てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

石井仁さんの論文の感想

『「地方分権化」と都督制』

  「使時節都督諸軍事」、略して都督。都督中外諸軍事に曹爽がついたことからわかるように、輔政宰相の職。南北朝時代になると、次期皇帝が即位直前に任命される、特別な官職と位置づけられる。これは隋唐まで続く。

 都督は軍府を開き政治・軍事を兼ねる。高い将軍号を持ったり、三公に就く。そういえば。都督は四征という発想の延長みたいなものだから、東西南北に置かれて、初期から経て、四つに落ち着くのだろうけど、河北・揚州・荊州・雍涼と四方になる。蜀は雍涼と合わせて、一括管理か…。よっぽど脅威としての影響力が少なかったのだろうな。

 そして羈縻政策にまで都督は用いられる。

 清朝制度を研究したものによると、都督は明清時代の「督撫」総督・巡撫にあたいするのだという。そういや現行制度は元から。現代でも省と自治府で基本的には同じ。つまり元という時代から画期的に変わる。「督撫」のような分権的性質から、都督も発想の下は地方分権であろうと。

 ま、歴史の流れは中央集権化、地方分権ですからね。地方分権が本格化したその表れが都督というシステムなんでしょう。さらに州牧制を加えて、であるからこそ地方分権を念頭において始まった、手段であって目的ではなかった可能性もありますが、西園軍も中央集権的な政策と理解するよりは、地方分権の政策であると見た方がより新しい視点を与えられると思います。

 厳耕望氏は都督府が実質州より上の政治体として州/郡/県の上に立つ「四級制」だとした。宮崎市定氏の九品官人法から、都督府を中心とする地方軍府の発達を六朝特有の現象と見、上級府官・上級州官を貴族官制に位置づけた。六朝中世説?六朝が封建制のように個人的な主従関係から規定されたという特徴からこういう用語になっているのかな?昔、九品官人法読んだけど、都督府がどうたらこうたらなんて、完璧に見落としているな。まあ軍制のポイントなんて全く知らないし、全集のなかにあった文章から要点拾おうとしただけだし、全然要点が何か理解していなかったんだろうな、きっと。今でも怪しいけど(^ ^;)。

 宮崎市定人事に注目して、九品官人→科挙とやったように、石井仁は軍制(軍事)に注目してやっているわけだね。社会学的に、っていうか政治学でも歴史学でも何でもいいけど、つうか人文科学全般に通じる話だけど、現実主義的な力観念に注目すると、人事権・軍事権・財政権(カネ全般)に注目すりゃ、大抵のことはわかるわけ。間違いなく、みんなここを研究するわけだ。ここを無視して研究する人間いたらつれて来いって話。宮崎市定の名を知らしめた科挙の研究のように、都督の研究は、石井仁の名は天下に広く知れ渡るかもしれない。ただ、素人受けしない文章だからね。中国史の人にしか広まらないかもしれない。

 軍事という点をいったん取り払って時間、空間広範囲にわたって存在したその点を見ると一体どういうことがいえるか?

 都督と督軍という用語からどう変化していったかを見る。すると、呂布の配下である都督の高順は陥陣営という700名の部隊を率いていた事例があり、都督は始めは数百名程度から始まっている。さらに呂範の例から、士大夫はあまりやるものではないという。そして袁尚の主簿李孚が都督を装って曹操の包囲網を破って城にたどり着いた事例から(この名エピソードはもっと知られてもいいと思う。三国志オタには)、そもそも都督とは憲兵のような軍紀を取り締まる存在だった。んで督軍は御史中丞から。

 ということは、軍事の監督、督軍と監察系の機能を重ねあわせたことになる。そういう意味では、刺史+地方の軍権を任された将軍とみていいだろう。都督府はいわば地方の独立政体だから政・軍・監全てを兼ね備えていく過程で完成していく。刺史+州牧という形で始まったものが最終的には軍権を代表する「都督府」というタームに集約されていくのが時代を象徴していると思われる。軍と監どちらの要素がより強く、重要なのか?まぁどっちでもいいか、わかりようがないだろうし。

 軍師・監軍・行軍・参軍など後漢の末期に新設されたもの、官品がないものは「行」と表現されるね、なるほど。

 

 泰山で反乱が前漢にもあった。というか山はやはり塢など作りやすく、根拠にしやすいのだろう。武帝期に反乱があったこと。財政悪化→生産力高い関東からの収奪―とあった。ということは反董卓の乱というもの、その後の黒山にこれを見ることはできないだろうか?涼州が政治の中心になったということは、関東の負担が重くなる。だからこそ関東諸侯が一斉に火を噴いた。そう捉える、その要素を見出すことはできないだろうか?

 黄巾が積極的に官庁を落しに行動したのに対し、黒山・白波などは塢など自衛を中心、自分たちの精力を確保しようという目的の違いがあるのでは?こういうのを見ると新帝を担ぎ出した、担ぎ出そうとした二人(董卓袁紹)は新しい政体による刷新を求めたということで共通している。すなわち根拠とする背景に、困窮する民がいて彼らが強力な変革を求めるという点で。董卓涼州(&并州)、袁紹は全国のネットワークで全方位的なもの。組織の機能的要請が狭く・深い董卓、広く・浅い袁紹。そんなところからみてもいいんじゃないだろうか?

 あと、「乏軍興」という話から、一種の戒厳令にある対象地域内において、監督・処罰ができるものが都督だとする。やはり強力な軍事制度から端を発したのではなく、あくまで監察から始まっているのでしょうね。この都督制度というものは。使用するもの、実行するものは軍人でも、制度的には監察。戒厳令=内乱・緊急時における全権委任。それが監察官というよりは、協力に統治する軍人・軍事制度とあいまって発展していったのだろう。

 たぶん光武帝の統一後には軍事を不必要なものとして最小限なものに縮小したこと。古代帝国では、官僚制とはいえないけれども巨大な政治システムは軍事・軍政を嫌う。初めから戦線、戦略最前線を最小なものに想定している。というか当時の漢はもう開発可能なところを支配しきっていたから、軍事、領土拡大は返ってコストがつく。そのため軍事を放棄・最小限にしたのだろう。そういうところから監察制度を発達させたし、都督制度の発展も監察系の要素からはじまったのだろう。そういうことを考えれば、貴族制、軍人が勢力をいくら伸ばしてもある程度までしか、権威を獲得することができなかった理由の一因を説明つけられる。監察・監督という制度の力強さが中国に根付いて、受け継がれていったと見るべきなのだろう。

 曹操の「都督河北事」に塢を管理する権限が含まれているとしているけど、都督になれば周辺の塢を監督するものだと、捉えていいのだろうか?都督というものに塢の監察を認めていいのだろうか?そうであるならば、都督というものの発達・重要性がよりわかる。初めから監察させようとか、都督を作ろう!というよりは戦乱が進むにつれて必然的にそう整理されていったのだろうが。でも監察制度を発展・発達させようという意思は前から見られるから、ずっと前から整備されていた可能性も。もちろんある。

 民族関係なく、軍法の下平等に対処する。都督制があらゆる状況に対応できるフレキシブルなもの。監察のプロ袁紹がその権勢を強めたこと、さらに法のプロ曹操もまた同様。袁紹は監察の面はしっかりこなせて、この法的な要素で出来ていなかった。という面はないのかなぁ?袁紹曹操を比較したら、まずこの疑問が出てくるのだと思う。

 まあ、史学の人間じゃないから、いい加減な読み方だけど、とりあえずこんなもんで。都督という制度、軍事(監察の要素が強く、どちらかというと人事だが、便宜的に軍事にしておきます。両方の要素が重なり合った複合的なものでもいいでしょう)に注目すること。唐という長期間に及ぶ、また東アジア全体という広範囲に及ぶことに注目して、ではその始まりはいったい何に基づくのか?と逆算し、当然曹操に至り、さらにその前と比較してどのような制度があって、どのように変革させたのかと辿っていくうちに、実は霊帝は優れた改革をしていた。このようにステップバックして従来の見方を転換させた石井氏の慧眼には恐れ入らざるを得ないですね。

三国時代の都督制』

 辺境の軍政における都督と暴動や反乱が長期化した場合の、複数の州にまたがって監察する都督の二系統。軍の全権を意味する節を授けられること。刺史→州牧のために必要な格付けの整備の話。監察権が行政権に拡大する。州牧がある種の独立のワンステップになってしまったため、そういう余地を残さないように、しっかり整備された新制度を目指して都督が出てくるわけですね。四征将軍の延長としての都督。既存の官位・制度に権威付け、権限拡大で新制度が始まる、新ポストとなって力を持つ流れに注意ですね。

 征・鎮・安・平という格付けがあって、征は一番高い。都督府は征西なら、征西府と呼ばれる。正副幕僚長の長史・司馬がいる。また中央から軍師・護軍が派遣され監察の役目を果たす。司馬懿の権力拡大のときはいったいどういう風に機能したんだろう?こういうときのための監察のはずなのに、司馬懿は軍政の権力を持って自派閥を拡大させたのだから、役目を果たせなかったことになる。

『富春孫氏考』

 孫氏の地位が従来、寒門の武人と見られてきたことへの反証。孫家はむしろ地方の豪族として確固たる地位があった。そういやこういう門閥社会って、一人の人間よりも家柄、家門が大きな力を持つから、その先祖・子孫がどうなったか、どう他の家と交わったかを見れば、前後からその人に何が起こったか類推、逆算できるな。なぞの人物がいたら、まずその先祖・子孫を見ろ!っていう法則は重要だと思いますが、どうでしょう。孫道恭を見ると儒学を教える人間は子孫に亘って安定しますね。下手に政治に手を突っ込まずに、学問に精を出して、ブレーンで知恵を出す程度が一番賢いやり方なんでしょうか?貴族、血だけではなく、学問などが家を残すのに重要な役割を果たすというのはやはり変わらない流れなんでしょうね。顔氏のときにいきなり出てくる話ではなく。

 「塗高」は魏だけでなく、袁術はもちろん、晋大司馬王シュンも利用した讖緯。

 孫策袁術だけではなく、その幕僚からもその将来を期待されていた。廬江太守劉動とその後継者の地位を争っている。破って、袁術の家、故吏を収める。袁術の帝位僭称の論拠図讖、五行もそのまま受け継いだ。だからこそ袁術同じく、孫家の祖を舜にしている。そして孫権の長子=太子、孫登の字は子高、これも「當塗高」を意識したもの。さらに 26年の乱で、孫登という人物が皇帝に共立されている。明らかに意識した命名。孫登に天子となるべしという讖書から。公孫度もこれを反乱の根拠にした。 

 孫堅祖父が一介の農民。これならば孫堅一代の新興官僚家、新興地主になる。ところがすでに郡吏になっている。郡吏・県令・県長になっているような家は、大姓・豪族を意味する。乱討伐で1000人兵が集まっていることからも、地域社会に一定の影響力を持つ豪族だと。

 塢とか壁とか塁とか細かい違いって何なんだろう

 江を過ぎれば、僑姓あり。四氏、王・謝・袁・蕭、呉の四姓は僑姓によって追いやられたりしなかったのかな?僑姓の伏線のようなものはなかったのか?三国時代にすでに見られたりしないのかな?

 順帝呉郡新設のころ、南方経略に関わった孫幸の、直接の先祖である可能性がある。んで一族だから、早くから辺境の地方官だった。そういえば、順帝呉郡新設は漢末の乱が本格化する前。漢の貿易・金などをめぐる商業停滞の要素が南方開拓へと向かわせたわけだ。これ以前に書いたっけ?まぁいいや。石油がなくなれば、代替エネルギー開発が進むように、金がなくなり、南方開発が進むってわけですね。

 元々孫家は江南に広範に分布し、呉における時代にいっそう確立されたのだろう。しかしその後の孫家ってなんかパッとしないな。劉・曹に比べたらマシだけど。皇位なくして元の豪族に収まったってだけかな。

【孫家について、思ったこと】

 孫堅が江南、荊州あたりまでかなり幅広く影響力を持っている。徐州に務めていたこともあるし、そして孫策が幕僚にまで期待を受けていたことを考え、新興地主ではなく、一定の影響力を持つ地方豪族であるとするならば、孫権に継承されていくのは誰もが納得する説得力あるもので、呉とか会稽あたりの孫氏が必然的に荊州徐州に拡大していくのはむしろ必然的であったと見ていいのかもしれない。

 孫策が江東の小覇王と呼ばれたように、個人的資質もあるだろうが、それにはなんらかの孫家のシステムが裏にあったのではないか?であるからこそ、軍事的拡大を親子二代にわたって可能であったと見るべきではないのだろうか?で、規模が大きくなりすぎて拡大より安定を志向した三代目孫権。でもやはり荊州に向かうのは個人意思云々より、やはり必然だった。組織の機能的要請だったと見る方がすんなり来る。で、それを可能にしたシステムや軍事的背景はまったくわからないのだけれども。

 孫権劉備を受け入れたように、孫策太史慈を、孫堅黄蓋とか受け入れたのと共通して、南下する流浪民をうまく生かすようなものがあったのではないか?そして中央が安定して、その流れが弱まって、さらには中原が統一され、流入圧力が弱まって、システムそのものも弱まった、というか中原には及ばなかった。そういう図式が考えられる。

 豪族の反乱を見ていると漢朝の権威はあんまり確固たる物に感じられない。というか地方においては当たり前だが、その豪族、支配者の権威が最優先。王朝という上部構造、上位の政体がなくなって、より露骨にそれ、豪族の独立性が表れたってことか。で、江南における貴族制は、バラバラになる豪族を王朝より、強固に束ねるシステムの必要性からも生まれたと見ることができるなぁ。政体というよりは、宗教・思想に近い面がありますからね、貴族制って。貴族制にしろ、塢にしろ、地方自治・独立の現われですね。

 豪族=多角的経営を営む。孫氏は漁業。養殖といっても、今のような養殖とは意味合いが違うのだろうが。そして地方豪族であるならば、中央政界と結びついていたはず。さて、中央政界のどこ、誰と結びついていたのか?揚州を代表する、結びつく外戚っていたっけ?うーん周家しか思いつかん。それで、周家>孫家なら理解できるんだけどなぁ~。

六朝時代における関中の村塢について』

 塢は本当に興味深いテーマなんだけれども、塢っていう小城がひとつの政治単位として機能するには防衛、あるいは築城技術とでも言うものが成立していないといけない。それはいったい何なんだろう。攻め落とせないとまでは言わなくても、墨子然り、相当な防御技術がなければ、成立しない。攻め落とすのに相当な被害・労力がかかってしまうから、塢というものが存在しうるわけで、墨子がその姿を消したのはもはや築城・防衛技術による自立が成り立たなくなったからであって、攻撃を跳ね返すことが出来るようになった技術革新とは何なのだろう?国家の衰え、軍事力にまわせる人員の減少が、力攻め=多様の犠牲も問題ないという前提を成立させなくしたのだろうか。

 関中を中心とする村塢の話ですが、前漢の事例、やはり関中で十近い勢力が割拠していたと。彼らは塢に拠っていた。簡易性と利便性。短期間で移住させて成立する。そういえば、関中から唐にいたる勢力が誕生したのも、この塢というものが成立しやすい、そういうところがあるのだろうか。武川鎮軍閥・関隴軍閥とこの関中勢力の比較は非常に重要だ。前者が可能になった理由は何であろうか

 どう見ても董卓の塢なんて、城のレベル。なんで塢と呼んだんだろう?まあ城作っちゃいけないっていう決まりがあるんだろうけど。諸葛亮郭氏塢で亡くなったこと。戦争のたびに現地豪族の協力を要請していたのか!?そして郭氏が、蜀にとって重要なパートナーであるのならば、その後の魏における郭氏や郭循による暗殺、あと郭准が諸葛亮を阻んだことなど、いろいろひとつの線に沿って説明付けられるかと思うのだが、後漢時代の郭氏が作った塢であるだけらしい。しかし、郭氏は気になる存在だなぁ。

 後漢から積極に塢が作られていた。関中十将(?)も塢によった。そして、村塢連合の盟主であると。曹操との戦いで蜂起しなかった諸塢を攻略した。つまり関中内の諸勢力の必然的衝突であったと見ることも出来る。劉雄などという曹操についた者もいたし(しかし彼は後に蜂起して討たれている)。

 そして程銀・侯選李堪の三人は、河東郡から非難してきた勢力だと。これは知らなかったな。彼らがもし、董卓のころからの人物・勢力であるとするならば、塢によって流浪集団の勢力を吸収しようという戦略が董卓にあったかもしれないな。涼州から、雍州という単位の新設も、この塢&新興独立勢力にあるものなのだろう。

董卓と関中軍閥について】

 馬騰は一時、韓遂と組んで董卓と衝突しているよな。逆らったり、和をしたり、特徴なんだけれども、董卓はこの関中勢力をどの程度纏め上げられていたのだろうか?気になるなぁ。この関係がいかなるものであったかというのが、董卓の革命プランに大きな影響力をもたらしたと思う。洛陽焼いて、関東との距離がぐっと広がった。次に向かうは陸の孤島のように浮かんだ長安から、蜀を後背地にしたり、荊州を伺ったり、色々あるが、并州から公孫サン袁紹挟み撃ちが董卓の戦略としてあっただろう。

 呉・蜀が流れ込んでくる人士が重要な役目を果たしたように、塢&関中軍閥を見てわかるように、この関中もある種そういう性格があった。であるならば、董卓と彼らの距離感が政権の性質をそのまま決定して、その後の歴史の流れにも大きく関係する気がするなぁ。董卓政権をどう評価するかという問題意識・テーマに関係してね。袁・曹戦争の際もそうだし、馬超の乱のときもそうだし、その二つの戦争以前もそうで、彼らは強固な団結がない。行き当たり、ばったり、独立とある程度の自治権裁量権あったら、それでいいみたいな感じで。董卓の率いる涼州勢もこんなもんではなかろうか?李傕・郭汜とかも結局もめてぶつかって、消えて行ったし。

 そう考えると董卓というのはこういう荒くれものを見事に纏め上げ、統率する名士だったんですよね。すごい違和感を感じますけど、彼の名士としての名声が背景になくして統率することは難しかったでしょうね。

 首都の話、関中の話、色々重要なことに気がついた。見方を根本的から整理しなおさなくてはならないな。さて、さて、どの程度大きく見方が変わるか。袁紹派と袁術派という見方はどの程度まで適当か?かなり疑問がわいてきた。あとで、書こう。

 西晋時代には八王の乱で権力闘争に加担。劉沈に一万の兵を供出している。そして西晋崩壊時には彼らに官職が乱発されている。

 竺氏がインドからの帰化人なら、インドの政争の敗者の末裔か?そういえば、胡漢融合の際に、重要なのは宗教と都督府=府兵制。府兵制という軍事に役立つ人間ならば、誰でも平等に出世させるという実力主義は都督府という容器だけでなく、塢というシステムを前提として発達したと見るのが自然だろう。塢が統合・整理されて巨大化・集約化されれば都督府になっていく。塢=都督府とは断言していないけど、おそらくそういう問題意識もあって、塢を扱ったんではなかろうか?塢という要素が都督府の機能として取り込まれていく、参加に収められていくという流れがありそうだ。北魏以降体制に取り込まれ、行政単位として再編されていったとあるし。

 郷兵・開府・府兵制・都督そんなところがリンクしてくるんだろう。あれ?儀同将軍、大都督、帥都督、都督って役職があって、八柱国、十二大将軍、 二十四開府と都督は一部局にランクが下がっているな、西魏北周に至って。その点は検討しないのかしら?六鎮の乱に代表されるような、主要な政治単位は鎮。その鎮にやはり都督制が引き継がれていることは間違いない。しかし西魏は、大幅な改良を加え、東魏はそうではなかった。そこら辺が勝敗を分ける大きな鍵となったわけで、その違いはどうなのだろう

 楊氏政権は仇池国と呼ばれ二百年近く独立を保つ。厳耕望いわく「塢堡式政権」。後秦も一種の塢堡式政権。経営だけじゃなく、牧畜もやる余地があった。馬を育てる余地があったところに統一の原動力を見出だせるな。塢堡式政権で連想するのは殷の時代、広範な領土、支配地域を持っていても国家としてのシステムが不十分でつなぎとめておくことが出来ないから、王がしょっちゅう地方に征伐しに出かけるという話。ちょうどそういう状況であったのではなかろうか?

六朝都督制研究の現状と課題』

 書くことはないな、多分あんまり理解できていないだろうし。A刺史説、B都督説、C四征将軍説、とあって、越智氏のC説(正確にはA&C説であるが)についての反証。都督が重要な役割を持つのは東晋以後の話であって、魏などの時期には、刺史や四征将軍などによって担われていた―という理解でいいのかな?わからないけど。―という越智説への反論、やはり都督がそれを担っていたとする説。

 まあしっかり読めてるかどうかなんて怪しいものですが、メモがてらにね。

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