てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

梁冀論

なんかこんなもんがあったんで、こんなものを掘り返して貼ってみよう。梁冀論です。猟奇的な彼女ならぬ、梁冀的な舅。西域を考えようとするも、全然なんかまとまらない、ピンと来ない。西域がおそらく後漢のキーといっても、いや前漢にまで及ぶ問題でものすごい重要なのだと思うのだが、うーん(´-ω-`)という感じ。

 ↓の文章のキーは梁冀の革命の中身を吟味して評価しなくては!って言ってるのに、まあ悪いというのは間違いで、100%ありえない評価ということはいえるのに、じゃあ何で梁冀を評価できるの?と具体的な例証がね、ちょっと出来てないんで投げっぱなしになってた。まあ、その評価もこの西域がわからないとちょっと出来ないだろうと。循環論梁冀・西域どっちかが判ればどっちかがわかるけど、両方わからん(^ ^;)。

 後漢末の状況を説明するとき、避けて通れないのは梁冀。彼は跋扈将軍と言われ、革命まで後一歩のところまでいった人物だからだ。董卓曹操の前に革命の準備をした彼を決して見過ごすことはできない。梁冀の革命理論・手段を二人とも引きずっているのである。それは革命のブレーンとなった学者の胡広の知識が董卓のときは蔡邕、曹操のときは王粲とその学統に受け継がれていることからも明らかである。大儒と言われた鄭玄が諸学を整合させ儒学の一大理論を完成させる上で革命を是認する思想を盛り込んだのも無関係ではない。王朝末期になれば、革命を良しとする思想が登場してくるのは必然なのである。

 古今東西共通するのはレガシー・コスト、制度疲労である。王朝が出来て何十年~百年も経つと、初めはわかりやすく単純なものであった制度が、次第次第に発達して複雑なものになってゆく。制度が複雑するのに比例して、改革はやりにくくなる。改革に手をつけようとすると、該当する部署が既得権となって抵抗してくるからだ。パーキンソンの法則然り、組織というのは自己肥大化する。もはや必要なくなっても生き残ろうとして、改革を阻害してくるのである。王朝の初期ほど改革を貫徹しようという慣性力は強いが、時間がたてば立つほど摩擦によって運動エネルギーが減少していくように、王朝末期ほどその慣性力が働かなくなっていくのである。こうなるともう改革が始まった途端潰されるような状況になって改革自体すら起こらなくなっていく。改革が出来ないということは問題に手がつけられなくなる、修正できなくなるということだから、その王朝は滅ぶに決まっている。

 また古代は世襲が当然の社会であり、格差がずっと続いていく。富んでいる者はずっとそのままで土地の兼併を進めていき、個人は平民としての地位を保てなくなり、下落していく。豪族化・兼併化が進めば国家は税収を落とし、ますます国家の民を守れなくなって衰退していく。その結果また豪族化が…という悪循環が起こる。どんな王朝でも必ず王朝末期には格差が開いて、社会矛盾が高まって崩壊する。朽木が澱んで溜まるように社会の富の循環が止まって、革命が起こるのである。この時代は豪族化が顕著であり、この進展を見てももはや王朝末期であったと言える。

 どんな政治システムであれ、改革が出来なくなったらそのシステムは最早末期、崩壊寸前といっていい。逆に言えば革命、一度全て壊して新しく風通しのいい、改革が簡単に出来る政治システムを作るしかないのである。社会学上、革命、王朝崩壊と新王朝建設が起こるサイクル、またその理由とはたいていこのように説明できる。今回の梁冀の革命もこのように見て問題なかろう。革命をする、企んだからこそ、その人間は侫臣である、卑しい人間だ、間違った人間だとするのは間違いである。優秀な人間だからこそ、真剣に改革を望んだからこそ、政治がもはやまっとうに出来ないと判断して、革命に走るのである。その革命に妥当性があるかないかを論じるべきであって、革命を起こしたからという理由でその人間を否定するのは政治学として最低なものの見方である。

外戚という役割の必然性

 その前に一度外戚について検討してみる必要があるだろう。外戚という制度は皇帝に嫁いだ皇后の家に、皇帝一家の縁戚であるということから、格別皇帝に新任され権力を委ねられることによって成立する。必ずしも絶対になくてはならない官ではない。外戚を設けさえしなければそれで済む。宦官同じく政治にとって害悪ならば、一度目の教訓をきっかけに二度とその制度は設けられないはずである。しかし宦官も外戚も制度として存続し続けた。これはなぜか。

 本来、臣下のもっとも優秀な一人を選んで、その人に任せればいい。しかし誰か一人の臣下に強い権力を与えるとその臣下は権臣となってしまう。制度で宰相のように公的にポストを設けてしまえば、その一人に権力は集中してしまい皇帝をしのいでしまう。また、そのポストを巡って権力争いがおきてしまう。正式なポストでなくとも誰か一人に権力が集中しだすと、それが非公式な制度となって慣例化してしまう。三公という形で権力を三つに分散している意味がなくなってしまう。そのために外戚という形で王家の血縁者限定で委ねることにしたのである。そうすれば血縁で委ねられた権力は一代限りで完結する。そういう意味合いが込められて始まったのである。新皇帝に代替わりして新しい皇后、新しい外戚が登場すれば必然的に退場せざるをえなくなる。皇帝が変わることによって政治の大権を握るものが必ず交代するというシステムなのである。疑似政権交代効果を持ち、これによって長期政権が腐敗する要素を減らそうとしたのである。

      権力は分散化しておきたい。しかし分散化したままでは効率が悪い。その両方を同時にかなえるための制度が外戚なのである。

 竇憲が外戚として対外遠征の結果大将軍の位を与えられたように、緊急時の外敵と戦う強力な軍事指導者として始まった。なるべく強大な軍権を委ねたくはないが、委ねるならば、縁戚であるものにしようということだ。軍事だけは権力の分散は許されない、指揮系統の乱れは即軍隊の弱体化に繋がる。必然的に大将軍府という組織は三公の府と比べても最も効率のいい組織であると言える。戦争が恒常的にあるわけではないから、組織が必要以上に肥大化することもない。何より、その大将軍府自体は軍府だから政治的権限は有していない。実際の政治権限は三公の府が持っている。三つの府に権限が分かれている以上、政策を調整して整合しなければ、無駄になったり齟齬が生じる。その調整者としての役割を当初は期待された。

 対匈奴強硬派の竇憲が三輔人士、河北豪族(耿氏、郭氏)などの地域の人々の支持を受けていたように、外征のために重要となる周辺地域・最前線の支援を受けていた。これと同じように梁氏政権も涼州出身であり、羌問題に対処するため、西方の外敵をいざというときに軍事的な対策が取れることと、そのためにその周辺勢力の支持を取りまとめることを期待して選ばれたのは間違いない。

 外敵だけでなく、反乱・自然災害で問題が多発するとき強力な政治制度、もしくは三公の意見を集約する強力な制度が必要とされるのは自明の理である。それが外戚・大将軍府だったのだ。儒教の教理に「親親主義」―一族のものを大事にしなさいということが書いてあるから、外戚を重用するに至ったのではない。強力な政治組織を必要とする内外事情から生まれた当然の結果である。

 またこれは武帝の教訓に基づいて生まれている。彼のような君主が誕生してしまうと長期間周囲が独裁を制約できなくなってしまい。そうなると非常に困る。外戚はいざとなったら廃することが出来るが、皇帝は成人して強力な藩屏を持った場合まずそうすることが出来ない。皇帝一人が権力を握る危険性を考えれば、外戚がいたほうがいいのである。政権に対する拒否権がないと権力が暴走した場合歯止めが利かないからだ。以後武帝のような皇帝を作らないというのが朝臣であれ、宦官であれ、基本的な常識としてあった。

 外戚のシステムをより説明するとバッファー(緩衝材・調停役)なのである。外戚が皇帝と三公の間に入ることでシステムが円滑に機能するようになるのである。無論このバッファーは両義性を持ち、時に皇帝・三公の意志を阻害する、押さえ込む役割を果たす。しかしその制約の代償として、政治をより効率よくするのである。それがより上手く働いて調整役となるか、それとも悪く働いて権力を壟断するか。それはむしろ時代状況による。平時であれば前者であるし、緊急時であれば後者となるだけに過ぎない。車が時に人殺しの道具になるといって、無くせという人間はいないだろう。より便利な乗り物が出来るまで、みんな車に乗り続けるように外戚もそれ以上便利な制度がでない限り続くだけに過ぎない。外戚という制度が悪いのではなく、革命をする時には最も効率が良い一ステップであるに過ぎない。仮に外戚というものがなくても、別の効率を良くする制度が発明されるだけである。儒教士大夫層から権力者を生まないから、時に彼らの権力を制約するから史書で非難されるに過ぎないのである。

 

権力の背景

 梁冀の革命、その革命の性質が妥当であったかどうかを判断するのが、彼の革命の構造を分析することこそが政治学である。失敗者と敗者は歴史に正当に評価されることはない。その点を割り引かねばならない。

 梁冀という権力の根源は大将軍、外戚であることである。彼の父梁商が既に大将軍であって、彼が亡くなった後にも大将軍が息子の梁冀にも世襲されるという珍しい形を取った。後にも先にもこの大将軍を世襲するというケースは見られない。この大将軍世襲は日本の藤原氏摂関政治に近い形態があるだろう。天皇に常に娘を嫁がせ、義父として権力を委ねられることによって政治の実権を掌握するそれに非常に良く似ている。

 135年父の梁商が大将軍となってから、梁冀が159年に死ぬまで20年以上も梁氏が権力の中枢にあったことになる。この特異性にこそ注目しなくてはなるまい。そもそもなぜ世襲できたのか。曹魏曹操から曹丕へと王位を世襲したのとはわけが違うのである。曹丕は制度上王太子であり、世襲も認められていた。しかし梁冀の場合は梁家の跡継ぎではあっても、大将軍という一時の官職を継ぐ正統性などあろうはずもない。梁冀が最終的に誅殺されたことを考えると、梁冀は失敗した曹丕とも言える。王位継承に失敗した魏王朝と言えよう。

 しかし藤原摂関政治が初めから権力を掌握するという目的を持っていたのに対し、このケースは異なる。梁商の人物像を見ると、彼には権勢を高めるような気はなく、順帝の廃立を諮っていると宦官に訴えられた事件のときでも、処罰を当人たちだけ最小限にとどめてほしいと訴えている。亡くなったときの葬礼も厚く順帝の信を得ていたことは間違いない。彼には周囲と対立したような形跡が見えない。皇帝とも三公とも宦官とも上手く関係を築いていた。そのため士大夫から宦官に対しては惰弱とも批判がされている。しかし政治の中心に選んだ人物は良輔であると称えられている。史家からは宦官と馴れ合うなという批判をされても、逆に全ての政治勢力とうまく調整をこなしたと評価することが出来よう。その後の桓帝以降の政治が殆ど非難されるだけになる状況を見ると、むしろ彼のときまでが皇帝・三公・宦官・外戚といった政治のアクター(役割)が深刻な対立をせずに、うまく関係を調整できた時代であると言える。

 そもそも外戚は一代限りで、その関係者は一掃されるのが常で、梁商が皇帝やその他朝臣とうまくやること自体が異例なのである。

 梁商には外戚・大将軍として革命を起こす、あるいは摂関政治のように永久に梁氏政権を打ち立ててやろうといったものは明確には見られないのである。外戚としての権力をどこまで保持しようというビジョンがあったのかわからない。ただ梁冀の官職ルートから見ると、彼を引き上げたのは間違いなく父親の梁商であるから、黄門侍郎→侍中→虎賁中郎将→越騎校尉と歩兵校尉→執金吾→河南尹とまず将来中央政界にあることが間違いないと思われるルートをたどっている。少なくとも梁冀が次の政治の中心人物の一人となるようにしたのは間違いない。梁冀は河南尹での政治が暴虐で法にかなっていないと父に注意されているから、この頃から次期大将軍となって、革命をする気があったのだろう。そして父梁商が諌めたということは彼としては梁冀に革命路線ではなく、外戚としての自分が行っていたような調整路線を望んでいたと考えるのが自然だろう。 

 彼が世襲をすることで権力を専断できるとは誰も思っていなかった。順帝が梁商の喪が明けないうちに梁冀に大将軍としての位を与えたように現体制がうまくいっていて、梁冀に任せるのが当たり前だったのだろう。この世襲自体に対してはなんら批判もないことからも周囲もそれを認めていたと思われる。つまり梁冀の専権を頭に入れていたものはいないのだ。梁冀世襲が規定路線だったところからすると、外戚というものが調整役として必要不可欠であっただけではなく、梁冀が持つ背景が調整役としてむしろ好ましいと判断されたのだろう。

 その背景とは父が大将軍、有力者であることによる官界での人脈形成だけではなく、彼の息子として調整役をどのようにこなせばいいのか知っているということだ。目の前で見てきているから、李固などの名臣を父親がやったように使えばいいだけ。息子としてそうするのが当然出し、あなたの父はこうしましたよと言えば、意見も言いやすい。外戚を代えて既存政治の安定を壊したくない。今の状態の延長を求めたからこそ彼の世襲を当然と考えた。無論皇后を選ぶ時間的余裕もなかったといえるが、外戚を絶対変えなくてはならないと思うのなら、予め別の皇后も外戚も準備されただろう。それほど梁商の調整は上手く行われていたのである。

 父梁商同様、政権初期においては権力が確立されていないから、強権的なことはそもそも出来ない。太傅の趙峻、太尉の李固と与に尚書の事を参録せよという詔勅を辞退しているように当初は、彼も周囲と協調的な態度をとっているのである。これは先任である両者を敬うということだ。革命をする者は徐々にその権勢を固めていく段階を踏むから、彼も初期はそこまで横暴ととられる手には出なかったはずである。事実権力掌握に六年かかっている。彼の任期の三分の一を権力掌握に費やしたことからも、明らかであろう。政治的な出来事で見れば質帝暗殺→桓帝擁立→李固殺害→特権授与というのが梁冀の専権確立の重大なプロセスになっている。

梁冀の権力掌握の秘訣

 権力を世襲したというより、梁冀はコネを引き継いだことが何より大きい。門生・故吏という言葉があるように、人事でその官職に推挙したものを敬い、その一派となる社会上のルール・下位制度(sub norm)がある。そしてそのコネは世襲される。高官にあり続けた梁冀は父の代から人事権で人材を登用することで恩顧が生まれ、膨大なコネの人脈網を形成した。人脈という意味でも梁冀派という勢力を築き上げたことが大きかった。父梁商は僅か六年程度の在任であり、そこまで強固な人脈網を形成できなかったのだろう。だからこそ梁冀も実際に権力承認まで六年かけて準備を整える必要があったのだ。

 このように大将軍が権力を掌握する可能性はあったのだが、これまで大将軍がここまでの権力を持つことはなかった。緩衝材であるから、皇帝・三公にそっぽを向かれればどうすることもできなくなる。これまではその両者の意向に制限されたが、調整役としての作業をこなすうちにあらゆるものと関係が出来た。強力なコネが生まれたのである。幼帝、外から官僚との関係を持たない皇帝を連れてくることで、皇帝権が制約され、一枚岩でない官僚士大夫層に顔が利いて三公の人事権どころか政界の人事権に強い影響力を持つようになると、大将軍府が事実上の政府になる。革命を行うものはその内部に自己の政府を作って、本来の政府より大きな権限を掌握することで権力を奪い、事実上の革命を行う。あるいは革命の一ステップ、そこを拠点として革命を進めるのは普遍的に見られる現象である。

 さらに梁冀の人事権掌握の手段として、三公という重要な政治ポストを自己の意におくことがあった。後漢の半ばごろから三公は任期が短くなってく。一年単位でトップが交代するのも珍しくないような不安定な状態になっていった。この傾向は梁冀のころに始まり、長期間そのポストにあることで自己の対抗できるようになっては困る。トップをコロコロ変えることで三公の権限を弱くする必要があった。いかに大将軍が三公を取りまとめる役であるとしても、政策決定者達の一人に過ぎない。本来同格の三公を抑えることで、権力を安定化させた。皇帝や三公と対照的に大将軍府のトップは死ぬまで変わらない。しかも三公に対する人事の発言権までも持っている。恒常的に政策だけでなく人事にも発言権を持つこと。それが何よりも大きい。皇太子も決まっていない不安定な状態では次期皇帝候補の下で有効な対抗派閥が形成されることもない。梁冀が世襲したのと真逆である。だからこそ幼帝を担ぎ上げていたのだといえる。

 大将軍の世襲という現象よりは人脈網が子にも引き継がれること、そして人事権を掌握したこと。これに梁冀の革命の原動力を見出すべきであろう。そしてこの人脈網は袁家がその最たる例となり、後漢末の政治を大きく動かす。

 重大な転換点はなんといっても質帝殺害にある。もしかしたら質帝殺害まで梁冀は革命を考えていなかったのかもしれない。というのはこの八歳の少年を皇帝としていただく前に、李固達と担ぐ皇帝を巡って争っているのである。李固達は清河王を押し、この質帝以後も一貫して清河王をつけるべきだと主張していた。その争いに勝った梁冀が質帝を皇帝としたのにもかかわらず朝廷の重臣・朝士の面前で跋扈(悪人などがのさばり、はびこること)将軍だと梁冀を痛罵した。梁冀の専権は先例のないものだったとはいえ、危機が高まる時代においては必然の現象といっていい。否定をするなら一挙に取り除くべきなのに叱責だけする。幼帝ゆえ自己の権限が梁冀に奪われていると感じて怒りがでてしまったのかもしれないが、一政治家の行動として見るならばかなり軽率というか考えられない行動である。梁冀がどういう政治的立場にあるのか認識していたら、そんな軽はずみな発言は本来出来ない。

 勘ぐってみると、李固達と質帝が梁冀排除を狙って権威失墜を図った事件である可能性もある。梁冀が革命を志向しているように、李固達もまた自己に政権を掌握しようと清河王を担ぎ続けてきたのである。李固と梁冀の政争の変則的な結果であるといって良い。質帝が李固と実際に繋がってなくても、李固達にクーデターの指示をしたと同義である。梁冀が彼を取り除くのは当然であろう。これをきっかけに李固と清河王一派も取り除かれる。質帝と李固と清河王一派が結びついていたらこんなにむざむざやられはしないだろうから、やはり偶発的なものだったのだろうが。この事件がなかったら、彼が革命という方向ではなく、自己の権力を強大化させても革命に踏み切らなかった可能性がある。皇帝の親任さえ受けていれば権力は保持できるのだから、革命をする必要性は必ずしもない。王朝内で専権を振るえばいい。質帝の跋扈将軍発言から否応なく革命に走らざるを得なくなったとも見えなくもない。

 彼の横暴だとされる具体的な記録は146年の質帝毒殺からであり、大将軍に就任してから五年経って革命のための権力作りに入るのである。桓帝を擁立して、李固及び前の大尉の社喬といった反梁冀派の重臣を手にかけて初めて、その専権体制が確立したといえる。これ以後茂才、優秀な人材を推薦する枠が増え、大将軍府の人数も三公の倍になった。明白に大将軍が政治の中心である制度が確立されたのである。

梁冀の権勢とは権力、革命のための権威付けであった。

 「跋扈将軍」とされた梁冀の行動を振り返って見よう。『後漢書』梁冀伝に見られる彼の悪行を分類してみると、①権勢をほしいままにする②財貨を集める③忠臣を陥れるの三つに分類することが出来る。しかしどれもが革命を起こすための必要なステップなのである。ゆえにそれを以ってして彼を非道の人物、政治的に評価できないとみなすことは出来ない。革命をする以上権力闘争で他者を追い落とすことは必定である。

 諸子に候を与える、領邑させるのは権力増大の一歩である。妻孫寿が襄城君で陽翟の祖も合わせる。当時の経済の中心豫州頴川の地で封爵を受けたことの影響力は言うまでもないだろう。罪をでっち上げて県の金持ちを捕まえて、金で償わせる。馬を送って銭を借りようとしたところ額が少なかったので、罪をでっち上げてこれまた殺して財産を没収する。国内の上げられてくる物産はまず梁冀が取り、その後で天子の下に送る。罪を財で購わせる。外国と交易し、異物を求める。財貨を貪欲に集めているように見えるがこれは実は董卓にも共通する現象なのである。これは私欲の結果ではなく、金・銀貨幣の流通の低下を打破するための銭貨集めの一環である。また王家と同じ待遇の林苑(別荘地のようなもの)を各地に建設したこと、これは桓帝霊帝と共通する出来事である。苑を開拓することで皇帝の私有地を強化しようとしたことは両者に共通する出来事。危機において君主権の強化、経済的な強化を図ったに過ぎない。

 梁冀は処刑されて私財が没収されたとき、国家租税の半分30万銭相当あったといわれるのもこのためである。新王朝を作るための権力であり、また停滞する経済を立て直すための銭の中央管理がなくてはならない。昔の紙幣が金兌換券でいざとなったら金と交換することでその価値を保障したように、中央にも大量の銭を集めて兌換力・信用力を示さなくてはならない。そうすることで通貨、経済の安定化を図ろうとしたのである。この経済政策を理解できないと董卓も単なる私欲の権化になってしまう。

また邸宅を妻孫寿と競い合って贅沢の限りを尽くした豪邸を作る。また別の屋敷を立てて、数千人ごろつきや平民を自ら身売りしたものだとして集めておいた。自己の権勢を示すことは権力を再生産する装置である。好むと好まざるとにかかわらず、権力を取るものは軍事力か経済力を強化せざるを得ない。そして自己の党派を拡大させ、その党派の勢力を第一党にして権力を奪い取る。そのための自派の勢力誇示、権力アピールは重要な広報活動であるといってもいい。その活動の是非はともかく、すべて党派拡大運動と見ると素直に納得できる。『風俗通』は妻孫寿が独特の化粧、歩き方、笑い方を京師中に広めたとある。彼女はファッションリーダーだったわけだ。皆彼女のまねをした。梁冀自身も車と服を改めている。当時は身分社会であり、服装や持ち物で身分がわかる。それにふさわしくないものを身に着けてはいけない。このように独自のファッションをするということは示威行動である。自分に賛成するものに同じ格好をさせる。またはそれを承認させるのである。梁冀派がどれだけ占めているかをアピールする手段なのだ。誰もそれに文句をつけないということは権力を認めたことと同義である。逆に言うと董卓が蔡邕に天子の乗り物であるから、いけませんと言われるような状況では駄目なのである。

 社会学的に言うと学閥など社会的紐帯がなく政界で孤立せざるを得ない田中角栄が首相になるために必然的に汚職をしたことと同義である。背景のないものがのし上がるのにカネを使って上り詰める。または田沼意次などと比較するのも有効であろう。梁冀の汚職・横暴とは権力を取るための必然とみてよい。

 151年桓帝擁立の功を以って、特権を与えられた彼は礼儀を蕭何になぞらえ、領土を鄧禹同等になぞらえ(後漢において四県封じられたのは鄧禹だけで、破格の待遇)、賜物を霍光になぞらえ、権威付けを図った。このうち継承されたのは蕭何の故例「剣履上殿」「入朝不趨」「讃拝不名」という権威付けのみである(剣を帯び、履物を履いたまま宮殿に入ってよい。入朝するときゆっくり歩いてよい。皇帝にも名前で呼ばれない。本来身分の上のものには名で呼ばれる。それを字で呼ばれることは特別な待遇を意味する)。三公より待遇を上にするため朝会の席を隔てることや、平尚書事(=皇帝に上奏する前に文章を見ること。殊典)といったものはのちの二人には引き継がれなかったことは興味あることでもある。しかし方向性・志向性では一緒、革命の準備としての権威付けは殆ど完成していた。機密は彼が全て預かるところとなり、宮中の人間は全て彼の党派であり、李固のような有力な政敵足りうる人物も三公からいなくなり、実質的な政治の最高決定者になった。以前から影響力は大きかったが、平尚書事でそれを確立したわけだから。革命の権威付けはほぼ整っていた。

 梁氏一族から七封侯・三皇后・六貴人・二大将軍を輩出し、卿、将、尹、校に名を連ねたものは五十七人に上った。梁氏一族が失脚すると、二千石クラスの高官数十人が処刑され、故吏賓客で罷免された者は三百人にのぼり、朝廷は空になったと記された。この一族・党派の多さからも革命成立間近であったことが良くわかる。

革命の失敗とその限界

 154年に一族を封じて天子から実権を既に奪っていたとは言うものの、159年に誅殺されるまで五年間も間がある。なぜ革命に踏み切らなかったのか。あるいは自分の娘でもないものを桓帝に娶わせ、外戚となることで外戚という枠からも超越し手権力を振るいうる自己の牽制を最大にまで高め、今まさに革命前夜であったのだろうか?それはともかく革命というものは組織硬直した制度を打破するためにあると述べた。梁冀は革命を実行する上で、そのポストを多く自派閥で占めることで自己の権威・権力を確立していった。彼らは任官してくれたことに恩義を感じはするが、革命に賛同はしない。その任官で満足なのだから。革命が起こって大リストラで自分たちのポストが減らされる可能性があるのにどうして賛同しようか。革命のための準備が同時に革命を阻害する要因を作り出していたのである。準備を進めれば進めるほど行き詰るという矛盾した構造になっていた以上、彼の革命の失敗は必定だったといえる。弟の不疑が経書を読むことに長けて、学者馬融などと交わっていた。梁冀と仲が悪くなり早々と官を辞したのもそこにあるだろう。

 また革命というものは大体全国民の暴動で、支配者層の利権打破と追放によって成立するものである。無血革命というものもあって、これは支配者層同士の話し合いの結果、権力を放棄するという珍しいものである。自分たち自らが広範な支配者層となってしまった以上前者は出来ないし、後者は王莽の実例があるが、彼は学者で儒教の権威に基づいた宗教革命だった。その宗教性が彼にない以上後者も不可能なのである。王莽の革命前の清廉な態度から見ても彼我の違いは明らかである。権勢・経済力によってその地位は限りなく高かったが、それである一定の梁支持派・派閥を作れても、それのみで革命を実行するのは不可能なのである。桓帝霊帝に見られるような冗官(仕事をしていない官職)の整理もできないし、特定ポスト・特定地域に絞って強力な改革を断行することも出来なかった。若手を抜擢して、主流官僚を追放し風通しを良くするということもまた調整役、つまりは年功序列重視からできなかった。革命のための権力・権勢が、権力・権勢のための革命に、手段と目的が逆転してしまったのである。しかもその顔役として基本的に誰にでもいい顔をしてやる必要がある。李固以外強力なライバルが出なかったのも、その調整ゆえだろう。細かい悪事が目立って、次々と強力なライバルを倒して権力に付くというステップを踏んでいないのである。そもそも梁冀路線にノーと突きつけるものがいなかったことにもっと注目しなければならない。官僚たちに世話をしてやるポストの任期は必然的に短くなり、自らに並ぶものもいないが、強力な自己の派閥もまた形成されないのだ。消極的な梁冀派にしかならないのである。のちに董卓曹操が行ったように強力な軍事権なくして革命は難しかっただろう。彼のキャリアには辺境遠征や、地方刺史などがない。もしそれらがあって、強力な軍事指揮者としての面が備わっていれば、また違った側面があったかもしれない。いずれにせよ、この方針ではせいぜい権力を世襲し続けるだけで、革命に結び付けて一から政治を刷新することは不可能であっただろう。新王朝でなければ政治はよくならないという勢力を作り出すことができなかったのだから。

 強力な政体を構築するという必要性はあったものの、では新しい政体としてどういうものが良いのか、どうあるべきなのかという合意は全くなかった。むしろ既存の政体の延長から起こるとしたらこのような中途半端な革命にならざるを得なかったのは必定であろう。どうしても皇帝を擁立して、その権威をタテに朝廷の政治を立て直すという方針しか取れなかったのである。後漢末の争いを見れば、有力者は天子奉戴で改革を実行し、漢朝匡輔を掲げてくるのも必定。そのほかに正統性を主張しうるものが存在し得なかったことに注目すべきである。