てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

道教読書録②

中国古代の祭礼と歌謡 (東洋文庫)/M. グラネ

¥3,360 Amazon.co.jp
 詩経から見る古代中国人の生活様式。労働共同体と、家族共同体の二種類のパターンがあった。いわゆる家族で生活を営むのではなく、労働の時期は男女が別々の暮らしを営んで、冬に共同生活をするという暮らし方。牽牛、織姫の話なんかまさしく男女別々で生活をしている古代の生活様式を表現した神話。
 そして今のような家族共同体で暮らすパターンが混在していたようだ。つまり祭礼とはそこで生まれた男女の集団間の対立を緩和せしめ足り、新しい社交・友好を促す意味があっただろうと。婚姻儀礼として謡い、踊りがあり、男女間を結合したり、その大祭礼で地方間の交友・交易が行われる。まああけましておめでとうなんて近代人は感じませんが、古代人にとってはほんとうにうれしいできごとだったんでしょうな~。年が明けるということは。
 聖地における儀礼。山川信仰。黄帝と炎帝は同一母の兄弟なのに、対立し別々の氏族を形成した。川から氏族名がとられている。父子より河川の方が影響が大きかった。後に山岳が地方王朝の名前になる(ここには記されてはいないが、おそらく治水技術の発達などによって川に依存することがそれほどなくなり、今度は資源をもたらしてくれる山、山の管理などが重要になった結果であろう)。山川こそが統制力をもたらしてくれる。間狄が玄鳥の卵を飲んで懐胎したのも、山川の儀礼の後。山川の祭礼により、聖なる力を受け取るわけですね。そしてその子供、王朝の始祖という者の聖性は山川から受けるわけです。少し時代がたてばそれが天という理解になるんでしょうか。
 山川に近い原野で祭礼は行われ、川渡り、山登り、花摘み、薪拾い、そして男女の歌舞などが祭礼だった。川渡りは雨乞いや浄化、沐浴など象徴的。花は出産や豊穣。
 儀礼が次第に複雑化したり、その地で祭儀を行うことができなくなっていったりします。時代の発展に伴って新しいより理論的に完成された=文明的なものが必要とされるでしょう。それが儒教と考えて捉えていいのでしょうか?それとも単なる儒教が勝利した結果論なんですかね?
 氏は特に都市領主、人口の増大によって誕生したところでは既存の祭礼は不要であり、政治にそれが取って代わられる。領主の人徳=都市の運営として、その力が都市を支配しているのだと考えています。聖地での集会が都市での市場に。男女対立を前提とした二元論は女性を公的生活から遠ざける結果となった。かつて重要だった結婚同盟は重要なものではなくなっていく。重要なのは領主の結婚だけ。山川は国家の廟の重要が増すにつれ、祭礼の一形態に過ぎなくなる。結婚や盟約は山川によるものから祖先によるものに移り変わる。地神は聖森から木、木から木材でできた碑にすむものとされ、そこで訴訟、特に男女間の結婚が論じられた。古代の祭礼は暦の中に雑多に祭礼が配分されるように、細分化されていった。山川は一地方の特別な形として伯などを与えられ、英雄化された。
 関係ないけど重要な話として、古代重要なのは「諫」、君主を諌めることだった。友情も愛情も、夫も君主も同じ「友」という言葉で表され、そこに区別はなかった。
 

儒教と中国 「二千年の正統思想」の起源 (講談社選書メチエ)/渡邉 義浩

¥1,680 Amazon.co.jp 
意外に書くことがいろいろあった(^ ^;)。
 p27、宗教的な要素で儒教を高めようとした鄭玄学派に、合理的な解釈、発想を追求した荊州学。西晋で受け継がれたのは荊州学の流れを汲む王粛のそれ。鄭玄学派の馬昭と論戦している。曹魏北朝、五経正義の注も鄭玄学派。対して西晋、その後の南朝も合理的な王粛的な儒学だった。合理性と現実性を上回ったとかいてあるが、合理的なものが現実的とは限らない。というか現実性はないだろう。むしろ合理的な儒教が必要されなかったところに時代を見ることが出来る。いかに合理性を備えようとも現実の社会に必要なものを提供できなければ必要とされない。まあそれを本当に合理性と呼べるかどうかはおいといて。

 p32、君主は、宇宙の根本的な理法である「道」の体現者である。韓非子、初の統一王朝が実行した法家は、道家の思想から君主の絶対性を導いた。ということは秦の王朝は道家・黄老のそれを祀ったのか?どうやって道と君主を思想的に、祭祀的に裏付けたのだろうか?北斗七星とか宮殿でなぞらえて作ったとかあったから、天の理をそのまま反映か?太一神的な発想はないのかなぁ?黒帝というのが道教となんか結びつくのか?

 p34、黄老家の蓋公の招聘だったり、曹参、陳平、文帝も黄老思想での政治。このころの儒教に国家支配理念はない。法の権威の源を道に求め、法を自然法的に考えて実定法としない。道には実体がなく無形であるが、万物が発生する源である。法家同様法を重視し、他方で、他者とは争わない、ありのままの現実を受け入れようとする思想。

 初期儒教はユニバーサル万国共通の価値観の形成に意味があった。しかし現実的・実用的なそれを備えてはいなかった。彼らの目的、目標というのは実利・実用というよりは規範形成。しかし孔子がそうだったように実際の政治については現実的に行う。重視する順序の違いなのだけども、経典を見ると実情・実用の法理哲学などより、本当に大きな話が多い。これは良いか悪いかとか。であるから法家のように後世実用を重視した学問が台頭するのは自然のこと。というか、その当時それを発達させて実行することが出来る環境になかったから当たり前なんだけど。

 道と法の近親性と礼と法の近親性。まあよく考えれば規則性のない宗教・哲学なんてないから当たり前なんだけどさ。最初は前者が国家理念になり、後に後者に取って代わられていく=儒教の台頭。そして王莽に見るようにその失敗。礼の一部に強制力を持たせたものが法だから。天意・自然を重視するのが道家なら、人為・自力を重視するのが法家。相反するようだが法源を自然に求めれば、自然権を想定し、かつそれを守る方向に向けるならば=天意・自然を重視することに強制性を向ければ良い。100×0みたいなもんで、どんなに大きくてもゼロになる。このように道と法は結び付けられた。法を最小限で済まそうというものになる。法というものを近代民主主義的な権利保障の道具ではなく、国家=支配階級の統治手段として今でも考える中国の方観念・思想から言うと、この法を最小限で済ませようというものはきわめて理にかなっているといえる

 儒家と法はどうか?その強制性は?武帝によって現れたのは君主権強化の手段として。単にルートを確保しようと官学を置いただけだが。公孫弘や張湯が法家思想を儒学で飾ったように、とりあえず国家宗教として公認されないと成り立たないからまずはおもねる形で始まったのだろう。後に、その本質に戻っていく、先祖返りするまで支持者を増やさないことには始まらないからね。そういう意味で、儒教の国家公認を勝ち取ったという意味で、ものすごい功労者であるといえる。道家に研究・研鑽して深めていくものがなかったのに対し(なすに任せよだからね、しないことをいかにするかという研究を発達させようがない。あっても大衆の広範な支持は受けにくい)、儒教は解釈、努力の方向性を向けることが出来た。あの時代が、どうだったとか、この時代がどうだったとか判例研究と結び付けられたのだろう。

 武帝までは何をしていたか?いわゆる郷里秩序の担い手。最も下の下層階級の声を聞くものだっただろう。だから後に儒教の声が強くなっていく。下積み・営業のような効果が生きた。道家は儒教に対しそのようなネットワークに乏しかったのが後の運命を分けたかと思われる。宗教的な教団・信者の有無。逆に世紀末状態、混乱が続いたから漢末以後、仏教道教は隆盛を迎えるのだけど。

 武帝の治世をみると、儒教を利用して皇帝権を築いたように見えるのだけど、それが100%儒教からきているといえるか?封禅やら何やら自己の権威を完成させようとしたものは儒教思想というか当時の神秘思想とかいろいろ雑多なもの判例・慣例がものを言うから巨大プロジェクトをやったもん勝ちみたいな。とにかくでかいことやろう権威を示そうともいえる。現実、巨大な権力が先、思想は後みたいな。まあ結局よくわからん。

 武帝の官吏任用なんか見ると法家そのもの。商業的成功が官吏。経済成長が限界になって、郷里秩序から年功序列的なルートで官僚を採用する方向に向かわざるを得なくなる。成長していれば、下の声を無視できるが、そうではなくなったから今度は丁寧に下の声を聞き入れるものに転換しなくてはならない。

 道か儒かというより、現実の政治を見ると武帝のときの積極性、軍拡を見るようにこっちの法家的な思想・運用には国家の拡大が見られる、可能性としてありうる。しかし儒教の場合はそれがない。すなわち前漢末~後漢然り、唐末~宋然り、儒教が興るときは国家が退潮・守勢に回るとき。魏晋南北や元で儒教が見られなかったように儒が停滞するのは必然かもしれない。

 そういえば儒教仏教道教を比べてその有効性の差異がなぜこの時代に現れたかというと(=仏・道>儒)、仏教と同じく開祖釈迦が貴族子弟を主に布教の対象としたように、儒教も主に為政者に向けられていたからだろう。無論、孔子が語った弟子に対する統治学・倫理は下層階級を排除しない。当時の階級移動・開放性を考えると広範な階層に向けて語られてもおかしくない。しかし当時の漢末~以後では階層分化故もはや上層&下層幅広く向けるような郷里からかけ離れていただろう。もっと正確に言うと、後漢儒教は下層階級を布教対象にしていない。なったとしても教理論的に魅力がない。結局先祖パワー=祭祀で救済だからね。平和とか統一とか儒教前提が崩れたら教理的な説明がつかない。武帝儒教導入といい、改革・政権交代儒教が現れたり、漢のつまり儒教史における初期の役割はきわめて異例・異端な様相を呈しているなぁ。後の各王朝での儒教と比較しても。

 p62、孔子は殷の子孫だから、黒帝の子になる。漢火徳成立以前なら、殷は木徳であり、孔子は木徳のシンボルカラーである蒼、すなわち蒼帝の子になる。

 p128、「太乙」とは「太一」のこと。黄巾は自らの天として、太一という神を置いている。後漢の「儒教国家」に対する異議申し立ては「儒教国家」の成立以前に、漢の支配理念であった黄老思想において起こる。さらに、五行相生説において、火徳の漢を継ぐべき土徳のシンボルカラーが「黄」であったことは、黄老の復権に拍車をかけた。永嘉元(一四五)年には、九江郡の賊馬勉が「黄帝」と称し、建和三(一四八)年には、長平県の陳景が自ら「黄帝」の子と称して反乱を起こしている。また、同年には、南頓県の管伯が、太平道と似た教義を持つ五斗米道が後に地上の支配者という意味で儒教の天子に対抗して用いる「真人」という号を称して兵を挙げている。ちなみに、馬勉は黄色の衣帯を付けていたという。こうした黄巾の先駆けと位置づけ得る反乱においても、その紐帯は黄老思想に求められている。

 「天子」は「真人」に。「黄天当に立つべし」の黄天は、太平道の天である中黄太乙であり、「蒼天已に死す」の蒼天は、「儒教国家」の天でもある昊天上帝。『詩経』国風黍離の「悠悠たる蒼天」の毛伝では、昊天上帝は「蒼天」となっているから。儒教は黄老に。しかし前漢初期と違って無為自然という何もしなければいい、というような時代でもなかったため黄老思想を奉じる太平道運動が失敗するのは当然のことか。結局本質としては先祖がえり運動なのかな。太平道運動って。昊天上帝は「蒼天」ってそんな風な認識があったのかなぁ?いや蒼天が現代的な現世とか王朝とか、儒教を意味するとは思うんだけども、それが原点なのかなぁ?そもそも青と蒼って色的に全く違う気がするんだけどなぁ。周=蒼帝とか、儒教そのものへの否定もっと他の意味がないかな?文字の発明者としての蒼頡=役人・徴税者・儒者とかさしていたら面白いんだけどなぁ。蒼天死って、天文現象が関係している可能性も捨てきれないと思うんですよね。高祖が秦に入ったとき五つの惑星、水・金・火・木・土が並んだとかありますしね。

 p141、秦が四柱(白・青・黄・赤)の上帝を祭っていたことに対して、高祖の二年(前二〇五)年、上帝は五柱であると劉邦は述べ、自分を黒帝として北畤を増設させた。劉邦は自ら上帝であると宣言した、と『史記』には記録されているのである。実際には、黒をシンボルカラーとする水徳の秦のために黒帝が空けられていたのであり、劉邦も自ら祭祀を行うことはせず、もとの秦の祝官(祭祀官)に祭らせているように、旧秦の地である関中を安定させる施策の一つから生まれた説話。自らを黒帝とすることで人心掌握を図った。この地方に腰を据えますよ。本拠にしますよと。水徳の秦=治水からか?黒が中心なら秦は五行、五色を違う風に解釈していたのかな?

 p148、唐の買公彦によれば、鄭玄は『周礼』を「周公が大平を致した迒」とみなし、以後の評価を決定的にしたという。蒼帝霊威仰を守護神とする周は、太平を致すための方法論を『周礼』として残しているとする。

 鄭玄は六天説―昊天上帝、蒼帝霊威仰、赤帝赤熛怒、黄帝含枢紐、白帝白招拒、黒帝汁光紀。この六天説で革命思想を是認した。よって後世評判が良くない。絶対神と補神としての六柱体制。あるいは上帝の意思を実行する精霊のようなものとしての理解か?劉邦は上帝と自称したというが、最高神の昊天上帝の下属神として五天帝があるのに?上帝として同一視?

中国の酒書 (東洋文庫 (528))/中村 喬

¥2,625Amazon.co.jp
 酒について気になったので借りてみた。ルバイヤートとか、各地で酒に対して祀りだったり、詩にしたり、ある種の特殊な意味合いがそこには必ずあるから。曹操の對酒當歌然り。んで地味に気になっている祭酒。これは軍師的なものだけじゃなく、道教五斗米道が位の高いポストでそれを設定したし、宗教的意味合いが気になるところ。太学でも祭酒があって、その応用なのか?
 まあ、でも全然意味がなかった。そういうこと知りたかったけどヒントのかけらもない。山本モナい。読む意味ない。一応載せただけ。

 前回の書き残し何でこの辺で。あんまり長く書くと読みづらいしね。まあ、読む人いないと思うんだけど。
 次回のヒキで、ウェーバーなんか儒教道教というふうに正統、異端なんていう捉え方で論じているんだけども。当然道教は異端ではないわけで。というかそもそも中国に異端という考え方そのものがない儒教道教を、さらに後には仏教を加えて、あんまりユダヤ・イスラム・キリストというような相対立するもの、異なる宗教という捉え方でかんがえない。よくたとえで同じコインの裏表なんて言い方するんだけど。儒教道教は同じコインの裏表どころか、まんま同一。宗派か?ひょっとして宗派どころか包括する同心円的構造か?集合論で捉えるべき観念かと思う。山本七平日本教じゃないけど、中国教とでも言うべきしかないのかもしれない。己はあんまり日本教的観念が好きじゃないから。中国教とか、インド教的な方向に発想は向かっちゃうんだけどさ(「・ω・)「がおー(困ったらがおーで締めるしかないな、最近は(笑))

ペタしてね