てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

後漢書 第十冊から

後漢書〈第10冊〉列伝(8) 巻七十五〜巻八十/岩波書店


先に書いておいたほうが、論を進める上でいいかなという感じで、ちょっと書きます。

【列伝七十六】
 P63、祝良が数万降し、皆良のため府寺を築く。この時代の寺とはどういう意味があったのか?戦勝、首級だけじゃなくて降ってくる蛮族も十倍されていると考えていいのか?
 P65、烏滸十余万内徙。この内徙の場合もどっちなのだろう。十倍されているのかな。その数字をそのまま受け取っていいのか。
 P68、秦は巴中に対し四等爵で貢納させる。なかなかの好待遇。このころは異民族にも好待遇だったのだろう。
 P70、180年に陸康は江夏蛮統治に功を上げている。この陸康を袁術および、孫策が討つというのはいったいどういう意味合いがあったのだろうか?昭熹さんがいってたように、節を持っているから幅広い権限を持っているわけで、この地方の司令官と言ってもいい。北方騎馬民族に対して、破滅的な被害を蒙るわけじゃない=南部の有力者はいくら統治に功績を挙げても中央に進出できないという憤りがあったのかな?袁術なら、孫策と違って、彼を叩いても上手く政権内に組み込むことが出来たのか(まあ、軍事力使って叩いている時点で節の剥奪目的だからないか)?地方官で中二千石待遇&廬江太守(=涼州でいったら漢陽のような拠点らしい)+將軍號=持節。袁術はこのころまだ献帝の忠臣だから、陸康が逆らう意味が分からんなぁ…。袁術が陸康の権限を奪い取ろうとしたことへの反発?それとも陸康自身、自立意志があったということだろうか?さらに孫策が彼を討ったという意味合いは非常に大きくて、荊州関羽を討ったようなものだから、イヤ違うか関羽は別にその土地の代々の豪族じゃないし、まあいいや。その当事者、嫌われ者になった孫策を廬江太守にそのまま就けて統治に当たらせるというのはどう考えてありえないと思うのだが、そんな約束をするだろうか?
 あと、忘れていたけど、山越とか蛮とかの話。別に異民族じゃなくても彼らは、政府と折り合いがつかなかったり、もめたら水滸伝よろしく山に近いところとかで、自然の要塞で自主独立する。なんとなく塢とか保とか、彼らが発祥?築城技術に大きな影響を与えたのか?という気がする。あとそういえば、この塢とかって、墨子の発想に近いんだな~。とか思った。墨子=楊朱=道教の一部。よってここにも道教の影響が見られるんだよ!!と、半ば強引に一応からめておこう(^ ^;)。
 P80、高祖は夷を以って、三秦を討つ。これは蛮のことだよね?東夷部隊のような異民族部隊があったわけじゃないよね。んで、彼らの歌が正式に鼓吹隊に採用される。
 P80、P93祠立つとある。この祠の意味合いが非常に大きいと思われる。漢廟ならともかく、個人を祀っているわけですよね。これは個人の権威に依存するわけですから、私権育成でしょう。まあ、辺境統治は国家のシステムに組み込む前にその統治に当たる個人の権益に組み込まれてから、というステップを踏むとは思うんですけどね。
 P85、哀牢夷が51年に人口約17000をもって帰順しています。
 P90、どうでも良い話なんですが、異民族の一つの王国がわしはローマから来たぞ!といって、手品・奇術を見せて、近づこうとしているのが面白いですね。預言者にエジプトの王が、そんなこと当たり前だろといって、奇蹟を否定して、魔術師に再現させたことを思い出します。んで、漢では通じなかった。そりゃそうでしょうね。漢だって奇術的なものは発達していますからね。ドンずべりしたんでしょうね~(笑)。
 P94、首を斬ること三万余級、生口千五百人、資財四千余万を獲、悉く以て軍士に賞す。イヤダメだろ(^ ^;)。なんで反乱が起きたらそれを叩き潰して兵に分け与えるんだ。まあ戦争は最大の公共事業ですが、反乱のたびに力でねじ伏せ、下層の兵士達に再配分して私恩を建てるんでしょう。帝国の常道ですね。張喬が子に世襲されて、みんな喜んだなんて書いてありますが、そんなわけないでしょう。単に既得権益がそのまま引き継がれるから、その人たちが喜んだだけですよ。こういう偏向的な書き方されるとイラッとしてしまいますね。まあ古代史の常ですから、仕方ないんですけどね。
 P104、冬に蛮が降りてきて傭をなす=日雇い労働をしている。つまり周辺民族は市によって生計を立てていたわけですね。全国的な傾向ではなくとも、マーケットに異民族が参加することはありえないことではないわけです。むしろ恒常的にあったのでしょう。西晋になってマーケットが活性化し、市民の身分向上に減税で国家、国民の生活を立て直そうとしたのだけれども、それでもやはり大量の身分下落、下層階級層全体を押し上げることは出来なかった。塢など、自主生活、マーケットに依存しない中小経済圏が独立するようになった。まあ荘園的な経済構造になって、商業ネットワーク・市が縮小する。こういう構造・傾向があって、市で生活を立てていた異民族がやむにやまれず侵入しなくてはならなくなったと見たほうがいいのではないだろうか?見れば分かるように鮮卑にせよ、他の異民族にせよ。むしろ圧倒的に弱くて漢に敗れ続けているわけですね。むしろこういった完璧に近い戦勝レコードを見て、こいつらに負けるはずがないと考えても全然おかしくないでしょうね。
 P120、夷が夏になることはあっても、その逆はない。春秋・戦国時代に異民族が降って王・子など階級を与えられたが、やっぱりまたもとの夷狄スタイルに戻った例があるが、これは違うのか?夏の概念が違うのかなぁ?
 ~万人、~万戸、~万頭(最大十万単位)という馬・牛・羊。このような降者をいったいどのような体制で組み込んだのか?大体遊牧民から奪ったら彼らはもう生活できなくなるだろう。これはすなわち奴隷化と見ていいのだろうか?内徙問題に対して、属国にしておいて、異民族を徙・遷するな!と范曄は言っているけれども、遊牧民は生活できないから南下してくるわけで、隔離しておいたらそれで済むという話ではないだろう。豪族・地方荘園化が進む中で最もほしい下人に最適なのは異民族だろう。バックボーンがないから、宦官のように忠節を誓う。やっぱり奴隷化されて、市とかで売られたんじゃないかな?

【列伝七十九】
 P305、漢人の韓琮、南単子に随いて入朝す。胡三省の注に、「漢人匈奴と錯居し、韓琮因って南単于に事うとありますし、まあやっぱりこの時代でもやはりマージナル、境界では融合があった。当たり前ですね。略奪してさらった、転売した漢人を還すとあって、匈奴中の万余人を還すとあるから、やはり人身売買は恒常的なものなのでしょう(漢人の場合は略奪や誘拐というより、戦争による捕虜を市場で奴隷として売っていたんでしょうね)。
 まあ、言いたい事は当たり前に胡漢融合の現実があったわけで、いくらでも異民族は見出せるわけですよね。この異民族、もしくは帰化人二世・三世の動向が非常に漢末の混乱に大きな影響を与えただろうと思います。曹操なんか、人材を誰でも登用したわけですから、もしかして帰化人=二世・三世達が、曹操を裏切らないから、袁曹決戦で大きな影響を与えたのかなとか、今のところ思っています。袁紹から離れたのは軍人があんまり尊敬される体制ではないから、なら軍人を重視する曹操陣営には逆算的に帰化した人間が多くいたのでは?そういう方向性で出自が不明な軍人を帰化人と仮定すれば、袁紹に勝った理由の一因を見出せるのかな?とね。
 まあ、そういう問題意識から発展した愚案なんですね。いずれにせよ、異民族の動向は後の政治に大きくかかわってきますから、その意味合いを抑えなくてはならなかったのですけどね。ああ、言うまでもなく曹操の勝因は運です。ラッキーですね。
 
 力尽きたから一旦打ち切って、やはり重要なのは本紀・列伝より志のほうが大きいと思います。当時の社会・経済背景が分からないと当たり前のことが捉えられないんで、どうにもならないですね。吉川先生は志は范曄書いてないから、止めましたと書いてますが、そんなぁ…(´・ω・`)ショボーン。まあ、全文訳すより、その記されてあることをまとめるほうがはるかに重要かな?という気がします。そういうものってあるんでしょうかね?そういった志の研究読みたいなぁ。>
 まあ、己なんかが百官志読んでも分からないでしょうしね。刑法・地理・食貨・天文・祭祀・礼儀、こういうのは変化を押さえる上で、絶対に必要でしょうね。これ読めなかったらどうしようもないな。一応渡邉氏の訳がありますね。こっち読むか。志は実際には司馬彪の『続漢書』のものかな?范曄にしろ、李賢にしろ、志を書く前に死んじゃうからなぁ。後世の志は他にはないのかなぁ…。
 そういえば、陳寿三国志、『志』なんですよね。志に本紀・列伝作るという意味不明な構造はなかなか興味深いですよね。簡潔な記述というのは現代でも通じる批判精神ではなくて、単に志だからなんでしょうね。志のくせによけいなことグダグダ書くなって言われるから、本人はまさか正史になるとは思いもしなかったでしょうね。それともあきらかに政権批判的なものがあるので、イエイエ私の書いたものなんか所詮、志でございますからという言い訳かな?