てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

石井仁さんの『曹操』から(六節)

前回の五節はこちら→石井仁さんの『曹操』から(五節) 七節はこちら→まだよ…

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曹操―魏の武帝/石井 仁
魏の武帝 曹操 (新人物往来社文庫)/石井 仁
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 一九九年三月、宿敵の公孫瓚を易京に滅ぼした袁紹は、名実ともに河北の支配者になる。その軍勢は数十万。長子の袁譚(字は顕思)を青州刺史、次子の袁熙(字は顕尖)を幽州刺史、甥の高幹を井州刺史に任用。数十万人動員できるのに、官渡は十数万?親族を分散して統治するシステムは後の晋にも見られる現象。袁王朝なら、あと誰が王に就いたんだろう?袁術も生きていたなら、王位にありつけたかも?まあないか。さすがに本人は。袁家まだ色々目立たない人いるし。なんで刺史なんでしょうかね?州牧でもいいと思いますけど。子供たち全員に州牧任せて、自分は無官の方が既成権威を否定して、新王朝擁立には手っ取り早いんですけどね。裏を返せば、まだまだ漢王朝の下にあろうという意思表示でもあります。その後の天子交代劇などが手に取るように見えますね。

 董昭が同四月、冀州牧で翌年劉備を討ったあと徐州牧となって、代わりに賈詡冀州牧になってます。つまり袁紹の官位、冀州牧・大将軍は剥奪されたんですね。まあ戦う前に揺さぶってくるのが当たり前ですから、そうするでしょうね。代わりに大将軍に曹操が就任したとありますが、そうだったんでしょう。対決前に人事権をフル活用して袁紹を朝敵認定したわけですね。当然といえば当然ですが、地味ですね(笑)。蒼天で出てくる曹操とエライ違い。というか賈詡大抜擢すぎでしょう(笑)。いくら名目上とはいえ、冀州牧就任ですか。曹操冀州牧になるときは太中大夫になってますね。外様にしてはハイスピードな気がしますねぇ。そして曹操は官渡決戦の前から、城建築に余念がないですねぇ。行ったり来たり。

 ああ、そうそう。袁紹が官位に就いていたということはその後、決戦に先立って逆賊認定されるのは予定調和のうちですよね。すると、短期決戦か長期戦かの決断をするうえで短期決戦しかなくなるんですよね。袁紹にしてみれば、ハァ?何言ってるんだ!この君側の菅(じゃなくて奸)め!懲らしめてやる!助さん、格さん、懲らしめてやりなさい!になりますから。相手の官位剥奪、逆賊認定に対して立ち向かうには短期戦しかそもそも無いわけですね。袁紹内部も曹操陣営より強大であるとはいえ、逆賊認定されて、反袁勢力が動かないわけ無い、動揺ゼロでは済みませんからね。その選択性の狭さ、短期戦しかないというのをとりあえず袁紹敗北の一因に挙げておきましょうか。

 大将軍や四州で領冀州牧という大権は曹操も承認していたわけですから、それを剥奪するときの名目ってなんだったんでしょう?前述の身内刺史の任用の公権乱用とかかな?陳琳の曹操侮辱文がありますし、同じように袁紹はダメだ、とんでもない野郎だという文章でも書いて送った可能性もありますね。その反論として陳琳がお前こそ大将軍にふさわしい人物じゃないだろバーカみたいな感じの文を天下に示したんでしょうね。

 一九九年十一月、張繍曹操に帰順。正月に劉備を討ちに行きますから。これで背後の憂いをなくして全力でたたけるようになったわけですね。こういう状況を見越して己を高く売ったんでしょうね。賈詡さんは。劉備にしてみれば、えええ~、だったでしょうけど。賈詡がこのとき決断した蒯越や劉先、鄧義・韓嵩らは曹操派だったという。かなりうそ臭いと己も思うが、曹操が勝つという判断材料が何かあった可能性も捨てきれない。何を見出したのか?特に許都を観察した韓嵩の言などは気になりますね。まあ劉表が決断力なきバカって言いたいがために部下を過剰評価している感もあります。あと彼らが袁紹政権より、曹操政権で高く評価されるという背景があるのか?そんなところですかね、抑えておかないといけないのは。その彼らはともかく、張繍などの軍人は袁紹政権では評価されませんから。そういう軍人軽視も一因でしょうか。公孫瓚戦で一番活躍した、袁側のナンバーワンかと思われる鞠義が粛清されていますからね。大戦前にこれは袁紹軍の性格を如実に象徴しているかと思います。最初に呂布も受け入れなかったですしね。いらないといえばいらないんでしょうけど。あと宛って本来要地だと思うんですよね。それをあっさり張繍のような人間に譲って北に備えるというところを見ると、もうこの地の重要性は相当低下していたとしか思えませんね。

 ああそうか、劉備討ちの前に車騎将軍の董承らの謀反が先ですね。氏が述べているように、決してキレイな人ではなく、むしろダーティな人ですし、曹操側が焚き付けて先に潰したとしか思えないですね。敵対していた張繍賈詡が降ってすぐですし、これは彼ら反乱計画の一部を持ちかけられて知っていて、彼らがリークしたんじゃないでしょうか?というか曹操の御膝元の許で成功するはず無いだろうという気がしますね。呉子蘭とか、王子服とか字表記は、隠すためとありますが。そんなに高官だったんでしょうか?ろくな官にも就けない不満を持っていたやさぐれ者だったんじゃないでしょうかね?当時表現できない事情があったとしたらなんなんでしょう?あと曹操誅殺の密詔って本当にあったのでしょうか?当時の献帝袁紹に廃されてしまうでしょうから、曹操殺すなんてやらないでしょうに。勝手に書いたんですかね?

 んで、こっから袁紹=バカ論を補強するための話ですね。氏もおっしゃっているように政権内部の派閥争いに過ぎないんですね、これは。河南か河北に拠をおくか、おかないかの違いで政策が変わってくる。ただそれだけです。河北派沮授・田豊と、河南派郭図ね。田豊が留守の内に許をつけ!なんていって、曹操もこれを採用していたら危なかったといったとか。うんなわけないでしょう(笑)。すぐ動くなら少数機動部隊。それでどうやって官渡抜くのよ?袁紹軍は曹操軍に少数精鋭対決で毎回敗れるんです。大軍でしか勝っていない。それなら勝利を完全にするためには寡兵にしないこと。これがセオリー。こっちが勢力・兵力上なのに、なんで兵を分散するのよ?しかも内部協力者が粛清されたばかりだし。許都急襲は普通はありえないですよ。それこそ長期戦を主張する田豊のそれと整合性がつかないですし。

 沮授一任の監軍体制が郭図と淳于瓊(この人も頴川ね)を加えた三頭体制に分散されます。一軍ではなく、三軍に分かれます。まあ河北勢力から、河南勢力へ政権バランスの重心、軸が移ったんですね。それでも完全に河北勢力は排除されていません。兵力は歩兵十万・騎兵一万(一説では、歩兵五万・騎兵八千)。

 そういえば沮授が献帝をお迎えしようといってましたが、そうしていれば、鄴が都になっていたでしょう。袁紹は魏のようにここを拠点とすると思っていたんですが、この献帝奉戴にそれを拒否する意味合いがあったんでしょうかね?河北派はここに都作りたいし、河南派はそれは困るわけです。袁紹献帝が必要ないというだけでなく、この要素を見過ごしてはならないでしょう。

 袁紹は審配と逢紀のふたりに「留知後事」、鄴の留守と後方支援を任せる。最初の戦場は黎陽から白馬。河北きっての名将顔良とありますが、本当ですかね?「顔良は勇猛であるが、慎重さに欠けるので独任すべきではない」と沮授が進言したとありますが、都合良すぎるなあ。んで陽動作戦に引っかかって、関羽張遼騎馬軍に討たれます。氏も恩義に報いて帰っていくという関羽=忠臣説を採っていますがどうなんでしょうね?なんか別に張遼いるし、こっからは篭城戦だし、評価されない感じが強いんですけど。袁紹陣営に出奔するようだったら初めから怖くて使えないでしょうに。関羽はその後袁曹戦争に関与していないと思うんですがね。騎馬の需要が高い南方に劉備ともどもリクルートされたと見るのが自然な気がしますが。もし袁曹戦争が袁紹死なないで長引いていたら、無難に出世した可能性もありますしね。ああ、でもいつまでも出世するチャンスを探って、グズグズ残っていたから行動が分かれた=南行が劉備と分かれたという可能性もあるのか…。そういえば劉備はあっさり曹操軍に対して逃げましたけど、騎馬軍や遊軍に向いている彼なら篭城戦でひきつけるようなことはしない。呂布の時でもう、篭城するような力は残ってないだろうし、なら曹操が来たら戦力を温存するためにあっさり逃げるというのも判る気がしますね。

 白馬からの輸重部隊に文醜が襲いかかって討たれるとありますが、そもそも輜重部隊を撤退させるということはもうちょっと篭城させるということですね。城持ちこたえられずに逃げるわけですから。城っていうか、津ですけど。逃げる敵を追うのは案外難し、でしょうか。というかまんまと踊らされすぎでしょうよ(笑)。名将だというのは、緒戦の勝利宣伝のフィクションの可能性を氏は説いてますが、いくら敵方とはいえ細かい事績が残らなすぎですからね。単なる一武将に過ぎないんじゃないでしょうか?何より、そうだったら、首、捕獲数千とかもっと数字が出るでしょう。

 もうちょっと官渡まで引っ張りたかったような気がしないでもないですね。時間かけて相手の疲弊待ち、変事待ちしかないですから。むしろその二つしか篭城前の話がないことがかえって大軍に押しやられた危機を象徴していると思います。

 んで、本拠汝南から袁紹支援の手があがりますね。曹操は予め汝南から独立させておいて拠点、陽安郡から鎮圧。やっぱり曹操の準備はしっかりされていましたね。計算済みだったんでしょう。袁紹から「征南将軍」という破格の待遇を約束されても裏切らなかった李通が指揮官ですね。彼には地味に注目しています。そして曹操直下はえぬきの満寵ですね。育成登録枠選手です、越智・山口です。彼は南方における中心人物で、地味にその戦歴が凄いので好きなんですが、これまであんまり物語では出てきませんでした(´-ω-`)。蒼天で出てきたので良かったですね。

 劉備が後方を撹乱する役目として派遣されますが、曹仁に討たれ、劉表支援を口実に汝南へ。というか退路確保ですね。劉備は本当にこういうの上手いですね。絶対負けない、死なないようにプランを立てる。逃げ道をしっかり確保してからやる詐欺師みたいですね。こち亀両さんがいってました(笑)。劉備が領予州牧だったから、それに袁紹は頼ったとあります。んで、汝南の奪還を真剣に考えるのなら、息子のだれかに汝南・穎川出身の士大夫を参謀としてつけ、投入すべきだった。ここは実は重要なヤマ場であると。なんでそうしなかったの?といぶかしんでおられるようですが、己はまさにここに袁紹政権・軍団の特徴、敗北の因を見ることができると思います。袁譚にせよ袁尚にせよ。汝南・頴川の誰かをつけて派遣することは陣内の派閥争いに直結するでしょう。だから出来なかったんですね。もし袁紹軍がかえって弱かったら、なりふり構わずそうできたし、団結もしたんでしょうが、初戦の大勝がかえってマイナスに作用したと思いますね。ああ、楽勝だと、戦後、戦後と、もうそっちに気持ちが移っちゃったんでしょう。強いからこそ、勢力が大きいからこそ却って敗れてしまう。大組織であるが故、行動力、決断力が遅く、新興勢力の団結した小回りの効く小組織に破れる典型ですね。

 補給線の攻防にしても、アウェイにあたる袁紹側の補給線が延び切って攻撃されやすいのは当然ですから、韓猛が軽々しく応戦したとありますが、そんなにやられてもおかしい出来事だとは思えないんですけどね。それともやはり派閥争い上、手柄を立てようと焦ったのか?荀彧とのやり取りで撤退しようとあるようにそんなに食糧が足りなかったんでしょうか?

 普通になんらかの袁紹の策で糧食が確保できなかったんじゃないかな?とか思うんですけどね。徴税妨害や必需品買占めなどで足元を揺さぶったりして。それとも劇的な勝利を強調するために書いたのかなぁ?徴税や補給作業が進まず、瓦解一歩手前だとしたら、筋が通るんですけどね。許攸の別働隊作戦を許さなかったのも。というか、今まで寡兵はすべて敗れているんですから、大軍を率いる方が将軍に対して兵を分けたりはしないでしょう、普通に。袁紹陣営が勝利一歩手前だとすると、それによってもう勝ったも同然だからいいやと、審配が粛清に乗り出し、頴川との商業上のつながりから行動を起こさざるを得なかった許攸が裏切るしかなくなる。こう考えると腑に落ちるんですがね。

 曹操が勝つとしたらこの内部分裂によるごたごたをつくしかないわけで、派閥闘争による内乱・帰参を待つしかない。烏巣を焼きはらえば、三日もたたないうちに、袁紹軍は自壊するといっていますが、結構持ってますけど、どういうことなんでしょう?烏巣の壊滅というより許攸とか張郃の帰参とかの方が意味合いが大きいんじゃないでしょうかね?曹操の歩騎五千、騎兵だけならともかく、それでどうやって淳于の一万を破ったんでしょうね。曹操の凄さをアピールするために功績が持ち上げられていて、実際は派閥争い上の帰参のほうが意味合いが大きいと考えたほうが自然な気がします。三国志最大の対戦は実は内ゲバで終わっていた。講談師涙目ですね。

 張郃は司空の張敏や、朱儁の別部司馬となり、黄巾鎮圧に従軍した張超を排出した名門河間張氏の人。烏巣救援の騎兵を率いているので、このコネで黄巾討伐の兵とか、朱儁の兵とか、中央軍が流れてきているのでしょうか?そういえば袁紹は家族とか鄴に集めていたはずですが、張郃の家族は処刑されたんでしょうか?名門だからそうされなかったのかな?

 虐殺の政治学でも社会学でもいいのですが、虐殺は一度テーマとしてとりあげなくてはならないと思うのですが、まあ誰もやっていませんね。曹操の場合徐州と並び二回目の虐殺になるわけですが、7~8万はないにしても7~8千人の投降を受け入れずに虐殺した理由は何でしょうか?宮崎氏は傭兵だから治安統治の邪魔になるとしていました。別に曹操自身が雇えばいいでしょう。雇えないのは食糧だけの問題なんでしょうか?河北の人間だから、反乱しそうとか困ることがあるんでしょうか。追撃するために捕虜を連れている暇がないから、そうしたとか?なんか情報戦のための宣伝に見えなくもないですね。遊牧民の軍の強さアピールに近いやつみたいに。本当に10万近い大軍で7~8万殺されていたら、その時点で袁紹軍は壊滅でしょう。

 沮授にしろ、田豊にしろ、長期戦を主張していますが、袁紹の年齢を考えると無理でしょう。一刻も早く曹操を討って勝負を終わらせないと、袁紹の目的は達成されないわけですからね。そういうところからも無理が出る=曹操に勝機が生まれるわけですが。不慮の事態がおこったとき、河北に撤退できなくなると言ってますけど、殺されたのが7~8千なら別に全軍撤退できなかったわけじゃあない気がしますが。

 曹操袁紹を比べて、袁紹光武帝のような戦略があったが曹操にはないといっていますが、そりゃそうでしょう。そもそも戦略をもてるような立場じゃないんですから(笑)。袁術討って南に閉じ込め、隙を縫ってあなたを裏切って、西から献帝を拉致し、東に呂布・南に張繡を叩いて兵を増やして、最後に北にあなたの背後を突いて天下を取りますなんて言わないでしょう(笑)。そりゃ当時は袁紹の部下でしかないんですから。あるわけないでしょう。劉備だって孫権だって、持ってないですよ。もてるほど身分高くないんですから。むしろどの時点で裏切ろうと曹操が決意したか、そこを見るべきなんですけどね。

 光武帝の故事を思い起こさせるために正面から蹴散らす必要があったとしています。しかし何より、袁紹に時間が残されていなかった。それを見るべきだと思います。逆賊認定されて、すぐに相手をけちらさなくてはならなかったのもそうですし、長期戦とってればハイおっけーというわけではありません。なにより、最大の曹操の勝因は袁紹の病死による袁陣營の分裂なんですからね。

 本当は官渡より、今度は曹操が乗り込んでいく倉亭の戦いのほうが重要なんですけどね。今度は曹操がアウェイであり、ここで勝つことによって初めて勝利を決定づけられる。しかしなんか倉亭の感じを見ると大決戦でもなく、袁紹冀州の反乱平定の隙をついて、一局地をとっただけに過ぎないという気がしますねぇ。というか曹操は兵糧が足りないということで劉表を攻めようとしています。劉表を叩くことによって兵糧を確保できる何かがあるんでしょうか?

 袁紹死後河北派審配・逢紀が袁尚とともに政権を担いますが、袁譚&河南派を処分しきれなかった。官渡敗北後に粛清してより強固な組織にできなかったことが全てですね。まあ袁紹というカリスマが死んだら後はどうしようもないでしょう。いったん脱河北、河南派に政権の軸を移し、今度こそ河北派>河南派という序列を確立して乗り出せるか?というところだったんですけどね。

 むしろ袁術のように明確な政治システムを形成していたら、死後跡目争いでごたごたしなかったのにと思いますね。まあ、二大勢力を抱えているんでね。出来ないといえばそれまでなんですけどね。あくまで漢朝というシステムを中心に考えた。ゆえに河北一本、河南一本という選択肢を選べなかった。漢朝に勢力を築く上であらゆる勢力から支持を受ける必要がありますからね。そういう意味で実は意外と袁術は大きかったんじゃないですかね?袁術が王朝(仮)を作らなければ袁紹としてもそういう選択肢はありえた。先に本拠に近い袁術がそうすることで河北に新王朝を作る手を封じられてしまった。また袁家かよ…となって非難されますからね。
 幽州刺史に焦触なんてのがいて、曹操に帰順していますが。こいつはおそらく青州刺史の焦和の一族でしょうね。どこの豪族でしょうか?河北平定のときに地味に袁尚が五十万人連れて行きましたが(列伝80の―時に幽、冀の吏人の烏桓に奔る者は十万余戸。尚、其の兵力に憑って復た中国を図らんと欲す―一戸あたり五人と単純計算して)、これどういうことなんでしょう?もっと注目されてしかるべきだと思いますけどね。北方に異民族独立国家が誕生していたかもしれませんし。

 はっきりと敵対関係にあるのは、劉表劉備だけ。馬騰劉璋らは政局の帰趨を見きわめて曹操への接近をつよめ、政権基盤が盤石でない孫権も、きりくずし工作によって動揺している。のこる危険性は、諸勢力が共同戦線をはること。だがそれぞれ敵対しあってそれも実現性は低い。最大の敵対勢力、荊州劉表を討てば、あとは地すべり的な天下統一がなると思われた。荀彧も大軍をちらつかせ、軽装の兵を間道から進めるだけで良いと言っていました。しかし結果はあのザマ。なぜなんでしょうね。まあ、袁紹と同じで強いものと、北にあるものの思い込みが左右した。きっとこうなるだろうと舐めきってしまったことにあるのでしょう。まあ赤壁なんて破れた側の曹操がその後死ななかったということくらいですかね。官渡との違いは、勢力的な大きさ華北&華中で全然違いますが。投降をさせる側が、相手を最大限に評価しなかった、むしろ政権上出来るはずがないというところもそうかもしれません。

 【屯騎校尉袁逢】―全然関係ないですけど。ああ、この人も屯騎校尉だったんだなぁと。西園軍って己も表記していましたけど、よく考えたら本当に軍隊かどうか怪しいもの。近代の皇帝=中央軍という観念に捉われすぎていました。だったら実際に兵を動かした鮑鴻がついていた屯騎校尉という役職の意味が気になって、誰が屯騎校尉でいったいどういうことをする、どういう人間がついたのかなと、でまあ今のところ袁逢しか見つけていないんですけどね。校尉=ガードマンでいいのかな?郡=守、県=令、尉が郡の軍事力を持つ部署で、監が守と尉を監察するってものですから。軍隊と警察の中間というのも語弊がありますが、まあそんな感じなんでしょうかね。今で言ったら武装警察みたいな。校尉の校ってそもそもなんでしょうね。wikiで校尉見ると、高級武官、ああ、これ比二千石なんだ、んでもって部曲率いるってありますから、ああやっぱり己が想定していたように屯田兵のような流民吸収システムなんだろうな~と再確認。こんなところが意外に重要なんじゃないかと思いましてね。校尉というシステムを研究すりゃあ、霊帝の意図が如実にわかるんだろうなと。まあ単なるメモです。