てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

民主主義国家における言論の自由、表現の自由について

過去記事の再掲です。元は10/12に書いたものです。


 東京都の非実在青少年規制、青少年健全育成条例について、言論の自由とは何かを整理してまとめておきましょう。多分しっかり理解している人はそんなにいないでしょうからね。

【民主主義の前提、リベラリズム自由主義
 民主主義国家において言論の自由というものが保障されている。これは信教の自由・良心の自由から派生したものである。民主主義を守る上で、民主主義国家足りうる上で、欠かすことの出来ないものである。民主主義国家は何よりもまず、リベラリズム自由主義、人間の思想・内面を絶対に侵さないという原則を守らなくてはならない。

 国家権力が何よりやっていけないことは個人の内面、心に干渉することである。このような基本は言うまでもないだろう。もし、理解していない、知らなかったという人がいるならば、これは欠かすことの出来ない近代国家の常識であるので言論に際して絶対に念頭に置くこと、絶対理解をしなくてはならないのだということを覚えておいて欲しい(参照【感想】 これでも国家と呼べるのか 韓国併合条約について )。

中韓の教科書のケース―内政干渉&良心の自由侵犯事例】
 『大国・日本の崩壊』で博士が、中韓の干渉における教科書検定憲法第二十一条違反に関すると主張する論考があるので、それを応用する。本来教科書の検定とは国家が望ましい教育内容を選定するために、一応検閲ということには当たらない。しかし中曽根首相が行った教科書の書き換え指示というものは、明らかに干渉による結果として時の首相の独断でなされたものであるから、紛れもなくこれは憲法第二十一条違反に値する。(注最高裁で検定は検閲ではないとなっている。それは教科書には読む自由がない、すなわち選択の自由がないから、書く自由もないのだという解釈。ただし、その選定をするのは教育の自由を持つ親、または本人に属し、教育内容が高すぎる、低すぎるまた多すぎる、少なすぎるという点において口出しが出来るのであって、学識経験者によってのみなされるべきもの。つまり政治的権力による指示は明らかに検閲となる)。
 また当時の藤尾文部大臣が意見を雑誌に載せたのを差し止めさせたこと。これも意見を載せたあとに何を言うのも自由であるし、政治責任において罷免するのも自由であるが、検閲をして差し止めさせたことは立派な憲法第二十一条違反である。また有名な事例では、創価学会の手記の事前出版差し止めがある。これも同様、出版されたあとに裁判にかけられ、その結果出版中止に追い込む。またはかなりダーティーな工作で出版の機会を奪うようなことは当然、言論の自由の原則には違反するのだが、出版されてからの行動であるため、そこにある種の公平性、言論の自由のルールを一応は守ったことになる。公権力によって出版自体を差し止めるということは民主主義国家では表現の自由、良心の自由に抵触する何より許しがたい犯罪である。いや、犯罪などという言葉で表現していいものか、それほど許しがたい原則上考えられない行為なのである。サッカーや野球という球技に格闘技を持ち込んで肉体的ダメージを与えるような行為といっていい。

【民主主義は国家権力の違法実行を防止する原則から始まる】
 まず国家権力の暴走抑止からスタートするというのは、それはロック・ホッブズに始まる自然権の思想から、国家というのは強大な力を持つリヴァイアサンである。国家権力は合法的に何でも出来る。国家がその力を個人に向けたら誰も止めようがない、そのため国家権力を何よりもルールに基づいて監視しなくてはならない、権限・実行機関を分散しなくてはならないという思想があるからだ。国家権力の暴走を許さないということが、何より重要な民主主義の原則であることを改めて抑えておいて欲しい。個人に選択の自由がある、色んな行動上の自由があるから民主主義になる・なったとは言えない。なんとなく昔と比べて自由になった、自由にやりたいことが出来るようになる良いシステムなんてことでは決してない。

【補足―教科書問題の相互性の原則】
 後に応用したいために、付け足しで、現在は日中韓で歴史教科書の共同研究が行われているが、これは政治権力者が内容に云々かんぬん口出しをすることは明白な内政干渉であるからである。そもそもこの機関が出来たのは、第三者の中立委員会、学識経験者によって、それぞれの国の教科書全てを相互性に基づいて、ああすべき、こうすべきといった判定を下されなくてはならない。相互性の原則が外交では当然。内政干渉というルール違反を犯したくなければ、相互性が保証された機関がないといけない。1987年の時点であるべき姿を正確に指摘した博士の慧眼は恐れ入る。

【わいせつの観点からの規制】
 さて、この前提を理解したうえで、今回の問題はどうなるか?ちなみにこのような意見があった。表現規制はおかしいが、このようないかがわしい作品はまた取り締まられるべきだと。さて、あなたはどう思うだろうか?今回のケースではいわゆる猥褻性に基づく、表現規制に値すると思う方が多いだろう。そしてその延長上にあるために、取り締まるのは合法ではないかと。
 このような意見は半分正解で、半分間違いである。まず、猥褻であるからモザイクをかけてそのわいせつ性を適正な範囲にまで抑えるというのが現在の取締りの大本にあるロジックであろう。性器が猥褻だからそれを隠すべきだということ、そういうロジック自体がばかばかしいのだが、ここでは本題ではないのでおいておく。チャタレイ裁判だろうが、なんだろうが、わいせつ性を巡る議論・表現のボーダーラインは本来裁判によって決められるべきものなのだ。裁判所による議論を通じて、ボーダーラインなり、原則なり、規制の細かいことなどを決めるべきなのだ。
 民間における論壇・文壇において世論を形成しあい、裁判所によって公開討論でそれが定められるべき*1

【どう実行されるべきか】
 そして定められるべきボーダーライン・ガイドラインとは、①明確な目的を有すること②違反したか、しないかは一義的に実行されるべき明確なルール下で判定されること。①はたとえば、それによって犯罪を助長する明確なデータ。ある一定の年齢には好ましくないのであれば、販売ルートをきちんと管理するなど。そして表現規制ならば、モザイクのように、これはダメ、これを隠せと明確に決めなくてはならない。
 ま、このようなロジックが説得性を持つことはないために、ばかばかしくて話にならないのだが、そう言っていては論じることが出来ないので、とりあえず、犯罪助長だとか、風紀とかそういう理由で許されることにしよう。
 しかし、今回の表現規制は確実にその二点を違反している。これは規制ではない、気分次第の弾圧である。江戸時代の風紀取締令であろう。上の二点を守っているのならば、おかしなルールであろうとも、一応立法の原則に基づいているために納得できる。たとえば、欧州のロリコン製品の取締など、思想はどうなんだ?そんなことしていて意味があるのか?と思うようなものでも表現規制の原則性には敏感である。一応明確で一義的なルールを念頭にしている。

【利権・気分次第のお上の道具=日本の法律】
 日本の法はあやふやにして作る。なぜか?違反のような、違反じゃないような、わかったようなわからないようなもので書いておく。そうすることであとから、あとから都合のいいように解釈して取り締まる。後出しじゃんけんで自分たちの利権を守る。これは法匪の発想。このような法匪官僚層が強固な利権を形成して、立法の自由な風土を潰して、ちっとも改革が進まなかった中東の世襲官僚層(書記層)と極めてよく似ている。
 日本という国家は憲法や官僚組織は見かけ上民主主義国家のそれを採用しているが、本質は全体主義国家法に携わるものが自由勝手に出来るようなシステムになっているのだ。だからこそ名古屋でのリコール一時不成立という現象が起こったわけだ。アメリカの民主主義において、ジャクソニアンデモクラシーと呼ばれ、ジャクソン大統領が高い評価をうけているのはこういうことを起こらないようにしたからに他ならない。(注―ジャクソン大統領は一定の官僚による仕事の独占を解放して、誰でも官僚になれるように政府を開放した、これによって政府の透明性がグンと高まったと、後世高く評価されている)

 今回の規制法案=取締令、その本質はまちがいなく、これにあるのだ。何がセーフで何がアウトなのか?そもそもしずかちゃんの入浴シーンはセーフだ。~はよし、~はダメ、とあとから、採点をしようという神経が幕府・陸軍そのもの。自己の命令を所与の前提として履行させようという支配者精神そのものであり、前近代国家のメンタリティそのも。何故このような所業について、戦前に戻す気か!なんてやかましく主張する人間が今回は騒がないのか、己にはよく理解が出来ない。
 明らかな判断が出来るルール。これを書いたらアウトになる、ここまではセーフそういう法案でない限り、これに絶対賛成することなど出来ないのである。それでは民主主義ではなくなる。民主主義の母体であるリベラリズムに反するからだ。まあ、ご察しの方がおられるとおり、このリベラリズムがたやすく捻じ曲げられているわが国とは、民主主義国家のモデルから程遠いのだ。

 今回の規制を作ることで、なんらかの警察の天下り先を作って、その利権をふりかざして出版社からゆすろう、たかろうという下心が見え見えではないか。警察は恥を知れ。それに乗っかる政治家も同罪。そしてそれを是正する報道しないマスコミは爆発すべき。今回のケースは、わが国の殆どの人間が民主主義をまるで理解していないということを改めてさらけ出した。これは絶望的な知的レベルの低さを意味する。ゲームの基本ルールを良くわかっていないのだから。

【愛国保守=反戦サヨク
 いうまでもなく、こういうことを平気でしてしまう政治家があの人なのだから、しかも元表現者でこういうことをしてしまう。つまり全然わかっていない馬鹿だということだ。昔非武装中立だとか、狂ったような似非マルキストがいたが、保守的な人間で上述の補足であげたような中韓の内政干渉のロジックを明確に主張し、否定したものが果たしていたのか?つまり彼らは安保を理解している、外交を理解しているのではなく、自分たちのムード・気分でなんとなく論じているに過ぎないのだ。守るべき原則など何もわかっていない。批判的な言論を封じ込める可能性がある行政がやるべきではない、裁判所言論を通じて定めよう。そういう当たり前のことを誰も言わないのだから。

 言論に携わるものの絶望的知的レベルの低さ。これは今後ン十年変わらないだろう。少なくとも民主主義的な国家像を追及する政治家ではないとはっきりしただけでもうけものなのだろうか?今回のケースは…。

*2

*1:もちろん立法において定義しても良いが、表現の自由に関わることなので、裁判所においてより自由化するならばともかく、制限をかける場合は二重のチェックを持ったほうがいいだろう

*2:アイキャッチ用画像 

非実在青少年〈規制反対〉読本

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