てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

後漢書 第九冊から

この前の続きって言うほどでもないけど、ちょっと思ったこと。

 周辺北方部族を見るとむしろ弱い。圧倒的な弱さ。檀石槐がたまに勝ったくらいで、後はほとんど漢に負けっぱなし。そんな統率力のかけらもなかった北方遊牧部族がどうやって国家を造ったのか?その形成過程が重要であろう。劉淵にしろ、石勒にしろこの漢と趙は国家の樹立というよりは、八王の乱によって自壊した国家のとりあえずの連合ではないか?国家といえるほどのシステムが整備されていたのか事体疑問だ。そもそも中小豪族は自分たちの権力さえ保障してくれればいいのだから。前秦にいたるまでの民政策が形を見せるまでは、政治システムとしての王朝はかなり不完全であったといえる。北魏によって初めて統一王朝といえるようなものに整ったのではないか?だからこそ、システム上完成していないから戦争せざるを得なかった=符健も攻めずにはいられなかったのだろう。道教を取り入れようとしたのがこの北魏だというのはそれこそ統一的なネットワーク、クラス・階級整備の必要性があったためと思われる。

 よく考えると南下圧力が常に働いていて、この南下民の吸収限界を超えたとき南朝の性質は決定的に変化する。北方の名望家中心から軍人・軍隊中心に転換する。異民族という身分下落した者、貧しい民が入るのは軍隊でしかなく、それ以外社会を変える余地がない。そしてそれは南朝でも同じ。南朝ではよるものがない南下民がそれを行うわけだ。宗教勢力もあっただろう。だからこそ孫恩の乱みたいなことになるわけで。あれ見ると関中のコメによる宗教国家ができていくような環境だったんだろうなという気がする。無論出来ないから、大反乱になったわけで。

 軍人が社会下層だとして、日本の武士のように初めは下請けをこなす。次第に政治の実権も握っていく流れになると考えてよかろう。道教でネットワークを作ったあとは貴族化、中国にあったような定住文明式の枠を作って、自ら貴族になる平家型・スタイルを採った。遊牧民=軍人、定住民=漢民族・名望家貴族・豪族などで、中心に軍人皇帝がいて、貴族やら何やらがそれを囲んでいるモデルかな?南朝だと。遊牧民のところが南下民になるんだろう。

 言うまでもなく上層に階層移行する上で軍人的性質、武士的な性質、実業に携わることを捨てなかった方が最終的に勝利した。上下階層の乖離が激しいほど、王朝としての一体感がないほど、自滅しやすいわけだが、南朝の場合軍人が主になっていくのだろうけど開拓など貴族がシステムを形成する上で公家のようなもので居座り続けることが可能たから、それを超えられなかったのだろう。攻めるより守るほうが簡単だし、向いているからね、南方は。

 范曄曽祖父―東晋安北将軍、徐兗二州刺史、これが徐州虐殺となにか関係ないか?なんか徐州虐殺とかってああいう南方王朝での人士が自分たちの政治スタンスを優位にするために作られた、大げさにされたっていう関係がないか?あるいはその当時の混乱による過酷な状況が反映されて、投影されているとか。党錮、党人は汝南・甘陵に始まったというのは間違いだと矢野さんがおっしゃっていたように、実際はそうじゃないのに、そういった政治運動とその地を過剰に称揚する目的がある気がする。最前線ですしね。その江南北上してすぐある地がアピールされるのは当然なんですが。まあそういう流れがあったんじゃないですかね?現実的な政治上の要請でそう書かれたのかと。

こっから本編。

【列伝六十六】

 p1、上林池禦の官を損し、猟を廃し、其の手跡を以て方国に賜う者は皆な一札に十行、細書して文を成し(一枚の紙に小さく文字書いて節約した)、勤約の風、上下に行わる。勤約すればいいという思い込み=苑、猟そのまま皇権強化の裏返し

 p28、桓帝は黄老道に事え、終ぐ諸々の房祀を毀つも、唯だ特に詔して密県には故の太偉卓茂の廟を存し、洛陽には王渙の祠を留めしむ。

 p38、第五訪―四川新都三年で戸口十倍。なにやった

 p40、劉矩、字は叔方、沛国蕭の人なり。叔父の光、順帝の時に司徒と為る。矩は少くして高節有り。父の叔遼の未だ仕進することを得ざるを以て、遂に州郡の命を絶つ。太尉の朱寵、太博の桓焉は其の志義を嘉し、故に叔遼は此を以て諸公の辟す所と為り、議郎を拝す。矩乃ち孝廉に挙げらる。自分から仕えないといいながら仕える。どんなツンデレ

 p47、劉繇が揚州牧で褒められている。南に逃れた士友をよく保護した。袁術孫策連合に破られる。劉繇→袁術孫策で朝廷=従来の官位・人士優遇、逆に土着優遇とアライメント出来ないか?大体ほめられるのって既存の人士にあってたり、土着の豪族の評判だからなぁ。乱世で己を虚しくし人を愛すなんて馬鹿丸出しだしなぁ

 p54、犯人と思われる虎が二頭。虎に無罪なら泣けといったら、無罪を訴えないたなど、むちゃくちゃ。元気があればなんでもできる。徳があれば虎と会話もできる

【列伝六十五】

 p58、陽球をして王甫の屍を礫にせしめ、張倹をして曹節の墓を剖かしむる

 p63、董宣―屍は布被で覆われるだけ。残ったのは大麦数穀、敞

車一乗あるのみ。葬るにもちろん特典。この礼がどれだけ重いか気になるところ。清廉政治家の見本。独裁政治家が過去常にこうであったように、権力の頂点に立つものはこうせざるを得ない。ところがこのような事例が少ないということは高官であっても、ほとんどそうしなかったということ。もちろんほどほどに質素であったものもいただろうが

 p66、子の融、俊才有るも、黄老を好み、吏と為ることを肯ぜず。

 p79、陽球、字は方正、漁陽泉州の人なり。家は世々大姓冠蓋なり。球は撃剣を能くし、弓馬を習う。性厳しく属しく、申韓の学を好む。郡吏に其の母を辱むる者有り。球、少年数十人を結び、吏を殺して其の家を滅ぼす。是れに由って名を知らる。初め孝廉に挙げられ、尚書侍郎に補せらる。故事に閑い達し、其の章奏処議、常に台閣の崇信する所と為る。出でて高唐の令と為る。厳苛なること理に過ぐるを以て、郡守は収挙せしも、赦に会いて原さる。司徒劉寵の府に辟され、高第に挙げらる。九江の山賊退治に自任。郡中の姦吏を収えて尽く之を殺す。次平原の相。

 p82、陽球―鴻都文学の楽松、江覧を非難。司空の張頴は長吏の苛酷貪汚なる者を条奏せよとし、それにひっかかる。霊帝は功をもって議郎に。

 p84、陽球179に司隷校尉なぜこんな危険人物を司隷校尉にしたのか?甫及び中常侍の淳予登、袁赦、封トウ、中黄門の劉毅、小黄門の龐訓、朱ウ、太尉の段熲を逮捕、殺す。是に於いて悉く甫、顛等を収えて洛陽の獄に送り、甫の子の永楽少府の萌、沛の相の吉にまで及ぶ。球自ら拷問、「爾は前に吾が父子に事うること奴の如くなりしに、奴敢えて汝の主に反する乎。今日、吾を困しましむるとも、行くゆく自らに及ばん」。南の屍を夏城門に礫にし、大いに膀に署して「賊臣王甫」。まさにキチガイ。次は曹節、全ての宦官をやると。当然危険人物だからポストを遷され、あと一ヶ月で全て誅し終わるから待ってくれと直訴。司徒の劉郃が球と組んでたたこうとするも返り討ち。淳于一族も宦官輩出系か

【列伝六十八】

 p108、侍御史が閻顕を捕らえる。太后は越騎校尉の馮詩、虎賁中郎将の閻崇。

 p111、孫程は宦官張賢、孟叔、馬国等と共に司隷校尉虞詡は無実だと訴え、左右のものを叱咤。これで順帝が怒り、十九侯を追放=国に就かせる。擁立に対する功績を賞しても、宦官専権を行わない。おそらく順帝はこの専制をやる気はなく、この列候の意味は表彰より、体よく追放させるためだったのだろう。その後継ぎもないのだから一代限りの栄転ですむし。孫程は国を移され戻ってこようとするなどひと悶着起こしている。これでまた元通りの国に戻されているから、彼には何らかの強い影響力があったのだろう。128、二年で返らせた宦官を元に戻す。

 p113、135宦官の養子に後を継ぐことを許す。さて7年間のうちに態度を変えたのか?それとも、初めからこのヴィジョンがあったのか?どちらだろうか?王康、王国、彭愷、王成、趙封、魏猛の六人は皆早く卒す。黄龍、楊佗、孟叔、李建、張賢、史汎、王道、李元、李剛の九人は阿母の山陽君宋娥と更も相い貨賂し、官を高くして邑を増さんことを求め、又た中常侍の曹騰、孟賁等を誣罔す。永和二年132、発覚し、並びに遣りて国に就かしめ、租の四分の一を減ず。宋娥は爵を奪われて田舍に帰る。唯馬国、陳予、苗光のみ封邑を保全す。19人の宦官グループのその後はさまざま。封邑を保全したのが三人だけということは、早く6人が亡くなったからだろうか=135以前だからか、自動的に後を継げるというわけでもなさそうだ。曹騰と対立したり、少なくとも三派、曹騰系と阿母の山陽君宋娥の九人の一派と、保全三人の中立派。九人は国に帰らされて失脚しただろうが、国を継ぐことは出来たのだろうか?宦官が役に立つといっても、自分を擁立した功を誇るようなものをそばに置きたくはないだろう。あくまで自分の言うことを聞く宦官がいい。コネをタテに皇帝の意見を聞かなければ官僚と一緒

 p114、太子家を監せる小黄門の籍建、博の高梵、長秋長の趙烹、丞の良賀、薬長の夏珍―元から彼の腹心、ブレーンだった人物。建後封東郷侯、三百戸。結局彼らがどんな役割を果たしたか詳しいことはわからない。

 p116、曹騰は首謀者でないにもかかわらず、元からの地位で後付で桓帝即位の手続きを行っただけで出世。まあ宦官の役割といえばそうなんだけど、誰に仕えるか明確にせずに保身を全うするという意味で、曹騰こそ最も早い日和見なのかもしれない

 p117、「今、身の公と為るは、乃ち曹常侍の力なり」これを告げた相手、客はなんだろう?信頼できるのか

 p120、五候+小黄門八人

 p122、平民の美女を姫妾とする。宮人になぞらえる=後宮模倣。其の疏属を養い、或いは嗣を異姓に乞め、或いは蒼頭を買いて子と為し=経なきものの身分上昇の手段。

 p124、司隷校尉韓演によって封戸は格下げされる。

 p127、候覧の兄の参は益州刺史、民の豊富なものから没入。太尉の楊乗が参を調べ、檻車途上自殺。京兆尹の袁逢とのコンビ。調べで莫大な財が見つかるが、覧坐して免ぜられるすぐ官に復帰する。つまりこの方針は桓帝の方針。桓帝―候覧のラインで権限強化、もしくはその当時の益州利権を侵犯した可能性が考えられる

 p128、覧の母が客と交通すとある。なぜ母?張魯もそういえば母だった。なにか関係があるのか?父ではなく、母が出てくるところにポイントがありそうな気がする。いわゆる社交界は女性が重要だから、梁冀の嫁がファッションリーダーになったみたいに、女の社交界のネットワークか?172有司に上げられ、自殺。党は罰せられない。

 p129、曹節南陽新野、本は魏郡、世々吏二千石なり。二千石なら結構有名な一族なはず。他に曹家ってあったっけ?しかし曹節って多いな。節約の節だからポピュラーネームか?順帝の初、西園の騎を以て小黄門に遷る。西園132に作られる。勤務の騎士とはどういうこと?校尉以外にあるのか

 p130、竇武の乱で23人宦官がこの功績に預かっている。閻顕・閻太后排除のクーデターから外戚退治は彼らの出世の大チャンス。何進を討つのも、もちろんパニックによる緊急な出来事でもあるが、この宦官たちの出世欲が絡んでいたこともあるだろう。

 p131、曹節、169車騎将軍。追贈ではなく、実際になる。追贈はその出世コース作りのためのステップだったのか?以後宦官の占めるポストになるわけだ

 p132、曹節、王甫、侯覧への誹謗落書き、太学千人捕まえられる。太学生がやりそうなことだと思われていた。司隷校尉劉猛は言うことが正しいから急ぐことはないとして、段熲に変えられる。次の渤海王の謀反が続くことからおそらくこの首謀者、もしくは政敵として彼らが想定されていた。何らかの調べで確信を得たのだろう。この渤海王近辺に何か政策対立があるのか?王甫はどこ出身なのか?侯覧は山陽。王吉は陳留だが同じなのか?陳留の人間が沛で無茶苦茶過政を行い、曹操が陳留でその逆を行う。そういうことなのか

 p133、曹節と王甫―桓帝の弟渤海王の謀反を制したことで、12人功賞。甫は冠軍侯に封ぜられ、節は邑を増し四千六百戸、前にあわせて七千六百戸に。天下に一族が満ちたとあるが、せいぜい50人程度だろう。大げさな話。だったら袁氏や地方に割拠する豪族はどうなる

 曹節の弟破石は越騎校尉と為る。越騎営、営という表現。妻を求めるという話。妻をほしがるというというケースはおかしくもなかったのだろうか?上流ではありえないことであろうが、いわゆる下級・仮想ではありそうな話だがどうだろう

 p134、179司隷校尉の陽球、奏して王甫及び子の長楽少府の萌、沛相の吉を誅し、皆な獄中に死す。

 p136、曹節尚書令、しかし181死んでまた車騎将軍。

 p142、霊帝が故郷の解漬亭侯の地に館を建てようということについて、外威の四姓、貴倖の家、及び中官公族の功徳無き者、館舎を造起すること凡そ万もて数うる有り。楼閣相い接して丹青素聖、雌刻の飾り、単くし言う可からず。喪葬は制を鍮え、奢麗なること礼に過ぎ、競いて相い放効して肯えて払れるを矯すこと莫し。これは非常に面白いことで、外戚やら帝に近いものやら高官までもが館や墓しかも飾りに念を入れて建築している建設ラッシュにあるということ。おそらく割を引いて見なくてはならないが、これが意味することは贅沢などではなく建設ラッシュであり、政治と経済の一体化が進んでいることである。そういや経済はそもそも遠隔地ならともかく、近場なら物々交換、顔パスで成立するものだから商業規制など無意味に等しいわけだ。門生・故吏でコネが蓄積していくことは社会の必定

 p144、呂強―酷吏陽球の否定と、段熲・蔡邕の無実・復帰を訴える。

 p146、三公による人事の独占、そしてその褒章・懲罰も。思うに科挙という先進性だけではなく、人事権を離そうとしなかった上層、士大夫の執念を見るべきか。文字の帝国だなまさしく

 p148、あれだけ聞き入れなかった霊帝が黄巾のとき、党錮解除だけ聞き入れたのはなぜだろうか?刺史、二千石の能否を確かめる。帝之を納れ、是に於いて諸々の常侍は万人退かんことを求め、又た各々自ら宗親子弟の州郡に在る者を徴し還した。反乱のいけにえになるから?格好のターゲットになる。地元の豪族とのコネないものは特にそうだろう。彼が霍光伝を読んでいたのは本当なのだろうか?彼と呉杭だけ良く書かれている

 p151、奴隷に慕われる孟佗が張譲に交通を求めている。

 p152、郎中の張鈞がいうに、張角の乱は十常侍の多く父兄、子弟、婚親、賓客を放ちて州郡に典拠せしめ、財利をこかくし、百姓を侵掠するから。故に盗賊と為る。宜しく十常侍を斬り、頭を南郊に県けて以て百姓に謝ぶべし。又た使者を遣わして天下に布告すれば、軍隊を使わなくても自然と解決すると。天子、釣の章を以て譲等に示すに、皆な冠を免ぎ徒せ跳んして頓首し、自ら洛陽の詔獄に致り、並びに家財を出して以て軍費を助けんことを乞う。

 p154、廷尉、侍御史は張鈞が黄巾とつながっているとして捕まえる。張角と宦官のつながり―故の中常侍の王甫と侯覧の為す所なり。

 p159、趙忠の車騎将軍100余日は、最長記録?趙忠・王甫友に列伝立てられてしかるべきだがそうではない。当時のナンバーワンだけか

【列伝六十九上】

 p166、146、梁太后詔して日わく、「大将軍より下は六百石に至るまで、悉く子を遣わして学に就かしめ、毎歳輛ち郷射の月に於いて一たび之を饗会し、此れを以て常と為さん」。是れ自り遊学するもの増々盛んにして、三万余生に至る。三月、九月に宴会を行う=高官の子供を人質にとること、疑似参勤交代みたいなもの。これにはその取り巻きも加わっているのだろう。というか実際に勉強したものより、そういった取り巻きがほとんどではないか?だから地方の中央とコネがあるものが公式に学を通じて京に交わることが出来る=一流サロンの仲間入りが出来るから、彼らに上洛権を与えた権限拡大とも取れる。明帝のように通義を作らせる。正統・オフィシャルへの介入。安・順で衰え、霊帝の五経正定。

 p170、施、孟、梁丘、京氏の四家は皆な博士を立つるも、費、高の二家は未だ立つことを得ず。

 p179、戴憑―汝南、蒋遵に対する禁錮を訴える。汝南また党せんとするかと光武の怒りをかい、自ら獄につながれ、侘び、解除され、侍中兼虎貢中郎将に。

 p202、孔僖―雹雨、大なる者は斗の如し。安帝、道術有るの士に理由を説明させる。乃ち季彦を召して此れは皆な陰の陽をしのいでいるからで、貴臣は権を檀にし、母后は党盛んにしているからとする。なんでもかんでも外戚のせい。単なる政権争いの政敵を貶めるロジック、こじつけに過ぎない。

【列伝六十九下】

p209、『魯詩』『斉詩』『韓詩』(燕人の韓嬰)。三家皆な博士。趙人の毛蔓の『毛詩』葉立たない。

p252、桓、霊の間より、君道~。この二君が悪いというスタンス。

【列伝七十下】

p332、辺譲―孔融王朗蔡邕とつながりがある。

p344、陳群、司馬朗らは河内温の人で彼らは豚殺しや酒売りの輩だと禰衡は言う。平原と関係あり?孔融、楊修だけ。文章能力があったことは間違いないだろう。辺譲とかも。文章能力=ある種の神通力。荀彧は貌だけ。喪に良い。趙はメタボで飯ばっか食ってそうだから。料理つくるコック長がいいと。この趙ってだれだろ?

【列伝七十一】

 p373、自刎するとき、鬚を地面で汚さないという意識。これは一体何に基づくものか

 p381、周嘉の従弟の暢、108河南尹に。夏に旱、祈るも効果なく、洛陽城の傍の客死せる骸骨凡そ万余人を収葬するや、時に応じて樹雨あって、歳乃ち豊稔なり。位は光禄勲に至る。なぜ首都の近くに万余人も死体があるのか?スラム

 p387、南陽の孔嵩―貧なる者は士の宜しきなり。あにいやしと為さん哉

 p389、李善―奴隷であるもの列伝にある人間は彼だけではないか?

 p392、王忳―ものすごく良く出来た話。都で葬儀を行ってあげた書生の親と出会って名が挙がる。鬼が出るという亭に、「仁は凶邪に勝ち、徳は不祥を除く。何の鬼をば之れ避けん」。女子が亭長に陥れられて、財を没収され、殺されたことを訴える。無罪を晴らすから善良なものを呪い殺すなとして以後、安全になるという珍しい怪談話。

 p400、戴封―賊にあう話が多い。賊に出会う、追い剥ぎは日常茶飯事なのか?彼は賊にこれもあるぞと追いかけて服あげて、賢人だと感心して賊は物を全て返した。どうして賊はこんなにことごとく物分りがいいのか

 p401、賢良方正直言は官吏選抜の科目名。その中でとりわけ優れた行いがあって災異を消滅させる能力のある者。郡及び大司農は倶に封を挙ぐ。対策第一で議郎を拝す。西華の令に遷る。時に汝、穎に蝗の災有るも、独り西華の界には入らず。時に督郵、県を行り、蝗忽ち大いに至るも、督郵其の日に即ちに去るや、蝗も亦た頓かに除く。一境之を奇とす。其の年、大いに早す。封、祈祷・雨乞いするも獲ること無し。乃ち薪を積みて其の上に坐して以て自焚せんとす。火起りて而して大雨暴かに至る。是に於いて遠近歎服せり。ということはこれ実際、雨がふらないで火あぶりになってしまった例が何件かあるんじゃないか

 p402、中山の相のとき。諸県の囚四百余人に刑を行うのを哀れんで、家に帰らせて期日をみな守る。刑法のそれを恣意的に変えることなどとんでもないこと。つまり国家が刑を与えるものであまりよくない、必要悪・最小限にすべきものと考えられているといえる

 p413、范冉―南陽で樊英、三輔で馬融に学ぶ。督郵を迎えるのを恥としているが、これはなぜだろう

 p418、会葬する者は二千余人、刺史、郡守は各々為に碑を立てて墓を表す。

 p421、趙苞、従兄の忠は中常侍。宦官の名勢を恥とし、忠と交通せず。鮮卑に母が人質になってもそのまま敵を滅ぼした。

 p425、向栩―黄巾に孝教を読ませれば自然に解散するといって、張角との内通を疑われ死刑。

 p426、諒輔―太守自ら出でて山川に祈蒔するも、日を連ぬれども降る所無し。とあるから、やはり旱のときなんかに太守が祈祷するのは常識だったのだろう。自らを火あぶりにして願掛けして、結果雨が降る

 p432、王烈―『後漢書集解』に引く沈欽韓の説に、「漢の制、賣人(商人)は宦えて吏と為ることを得ず。『太平御覧』六百九十七の『晋令』に日わく、買売を占する者(ブローカーとして登録申告する者)は皆当に巾を著けて額に帖り、買売する所の者及び姓名を題し、一足には黒き履を著け、一足には白き履を著くべしと。

【列伝七十二上

 p449、高獲―三部の督郵。「属県を監するに三部有って、部毎に督郵と書掾一人」が辞めれば日照りは直る。そして雨が降る。

 p450、王喬―天から下された棺に入り、蓋は勝手にしまる。土勝手に墳となる。葉君祠となって、百姓はこれを祀る。霊験に祟り。図讖というものを確かなものだとは信じていなくても、無視できないからこそ、それを一つの列伝中に置く

p462、李郃―竇憲の失脚を予言して祝賀の使者となり、わざとゆっくりいく。そしてその間に竇憲は失脚。漢中太守の吏→孝廉→五たび遷りて尚書令。又た太常。元初四年、袁敞に代りて司空と為り、数々得失を陳べ、忠臣の節有り。位に在ること四年、司徒。少府の河南の陶範、歩兵校尉の趙直と与に順帝を立てんことを謀りしも、孫程に先を越される。擁立、廃立は一派だけではなかった。つまりいくつかの反対派が北郷侯のときにあった

 p465、郃の子が李固、列伝五十三。弟の子の歴、博学にして善く交わり、鄭玄、陳紀等と相い結ぶ。新城の長と為り、政は無為を貴ぶ。亦た方術を好む。時に天下旱するも、県界特り雨ふる。官は奉車都尉に至る。比二千石。

 p470、折像―吾が門戸の殖財!盈満の咎は道家の忌む所。不仁にして富むことは不幸。『左伝』に基づいて、善人なら幸、淫人ならまがごと。

 p472、樊英―安帝・順帝のころ。順帝が君を生かし、殺しもするぞ!と脅しても屈しない。

 p476、初め英は『易章句』を著し、世に焚氏学と名づく。図緯を以て教授す。頴川の陳寔、少くして英に従いて学ぶ

 p477、孫の陵、霊帝の時に宦人ラインで司徒(太尉)と為る。陳郡のゲキ巡、学んで英の業を伝え、官は侍中に至る。

 焚英、揚厚を徴すに及んで、朝廷は神明を待つが若きも、至れば見に他異無し。英は名最も高く、毀り最も甚だし。李固、朱穆等以為えらく、処士は純ら虚名を盗み、用に益無しと。故に其れ然る所以なり。

 礼楽・猥雑なものを無用としてしまうのは夷狄と同じ。猜疑心・割り切り、暴力と法令だけが平和をもたらすという考えを否定。人為的にあれこれやるより、自然にそうなるということを尊重する。徳も自然に相手を感化させるパワーですしね

【列伝七十二下】

 p486、公沙穆―相であったとき、嫡子が廃されたのを元に戻す。東海恭王のあと、劉敞

は詫びて彼の言うところに従った。敞の侵した官民の田地を没収し、庶子また両方か?の奴隷が行った罪を正した。

 p487、弘農で令をやっていたとき、ずい虫が村を侵したところ罪はわれにありと祭壇で祈って雨降って、虫がいなくなる。徳が魔・邪を払う。教化させる

 p492、韓説―博く五経に通じ、尤だ図緯の学に善し。蔡邕の友。天文官というものも、士大夫たちがついたと記されることがないから、専門職?178/10の日食を霊帝に予言して当てているから、家学として継承されていたのか?天文・占いなど高官になれなかったら、それで食べていく形で。太学に学ぶものも多い。太学が出来るということは各地のいろんな術も混ざり合って深まったはず、これによって発展を遂げたのだろう

 p498、華佗―沛国譙

曹操と同郷。医療行為が宗教反乱の重要な一テーマだったのだから政府がそれに注目し深めよう、取り込もうとするのは必然。政治的要因から始まり、この時代から医学として始まるのはそこにある。大衆的=政治的必要性から始まった。蛇と名前が何か関係あるのか?彼だけエピソードが豊富すぎる。おそらくは複数人物の混合なんだろう

 p524、左慈の話で、遠く離れた使者の錦の長さを変えさせる話がある。これが事実ならネットワークを持っていて、伝えた可能性がある。こういう方術士にもネットワークがあったのだろう

【列伝七十三】

 p543、周党―唯だ広武に至るや、城を過ぎて入らず。決まり言葉なのか?本当の出来事と受け取っていいのだろうか?本当はそうでなくてもそうだった。そういうことにしておこうとなっていないか

 p547、厳光―光武帝の学友。光武が直に迎えても政治なんかやれるかと拒否。昔と少しは進歩したといって、二人でねっころがっているときに腹に足を乗せる。諫議大夫になっても耕して仕えなかった。

 p563、韓康―薬を山から采って長安の市に売る。二回値段を言わない、値切りに応じない売買を三十余年。時に女子が薬をまけなかったので怒って、韓伯休なら、乃ち価を二にせざる乎=半値にしろと誰ウマを言ったので、つまらない女子すら私のことを知っていると山に帰った。桓帝に招かれ、途上亭長は韓徴君(仕えない人の敬称)が通るから人・牛を使って道と橋を修理していた。そこを韓徴君が通って貧しい姿をしているから、牛を奪った。使者がそれを知って亭長を殺そうとした。彼はいや私があげたんだから、殺す必要なんてないとかばった。結局逃げて桓帝にはあってない。

 p573、張温と会話する老父。乱れるから天子を立てるのか、治まったから天子を立てたのか、波乱を予想させる話。ちょっと出来すぎ。遊びほうけている!なんて言うところが特に。

 いずれにせよこういう働いたら負けかと思っている隠者というのはインドの宗教意識然り、宗教階級>政治のために必要不可欠。政治権力・皇帝を唯一絶対にしないために出てくる

【列伝七十四】

 p581、広漢の姜詩の妻が姑に仕える話。その孝行故に赤眉が犯さず。これに奇跡が起こり、泉が湧いて、鯉が取れるという報いが大事。孝行=神事であり、奇跡が起こりうる対象であることを意味する。「大孝を驚かさば必ず鬼神を触さん」。飢饉があったら、賊乃ち詩に米と肉を遺る=孝もある種の呪いである。そして黄巾がある種の規律があり、無法集団ではないことを意味する。というかこの地のそれは間違いなく信仰心が厚かった集団

 p615、皇甫規の妻、何氏かわからない。才女。董卓が彼女の評判を聞いて、車・馬・奴婢銭帛をもって娶ろうとするが拒否。彼女を死刑にするが彼女の言が辛辣。「君は羌胡の種、天下を毒害して猶お未だ足らざる邪。妾の先人は、清徳なること変世なり。皇甫氏は文武の上才にして、漢の忠臣為り。君の親は其の趣使の走吏なるに非ず乎。敢えて非礼を爾の君の夫人に行わんと欲する邪。

 お前は卑しい身分、私と私の元夫は高貴な身分。能力でも行為でもなく、身分を理由にしているところに注目。余計なこと言わなければ殺されなかっただろうに。むしろ結婚して関係性を深められれば、それでいいし、出来なければ処刑する良い口実だったのではないか?この前後に処分された一族がいれば分かりやすいのだろうが、おそらく涼州の豪族とかなのだろうが。三公九卿輩出クラスの家で、その家と関係を保とうとするなどがありそうなのだけど

ペタしてね