てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

書評―極意の解明―武術の秘伝妙術とは/近藤 孝洋

極意の解明―武術の秘伝妙術とは/近藤 孝洋

¥1,575 Amazon.co.jp
 で、以前書くといっていたわけで、よみました。簡単な解説・概要をします。自分のまとめなんで順不同になってます。イヤー面白かった。武術を学んでいる方は是非ご覧になるべきものですね。末尾に「カルロス・カスタネダ」シリーズ、呪術の本が参考文献となって上げられています。やはり武術は畢竟、宗教と催眠術ですか。催眠術の面白そうな本ないかな~。全然書籍でないんだよな~。催眠術。

 自分が面白いと思ったところを書いているだけなんで、オチはないです。

 一刀斎直伝の小野忠明の夢想剣、針ヶ谷夕雲のいう無住心剣術言葉は違えど、言うことは同じ。ここにまさに単純な秘技、極意、奥義などとはいえない妙術がある。忠明の妙術という言葉によって武術かが求める奥義・極意という概念を説明しようとしますね。忠明は柳生門下を三人いっぺんに取り掛からせて、それを難なく抑えてしまいます。実際立ち会った一人村田与三は目付けをしたが、まるでそこにいないように見えて、どこにも目付けをすることができなかったといっています。このセリフ自体が重要なところを示唆していますね。立会いにおいて重要な目付けというもの。そしてそれができないということ。忠明の妙術はそもそも相手の知覚・判断=目付けを不可能にするものであると。

 筆者は格闘技者と比べ古伝武術家が秘術を持っていない限りかなわないということを冷徹にのべます。それは修行時間の圧倒的不足、プロはそれ自体が職業であること。そして気という観念もプロ格闘家はスパーリングを通じて目で避けるのではなく、身体で感知し、避ける気の感覚、人間が本来持っている防御本能・空間認識能力によって磨かれているのだと。だからプロは察知能力も磨かれており、同じ体格・技術なら決して小は大に勝てないということまずときます。陳家太極拳を学んでいるとき若い師に尋ねたとき、師は暗殺者向きだから、まともにやったら決して勝てない。と述べたエピソードも紹介している。ハッケイも耐性がつき一撃必殺までに至らないと。

 剣術秘伝独修行、天狗芸術論などから決まりきったパターンに対処することの無意味、技を磨いて元となる人間の深遠なる備わったものを使いこなせなければ無意味だと。力と技以外のものを鍛えなくてはならない。第三の道、潜在能力の開発である。

通常の人間は意識を眠らせているから、本能で動く魚の如し、決まりきった反応しかしない。その本能を利用して漁をやるように、ある一定の刺激を与えれば、決まりきった反応しか示せないのである。しかし「覚醒した人間」はそういった決まりきった反応とは無縁のところにいる。結局修行=悟り。まず悟りを開くことを重視しろと。武術の基本中の基本に話は戻るわけですね。でも誰も悟れないから、近代格闘技のようなものになるわけなんですがね

 陰陽二元論に基づいて理を構成します。全ての物質は有限である。地球上に膨大にあると思われる大気・水それですら有限である。プラス・マイナスは大きな法則で結び付けられている。プラス思考、長所だけを伸ばせばいいなどというのは間違いである。その分陰陽、マイナス部分も大きくなるのだから。

 芸術二葉始には、剣術の修練を積んだものが針治療で患者を殺してしまった話が出て、剣術では実際に人を殺したことがないのに、治療では人を殺してしまう矛盾を師に問います。師は本当に立会いの機会がなくてよかった。そんなことでは確実に立会いで殺されている。人を殺すことを考えて、殺されることが脱落している。物事には陰陽、表裏がある。片方ばかりに目がとらわれて、もう片方に目が向いていない。だからこそ治療で殺すような結果になってしまうのだと。得あるときは、そこばかりに目が向いて、必ず失を見落として、失を得てしまう。それが人間というものなのだ。

 天真獨露では勝とうという努力などするな。まず負けない努力をしろ、弱点を一つ一つ除いていけば、負けないようになる。勝とうという訓練は弱いものには勝てても、同じレベルのものと相打ちになって終わる。決して勘違いしてはならない。

 武術家は徹底したリアリストであると同時に、神秘的なものを追い求めるものでなくてはならない。武術の妙術とは見えざる身体の操作である。下の気の話を参照。意識を高めること、覚醒させることが、高度な身体技法を可能にする。必ず戦いで恐怖や逃げたいという自我意識が出て来る。欲でも良いし、そういう自我意識を滅却させて、超意識に至らなくてはならない。そういう高次な身体を意識体と呼ぶ。

 剣術に存在する水月の例えのように、本来の月と池に移った月二つ写る。このように人間の意識も二つ存在し、二重性を持つ。であるからこそ、相手に思いもよらぬ見えない角度からの攻撃が出来る。実際の練習も十分対処できるものではなく、厳しい条件見えない角度から攻撃をしてもらう。それを捌く練習をせねば、無意味。西江水の教えに、法心(法身とも記載され、どっちか判断不明、誤字)という見えざる身体をみること=心目によって、相手を見ることが重視されている。相手の肉体を見るのではない。見えざる身体を見えるようにならなくてはならない。そうでなくては到底相手が割きに動いたものに対処することなど出来ない。夕雲流にも見えない身体を古祖狙えという教えがある。無往心剣術では眼をふさぎ、心を落ち着かせることよりも、そぞろに庭の木でも見て、身体を落ち着かせる、静めなさいという。雲でも見ながら事故の肉体を静止させることが重要。意識の二重性を養うのだから見たほうが良い。敵ありても一人無人の野にある如し。捉われてはならないということ。何よりそこまでの境地に至れることは、本当に凄い。シュガーにでてくる一人シャドーボクシングみたいなものですね。

【引進落空】

 相手の攻撃をわずかな動作だけで無効化する。パンチミットを持つトレーナーは相手の気を先導してここだ!というタイミングでミットを出す。だから打つほうは気持ち良いし、パンチのうち方を覚える。その真逆をやる。下手糞なパンチミット、故意にズレたタイミングでミットを出して、相手に効率的な打撃をさせない。気を感知し、速く動けること、この二つが条件。

 気と気で相手と自分は一本の紐のようにつながっている。それが伸縮することを感知できないといけない。両の手を近づけると、熱と反発力を感じ、遠ざけると冷と吸引力を感じる。このような感覚を磨かないといけない。相手に狙いをつけられた時点で不愉快な、ムズムズとした知覚がなされる(ということは、熱・圧を感じれば、そこが狙われている!と言えて、相手の狙いがそれたら、その逆になると理解していいのだろうか?)。

 手や足で支えるだけでなく、相手と向かい合った瞬間から気同士がぶつかり合っている。こちらの気を外してやると相手はその気が急に消滅する違和感から勝手に崩れ、倒れる。これこそ、引進落空の根幹。狙われた場所、タイミング、気の操作が出来ないとダメ。相手は倒れてくれない=スカを食って、無効化されない。

 見えない身体は先に動作を起こすから、こちらを知覚できれば相手の行動を先に知ることが出来る。投げられまいと必死でこらえる相手にもこの見えない体を攻めてやればいくら踏ん張っても簡単に投げられる。この技を「合気」と呼んでいる。同じ姿勢でも、目線を変えるだけで筋力はかなり違う。思考はそのまま出す力の差異となりうる。

 普通時間ごとに、加速度的にしか力は加えられないが、見えざる身体は急加速、急停止が可能になる。いわゆるゴザ抜きのように、足元の布一枚を急に引っ張ってもらっても瞬時の脱力で転ぶことがない。一般的な動作が0.2秒なら、0.05秒で可能。引進落空をこなすために特別な立ち方が必要となる。それを虚領頂勁、浮舟、風揚などという。普通の人間は気が沈んでおり、地面を蹴って行動している。ボールでいうとワンバウンドで投げているのと同じ。それよりダイレクトで投げたほうが早いに決まっている。ダイレクトで相手に向かうために蹴らずに浮いた上体を可能にする立ち方を学ばなくてはならない。四肢は四艘の小船に乗せたごとくそのまま動く。左右どちらかに偏ってしまうと地面を蹴ってしまう千分の一ミリ単位で修正し、正中心に乗ること。(P134これをを、誤字あり)

 引進落空が出来ても、本当に強いやつには勝てない。かのウィリー・ウィリアムスと戦った人の例をだして(開始と同時にあっという間に目の前に来て一発KOされたという話)。よって田舎荘子にある「猫の妙術」、また荘子にある包丁、木鶏の話から意識を覚醒させることの重要性を説く。そうでなければ熟達したものには勝てるはずがない。また天狗芸術論は覚醒を霊明という表現を用いている。

 そもそも包丁とは丁という人間の名前を意味する。かの包丁さばきはまことに見事で、音色となり音曲になる。並みの人間は包丁をダメにしてしまうが、見事に使うためずっと同じ包丁を用いることが出来る。困難な骨と肉が重なり合っているところは、精神を統一し、無になって極めてゆっくり行う。そこに自我意識はない。気づけば作業が終わっている状態になる。超スローモーションで行う動作こそ、空間・時間を操る鍵である。空間は大体20~25センチ自由に操れる。

 猫の妙術は本当に面白いですね。ニャンコ先生です(笑)。ある日鼠が出て、腕自慢の猫たちにその巨鼠を狩らせるがどのヌコ一匹たりとも仕留めることが出来ない。そこを名手古猫がふらりとやってきて狩ってしまう。そしてヌコたちが集まって、教えを請うわけですね。江戸時代もヌコ萌えだったのでしょうか(笑)。拙者古くから、爪・牙をといで修練に明け暮れしが、かのような鼠にいかんともしえず、貴殿は何ゆえにあのような見事なお手により鼠を捉え給いしか。願わくばその一手是非ご教授候とか、なんとか。これからは侍ヌコの時代かもしれません。

 技を磨いた猫、気を練り上げ気迫で鼠をとってきた猫、そのようなやり方では相手も同じように対抗してくる、同じ技量にある鼠は取れまいよと諭す老猫の下りは師と門弟のやり取りそのものです。これを書いた人間は相当なユーモアと、猫萌えですね。

 悟りというものは頭で知るのはた易い。だが絶えず自我意識と向かい合い、克つことは本当に難しい。真に覚醒したものには現実も夢も同じ世界である。

 結局、気以上のもの、神を鍛えねばならない。神は気をすり抜ける。意念、見えざる手により相手の内部を攻撃することも可能。しかし呪術に近く呪いは人を呪わば穴二つとなって自分にも跳ね返ってくる。

 人間には惰という性質がある。じっとしていると身体の中にだちまちそうしていようという筋肉系が出来上がる。ほんの一、二秒でもそういうスイッチが入ってしまう。敏な状態に移行するには莫大な起動抵抗がかかる。パワーもそうだが、スピードが速い人間は最も手に負えない。反射神経を筆者は鍛えに鍛えたが、天才的な人間のジャブにどうしようもなかった。眼では見えてもあまりにも早いから、対応できずに打たれてしまう。だからこそ超スローモーションで動き、意識構造を変化させなくてはならない。自己の時間の流れを変化させることで、対処することが出来る。

 自己の時間の静止、自己の生理機能をゆっくりすれば、時間の流れもゆっくりになる。ゆえに相手の行動もゆっくり見えるようになる。自己を捨て、相手に打たれるがままの心持にする。完全に自分の中にある力を捨て去ること。体を緩めること、脱力をするだけで膨大なエネルギー、精神エネルギーを消費する。完全無欠の脱力をうちに向け、見えない体までゆるませる。これにはレンガを割るほどのエネルギーが必要となる。

 根本的に精神エネルギーが欠けている。そのためには心身、骨格、神経のロスを出してはならない。自然と同一、自然エネルギーを身体に満たすこと。恨み・公開・コンプレックスは心の自動回路に電流を流しているようなもの、精神エネルギーのロスとなる。

 最後に人間は皮膚呼吸でエネルギーをあらゆるところから吸収している。ためる状態になっている人間には、こちらが吸い寄せられる状態となるので、相手の呼気を狙い打つこと。

太極拳の話】

 手の労宮、足の湧泉で皮膚呼吸同様、気を吸い込み、蓄えた気を全身にめぐらし末端にめぐらせる。そうすることで打撃が三割り増しになる。伝えるには亜脱臼状態にする必要があるという。中枢神経を主導させ、末梢神経をあとに残すのが陳家太極拳のやりかた。やはり通常人間は中枢神経をうまく使えず、末端の手足だけで動作してしまうという悪癖があるのだろう。

 丹田から手足に順番に気を伝える。順運気法、逆運気法で丹田に気を戻すようにすると多人数に押さえつけられても、振りほどくことが出来る。

 太極拳の型は特別な立ち方を習得するためのもの。立つことが全て。気を挙上する事で足に圧力がかからなくなる。虚領頂勁。中枢神経が全てであるから、微妙な「頭のフリ」体幹部、正中戦の移動から始まる。静止している身体には静止抵抗がある。これを作動させないように、脊柱起立筋の力で抵抗を生まないように順番に動かす。中枢神経の太さが肝要。伝達速度は中枢神経が決めるから。それを鍛える正中線の鍛錬が重要なのである。

【気の話】

 気は目には見えぬがコロイド物質の透明な手触りとして感じ取れる。感情が荒ければ、荒いほど、気の波動も雑でたやすく感知できる。気は読み取られれば、即攻撃が通じなくなるから、動から静へと気を転換させる。肉体・オーラ体を完全静止させると微気とも神とも呼ばれるアストラル体、精妙なエネルギー体隣、第三者に感知できなくなる。気と神という概念モデルが重要ですね。一般では通常人・凡人と気の二元論で語られることが多いですが、氏の場合、気は凡人でもある話目指す境地と凡人の中間に属する領域とでも言いましょうか、いわゆる達人や修行で目指す境地を「神」と表現して、三元論によって、モデルを構築していますね。ここ重要。神は心・精神領域、思考の察知にまで及ぶものなんでしょうか?偉人の心を読む話なんかを聞くと、そんな気がしますがね。

 気がある部位は非常に強い。打たれても効かない。よって気が弱いところを狙う。攻撃をする以上、その部位には必ず気が集まる。つまり何らかの動作をする以上、必ず気は粗密を作るということだ。

 柳生宗矩に沢庵和尚が送った不動智神妙録というものがある。そこでは心をどこかに置けば、かならずどこかがおろそかになる。ならどうするか?どこにもおくなという。どこにも置かなければ、心はすべてにおいてあるのと同じことになると。

 上に行けば、下が足らず、前に行けば、後ろが足らず、左に行けば右が足らない。見ようとすると必ず眼に気が行って、上半身に気が集まり、足の気が疎かになる。見ようと思うな、五感に頼るな。そうすれば、身体は手足は気が足らなくなって、動けなくなる。動き、五感、思い、この三つは気を動かし、それにより隙を作ってしまう。

 動くと必ず、その反対の陰陽が隙になる。おびえないこと、敵の手足を見ないこと、受けに回らないこと。これが肝要。受け技を練習する暇があるなら、殴られてもKOされない身体を作る方が先。

 見えない気の知覚に勝負の鍵はある。天狗芸術論いわく、

 うつるとも 月も思わず うつすとも 水も思わぬ 広沢の池

鏡や静止した湖面のごとく、意識を白紙状態にする。呼吸は自分自身にさえ気づかれぬようにひそかに忍び寄るがごとく行う。近くともはるか遠くを見るようにする。一ヶ所ではなく、全体を複数の生命を見るようにする。光ではなく陰を、有よりも無を見ようとすること。木が猫のように動くことが見える。五感に頼ることは決してやってはいけない。五感が見るのはことが起こった後、そのときはもう遅い。

 先に動いたものは必ず負ける。よって、後から動く必要がある。しかし相手を捉えられなければ意味がない。後出しで勝たなくてはならない。柳生ではこれを西江水という。あの世の海を意味して、あの世に行くという極度の精神統一をさすのだろう。肉体をしたい同様まで動かさない境地に至って、潜在意識の知覚領域が出てくる。無意識・無抵抗、殺すなら殺せという領域に達すると、意識ではなく相手の動作が行動前にわかるようになる。普通は正面からしかものを見ることが出来ない。しかしこの意識では相手の背中側、弱いところまで見える。360度の視点、もう一人の自分が相手の背中を見ているようになる。高められた意識が、意識を分割し、予測不可能な角度から相手を見通すことが出来る。「意識の挟み撃ち」ができる。

 六祖慧能禅師の話は非常に面白いですね。こういうレベルが高い禅僧が昔はうじゃうじゃいたんでしょうね。今は…あんまり期待できない気がしますが。