいかにして世を治めるか、倫理を探求する学問としてであったあら、そうなってしまった以上、儒教から救国の思想・方法が生み出されるのはかなり困難を極めただろう。現実の前には法家・兵家の思想が前面に出てこなくてはならないし。

 ついでに付け足すと、宗教国家唐→脱宗教国家宋の流れにあって、宗族が完成されていくのは無関係ではないだろう。脱宗教国家というか儒教による再編成だな。宗教という言葉自体が宗の教えと書く。宗族を前提とした教えと解釈している時点で中国の宗族観念の強さがわかる。むしろ宋以前は道学とか仏学とか仏法といっていたんじゃないかな?

【宗教社会学が無視される現状】

 己は宗教というものが大っ嫌いだった。そんなもん歴史で教えるなと。そんなもん知って何になるんだよと。ところが古代・中世においては宗教こそが政党・政策をあらわすものである。宗教さえ知れば、史料がない時代でも大まかな歴史の方向性の類推がつく。それを知ってああ、宗教ってこんなに面白いんだ、歴史上こんなに重要なのかって知った。辞典・事典学問では決してわからない領域でしたね。デュルケムは当該社会の法を知れば、その社会の構造がわかると説いてああ、法学ってそういう意味があるんだな~と感心したのも然りです。何のために学問はあるのか、そのスタート地点がすっといんでいるのはどうなんでしょうね?というか学問としていいんでしょうか?

【政治的な意味で、中国道教の端緒=霊帝

 前フリが長くなったが、唐に至る最終点までを見ないと流れが理解できない。とりあえずこの道教という宗教が力を持ち、重要になる。ではその端緒はどこにあるのかということになる。石井氏が都督制に注目したのは唐の都督府の重要性。ならば、そのスタートはどこにあるのか、一体誰から始まるのか?そういう逆算から、曹操さらには、霊帝にまでフィードバックして、さかのぼり業績をあげることが出来たように、同じく道教についてもそれがいえよう。もっと張角、及びそれ以前の道教を研究しなくては、道教も宗教・教団と唐の構造が解き明かせないだろう。学者さん誰かやって。

 寇謙之以前までは道教は道を求める学問全般を指し、広範なものだった。共同体の崩壊が進むに連れ、祭祀「社」への信仰にかわって、新たな神・社会機構が求められだす。老子太上老君として神格化がなされたのはこの頃。張魯の移住により天師(天神の教えを伝える人)の宗教的権威は低下する。病気治療・長寿・階級制・義舎の設置など教団経営機構が整備されている。太平道五斗米道が合わさって天師道になる。八王の乱にも関わってくる。道教の反乱は散発的で局地的なもの、それが少し組み合わさったぐらいの規模で道教信者が統合された反乱はなかった。

 三国の時代が終わっても道教的完成度はそんなに進んではいなかったようだ。むしろ南北朝などの分裂・統合様々な時代・事件を経てより進化していくのだろう。曹操張魯を引っ張ってきて教団をコントロールしようとしたのをその端緒とするか?いや青州黄巾、黄巾の乱を初めとするか?

 そうではなくて、これは霊帝さらにそれ以前に端緒を見なくてはならない。確実にわかるのが霊帝ということで、一応霊帝を端緒としてみるんだけれども。順帝・桓帝にも確実に施策が見られるはずである。それは各地の反乱と道教教団としての貢献があるから。

【軍事力を備えた道教教団容認の謎】

 黄巾の乱における道教の巨大な戦力の存在がある。ン十万近い巨大兵力・勢力が乱を起こしたとき、あらやだ!これはびっくり!なんて主婦感覚の話ですむ問題じゃない。そもそもそのような巨大兵力・集団が武装をしている時点でもうアウト。必ず弾圧する。中国では宗教反乱が大問題であっても、異宗教・異端を信仰したから、異端審問にかけるという発想はない。ただ、武装しているそれを持って必ず叩く。では何故その巨大勢力を見過ごしたのか?何故この疑問が出てこないのか不思議でしょうがない。実際なんか、道教張角の危険性を指摘する声はあったはず、覚えていないけど。しかしそれを霊帝はスルーしている。

 これまでは霊帝はアホという前提で話が進んでいたから、危機管理が出来なかったとかそういう見方をしていたのだろうけれども、実際は有能な部類に入るのは間違いない。では何故スルーしたか?袁紹が徒党を養って趙忠に危険視され、党錮にあった勢力のほうに目を取られていた。―なんていうのは副次的な要素であって、話にならない。事実は、道教というのが自衛組織であるからだ。

【国家の下層組織・構造としての道教教団】

 張角の反乱、霊帝クーデターが冀州で起きていることは董卓涼州情勢とあわせて辺境における危機がわかる。孫堅もこの延長上だろう。鮮卑しかり、張牛角然り、張燕然り、反乱が日常茶飯事となっており、公孫瓚青州黄巾を叩いたように、この地方は大規模な人口移動が、流民移動が常識化していた。①生活が苦しかったこと、②危機を避けて移動が常識化していたこと、③自己で防衛をしなくてはならなかったこと。この三つが、あと下層の人間が従来の社会からはじかれたことをあわせて、道教という新組織、社会システムが発生していくことになる。

 彼らは自衛しなくてはならない。当然武装する。だからこそ見過ごされていたわけであり、必要に応じて官憲に武力を提供していた。だからこそ短期間とはいえ官軍と戦えたわけである。下級豪族である張角が放棄したのも、むしろ党錮側の勢力に利用された、自分たちの権力奪還のために当て馬にされた可能性がある。つまり張角はハメられた。いずれにしても巨大な数となった道教団体は蜂起しなくてはならなかっただろうが。

 すくなくとも単純な張角VS官なんて図式で捉えては流れが全く見えなくなる。漢の中の下層構造として働いていた役割を見ないと黄巾の乱の意味がわからなくなる。武力で強制的に従わざるを得なかったという要素もあるけれど、だからこそ群雄は彼らの兵力を組み込んでいった。匪賊の要素はあっても、完全な匪賊とは話が少し違うのである。半官半匪の性質を見過ごしてはならないだろう。

冀州クーデター=黄巾=洛陽政変】

 北方における危機をきっかけに道教の乱となり、さらには袁紹などが実権を持つようになり、クーデターにまでつながることを見ると、冀州での暗殺計画の変種・延長上・同じベクトルの流れと見てもあながち間違いではないだろう。ところがどっこい、同じ程度危機に陥ってぐちゃぐちゃになっていた涼州董卓にかっさらわれることになる。そうでなくても彼らも反乱を起こさなくてはならないほどの危機に陥っていたことには変わらないだろう。袁紹が先に皇帝を抑えても結局武力衝突をして、袁紹はより危機に陥った可能性がある。洛陽は守るのにふさわしくないしね。

 涼州が辺境で八百長をやっていたように、道教徒もおそらくその要素があっただろう。張牛角張燕張遼、黄巾関係者には名字『張』で連帯を図っていた可能性がある。そういえば張郃って、名族だったけど、張角と関係があるのかもしれない。

【宗教と商業】

 商業では一つの幇―強い人間関係を形成しなくてはならない。一つの神を信奉してそのネットワーク内で商売を行う。霊帝は商業に力を入れた。そこからもこの道教とのつながりが間違いなくあるだろう。無上将軍という称号はこの道教の自衛組織を自己の勢力に組み込みたい表れだった可能性がある。自分が道教上の軍のトップ、道教と結びついて軍事力・財力両方獲得できるのだから、結びつきを強めないわけがない。

 あと道教と宗教を陳舜臣さんなんか小説で描いたが、三国八百長説は読んでてさすがに引いたわ(乱世を平和的に治めるために道教のエージェント劉備曹操に天下を取らせる、あるいは八百長工作して動き回るんですね~。(´-ω-`)オイオイ)。

 この時代は関羽が神になったり、孔明が道士のような括弧して、天変地異操ったりまあ道教の観念が色濃く反映されるわけだが、裏を返せばまだまだ一般的ではなかったということ。中国全土に通用する道教的物語・観念が確立されていないことがわかる。西遊記や封神演技なんかも道教の影響が色濃い説話だ。道教の観念が読み取れて面白い。

霊帝道教対策に失敗した】

 ただ実際は蜂起にわかるように霊帝の施策は失敗した。おそらく先例がないから、ここまで大規模な全国的な反乱が起こりうるとまで実感が足りなかったのかもしれない。まだまだ為政者が利用をするという段階で、宗教勢力と政治勢力の結合は出来なかった。曹操にしてもその組織化を図ろうとはしていない。政権の中核にすえて、国家体制に組み込もうとはしなかったしね。それは先述のとおり北魏まで待たなくてはならない。そういう意味で旧来の社会構造に戻れると考えた曹操の失策であるといえる。もちろん、道教徒の方もそう考えはしなかっただろう。それなら、追放されても教団を必ず保っていて、八王の乱にでも必ず、その強力な宗教団体が出てくるはずですし。

 何より大きかったのは既存の儒教の観念では、こういう道教教団をどういう形で取り込むべきかというビジョンを示せなかったということでしょうね~。多分そういう発想も、そういう議論もなかったんじゃないでしょうか?あっても不十分。

 宗教学的に言うと、①神②経典③教義④教団⑤僧(神官とか)それらがしっかり固まっていないといけない。ある程度発達はしても道教の場合明確な神義論がないしね。あ、①と③で神を信じたらどういう救済が与えられるってことが最も重要なんだけど、そういうものが全然ない。宗教としてかなり未成熟だった。

 中国の事情を述べたように宗教発達初期段階で、それでもやはり宗教というものに必要性、必然性が感じられなかったのだろう。


霊帝道教教団の離婚】

 最後に、本当はこれだけ書いたら終わる話なんだけど(^ ^;)、霊帝道教はそういう功利的な関係。相思相愛というより、仮面夫婦的な関係。お互い利用しあわなくてはならない関係だった。霊帝は利用できる実力として、道教は権限を認めてもらうため。そしてその婚姻関係が破綻した。そういうことなんでしょう。張角が巨大組織・ネットワークを造ったのも、一部には霊帝との交渉を有利に進めるための連合、道教教団の長という性質があったのかもしれないですね。事実反乱に参加しなかった教団も多いですし。

 当初、己はかなり明確な形で霊帝道教とのつながりを持っていただろうと考えていましたが、こういう状態を見るとむしろまだかなり初期段階、交渉が深まっていない状態で打ち切り、破談になってしまった。そういう感じを受けますね。国家が宗教とどうあるべきか?またその逆も真で、お互いどういう関係が適切な距離なのかというノウハウが全くないから破綻してしまったのでしょう。

 霊帝が明確な意思を持って道教とつながろうとしたことは間違いないですけども。なぜなら宦官の中に道教徒がいたのは、このネットワークのため。交渉責任者、その失敗のために処刑されたわけで、別にスキャンダルでもなんでもないです。馬元義のような人間が見殺しにされたのなんか良い例で、強硬派と穏健派がかなり衝突した結果の突発的な反乱でしょう。かなり選択としてはぎりぎりだったような気もしますね。霊帝張角の教団に対してどういう権限委譲をして、彼らが国家にどういう協力をするか。郷里構造から滑り落ちた貧民の生活を保障する道教にはかなり助けられてきたわけです。彼らのネットワークなくしてもはや国家は成立しないレベルに至ったでしょう。だから容易に先に叩くなんて出来なかったわけです。

 ifの世界で一時的な道教国家化、大規模反乱起こらずなんてのもかなり低いですがありえない話ではなかったんでしょう。ただ、その後思いっきり戦乱が起こって。軍事組織・豪族に貧民が再編される形でそれは解体されてしまったわけですけどね。長年の戦乱・衰退を考えると、もっと大規模な権限委譲、もしくは特権的減税を求めたが拒否されて反乱に至った。そんなストーリーが妥当なんでしょうか?

 少なくとも教義における争いで反乱にはならなかったことだけは確かでしょう。それが中国の初期宗教史の流れとして注目すべきことだといえます。中国宗教史は教義弾圧というものがありませんからね、殆ど。

 あとは、その後の匪賊化した勢力とどう向き合ったか、そこら辺を考えてみたいと思います。曹操と黄巾は言うまでもなくね。袁紹はどうしたんでしょうね?黒山とか、一回ギョウを落とされてるところなんかも、あんまりうまく言ってない感じがしますが。そういう残存勢力を巡ってのことが色々徐州とかかかわってくるんでしょうけど、それは別の話。

霊帝の文化・芸術=ソフトパワー作り】

 そうそう、もう一回鴻都門学の意義について楷書体が重要な意味を占めるように、様々な方技を霊帝は取り入れた。んでそれが曹操に引き継がれた。自分で酒作ったりね。それは文化の力、スタンダードを作るということの重要性を知っていたから。囲碁みたいなゲームだって当時ルールはかなりあやふや、音楽だったり、文化芸術で宮廷芸術・文化を発達させることでその価値観の選定者となる。これはかなり大きな力を持つ。その後貴族制となって、文化の力が重要な意味を持っているのも、これを先取りしたもの。足利義政が無礼講でどんな身分のものでも取り上げて文化・芸術を花開かせたのも全くおんなじ。ソフトパワーを利用しようとしたわけですね。


【改革のためにあらゆるジャンルに手を出した霊帝

 蒼天も間違いじゃないけど、曹操個人の人格として好き嫌いを考えるより、どうやってもこういう文化・文学・芸術をリードして確立しないといけない環境が先に背後にあったわけですね。曹操が若いころ馬に乗って遊んでいたのと同じく、霊帝も宮廷で競馬で遊んでました。これも同じ要請なんですね~。単なる馬鹿殿の遊びでは決してないんですね~。社交界をリードしなくちゃいけないんです。風流天子としてね

 まあナチスの文化事業じゃないですけど、政治と無縁じゃないってことです。そのあらゆる文化を新しく作ろう、主流を作ってしまおうというとき、張華の文物だっけ?あらゆるものについてウンたらカンたら言ったの。あ、博物誌だ。これもその延長。別に上から始めたというわけではないけど、きっちりそれを押さえようとした霊帝はどう見ても名君なわけですね。さらにそういう流れにおいて確実に道士や仏教の僧侶も入ってあらゆる思想・宗教を論じていたでしょう。であるからこそ、道教について無知だったり、つながりがなかったということは考えづらいのです。

 僧からは西域やインドの政治改革の具体的な貴重な話を聞けますし、その僧・仏教の影響を受けて教団化した道教を無視するなんて考えられませんからね。いかに道教、および諸勢力を組み込むかということは重要な課題でしたから、これを研究しなかったということはまずありえないでしょう。ひとまずこんなところでおしまい。

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