てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

後漢国家論

書こうと思って書くの忘れていた後漢国家論の重要なテーマ。武を卑しむ、軍隊否定と廃止。廃止というか最小限化、つまり軍縮ですね。後漢国家として見逃してはならない事実。光武帝が中央軍を廃止したことが如実にそれを示している。何故軍隊を廃止したか?軍隊が鬼子扱いされるのはなぜか?

【戦争=経済、その戦争の消失】

 戦争と経済は近代以前まで同じ。戦争によって領土を増やし、GDPを増やす。開発と戦争は同義。武帝ごろまでそれは続いたが、西域を抑えた事で、開発に値する領土は最早なくなった。戦争によって経済にプラスになる限度に達した。安保の脅威になる匈奴も脅威足りうる勢力でなくなった時点で、最早巨大な軍隊を抱え込む必要・意義はなくなったわけだ。

【拡大戦争の消滅の意味―専守防衛国家】

 そもそも攻め込むのと守るとでは軍隊、軍備の質は異なる。防衛ラインを維持するだけなら、それほど巨大な軍備を必要としない。中国は辺境国家である。と以前解説したように中国は巨大な中原という定住文明たる領域が集中している代償に周辺に開発しうる領域がどこにもない。あっても戦争で軍隊=現地漢人を送り込んで、開発して領土を拡大させるに足りうるところがない。

 朝鮮や日本などは6世紀に入ってから国家として基礎を備えだしたところだし、この時点でも中国の領土になってもえられる経済力より安保の負担の方が大きかっただろう。まあ、今は関係ないからそれはいいとして、インドシナが歴史に国家といえるようなものが出てくるのは、中国とインドが結びついた時代であることを意味する。江南すらまだまだ開発されていない当時、ここに軍隊を送り込んで経済を発展させようなどというビジョンが妥当であろうはずがない。

 そこで最も妥当な選択は軍隊を放棄することになる。専守防衛国家だ。巨額な軍事費を削減し、その分減税して民の負担を軽くすれば良い。すなわち民需拡大に当てる経済政策である。これこそ、前漢後漢国家の性質の違いを如実に示す。前漢は軍事国家で、後漢専守防衛国家と性格を変えることになる。


【戦争の有無=経済発展の有無】

 前漢国家は初めての統一国家として、現代で言うグローバル化のようにその恩恵をあずからしめればそれで経済は十分に発達する。武帝まで戦争もいくつかあったし、国家プロジェクトで公共事業もあるし、経済は問題なく回る。しかしいずれグローバル化の経済効率化が限界に達するときがくる。経済効率化が達成され、投資対象が開発し尽くされると、バブル経済(※開発ブームね、バブルじゃなくても良い)は終わりを告げる。古今東西不変の法則である。いずれ必ず行き詰まるのだ。

 さらに戦争で開発できる最前線が最大ラインにまで達すると、最早投資領域・対象がなくなる。経済の命は投資である、有効な開発対象があってこそ、経済は成長・発展する。すなわち社会は上手く循環する。こうしている間は経済の命、革新イノベーションが起こるから社会に不健全性は蔓延しない。前漢は戦争・経済のイノベーションが限界に達した時点で社会に限界が起こる、社会不満が頂点に達した形になったわけだ。

 武帝によって帝国の枠組みが達成されると、社会内の自己矛盾が高まっていく、それは政治の矛盾でもなんでもない。大資本家が政治に参画してその利を推し進めていき、社会矛盾=身分格差が広がっていくのは自然の理だ。そしてその矛盾が極限まで拡大して王朝・帝国が滅ぶのもまた自明の理である。世界帝国が滅ぶのは必ず大小違いはあれど、この法則を含む。

 社会の上層は自分たちの富を下層に配分したりはしない。弱者同士を争わせ、お互いを潰し合わせたり、反目させたりして自分たちの地位の保全を図る。また自分たちの利権を守って、その代わり外に拡大させる方向に目を向ける。対外戦争に持っていく、金貸してやるから外いって取って来いと、稼いで来いというほうに向ける。内部矛盾は外に敵を作って、そちらに不満をそらせるのは今に始まったことではない。

 典型的なのがギリシア植民市でどんどん外に出て行って自分たちのコロニーを拡大していく方向にギリシアの歴史は進んだ。中国も華僑なんて言葉はあるが、当然この時代外に出て行って暮らしていける開発可能地域はそうはない。春秋時代に開発可能地域に外へ出て拡大した時代は終わりを告げているからだ。

 王莽の革命、赤眉はその内部矛盾の暴発と言って良い。革命は社会不健全性、社会矛盾を解決する。革命によって行き場をなくした人間たちの生活は保障される。光武帝奴隷解放を推し進め、平民階級を育成しようとしたように、ブ厚い平民層こそが帝国を支えるからだ。

【軍事発展型国家から、専守防衛国家へ】

 さて、前漢の中国という領域内における(=中原)帝国の完成とその崩壊という性質は理解できたが、では、後漢はどうなのか?後漢という国家はその矛盾からはじめなくてはならない。しばらくは帝国としての安定を保てるが、何せ開発余地がない。戦争によって国家を拡大することが出来ないのである。遅かれ、早かれ内部矛盾が拡大して崩壊することは目に見えている。現代でもジニ係数という貧富の格差が国家の危険水準になるという指標があるように。ではどういった国家プラン・ヴィジョンを以って国家システムを建設するべきだろうか?

 大体戦国時代のようにバラバラだった国が統合され、さらにその余力を持って世界に討って出るように、弱小なものがのし上がって大帝国を築くようなものが歴史の醍醐味といえる。信長が天下を統一する物語が最も人気があるように。人は歴史=爽快さを感じさせる帝国の征服戦争の面に注目してしまいがちだ。しかし、そのような例はトルコ帝国・ムガル帝国サファヴィー朝・清、あるいはロシアでもヨーロッパ諸帝国でも、歴史から見ればほんの一時の現象に過ぎない。軍事的イノヴェーションによって帝国を作るのは僅かな時間しか占めない。あとはその維持と崩壊、分裂した混乱期が歴史の大部分を占めるのだ。

 このような時代がまさに後漢の時代。帝国を再生したとはいっても、余力がない。限界が見えている。この環境、そして出来た政治モデルは実に徳川幕府に良く似ている。日本という限られた領域において、いかに安定した政体を作るか!といったテーマと相似している。むしろ、徳川家康こそがこの後漢を参考にしたというべきか。

【閉鎖・限定国家は分断&管理をする】

 仮に閉鎖国家、限定国家あるいは帝国とでも名づける。これが取る政策はDide and control。分かちて、後支配せよなんていわれる社会学の鉄則である。徹底的に分断・細限化するのである。

 経済発展がない場合当然外に矛盾をそらしたり、拡大することが出来ない。ならばインドのように国内の階級・階層を徹底的に分断するのである。そうやって国家的一体感はあるものの、階級・階層的には全く別な人間という状況を作り出すことが安定を作り出す鍵である。これだけでは不十分で、権力の徹底的な分断も必要になる。

 これはちょうど、革命において新しい政体を作り出そうとするときありとあらゆる権力がその新政体に束ねられようとするものと、ちょうど真逆の現象である。変革のときはすべての権力を集中させる。保守のときはすべての権力を分散させる。社会矛盾が高まったとき誰か一人の独裁者、専権者がいれば、そいつが悪い!そいつを倒せばすべては解決する!となって、暴動→デモ→革命の黄金ルートをたどる。しかし徹底的に権力を分散してしまえば、問題が起こったときその担当者だけが血祭りに上げられることはあっても、その局所問題に手を加えれば話は解決する。決して政治の中央、本体に傷がつくことはない。トカゲの尻尾きりができるのである。

 徳川幕府が老中の合議制になったように、宋代が大臣絶ちの合議制になったように、よほどの軍事的脅威がない限り大抵有力者たちの合議制になるのはこのためである。脅威・危機がなければ独裁というものは続かないのである。蛇足するとおそらくこの発想はアーリア・インド系の三神構造に基づく発想だろう。どこか一つがだめになっても、のこったものがカバーして、なくなった神はさらに再生して、また三神体制になる。

後漢国家の分断性】

 後漢も同じ。三公九卿の合議制に移ったことで政治権力は徹底的に細分化された。かなりの人間がルートを通って政治に参与できるようになった。前漢と比べると限られた功臣の出自でなければ意思決定に参画できなかったのだから、その透明性・公平性は比較にならないだろう。これで幅広い層の意志をくみ上げることが出来るようになった。

 まあ、輪蕃システムという順番に政治権力を担うシステムがあるように、うまく不満を出さず、公平になるようなシステムを考えるのに近い。こうすると多様な支配者層が妥協し合える。輪番制とまではいわなくとも、そのような意図を込められたのは間違いない。

 危機・中央集権にしなくてはならない理由がない限り、大抵こういう国家システムになる。安保の脅威はなかったのだから、当然後漢もこうなっていく。劉秀もこれを意図していたが、彼はさらに豪族国家などという用語があるように、地方ごとに大幅に裁量権を譲った。地方の細かい問題までいちいち中央で決める必要性はどこにもない。権限を委譲してしまい、問題があるときだけ介入する。拒否権を持つだけで十分。自治こそが安定をもたらすことが良くわかっている。まあ、自治というか、その地方の有力豪族を政権に取り込む、あるいは任せるということなのだけども。

【寄生官僚論】

 というのがあるけども、これは因果関係が真逆。官僚は中央権力を貰わなくては生活できなくなるほど貧しかった、力がなかったのではない。官僚になるためには商売に手を出してはならなかったのである。権力の分断化、階層の分断化こそが後漢の政治システムであると述べたように、後漢ではというか後漢でも、分けられたのである。ちょうど徳川幕府が武士、商人、町人と政治、金、名誉・権威と分断されていて、安定をもたらしていたように。どの階層もそれを一義的に所有することが出来なかっただからこそ安定した。これのちょうど真逆が仏革命時の仏社会であった。後漢も政治権力と経済権力を分断したのである。前漢までは政府高官=大経営者が常識だった。政治家と経営者が分離するというのは近代以後の常識であって、古代にそのような観念はない。これに抗議し、実行しなかったものはあれども。それが後漢になると建前の上では、少なくともあれも、これもといえるような数ではなくなるし、そのようなものは高官に就けなかった。経営者≠政治家のルールが極めて厳密に適用されるようになった。そして政治家になるためには清・孝といった特殊な条件を満たさなければならなくなったのである。思うにこの二条件は社会安定性をもたらすための条件であろう。だからこそ、宗教的要因となった。宗教だから重視されたという見方ももちろん正しいが、社会要請上重視されたという点も決して見逃してはならないといえよう。

高官でも貧乏×

貧乏→政治家○

であって、経営者=経済的利権を抱えるものが原則として政治家になってはならないという観念が生まれたのである。これを理解しないとこの時代の政治・社会状況を大きく見誤ることになる。

分断国家の失敗は中央集権化によって再生されるのが常である。魏=中央集権がどうなったか、そして晋はまたしても分断国家の道を選択しようとしたのか?そこら辺が歴史を読み解く重要な鍵であろう。

本当はエジプトの影響とか考えてみたかったが時間ねぇや。エジプトがローマ圏内にはいったことはおそらく世界市場に大きく影響を与えたはずなんだよな。誰かそういうこと言っている人いないかな?

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