てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

道教読書録④

別にどうでもいいやつなんだけど、公開していなかったことに気づいた。まあ、意味ないけど、一応おいときましょう。

飲食男女―老荘思想入門/福永 光司

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p16、耳を切るから、取る。又は腕を意味する。刀剣・金属・織物の技術者は優遇し、他は農耕奴隷にされる。

p24、老荘の文化は飲食男女。交わらなくては生まれない。男女を中心に考える(↓のグラネからわかるように、道教は原始的な農村に基づいた宗教体系であるからだろう)。

p36、儒は偶数。道は奇数。

p37、道教は青・赤・白・黒東西南北を重視しても真ん中の黄は重視しない。紫は男女の赤、青が交わって出来るから優遇する、高貴な色になる。

p51、老荘に出てくる神は非人格的抽象神。因果応報も否定。

p59、宇宙の中に生命はつながっている。死んでもまた宇宙のどこかで現れるから、死は恐るべき対象ではない。

p62、ネストリウス派は神を三一妙身、元元真主と呼んでいる。三位一体を利用。そもそも仏教の、ヒンズー教の三神を重視するという発想がある。三位一体というのはその古代宗教の教理を三権分立の三神思想を一神にまとめあげなくてはならな勝ったから生まれたんだろうと個人的には思うんですけどね。始まりはどこだろうねぇ。フェミニストの人が、なんか古代オリエントの母権社会、乙女=母=老婆の一体性殻だって、なかなか面白い考え方ですね

p63、タオイズムを西方に持っていった。北極信仰・星信仰は向こうから来た。

p64、馬を使った戦争のやりかたペルシャアッシリアから。左伝の記述がそのままアッシリアの戦車の使い方を記したものと共通する。

p66、天主教、天主も道教の言葉。

p69、方角の交わるところを重視する。特に東北(これも後述だが、北=死者の住む場所、東=太陽が昇ってくる、時間の神がいるところ。よって東北とは死と生が交差する場所。だから東北が鬼門とされるのだろう)。

p76、セックスを禁じる江戸幕府儒教に対し、反発したのが道教的、セックスを肯定する『好色一代男』。

p87、お祭り・祈祷・まじない・札(=禁呪)・祝詞・憑依・神託道教が行う七つ。

p101、孔子は「神を祭れば、神在すが如く」。つまり祖先を祀ればやって来るという考え。大して道教は宇宙の流れに生命は還っていく。荘子の場合は還るではなく、往く。禅宗の道に遊ぶと同じ。逍遥遊=遊ぶこと。遊ぶことが大事だから山川自然を巡る=行脚という発想が生まれる。

p126、夢で神の予言を受けるという一番初めての記述は、趙世家の趙簡子。晋の国の行方を神から聞いた。

p144、紫式部の紫は道教から。~~壺という名前はそこ二千人が住むと考えられていたから。部屋の植物名に壺を加えるようになった。ユダヤ教北極星も紫。皇帝の住処を紫宮という。方違え、庚申信仰、雨夜の品定め=母系制社会のもの。

p170、日本の漢文は清朝の漢文。だから3~9世紀の漢文がぽっかり抜けている。そもそもそれを漢文と言えるのか?東大はインド哲学中国哲学など、横につながっているものを縦割りにしてしまったからよくわからなくなってしまった。

p172、禅と浄土は老荘そのもの。最高経典『仏説無量寿経』には自然という用語が57回出てくる。

p176、道教の時間観念に進歩という観念はない。あるのは循環というより、円環。ただぐるっと回る、そこに周期はない。急に現れたり、消えたりする。いつ起こるかわからないから、孫の代まで含めて考える。それまで待つ。

 国はなくても家はある。万世一系。国破れて山河あり、どころか国敗れても家はあり。つまり中国人は一家、一族における一人天皇状態。家族>国>神。国家というより、家国の方が中国を表現するには適切だろう

西域文明史概論・西域文化史 (東洋文庫)/羽田 亨

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p97、トルキスタンでアラビア人が租税をかけるだけで満足したように、漢人も租税だけで満足した。ただそこまで豊かではなかったので。遊牧民に支配されない商業ルートの確保と、安保上の拠点であればよかった。新疆自治区時代ですら、漢化されていなかった。

p112、西域人=中唐あたりまでイラン人。安史の乱以後回鶻がやってきて、以後は回鶻人が支配する時代に。西域に回鶻、西に回鶻がいて、東に安氏のような遊牧系独立勢力=宋と殆ど同じ勢力状態になる。遊農ラインがグッと押し下げられる。遊牧系が東西でつながったとみてよい。交易ルートだけは遊牧勢力に入った。こんなところが後の征服王朝に強く影響したのであろう。そういえば突厥のときもルートは押さえていたはずだな。匈奴・秦・漢=突厥・隋・唐かものすっごい構造が似すぎているのは何でだろう

 ウイグルもやはり定住後は征服王朝(この言葉好きじゃないけど)の亜種としてみるべきモデルの一つであろう。

p118、会昌の廃仏まで、マニ教の広がり。明と違って、マニ教が乱の主体にならなかったのは何故だろうか?マニ教の思想がみられるのか?そもそも乱に宗教的性格が強く見られないしな

p119、補足。ウイグルキルギスに追いやられ遊牧式スタイルを捨て、定住化して西域から追い出す、殺す、同化政策で初めてウイグル人化。

p135、ウイグルも漢字を日本人のようにウイグルの言葉で読み下した。日本はそのまま存続したわけだが、ウイグルはそうは行かなかった。日本文明と比較対照になるかもしれない、漢字を自分たちの言葉で読み下した例は

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