てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

石井仁さんの『曹操』から(五節)

もはや、あんまり書くことはないが、最後までチャチャットやりましょう。

前回の四節はこちら→石井仁さんの『曹操』から(四節)  六節はこちら→まだよ…

ペタしてね               読者登録してね

曹操―魏の武帝/石井 仁
魏の武帝 曹操 (新人物往来社文庫)/石井 仁
こっちDMMリンク、誰もDMMから買わないけどね。

曹操―魏の武帝/石井 仁

¥2,940 Amazon.co.jp
魏の武帝 曹操 (新人物往来社文庫)/石井 仁

¥700 Amazon.co.jp

王允呂布後、董卓の故将が長安を攻めて、李傕・郭汜・張済・樊稠四人による集団指導体制が出来上がりました。これを「四頭政治」としています(P124)。これが192/6のときで、194/3に馬騰韓遂・劉焉が組んで長安を攻めてきます。もしこれが成功していたら、皇族の劉焉が輔弼する体制になって、天下を主導したでしょうね~。氏も関東諸将は兵を解いて従わざるを得なかっただろうとしています。三国志終了ですね。第三部完です。ところが返り討ち。劉焉は子の劉範、劉誕まで失います。

 そして第三子の世に言う暗愚劉璋が後を継ぐことになるんですね。彼は暗愚というか本来世襲候補ではなかったため、あんまり子飼がいなかったんでしょう。さらにはこの時の敗戦によって、著しく政権の求心力が落ちたため、もう発言力自体がなかった結果でしょう。彼一人を暗愚呼ばわりすることに責任を求めるのは歴史学ではありません。しかし、まあこの時の重臣の死に方はすごいですね。黄琬とか馬宇とか朱儁とか种劭とか、重臣卒すのオンパレードですね。馬宇って馬騰の一族なんでしょうかね?この時裏切るということは董卓のもとには劉焉もこの時まで従っていたわけですね。あ、五斗米道が道を焼いたとかなんとか言ってましたっけ?

そんなことはさておき郭汜が後将軍、樊稠が右将軍で開府し、三公以外、車騎将軍李傕と合わせて六府という前代未聞の状況になります。まあ、大将軍府があって、四府はあったでしょうが、六府ってねぇ。なんでしょうね?内閣が三つあるような感じでしょうか?とりあえず異常事態なことには変わりありませんね。これで信長死後光秀を討って、重臣たちが、天下取りレースを開始するように、彼らも争い始めるわけです。しかし誰も秀吉にはなれなかったと。

 195/2李傕が樊稠を討ち、李傕は献帝を、郭汜は大尉楊彪以下公卿をそれぞれ拉致します。まるで小学生がレアカードを集めてケンカするように奪いあい。九卿もまさかこんな目にあうとは思いもしなかったでしょう。今の官僚も明日はこの九卿だぞと言ってやりたいですね。PRIDEざまあみろ、じゃないですけど、世の民は九卿ざまあ見ろと言っていたのでしょうか…。

 第二同盟の盟主にかつがれていた朱僑は、董卓の死後、「李傕・郭汜のたぐいなら、赤子の手をひねるようなもの」と俺の時代キターと死亡フラグを立てて、見事にフラグ回収。情けない人生に見えますが、もうちょっと、あとちょっとだけ長生きして戦争してれば勝った可能性もありますので、どこまでツイていないんだお前は(笑)。かわいそ過ぎるだろう。しかし兵権のない大司農なんかにホイホイ就いているからなぁ…。皇甫嵩もこのころ死んでいるとありますが、ひょっとしてふたりとも暗殺されたのかもしれませんね。危険視されて。なんかタイミングが良すぎますしね。

 郭汜の手勢がわずか数百で、李傕は数万(p126)ってどいうことなんでしょうかね?どんだけオッズ偏ってるんだと。これで郭汜が互角に戦ってるって、ゲリラ戦をやったということですかね?長安市街で。李傕を大司馬に昇進させて、兵権を奪おうとしたり、あれ?司馬って兵権あったっけ?元白波の楊奉を離反させたりして、調停させようとします。劉艾・賈詡先生によって精鋭の羌胡兵を帰還させます。きっと塾あるから、帰るわ―とか言ったんでしょうね。こうして兵力を失った李傕は調停せざるをえなくなると。賈詡先生は元から朝廷重視っぽい感じがしますけどね。どうなんでしょう?無論出身地から涼州重視なんですけど。

 張済の調停で弘農郡に行幸するとありますが、なんででしょうね?朝廷をめぐって喧嘩しないようにでしょうか?ここで重要なのが、人とカネの流れを重視する己としては、人口なんですよね。彼らはどこに行ったんでしょうかね?京都にいるくらいですから、いわゆる第一・第二階級、社会のエリート、良戸籍達なんですけど、まさかむざむざ殺されはしないでしょうし。鄴か荊州あたりに落ちたんでしょうか?ああ、そうか本籍地に帰るということもあるか。弘農郡あたりか関中の塢にでも都が落ち着くまで非難したんでしょうかね?ただ、相当な数ですからねぇ。京都の所在がどこにあるかということは経済・公益上の中心がどこにあるかということですからねぇ。袁術がこれをある程度吸収して、首都機能を作る必要から皇帝になるなんてのが一番まあ、称帝の理由としては最も合理的にみえるんですがね。そもそも仲ってなんなんでしょう?最近単に祭祀やっただけで、名乗ってないと見たほうがやっぱりいいかな?という気がしてます。

 激しい離合集散の嵐が年表にまとめられています(p126~7)めんどくさいんで、195/12「安邑政権」―董承が衛将軍、韓暹が征東将軍、李楽が征西将軍、胡才が征北将軍、王邑が鎮北将軍、楊奉が安東将軍、張楊が安国将軍。196/8張楊が作った楊安殿での「第二次四頭政治」張楊が大司馬(野王県に駐屯)、韓暹が大将軍・司隷校尉楊奉が車騎将軍(河南梁県に駐屯)、董承と輔政。董承はそのまま衛将軍なんでしょうか?周辺にそのまま留められているところを見ると、ものすごい野合で成立しているな~という気がありありしますね。というか李傕・郭汜はこんな賊集団に負けたのか…。

 董承は、董卓一門として遇されていたが、再び廷臣寄りの立場に転向と石井氏は記していますが、彼は董卓王朝を支える気まんまんだったんですかね?まあ、皇族扱いですからね。楊定、胡珍は「涼州の大人」と称された士大夫、もしくは京兆藍田県付近の大姓豪族ですか、なるほど。李傕・郭汜は中堅将校とありますから、根拠がない武人にすぎなかったんでしょうか?まあ、そんな感じの人間は戦争で負けたらおしまいですよね。んで、この三人で張済を排除しようとしたら、今度は張済が李傕・郭汜を引き入れ、逆襲。王邑も張楊董卓任用か…。もし革命が成功して、曹操とか、袁紹とかぶつかっていたらどうだったかなぁ。観たかったなぁ、そういう画が。よく考えると董卓あっての袁配下の曹操なんだな。もし董卓生きていたら、曹操が反逆する余地もなかったんだなぁ。

 196/1曹操は予州制圧、「汝南・穎川黄巾」を降して「資業」食糧&農具&牛を手に入れた。ねんがんののうぎょういっしきをてにいれたぞ!って感じですかね?黄巾というより、過剰武装農民と言った方が適切な気がしますけどね。董昭が必ず曹操が裏切ると言っていますが、やはり青州黄巾などの私兵を取り込んだことで、むざむざ袁紹の下に立つことはないとみたんでしょうね。董卓死後袁紹以外はお伺いを立てて刺史とか州牧とか承認されてますから、曹操が出し抜いて関係を持とうとしたわけじゃない。というか袁術とか曹操以外調子良すぎだろう(^ ^;)。えげつなさすぎるぞ、陶謙とか、劉表とかお救いします!も言わなかったくせに、特に陶謙なんか第二次で打倒するのか?と思わせといて、あっさりやめてますしね。袁紹は郭図を派遣してますが、鄴に迎える気はなかったでしょう。とりあえず、洛陽にステイしていなさいと、飼い犬に命令を下すトップブリーダー程度の気持ちしかなかったと思います。

 氏の曹操と荀彧は天下統一のためのドライな関係、天下統一ができなくなったら、その関係も熟年離婚のように冷めていったというロジックがよくわかりませんねぇ(P132)。故郷の潁川の利権守ろうとしただけでしょう、対立あっても。

 196/8曹操上洛、韓暹・張済を追放。そうか、張済との戦いはこの時からか。曹操は鎮東将軍とか、司隷校尉・録尚書事とか、なんか急激にポスト昇進します。このときのポスト実際にこなしたんでしょうかね?まあ名前だけでしょうけど。んで、微妙に三人ほど粛清されたとか書いてありますけど、彼らは誰の勢力だろ?楊奉とか韓暹とか、洛陽だと到底守りきれなかったんでしょうね。周りは敵だらけですからね。曹操が強いから、張済にいっぱい食わされた以外は完勝。曹操強いの当たり前!っていう思い込みがありましたけど、どうなんでしょう?楊奉配下の徐晃を用いたり、事あるごとに強くなるような軍システムを採用した故と見たほうがいいかもしれませんね。蒼天にあるみたいに青州黄巾→魏武の強、鎧袖一触、向かうところ敵なし、スター取ったマリオ状態と見るのはあんまり適切じゃないでしょう。

 そういえば、段煨の下に身を寄せた賈詡先生はどうして、張繡のとこにいったんでしょうね?段氏の下でいたら安泰だと思わなかったのか、劉表の下への南下の流れに新しい時代を見たのか、袁紹に自分を高く売るために実績を積もうとしたのか?いずれにせよ、袁曹対決の前に自分を売り込もうとしたのは確かでしょう。

 屯田制の話。袁紹は桑の実、袁術はどぶ貝を軍糧にあてた。曹操も兌州で呂布との戦いのさなか、程昱が兵糧に人肉を混ぜた。上洛時兵糧を携行せずに、楊沛から保存食とされた桑の実を千斛提供されて感激している。のちの海原雄山である―ですね。棗祗・韓浩が屯田制着手。棗祗はすぐ亡くなって、任峻が一族数百人を引き連れて帰参。屯田を許都周辺に行い、百余万の収穫をえる。牛ありなしで、官に五割か六割変わる。これは当時の小作と同じ。国家が民を小作化して大地主となるのが魏の特徴ですね。

 屯田民は漢帝国の公民でなく、通常の戸籍に登録されず、郡県の管轄外。かれらは、いわゆる田官―典農中郎将、典農校尉、典農都尉などに管理される。民、食糧、兵力を管理できるわけですね。しかし、戸籍外。いわゆる下級階層に組み込むわけですからね。さっさと廃止していれば、魏晋革命も防げたはずなのに、どうしてそうしなかったんですかね?ここらへんはポイントになると思うのですが。

 曹操は詩を多く残しましたが、これだけ王として、個人の感情が記録に残るような人間は、光武帝以来いないのではないでしょうか?司馬懿なんか対照的ですしね。生涯に何の悔いもない。しかし、あの世で子脩に母はどこですかと聞かれたらなんと答えたらいいのだろう(P140)という戸惑い。人、父、一家庭人としての悩みを吐露するところなんか、人間そのものが見えてきそうですね。指導者としての偉大さより、詩によって一人の人間としての感情を訴えたところに曹操の強さ、この当時の時代を見て取れますね。

 袁紹の南下に怯えながら、南陽劉表・張繡連合軍を叩く。決定的な勝利は得られずとも、しばらくは背後を気にしなくて住むようになる(P141)。

 袁術の称帝で、孫策に見捨てられると。なんで呂布にせよ、孫策にせよ、見捨てられたんでしょうか?呂布なんか、袁術に従うしかないと思うんですけどね。曹操にも負けましたし。孫策袁術から独立してやっていけるはずもなく、むしろ誰が孫策独立を補佐したか、気になるところです。三輔人袁術政権に流入することで南朝の白籍みたいに税金払わず、でかい顔でもしたから、捨てられたんでしょうかね?あれ?土断で戸籍持たないのって、白籍であってたかな?一流人を排斥し、自分たち二流士と三流=土着の士で新政権!って構造かな?陳国に弩が数千張あって、乱を免れた。十余万も人が流れ込んだか、なるほど。袁術は王と相を暗殺し、手に入れる。この弩を有効活用できなかったのか?(P143)

 袁術は寿春で死んでいるわけですよね?流浪のイナゴ、ハチミツくまのプーさんはどうなんでしょう?あんまり袁紹への合流も確固たる証拠がないのならば信頼しないほうがいいのかもしれません。大体、寿春で病死したんなら、その後孫策あたりがラッキーと早速吸収してしまうはずですが、孫権でもいいですし。曹操側に入ってしまっている。当時袁紹と戦う上で、そんな事やってる暇はないはずで、どうやって吸収したんだろう?

 そうか袁術が二度目の大敗をすることで、呂布曹操の三者のバランスが崩れたことが大きかったのか。袁術が弱いのか、それとも曹操が強いのか?呂布もボコボコにされてますからね。一方的に袁術が弱いとは言えないでしょう。関係ないですが、陳官の遺族を手あつく保護し、父親がわりになって、その娘をとつがせた。義兄弟の関係でも、結んでいたのだろうか(P146)とありますけど、不思議なことに曹操陳宮に未練たらたらなんですよね。未練たらたら羽賀研二なのは、なんででしょう?

 「虐殺」して評判が悪いから、「泰山の諸将」に青・徐州の委任をした。臧覇はあの有見えな臧洪の一族でしたっけ?臧洪は袁紹に逆らって死んで烈士としての名を残していますが、そのきっかけ、張超・張邈と一体どういう関係だったんでしょう。幇、刎頚の交わりだったんでしょうが、いわゆる彼らの結びつきは単なる義侠のものだけだったのでしょうか?ものすごい団結力なんですよね。帷幕にいたおっさんが、おまえなんかと一緒にいられるかと袁紹に食ってかかったり、呂布に援軍求めに行って、帰ってきて死んでたとわかった使者が二人、仇討に突っ込んでったり、この時代の最も結び付きが強い話。カリスマ(=英雄的指導者)でもいるのか?と疑ってしまうほどの献身行為。全米が泣いた、歴代興行第一位になろうかというこの話の裏にはどんなつながり、目的意識があったのか?袁紹が張邈殺していいよといったのと関係あるのかな?

 あ、本名が乗ってますね。全く臧覇は無関係なのでしょうか?あこがれからとったのか?一族ではなくとも郎党だったとか?自衛集団・義勇兵か。やっぱり、この大抜擢が大きかったんでしょうかね?これがあえて言うなら、袁紹勢力に対する切り札。うちに来れば、どんな奴らだろうと結果出したら出世させるよという、最高の信賞必罰でしたでしょうね。我が曹操カンパニーは結果次第で三年で重役待遇みたいなもんですからね。臧覇最終的に徐州刺史ですからね。実録三国志だと、青州黄巾のドン扱いされてたんですけど、ちょっと違うんじゃないですかね?青州黄巾とは。自衛集団・義勇兵ですからね。

 ああそうか、劉勲がいたか、袁術死後は劉勲・陳ウ・孫策の三つ巴。しかし、劉備に陳元龍のような文武の才と剛胆さ、大望をかねそなえるものはいないと絶賛された彼は孫策と同時期に死んでしまう。なにしろ徐州守護第一だったから、南下するのに十分な勢力がなかったんですかね?孫策は劉勲を叩いて、家族・百工・鼓吹・兵士三万を手に入れのちの政権の基礎をつくるわけですね。半分か三分の一くらいは孫策頼ってきたでしょうが、これで形になったでしょう。劉勲は曹操の幕僚になったとありますが、勢力崩壊かな?

 んでこのとき有名な二橋をものに。橋玄とは関係ないという説もあるみたいですが、石井氏はありうることと見ています。逆に箔をつけるために無理やり、イヤイヤ正妻にしていたら面白いですね。実は両方共美人どころか40ぐらいのババアだったとか(笑)。劉繇勢力も叩いて吸収したが、許貢の門生故吏に暗殺と。んで劉馥がここら一体を立て直し、合肥で呉を完全に封じ込めてしまうと。劉馥神すぎるだろ。なんでこんなことができたのか?まあ人は流民で腐るほどいたでしょうけど、そんなに一朝一夕に軍事拠点なんて築けるものなんですかね?