てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

道教について補足

肝心なことを書き忘れていたので追加。
 国家に三老を置く、儒教的な枠組みにのっとりながらも、地方の三老を管理する新しい官職の創設なのだろうか?運用、実態はあったのだろうか?気になるなぁ…

 道教の諸要素として黄老思想老荘思想。神仙、修行して仙人になること。それに伴う超能力、呪術的能力、自然信仰、山とか河とか。現世・来世利益を信仰によってもたらす。色んな民間習俗に、教義・教団が加わってくるわけだが、この時代は未完成。全然体系化されていない。

 そもそも何故老荘思想を取り入れたのか。何故老子が神になったのか?わけのわからない絶対神をとりあえず作ればそれで十分(イヤだめだけど(^ ^;) )。ところが老子という過去に存在した人物を神格化しなくてはならなかった。なぜか?これは儒教孔子と張り合うという意味合いがあった。日本が皇紀―長い歴史を作ったから、じゃあウチも、それより長いんだぞ!なんていって正当性を作って張り合ったりしたみたいにね。

 老子を中心とした国家が何もするなという民力養成という政策・思想は古くからあった。それが道教と何故結びついていったか?結局この老子思想が孔子教の他に民意を重視する思想を含んでいたからですね。貧民救済を目的とする教団と結びつきやすい要素があったんですね。

 これを考えるには墓という構造機能分析、いったいどういう意味を持つのか考えなくてはならない。別にピラミッドでも、古墳でも何でもいいけど、王朝を建設するときには墓が作られる。そうすることで為政者の権威を作るということもあるが、一番重要なのは墓によって支配コミュニティを作ること。墓作りで公共事業と同時に新しい支配領域を作ること。国家権力の拡大としての重要な策だった。

 んで廟を作ることで前漢は支配力を増していったわけで、重要な策の一つだった。ところが、それが既得権化して前漢はにっちもさっちもいかなくなった。これを打破した王莽のすばらしさが過小評価されている気がするなぁ…王莽カワイソス(;ω;`)。

 で、国家廟の他にも社だったり、孔子廟だったり宗教勢力のそれが行われるようになる。老子を祀るという重要性は
新しい廟の登場、別ルートでの宗教祭祀が可能になる。さっき思いっきり、施策がないと書いたが、思いっきりありましたね(^ ^;)。教団は権威の高い神を祀らなくてはならない。それに老子があって、既存の王朝廟・孔子廟などと一線を画すものとして最適だった。

 既存の社会から脱して、宗教団体が新しい秩序を求めるのに老子は最適だったのだろう。宦官が老子と結びついたのも、道教儒教と違い身分差別的でないというのも、下層の人間が新しい社会秩序を求める潮流から必然だった。昔から宦官は皇帝の政治道具として最適な存在(家奴)であったが、ここまで実力を持たなかった。その下層階級が大量に生み出され、そこから多数の宦官が輩出され、宦官グループを形成し、皇帝・後宮にその下層階級の主張を直接訴えられるようになった。宦官が一大社会勢力に成長していったのと、漢末の社会構造は実は表裏一体で、つながっていたわけですね。

 (あ、ちょっと注意しておきたいんでけど、イヤそれは本来の老子の教えではない。このアホが!サンダークロススプリットアタックをくらわすぞ!となるかもしれません。そうじゃなくて、宗教というのは社会の要請によって、その居場所が変わっていくんですね。老荘道教というものが完成していなかったのもそうですけど、結局、社会がその機能を求めれば、宗教の役割はそれにあわせて変わっていくんです。キリスト教だって、西欧では本来関係ないはずの呪術だらけになりましたしね。社会の要請によってどんどん変化するんです。注意おしまい)

 宦官と道教勢力の伸長とは同一ベクトルにあって、それを見過ごしたら全然流れがわからなくなるでしょう。宦官は下層階級の代表者。こういう当たり前のことがなんでスルーされるのか良くわかんないですね。張譲趙忠も色んな宦官も、もっと政策の面から正当な評価を与えないとね。そもそも宦官という社会学的な研究が圧倒的に不足してますからね。一時期宦官を専門的に研究しようと思ったら、著書が殆どなくてびっくりしましたから。しかも宦官=ゲス野郎!で終わりですからね (´・ω・`)ガッカリ・・・。

 であるので、老荘思想老子廟=道教教団=宦官が全く無関係であるという前提には立たないんですよ。
老子廟=下層階級の不満を聞きいれる現われなんですね。

 そして圖讖・孟子易についても同じく。こういう呪術的なものが重視されるのは、下のものの意見を自由に表現できるからなんですね。伝統主義社会では法は過去から発見してこなくてはならない。自由にああしましょう、こうしましょうなんてことは通じない。それを打ち破って自由な発想・政策を打ち出すことが出来る。柔軟に、自由に。
 だからこそ圖讖というものは威力を持つわけですね。構造機能的に言うと、上のものが下のものの意見を聞き入れる非合法なルートなんですね。本来は意見を言うこと自体が権威に傷をつけるということで、大罪になるわけですから。

 袁家は
孟子易という怪しげなものを研究していたからこそ、それを、うんにゃらむにゃむにゃ!エイヤッとやって、こう卦が出ました!こうしましょう。と柔軟に色んな意見を政治に取り入れられたから、袁家が台頭したんでしょうね。婚姻などとあいまって勢力を伸ばせたのに間違いなく易があったでしょう。王莽の儒学の役割と同じだったんでしょう。

 同時期に孔子の廟に専門官吏を置いたりしてのは、やはり儒の既存構造に加え道の新興階級も国家機構として同時に組み込もうとしたんでしょうね~。見事に失敗しましたけど。

 南北朝くらいになると、あるいは魏後半くらいになると道教は確実に影響力を持つようになる。しかしこの時代はどうだったか?下級豪族を中心とするものたちはそうでも、国家の中枢、上流豪族にはなかった。道教的な物を中央に取り入れようとして、結局上流たちに拒否されて、実力蜂起にいたった。そういう流れで見ていいのではないか?一回ガツンとやって、その脅威性を認識させないと変わらないのは国家の常ですね。大反乱、弾圧→国家の正教となるのは珍しくないですから。