てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

書評― 道教思想史研究

道教思想史研究/福永 光司

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を書くのがすっかり遅れてしまったんですけども、まぁ、一応書いておきましょうと。まあ無駄に五万字近くメモりましたがそんなん乗せてもしょうがないんでね。気になったところだけ。例のごとく太字拙感想。

 道教に重要な鏡と剣の思想。緯書『易坤霊図』に易の哲学と道の哲学が結び付けられ、神僊信仰とあいまって神秘化、神霊化されている(p20)。易や荘子などにみられるようにかなり古い思想。棗を好んで食う僊人(p25)。棗がなぜ仙人の好物なんだろう?そこにどういう発想が見出せるのか…?鏡によって病を見通せる(p27)、人を惑わす変化した妖怪などの正体を暴く(p30)。いわゆるラーの鏡ですね。剣が特別な意味を持つのは江南・呉(p32)。高祖の斬蛇剣、「剣璽」という言葉があるように聖物・マジックアイテム化する。曹丕曹植の詩に見られる宝剣など神秘的なもの、信仰を描き出す。そこには新しい世界観の構築が見出せる。このように宗教的な趣は当然為政者にも強いわけで、そこに宗教的観念・常識を前提に置かないとこの時代の歴史の新の姿を見出すのは難しいでしょうね。

 宝剣や霊剣が個人の命運をつかさどる話・説話が登場する。逆に剣によって人間の命運を操ろうとする発想がそこに見出せる(p41)。神僊術の尸解と剣の関係性。具体的な経緯はわからないが尸解に剣が重要なアイテムだった(p43)。うーんなぜなんでしょうね?聖物を発展させていくのは宗教上おかしくもなんともない。あの世とのつながりによってその宗教性を高めるのも同様。しかし奇蹟がない、奇蹟こそ宗教を作るうえでの欠かすべからざる心的印象、ショックならトラウマだし、ラッキーなら崇拝になる。その体験が決定的に欠けている。奇蹟による超常的な敬服、信仰が中国には欠けている

 「天師」は荘子徐無鬼篇の、「黄帝将に~の山に見えんとし……適たま牧馬の童子に遇いて塗を問い……再拝稽首して(童子を)天師と称して退く」とあるのに基づく。「降臨」も道教の経典から降臨という言葉が生まれた(p72)。かの最高政治家、黄帝すら道を聞いて敬うというところがポイントなのだろう。ということは黄帝に指南する存在としての教祖になる。この発想と張角の賢良の違いは重視すべきであろう

 寇謙之は河南の嵩岳で太上老君の降臨受戒を受け、張陵は鵠鳴山中で受ける。張魯伝―史書には降臨受戒の話はない。後付で降臨受戒(「正一盟威の道」の教)されたことにされた=系統付け(p73)。張魯教団との連続性を示すのならば、漢中に移って受戒なり、第二の聖地なり、何らかの関与が必要と思われるが当時の政治状況から漢中に関与することは出来なかったのか?それとも鄴以後取り立て必要とされなくなった。つまり山東の宗教として新展開を遂げたのが大きいのか

 張陵は蜀土に客遊して、古老の相伝えて、昔、漢の高祖は二十四気に応じて二十四山を祭り、遂に天下を王として有せりというを聞き、陵は徳を度らず、遂に此の謀を構え、牛を殺して二十四所を祭祀す。置(た)つるに土壇を以てし、戴くに草屋を以てし、二十四治と称す。(道教の)治館の興るは此より始まるなり」。天は28で地は24というズレ、この4のズレを皇帝が祀る四つの東西南北の祭壇で埋めるのであろうか

 p80、辺詔「老子銘」の記述によって我々は、老子(老聘)が既に後漢桓帝の延薫八年、西暦一六五年の頃、当時の一部の好道者――道教の信奉者――によって、「蝉脱?して世を渡り」「斗星を降升する」神僊とされ、また「天に観て識を作す」救世の予言者、「伏義神農以来、世々に聖者の為めに師と為った」天神とされる宗教的な思想信仰の成立していたことを確認しうるが、このうち老子を天神として推崇する思想信仰は、さらにこれを湖ること百年余り、一世紀の前半、後漢の明帝(在位五八―七五)の時代における楚王英の黄老浮屠の祠りに指摘される。ということは張角の目指したのはこの老子だろう。聖者の師、もしくは老子そのものの生まれ変わりを目指していたはず。重要なのは老子シヴァ神の様に天地を操り天候操作、卦によって人に教えをなすということだろう

 呪術を以って反乱の理由と見るけども、その実治まらない地を治めるための手段であった方が大きいだろう。楚王として揚州近辺、一帯における権限を重ね合わせただろうし。その時代の刺史などが機能していれば話しは別だが。楚王英の生きた後漢の初期、明帝(在位五八―七五)の時代において、黄帝が既に升天した神僊とされ、天神として祠られていたことは、『史記』封禅書、『漢書』郊祀志、同じく地理志などの記述によって確認される。昇天することが重要であって、必ずしも僊人になれなくとも良い。封禅によって神と交わる、僊人と交わるという事実が重要。これによって後武帝は僊人となったとされれば言い。始皇帝も同じ。先祖・開祖が僊人特別な人間となり権威付けされることに目的がある。武帝のモデルはこの黄帝

 文献的に黄老読誦による呪術的効果を見出せるのは楚王英まで、景帝の母竇太后、一族に及ぶそれに呪術的意味があったか定かではない(p84)。

 明帝・章帝時代啓蒙的な思想家王充は呪術的なものを否定し、それが道教に受け継がれていることは注目に値する(p86)。讖緯的なそれ、河図のようなものが重視されれば、当然それを与えているものは誰か?となって超常的な信仰・思想が盛んになるのは必然。太平経には昔からあった災異=「天戒」の思想を引き継ぐ(p89)。

 

 書経の上帝の天命の思想を太上老君に置き換え呪術宗教化して降臨受戒となっただけ。上帝=老君、天命=降臨のアナロジーに過ぎない。まさしくユダヤ教からキリスト教が生まれたような様相を呈している。新宗教化と呪術重視。

 災異の救済、百年以上生きることで真人になり、天から意志を告げる、「延年益寿」いいことをして寿命を延ばすという発想は昔から共通している傾向(p92)。太平経には天の因果応報が説かれる(p95)。

 墨子に見られる信鬼尊神の復古。道教という言葉も初出は墨子である。天神の裁きなども儒教のそれであって、上帝・天命の源流がそこにある(p99)。

 後世の文献では二世紀に太上老君が崑崙山の治所とするが、現存する成立時代の分権から考えると早くて三世紀ごろに成立した概念。論衡や淮南王の昇天の記述から考えると老子も同じく道を得て真人となって不老長生をえて崑崙山で昇天したという思想基盤は既に一世紀ごろにあったと考えられる(p101)。長寿希求?の背景に戦争がなくなったこと。また、武帝の一大方術キャンペーンがあって以後のことか

 『易』の哲学の「道」と「神」とによって折中的に解釈しようとする。王弼が『老子』に注すると共に『易』に注し、阮籍がまた『通老論』を著わすと共に『通易論』を著わしている事実を我々はここで想起しておきたい(p141)。つまり董仲舒の時代から既に老子の解釈を取り込もうとする動きがあった。これは別に意図してやったというより、全学問の統合。春秋以来から引き続いているあらゆる学説を自然に統合させていこうとする流れがあった。儒教を主として再構成していた、学問の統合をしていたのが、危機において重要な転換を遂げた。根源を考えていく上で老子に著しく比重が移った。興味関心が世界の成り立ちにまで移ったのは丁度ギリシアの万物の根源を考えようとした哲学の誕生した時代と位置づけることが出来る。このころ医学が発達したのと無関係ではない。しかし錬金術の誕生など自然科学研究の誕生・萌芽と重ならなかったのが残念か。もし重なっていたら中国自然科学はまったく違った展開を遂げていただろう。ただ、実験や研究の欠如。論理学の発展の欠如を考えると難しいが。とにかく錬金術・金の生成そして練丹術=不老長寿のそれと不可分と考えてはいけない。このつながり関係性をもっと探るべきだろう

 もっと書くことあるんですけど力尽きました。まあ、別に誰もこんなん見ないだろうしいいか。末法思想=終末論の注目とか、氏はそうは主張していませんが末法論を考えると元の国号の本当の理由とか、太平道墨子とか、張角黄帝を目指していなかったとか、すばらしいこといっぱい書いてありました。本当にこの時代の思想の大家といって間違いないのではないでしょうか?毛ちょっと評価すべきではないかと思います。福永教授凄いわ。桓帝道教教団がどの程度つながっていたかということについてコメントほしかったなぁ…。あと黄老思想への傾倒を劉氏の血、出身地ゆえに根付くものとしていますが、それだけでは京暮らしの王家の説明としては不十分だと思いますね。

 特筆すべきは封禅という一大国家プロジェクトの意義でしょう。ピラミッドが単なる王家の墓で無いように、封禅も単なる祭祀ではなかったんですねぇ~。なんでこの時代を取り扱う人はこういう超重要なことについてきっちり書かないんでしょうか?何冊も概説書読みましたけどそういうの全然書いてなかったんですけど?福永氏の著作無視なんでしょうか?(-”-;)。儒教前漢末台頭した宗教であり、それまで劉氏はその土地柄に根ざした「道教」の前の段階、プレ道教とでも言いましょうか?もっといえば呪術。呪術的な神仙思想を国教としていたと見るべきでしょうね。王莽の禅譲とは儒教による宗教革命なんですね~。イヤーこれまで思っていたことがすっと腑に落ちる感じでした。ジクソーパズルのピースがスッとはまりましたよ。国家→帝国というステップ成長が当然であるように、人間→仙人というステップは当時では常識なんですよね。

 宗教にとって重要なのは奇蹟。漢王朝劉邦の王朝建設は奇跡としか言いようがない。そして漢王朝の場合、項羽を裏切って権力を簒奪したという後ろめたさがある=呪いの警戒。この奇蹟に対する超常的なものへの信仰と呪いの罰への恐れがある。前漢のこのプレ道教・神仙思想はここに基づくと思うんですよね。奇蹟に対する感謝と呪いを沈める鎮魂。ここもっと深く知りたいですよね。

 大学者劉向が錬金術に取り付かれていたことは当時の状況と決して無関係なことではない。むしろ至極自然、すんなりと理解できること。神仙術・練丹術と黄金の関係。さらには黄金の流出といった関係と結びつく。また崑崙に仙人が住むという思想があることと西域開拓は確実にリンクしていることも注目しておくべき重要なことですね。

 北宋の大宗は『逍遥詠』で秦の始皇帝武帝の封禅を否定しています。晋の武帝の封禅否定と関係してかなり重要なこと。晋武帝はなぜ封禅をしなかったのか!?非常に重要な問題であると思います。

 天の観念自体がそれほど古いものではない。点という観念は昔からあるものだと思っていましたが、ならば天の観念は秦の統一、もしくは前漢への移行期という政治状況によって登場してきたものなんでしょうかね~。

 漢王家の道教、呪術的な老荘との関係の深さを福永氏は指摘していますが―

前122年、淮南王が黄金を造り、鄒衍の道で寿命を延ばすということで反乱の罪を当てられ処刑。まさしく楚王英と相似構造桓帝も不老長生を願って老子を祭っている(165、166年)。173年陳王劉寵もまた老子を祭っている。彼は仏教に初めて接した明帝の曾孫(p304)―前漢時代は殆ど一貫してこの傾向が強かったわけです。王莽が対抗した政策的相手はおそらく儒教黄老思想と見られるでしょうしね(もちろん、儒と呪の思想が明確に分裂対立することは無い。王莽が讖緯を利用したことからわかるように)。ところが明帝から桓帝までぽっかり間が空いているわけですよね。ここを見逃すべきでは無いと思うんですけどね。これは後漢儒教国家になったことの何よりの現れでしょうね。

 西域と黄金の関係は重要でここを抑えないと後漢の真の姿がわからない気がするんですよね~前にも言いましたが。そして黄金の減少、桓帝のこの西域カブレは崑崙などと関連して語るべき重要なことなのでしょう。甘英のローマ行など重要なことなんでしょう。ここは宮崎さんの本に一項あるのでこれから呼んで感想書きたいですね。最近宮定さんの本漬けで大変でしたが、宮定さんはさすがですよね、やはり。レベルが違いますね。宮崎市定のまとめを書かなくてはね~。

 また小室博士の本読んでいて、法家を「法教」と表現しているところでピーンときたんですが、曹操の行動原理を場当たり的、ご都合主義ではなく(少ない資源を考えるとそう見るのは妥当なんですけども)、そこに「法教」という一つの宗教観念を見出せるんじゃないかな?と思っています。

 中林史郎先生が曹操の宗教と思想で宗教なんてしゃらくせえ、俺が曹操だ!彼は宗教なんて信じていないという説をといてますがこれはありえないと思います。福永氏の著書を読むまでも無く、当時の人間の宗教意識は古代人である限り絶対です。宗教、呪術でも神仙説でも信じないとしても、法教でも何でもいいですけど、特定の思想=宗教に基づいて行動していたことは間違いないです。まさか宗教を非合理的なものとして解釈しているのか…?

 あと青州兵が曹操にとって大きかったとありますが、前漢に重要な軍事力は突騎、騎兵であって、そうだとは思えません。宗教的理由からも、曹操青州兵が契約して、死後契約が切れたからドラを鳴らして帰ったというのもありえないでしょう。宗教的契約を結んだ組織が歴史に登場するのがそれっきりなんてことは考えられないんですよ。

 で、法教に戻って、曹操の宗教・思想がそれならば、道教墨子。さらに後の道蔵に韓非子孫子が納められていることを考えると、曹操の宗教に墨子のそれがあるのは間違いないでしょうし。道教との関係をもっと探るべきだと思うんですよね。やはり墨子老子荘子を読まないと曹操の思想・宗教性を理解できないんでしょうね、きっと。もしかして異姓養子などそういうところも、説明つけられるんじゃないか?という気がするんですけどね。まあわかったらこれで勝負できるくらいのことなんでね。今後も上に上げた古典なんか読んで調べてみたいと思っています。

 あと、袁術の帝国について副帝国なんて言葉で説明していましたが「仲」帝国がようやく理解できましたね。これで少なくとも袁術=バカ、簒奪の皇帝自称したクソ野郎!というのをひっくり返せる理由を見つけ出せました。追い詰められてやむにやまれずではないんですね。そこにちゃんとした理由を見出せるし、その後の孫権の帝国につながりますね~。いやーようやくわかったわ。袁術帝国の謎。しかし、まだ仮設の段階。おそらくほぼ100%説明付けられるけども、孫権の帝国見ないと。孫呉全然手をつけていないんですよね。董卓とか袁術とか、道教曹魏の関係とかを重視してましたから。まだそこまで行っていない。というか、後漢書がようやく読み終わったくらいですから(^ ^;)。今また三国志半分くらいまで読んでる段階なんで。

 全然関係ないけど同じ、同じくという言葉を「同じい」という表現を使っていて、女子高生か!って思ってしまいました(笑)。

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