てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

昔書いたものを見直してみた②

 潜在的袁術袁紹という思い込みがあって、家柄・血統とか。実際そうではないと読み返して、いや読み返さなくてもわかるんだけど、改めて実感。己が今まで書いたものにはこの意識があるから、まあこの時代のちゃんとした知識を持つ人なら、?となってしまうんだろう、きっと。よって、そんなに需要はなくともきっちりまとめなおしというか、改めて記しておく必要がある。

①血統的な優越、袁家というスタンスから見ても袁術に確固たる優位は見出せない。
②幅広い士大夫の支持というのも双方で優劣はない。むしろ交際を狭めることが出来た袁紹に、先行者の優位を見て取ることが出来る。

 で、ここで注目しなくてはならないのが、袁術袁紹対立つまり、その背後における支持層の存在。彼らが対立する原因が袁紹の劉虞擁立であるから、本人は担がれるか!ワシャ神輿かい!だれが神輿やねん!と突っ込んだかどうかは知らないが、否定をしても、劉虞派と献帝派という政策対立の根本的理由は何なのか?おそらくは弁皇子、協皇子時代からあったんだろうけども。弁皇子、協皇子=何進・何皇后VS董太后(車騎将軍の甥っこなんつったかな?あれヒョウキ将軍だっけ?あやふやだな(笑)まあどっちにしろ董派だから、いいや)でもいい。
 この政策対立こそ董卓をほっといて、二袁戦争が始まった真因であるから、その理由を抑えなくてはならない。これはそのまま霊帝献帝を就けようとしたことに対する理解につながることでもある。彼は何進などを後継者に選ばなかったわけだから。
 地域間対立なんでしょうかね?北方派、西方派、南方派なんて以前分類しましたけど。北と西は、そのまま山東と関中といっても良いですし。両者のキャリア、尚書=内政重視、監察=軍事情勢重視。そんなところも関わってくるのか?

【汝南・頴川の経済対立?】
 んでまぁ例によって昭熹さんのものからインスパイアされて、董卓の通貨改革って経済制裁なんですね。汝南・頴川を日干しにする経済制裁。こう考えるとスッキリするんですね。董卓のこの日干しがあったからこそ、曹操の脱汝南、汝南叩き。そして頴川重用・支持。んで政権基盤が確立されたら、脱頴川。両方一気に潰そうとした董卓とワンステップ、クッションをはさんだ曹操。こういうことがわかりますね。董卓の失敗をみたからこそ、こうした。まあ政権基盤上不可欠だったということもわかりますが。
 こう見ると、荀攸董卓暗殺を謀り、失敗しても獄にぶち込まれるだけで済んだことが良くわかりますね。彼は地元上暗殺でもして、政策変えないといけない立場ですからね。潰し終わったら、また使うつもりだったんでしょう。
 まあこういった経済政策が袁術の遷都&称帝に漠然とですがつながっているんだろうな、と捉えているんで、ここら辺もっと掘り下げようと。さらに袁紹について、もし彼が曹操に勝って「中興」していたら、同じように汝南重用、脱頴川をしていたか?官渡なんかどう見てもラッキーすぎるだろ。と思っていたが、たとえば郭嘉か荀彧あたりが、守っていたら、内部がバラバラだから、必ず裏切り者が出てくるという見通しを語っていた。どう見ても後から付け足しただろう。後乗せだろう。後乗せサクサクだろうと思っていたら、そうではないなこれ。と思える要素がなくもない。本拠の汝南で反乱があったのは、もちろん本拠だということもあるが、それ以上に日干しにした可能性が非常に強い。
 はよせな!という掛け声が袁紹の汝南派にかなりあったんじゃないか?そして裏切ってきたのが許攸=頴川の人。財貨に目がないというか、彼の場合、そういう商業で身を立ててきた人間で、まあそうじゃなくても、かなり商業に携わって、それで家を保っていた人間であって、何とかしなくてはならない立場の人間だった。内部の内ゲバということではなく、商売とかの関係上から、内通を疑われたため家族が処刑されたのかもしれない。
 曹操の脱汝南という視点から、袁紹の敗北を見て取れるかもしれない。もちろん逆も真で、袁紹陣営が汝南・頴川対立になったからこそ、汝南を排除したともいえる。
 梁冀→董卓曹操という流れを考えると通貨や経済政策は極めて重要だろうと。ここ見直そうと。後、よく考えたら梁冀革命って王莽以来の行動になるわけで、当然王莽の失敗を考えると梁冀は皇族を、特に将来劉秀の再来になりそうなものは除くはずですね。この排劉氏が曹操にかなり役立ったんだろうな~とか思います。

三互法
 三互法について、人事における制限を作って、当然。霊帝なんかがお前は三互法にひっかかるけど、まあいいよ。とやって、自分の好ましい人材をつけたと思うんですよね。そうじゃなかったら、最初から刺史につける人間が限られてしまいすぎるし。そういう例ってないんですかね?

袁紹発給文章が効力を持ったことについて】
 劉弁→劉協この段階で朝廷による祭事・儀礼という、即位礼、それによって諸官による皇帝承認。同様に皇帝による諸官の承認、相互承認の儀式。これが執り行われていなかった。だからこそ劉弁こそ正統であって、そんな朝廷の命令は受け入れられない。もしくは効力に疑問が持たれる。そういうことになったのでは?
 >梁冀の限界というのは、おそらくここにあって、また董卓も同様なのですが、既存の官僚集団を抱え込みつつ、革命を志向すること自体が、結局は命とりになったのだろうと思われます。
 これは曹操の時には世代が入れ替わって「権道」的な人間になったので、前二者のような反発を受けずに済んだという解釈でよろしいのでしょうか?

順・桓・霊の性質について
 外戚も官僚もまったく信用しないという困った皇帝、桓帝の時代。順→桓→霊で、三者バランスよく、みんな仲良くが、大将軍府突出で、桓帝になって宦官というファクター重視、次の霊帝も経歴が幼少時に外からやってきたという要素が非常に大きい。それを受け継いで、宦官重視にならざるをえない。しかし、宦官以外のパイプも求めて、官僚も外戚も使う。少しバランスをとろうとゆれ戻った。保守→革新→革新だが、少し保守回帰そういう流れなのではないですかね?
 肉屋のおっちゃん何進はどういう人物なんでしょう?門生といってもどういう門生だったんでしょうね?後漢書読んでもそこら辺は触れられていませんが、貧しい出というよりは豪族の下のほうという感じですが。

風俗通の應劭の皇甫規評
 『蔡中郎集』読みたいなぁ…。董卓のことが色々わかりそうだし。
 同時代史料である『風俗通』著者、應劭によれば、わしも清流派じゃあ!わしも処罰せんかい!と申し出た皇甫規をさも素晴らしい人物のように巷では言っているが、これはそうではなく、自ら罪を認めることによって、処罰を軽くしてもらおうという汚い行動、阿りだと。中央の政変にいち早く対応しようとしたと見たほうが確かにスッキリする。大体そんなイチャモンをつけられたのなら、処罰されないわけがない。俺の
皇甫規がこんなに処罰されないわけがない。

【劉虞とか官職について】
劉虞の大司馬・督六州事、これ見落としていたが、どうなんだろう?ドンだけ広範囲なんだこれ?事実上の副皇帝、水戸黄門みたいなもんじゃないのか?この府は当然大きいはずで、劉虞府の配下はどこに行ったのだろうか?袁紹経由で曹操へ流れていったというのが順当か?たとえば袁紹の『使持節・大將軍・督幽青幷領冀州牧』というものは別に督四州で表現すれば良いと思うのだが、刺史と州牧に実質的な価値の違いはないし。身分をあらわすから、あえて最後に州牧ということを示さねばならないのかな?

八王の乱にいたる流れについて】
>存立基盤が、兵力を保持した豪族、あるいは流民集団もしくは、辺境系の兵の支持にあるような曹操政権だからこそ、漢魏革命以後も、ある程度の軍事的独立を承認しなければならなかった、つまり後の混乱の原因にもなるわけですが、都督制を導入しなければいけなかったのではないのかな、とか思ってもいます。中央軍はあったけれども、司令系統の違う、それ以上の兵力が存在した
 軍事権、指揮系統が晋王朝下では一元化されていない、されえない環境にあった。八王の乱がこれによる軍事の縮小、あるいは管理に求められるとすれば、各地の兵を削減、当然豪族が保持する軍隊も縮小しなくてはならなくなる。ある種の「刀狩」。軍隊保有に制限をかけるということは=豪族抑制政策。まあ直接的な軍縮でなければ、その後の宋に見られるような軍権の細分化のように徹底的にばらばらにして統率が取れないようにしていったのかな?そうすることで非効率的な経営を余儀なくされた豪族たちが、王家を担いで、中央権力を巡って乱を引き起こす、晋混乱にいたるグランドヴィジョンとしてはこんな感じなのかな?

後漢書読む際に忘れないようにメモ】
>鄭氏とか金氏とか三輔の名族層も吸収しているのと、橋蕤っていうのが与していることから考えて、劉岱と橋瑁の対立は、袁紹袁術、もしくは劉虞と獻帝の代理戦争
>『後漢書』の袁紹傳にしか載ってない、袁紹の弁明上疏があります。あれ読むと袁紹のイメージがかわるかもしれません。
袁紹が公孫瓉攻めてるときに、張楊の残党の所にごたごたがあって、その名目で黎陽に曹操が兵を進めている

劉備の動向と
献帝派と劉虞派について
 劉備の動向が袁曹戦争でかなり面白い動きをしている。公孫瓚が攻められているときに既に裏切って袁紹派でないといけない。しかしこのとき既に朝廷に官位をもらって曹操陣営に加わっている。劉備曹操袁紹どちらでも選べるフリーハンドの位置にあった。しかし、公孫瓚を裏切ったというにしても、まあ彼が朝敵認定されたとかなんやかんやあるけど、元々出身地である幽州権益の代弁者と見るとどうなんだろう?何だろう、どっちつかずの日和見、コウモリ野郎としておいたほうがいいのかな?流れでそうなったというだけで。面白いのはその場その場の状況で動かざるを得なかったのにもかかわらず、最適の選択をした。汝南攻めに、劉表の下に流れて、曹操が官渡を渡った時点で挟み撃ち、もしくは背後を突くというまっとうな選択に出たのに、袁紹の病死という結果。なんだろうこの転落人生(笑)。
 孔融陶謙ら徐州ら辺の獻帝派たちは、陶謙死後即座に、袁紹側に与している。やはりこれは曹操経由なんでしょうね。献帝派と劉虞派の違いはやはり、前者が既存権益・構造の延長上にあるのに対し、後者は新しく叙勲をする、任命をすることが出来る。より改革に近い。そういった視点で献帝派と劉虞派を見るとどうだろうか?これの面白いところは、本来劉虞派であった曹操献帝を向かえ、かつ劉虞が死んだ時点で両者の対立が消滅して、献帝派と劉虞派という選択肢に捉われる要素が少なくなって、再交渉できるようになった。戦乱にあることで既存勢力を相互承認しあう落としどころ、幕引きが出来る丁度いい転換期となった。より改革的な曹操献帝を担ぐ、既存の朝廷を支え、奉戴するということはそもそも矛盾している。そのねじれが、複雑な同盟力学、権力構造を作る。
 と考えると袁術の称帝にも違う意味を考えることが出来る。献帝を担ぐ献帝派が献帝派である必要がなくなったため、われこそが真の献帝派だと旗揚げしたと見なすことも可能。献帝がいないのに俺たちこそが献帝派だ!と言い出すのが面白いですね。つまり袁術政権=旧構造を保つ保守ってことですかね、現代的に言うと。革命で新王朝を開きながらも、その実は保守を主張するというねじれになったのではないだろうか。曹操献帝奉戴というねじれ政権が、袁術の称帝というねじれ政権を作り出させた。こんなふうにみることはできないだろうか。洛陽・長安残留組、特に三輔出身官僚が支持しているというし。董卓にしろ、袁術にしろ辺境政権、王朝でもかまわないといったようなところがありますが、そこら辺は呉・蜀とか五胡の諸王朝の性質があるのでしょうかね。

【人格関係
、改革の複合性を見落とさないこと】
>矢野主税の官僚達の「横の繋がり」というのがあって、特に古代社会のような個人的紐帯に依存するような社会においては一番重要な要素
 コネこそ全て。忘れないようにメモ。

 尚書臺の完全な外化・梁冀と李固との対立と袁紹と荀彧(曹操)の対立を把握。類似したものを持つと。孝廉改革と辟召の問題って、どう考えても同じ人間が同じ方向性をもってやる改革ではなくて、孝廉は左雄、辟召は三公系の意図によってやってる。
 いわゆる改革が大きければ大きいものであるほど、一貫したものになりにくい。いろんなアクター、権力者の意向が色々重なり合って、足して二で割ったものになる
 これ重要だな~。西園軍も上中下あるけど、階級的な意味じゃなくて、役割の違い。おそらく霊帝の意は上とか、三公系は中とか折衷されたものなのだろう。下軍校尉とか、その後名前も残らない、誰こいつ?という人間がいるので、きっと彼らこそ霊帝が抜擢した、霊帝の意でしか動かない腹心なんじゃないんだろうか?霊帝がもうちょっと長生きしたら、彼らの動向がわかって面白かったんだが。

【キメラ性質を持つ後漢の国家システム】
 孝廉と刺史二千石人事であらためて、ああそうか、漢ってキメラ国家なんだなと気づいた。たとえば、唐なんか一人間を一つの単位として把握して国家を作っていこうという意図がより強く見えるし、もちろんすぐ崩壊するけど。科挙見ればわかるように、貴族制と折衷されたとはいえ、統一的な国家システムとして一から説明できる。県単位ではこのシステム、州はこのシステム、中央の官庁は…。つまり国家というものを一つのシステムとして機能させるような思想が見える。まあ律令制なんかあるようにそこに一つの意志、制度が一貫されていることを見て取れると思う。しかし、漢は地方の現実に、中央政府を途中から強化させた。少しずつ王朝を完成させた。地方の意図と中央の意図が上下それぞれぶつかり合っているシステム。ガンダムとリカちゃん人形くっつける魔改造的な要素が色濃いんだ。フランケンシュタインっていえばいいかな?だからこそ王莽的な儒教国家で一から作り直そう!なんて考えが盛り上がってくるんだろうし。

>順帝の時代に私恩を樹てる環境が整った。が、実行はできなかった。梁冀が大々的にそれをやって官僚を抱え込む。この構造は司馬懿の州大中正と相似。
 なんでこういう重要なところを見落としてますかね…

【なんとか派、なんとか論】
 谷川道雄の「名望家」論、渡辺さんが名士だったり、川勝さんが清流だったり、んで上谷氏が刷新派?よくわからないが、この時代の研究者というのはなんか政権の中枢を担ったり、政治を動かした特定勢力・派閥的なものを~~派とかなんとか表現しないといけない理由でもあるのだろうか?それより政策論、対外征討重視派・経済重視派、あるいは山東とか、関中とか地域勢力で見たほうがよっぽど政治の流れ、時代の移り変わりをうまく説明できると思うんだがな…。よくわからんなぁ、そういう言い方をする必然性が。個人的にマックス・ウェーバーの官僚制論で用いられた「名望家」という言葉が気に入っているから、極たまに、名望家という言葉を一つの社会上層、階層、政治家を表現する言葉として使ってしまうんだが、谷川氏のこの論と混同される恐れがあるのかあ…。困るなぁ、なんか渡辺さんの「名士」論に一抹の危うさを感じるのは、ここにあるのかあ。この名士モデルがうまくその社会事象を説明できるものとは到底思えないなぁ。旧説を矛盾ないように、うま~く継承、置き換えただけという気がしないでもない。谷川さん読んでて頭痛くなった記憶があるんですよね。あんまり読みたくないな。

>曹騰なんかが出世できたのはむしろ身分が低いからこそ学友として選ばれたのだと見てますね。宦官界も高い家柄(?)のようなもので、硬直性が高まったのであまり強力なバックボーンを持つ宦官が好ましくなかったのだろうと。
 孫堅、成り上がり論×みたいに、ちゃんとした豪族でしたよ~と言っているのに、何を言っているんでしょうね(´-ω-`)。イヤ、曹家は豪族だって書いてあるのに・・・。まあでも、新しい血が欲されていた。もしくは背景的な話、この地の人間を上げる目的があって、その中の一人として選ばれた可能性はあるとは思う。
 こうやって、今見ると何を言ってるんだお前はという、変なコメントが多いな…。まあ、間違いなく己の8ビットの頭では人事制度は理解できないな。とりあえず、史書を読もう。