てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

昔書いたものを見直してみた①

己が書いたものを見直して、ちょっと整理したものを書いてみます。

 そうそう、矢野先生の本がないんで、諦めてたら、『門閥社会成立史』でしたね。ありました。早速読んでみようと思います。この前、司書の人に聞いたら、ありませんねぇ~と思いっきりいわれたんですけど何ででしょう?システム古いから主税(ちから)じゃでてこないんですかね?これ、主税って読めない人いっぱいいそうですしね。川勝氏の呪いでしょうか?(笑)。

 まあ、勢いで後漢書全巻注文してしまいましたから、大変そうです。漢文能力ないんで、テキトーな読み方になるでしょうが。それでもし学者的な読み方ではなく、社会学者・文化人類学者的にやれば何らかの物は示せるかもしれませんし。列伝二つほど読んだだけでも、当時の通念・観念などちょっと面白そうな事実がありましたしね。

 あ、別枠の方にまとめた方がわかりやすいといくつかもっていっちゃったから、意外と内容薄くなった。ついでだから、道教についてのメモを。キリスト教とか、仏教関係の本はざっと1000冊近く本があるのに、見た限り道教は30くらい?すくなっ!(゚Д゚ )。シャーマニズムとかより少ないんじゃないか(笑)?

 道教を研究する意義って、やはり己はマクロ的に見るから、日中印の三ヶ国の共通事項という点でしょうね。そして何が相似であり、何が異なっているのかということを研究する上で格好の材料となるという意味で。

 インドは仏教を生み出した。しかし、土着の呪術的な要素を持つヒンズー教に集約されていった。仏教はインドの外において広がった。まあノンアブラハムといわれるくらい、インド以東は宗教上全く異なる。ついでに仏教はインド以西には全く広まっていない点なども興味深い話。

 マックス・ウェーバーが近代資本主義=キリスト、プロテスタンティズムである。さらにキリスト・イスラムは世界の殆どを占める宗教である。ならば、その二つの宗教の大元であるユダヤ教から端を発する一神教とはなんなのか?世界の殆どを占めることを可能たらしめた理由は一体なんなのかと、さかのぼってユダヤ教の研究をして、社会学という一ジャンルを切り開いた。

 このように、己はでは、ノンアブラハムである印・中・日の三大文明圏になぜ一神教が広まらなかったのか?特にこの三大文明圏に通底する呪術・土着の宗教に注目する必要があると考える。すなわちインドではヒンズー教であり(Hindz=そのままインドを意味するインド教)、中国では道教であり、日本では神道である。この三者の比較分析こそ、将来の国際情勢を考える上で何より理解しなければならない重要な問題だと考える。

 今でもノンアブラハム一神教になっていく要素は見えない。これは一体なぜなのか?この深遠なテーマを解き明かす上で重要になる。―こんなところかな?道教研究の意義を説明するなら。まあ要するに中・印・日とその他の比較分析に最適なモデルケースなんだよってことです。誰か拙問題意識と近い人はいないのかな?

 ちらっと読んだ中では老荘思想は、全然別物である。かなりあとから結び付けられたとか面白いものがありました。後でじっくり読もうと思います。放送大学の本でした。あと菊地さんという唐あたりのここを研究している人がいらっしゃって。仏教の弥勒信仰=救世主信仰の影響と相互発展しあって、道教でも救世主信仰が発達していった。老子に李という姓が与えられたのは、劉秀が讖緯で劉姓を助けるのは李姓であるというものがあって、そこから老子に李という苗字が与えられた。老子もその救世主信仰の一形態として取り込まれていったという面白い指摘がありました。なるほどなるほど。

 黄老→老荘→仙人&丹とか健康法→天師道などなど、その変化をしっかり抑えなくてはいけないわけですが、そこらへんがすっきりしない。んで、おそらくこの時代影響を与えたのは道教というより、讖緯で見たほうがいいのかもしれない。この讖緯も道教関係なく、色々取り込まれていくのだけど。道教の教理が全然確立されていないから、この讖緯が与えた影響をより詳しく分析すれば、霊帝曹操→後誰かいるか?→道武帝&太武帝の流れがもっとうまく説明できそうだ。なんかもう北朝南朝っていったん中国っていう枠組みを捨て去って、全然別のものなんだと理解した方がいいかもしれないなぁ。福永さんは馬と舟の文化なんて表現してらっしゃいましたしね。北魏の源氏から日本は臣籍降下の際に源氏となったとか、唐の八幡から、武士の神となったとか、なるほど、なるほどという話がありました。ちょっとチェックしましょう。

 んで、今のところ思いつきレベルなんですが、李通と李典がこの広義の道教徒なんじゃないかな?と思うんですね。まぁ、もう道教という枠組みにこだわらずに、宗教意識を持った人間、信仰心篤い人間でいいんですけど、讖緯にある李氏が王朝再建を手助けするという、信託に動かされていた人間だったのでは?と思うのですね。1万3000の一族郎党を魏郡鄴県に移住。これなんか、張魯が鄴に移ってますし、鄴が道教都市になったとまではいいませんが、何らかの天命を正当化するような装置が備えられ、それを後押しするような行動かな?と思うんですよね。銅雀台とか、確か讖緯ですよね?さらによく考えたら、異民族を大量に引き連れているとき、この統治としても道教、宗教意識から統治する必要性が高まっていたはずですしね。李通なんかは江夏という土地柄を考えると、いうまでもなくそういう宗教の先例があったはずですし、宗教的な紐帯なくしてまとめられなかったでしょうからね。まあ、これから史書を読みなおして、何か色々裏付けられそうなものを探してみましょう。

 もう一つついでに、浄明教について、いずれこれをやらなくてはと思って、全然やっていませんが、どうみてもこれが明という国号に大きな影響を与えたでしょうね。明という字なんか、あちらこちらで使われますから、マニ教一つだけで明という国号がつけられたと考えちゃあダメでしょう。明という言葉は多義的、多様的な意図があったはずです。

 あ、そうだ。呂母の乱と比較してみる必要もあるなぁ。呂母の乱も讖緯的な要素が強そうだし。城陽景王信仰だっけな?そこら辺が面白そうですね。あとこの人は斉の人で、呂氏打倒のときに、真っ先に中心になったのに、次の皇帝になれなかった不遇の人。遠くから反乱の兵を上げて、重臣たちが宮廷内において呼応して、その重臣たちだけが片付けてしまう。これなんか袁紹が反乱すら際の構想、モデルになったんじゃないか?という気がしますね。

で、己が書いたものを見直したやつです。昭熹さんのブログからまとめたやつはまた別枠で。

 ●九卿について

 太常=九卿のトップならば、のちの内閣総理大臣のようにこの部署にあるものが、九卿の意思決定、デシジョンメイキングを担ったんでしょうか?儒家の各学問の宗家が就く。五経それぞれ、五人のみ?やはり各派様々あって、何十人単位になるんでしょうか?

 光禄勲=都の兵を掌る部署でありながら郎官から、県長を任命する。軍事or人事どっちと一瞬混乱してしまうが、おそらく中央で一括して軍事の長を地方へ配分するところから始まった部署。んで、軍事的な役割、意味合いが薄れて必要なくなり、軍人ではなく、民生の長を派遣するという形になって、中央の兵を管理することだけが残った。よって変則的な権限を持つようになった。そしていずれ人事にせよ、軍事にせよ新ポストが出来て、古来より存在し続けた名誉職的なものへと転化する。国家の職位にある典型的なパターン。この場合は人事権が尚書に。

 衞尉も名ばかり、ガードマン。豪族の坊っちゃん連中、外戚とか武官系の人の大臣ポスト。バックを持っている人物専用のポストですね。地位を与えなくてはいけない。あるいは横の繋がりを作るために、名誉的なここに参加する。重要な部署を任せれば実害が出てしまうから、こういう失敗がたいしたことにならない名前だけのところにいく。あるいは慎重に、テストをさせるための研修的な意味合いが強いのかも?

 太僕は儀礼、祭祀関係の儀礼なんでしょうか?それとも朝廷の運営を取り仕切る。朝政=礼によって進んでいくから、その議事進行を司る、今で言う議長みたいなものかな?

 大司農と少府ってわかりやすいですよね。国家財政と皇室財政を区分けするってことで。大体どこでも王が最大財産保有者ですけど、それを管理するところに「少」ってネーミングをつめるのは、イヤそんなもってないぞっていう言い訳なんでしょうか?慈愛をもたらす優しき王=皇帝ですから、この私有財から国民へ寄付がなされるんですよね。農業=経済だから、農を司るという当時の状況が良くわかりますね。

 >地方行政の上では、財政関係の問題はすべて正書を尚書に、副書を三公府と大司農に出しています。

 正書と副書の違いって何なんでしょうか?皇帝用に序列をつけただけなんでしょうか?単に皇帝には正、三公とかには副ってついているだけかな?

 財政が2、王侯など含め皇室管理が2、儒系が2、法系1、軍事系だが、後に名誉的なものに変化したもの(光禄勲と衛尉)2。こう考えるとやはり先天的に地位が高いものが合議で物事を進めるという性質が強いのでしょう、きっと。

 この九卿と三公の合議制、仮に【重臣decison making】とすると、彼らはどう採決したのでしょうか?三公それぞれ、府があったとしても、別々の場所にあって、いちいちその領分の問題を採決するのに、九卿がそれぞれの府をバラバラの場所に訪れたら時間がかかってしょうがないので、朝廷などで決めたんですよね。いや、初期はそれほど問題が複雑化していなくて、単純な問題だからそれぞれが担当する領域がきっちり分かれていて関係調整をする必要がなかったのか?三公の府ってどこにあったんでしょう?現在の中南海みたいに、かなり近いところに集中して造ってあったと思うんですが。

 大きな疑問は、というかポイントは大尉という部署が大将軍府登場以後、その存在意義をなくしますよね?軍事機能を大将軍府にその権限とられてしまうわけですから。梁冀親子が二代に亘って権力を握った以上、そこが実質【重臣decison making】の場所になったはずで、政治構造が、意思決定がその前後では劇的に変化したと思うんですが。梁冀がいなくなったあと、この劇的な変化を一体どうやって埋めたんでしょう?大将軍府の登場=強力な政治権限を持つ部署の必要性、政治機構、統括された意思決定、一元的な権力を持つ機関の必要性。そういうものを意味しており、宦官や党錮の人事に対するクーデター気味の運動など全てはその延長上にあるのでは?

 つまり強力な政治機構・権力の空白が生まれたことによって、それを補完するために宦官だよりの政治や党錮などの現象が起こった。そして手っ取り早く何進に大将軍府を設けさせるという形として、大将軍システム復活で元に戻る。三公・九卿にしろ、強力な権限を持つ大将軍を復活させたくない、皇帝は当然自分が政治権限をもちたいからこれまで反対。その妥協として何進というどうしても権力を持ちようのない人物が選ばれたのではなかろうか?

 光禄勲から尚書に人事権が移動するステップの間にこの大将軍府での人事決定を挟んでいると思うんですよね。軍事権の次に人事・財政を押さえようとする。人事権に手を必ず伸ばしているはずだから、間の人事決定が重要になる。その結果として、尚書へ人事権が移っていくはずですから、その人事がどういった性質であったのか?尚書の人事って、一見皇帝が何でも決められる感がありますが、当初はむしろ大将軍府成立以後の妥協的な処置だったのではないかという気がしますね。

 順・桓・霊の流れの中で『権力の一元化』が最大の焦点だった。つまり政治権力をよりわかりやすい形で整備しなおす。政治システムの合理化、刷新をすること。それが全てに通呈する基本的な流れであって、梁冀の革命もそう。もし順帝がもうちょっと長生きしていればどうなったのだろうか?順帝というバランサーが消失した結果が、梁冀・大将軍府に革命の道を進ませたのではないか?大将軍府→消滅→西園→消滅→董卓曹操。やっぱり徴兵制・軍事というものが根本的に後漢初期に廃されたこと、分散されたことからこういう流れになるのでしょうね。後漢初期の経済力はまだ健在で辺境も匈奴のような大勢力がないため、外交=多少権限をやったり、貢納するだけで十分に操れた。しかし時代がたつにつれて次第にそれが出来なくなっていった。よって軍事・経済共に新時代にふさわしい新体制を再建する必要があった。まあそういうことなのでしょう。兵役が存在せず、西園軍で全国から召集しようとするところなんか象徴的だと思います。

 尚書に鴻都門學出身者が選ばれていたりする。書道の世界では有名、官僚からは評判の悪い梁鵠。いわゆる文書行政という官僚的な事務の専門知識がなく、五経の教養が無い人がついている時代。同時期に袁術尚書の地位=袁術には鴻都門學たちと繋がりを作ることが出来たはず。袁術鴻都門學はどうだったんだろう?文章行政基準を根底から覆そうとするでしょうから、頼るのは黄老か、それとも法家か?

 初め尚書→終も尚書と、結局尚書に戻るのなら、その間にある三輔、益州という特定の地域集団を重用するシステム。そして順帝という特定の地域を偏重しなくても済むシステムとなる。ここに三公・九卿合議システムの完成を見ていいのでしょうかね?でまあ大将軍府→尚書。そこに至るまでの移行過程が気になりますよね。

>袁氏は割合、伯仲叔季が多いですが、袁湯の子の世代で字が判る三人のうち、袁成だけ文開くで、あとは周陽に次陽ですしね。袁紹の世代だと、袁遺が伯業で、伯仲叔季がついたのもいたみたい。

 どうでもいい話ですけど、これって幼児の間に死んでしまったんでしょうかね。だから、字にあんまり一貫性がない。袁家だったら、もっと多く子供がいてもおかしくないと思います。

 武帝の頃は、泰山封禅がメインで、明堂は副次的な意味でした。それが明堂が泰山の変わりみたいな位置づけになって、逆転していく。天地自然崇拝から人口建設物へ。秦的な考え方に近い。天>国家、国家>天と変わっていく現れ。建築なんか思想を反映していて面白いんだけどな~。中国建築やってるのって田中淡さんくらいだからな~。

 何か良くわからない、メモ書きになってますね(^ ^;)。

ペタしてね                 読者登録してね