てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

平和教(パシフィズム)と不謹慎について

日本いまだ近代国家に非ず―メモ程度に←前回の続き。これも書こうと思ったけど、書くの忘れていたので、平和教・パシフィズムこそが戦争を作る―という有名な話から。簡単に言うと、第二次世界大戦ヒトラーがラインラント進駐というヴェルサイユ体制に違反した時点で、英仏が戦争に踏み切っていたら起こらなかった。ヒトラーは英仏に戦争をする気がない、パシフィズムが蔓延している英仏は絶対に戦争を仕掛けてこないと確信していたから、戦争となれば負けるとわかっていたのに軍事力を行使した。パシフィズムという思想背景があったゆえにヒトラーはその野望を現実化させることが出来た。

 どんなことであろうと、何があろうと戦争には絶対反対。そのような主義・主張は戦争を作り出す―第二次世界大戦で何千万という屍の上に作られた貴重な教訓ですね。

 そういう歴史の教訓を素通りして、平和教が一時の全盛期からすれば衰退していますが、未だにわが国で多くの信徒を獲得しているところを見ると、やはり日本は政治後進国なのだということが良くわかりますね。

 大学も学問も何やっているんでしょうかね。国際社会のルール・基本原則を理解していないから、戦争というものはただなんとなく起きるのだと考えている。相手がいて、紛争事由=戦争事由があって初めて戦争というものは起こるものなのに、そういう基本的なことも理解せずに、ただ戦争が起こるから大変だ!とわめきだす。

 奇妙なことに市定教授の『アジア史論』を読んでいたら、辺境にあってターミナルな役割を果たしていた日本は急激に世界の舞台に出ることで、自己のものを何でもかんでもオリジナルだ!わが国が最高だと調子をこいた。ところが戦争が終われば、今度は逆にわが国はダメだと何でもかんでも否定に入った。その行動様式は戦争を経ても極端から極端に触れるだけ、真に愚かしいという趣旨のようなことを述べていましたが、本当にそのとおりでしょうね。

 「平和教」というものが真に愚かしいことは歴史の教訓を引き合いに出すまでもなく、というかいうまでもない話で、今回は一つ重要な話を付加。それは並行主義という話。デュルケムが論じたというらしいですがどこで論じたんでしょう?

 まあ、それはさておき、「個人の美徳は公共の悪徳」であったり、「市場の最適化」=市場においては私欲が公共の善を生み出す(利潤を最大化し、誰もが報われる)という個人の道徳が集団・組織においては真逆になる、全く違った結果をもたらす。社会法則は個人の意志では全くどうすることも出来ない。

 社会毎に固有の法則が存在し、個人の意志次第でどうにかなるものではないという大前提があるわけですね。たとえば引力が気に入らない、オイ地球よ!引力なんてけしからんもっと弱くなれ!なんて言っても何ともしがたいわけです。物理学の法則を個人の意志で捻じ曲げられないように、社会にも同じように、あたかも自然現象のような法則が貫徹されて動いている。それを個人の意志でどうにも出来ないわけですね。

 まあ、マルクスの疎外を持ち出すまでもなく、社会には固有の法則が存在して個人の力でどうにも出来ないわけです。物価が高い、株が安い!何とかなれ、何とかしる!なんていってもどうしようもないわけです。その現象の本質を科学して、有効な対処法を見出さない限り、その法則を理解した上での行動をしない限り、何も出来ないわけですね。

 ここで重要なことは一個人の善悪は、社会全体といった単位で見てみると、それが真逆の結果となって反映されることがある。―というどれだけ注意してもし足りない、社会科学上重要な発見・性質があるわけです。いちいち説明するまでもないですが、どれだけ重要なのか言うまでもないでしょう。だって自分がいいことをしていたら、社会がそれによって大混乱しているなんてことになるわけですからね。またなんてことをするんだ!けしからん!なんて社会全体で悪とされるものを防ごうと、こういうことはいけない!あってはいけないんだ!なんて、なくそうとしたらそれが実は必要不可欠で、大事なものでそれがなくなったがゆえに社会が危機に陥るわけですからね。あたかも毛沢東が雀を捕った現象の如く社会に負の結果をもたらしてしまうわけです。あたかも清潔文化における細菌のような存在とでも申しましょうか。不潔だなんだといって徹底的に病原菌を排除したら抗体が弱まってひ弱な人間になってかえって大病を患ってしまうが如くの結果をもたらしてしまうかのようなことになりうるわけですね。

 前フリがいつものように長いですが、並行主義というのは個人と社会の善悪が一致すると考えることです。まあ、簡単ですよね。それなら個人は個人の生活、日常に感じるいいと思うことをやってりゃあ、それでいいわけです。社会に良いこととなって還元されるわけですから。ですが賭博や売春などといった個人の悪徳が、場合によっては社会の公共にかなり善・利益をもたらすことからわかるように、人間が形成する社会において並行主義は無条件に成立するわけではありません。

 平和教はまさにこの並行主義で物事を捉えているのです。戦争なんかないほうが良い。だからなくなれと。おそらく個人・日常世界での暴力を類推して「いやなものだ、だからなくなれ」ぐらいにしか思っていないんでしょう。だからこそ、みんなでそういうものはいけないものだ、ダメなものだという感情論理を浸透させれば、必然的になくなる。防止できるとしか思っていないのでしょうね。

 パシフィズムというのはその前提に大きな無知がある、バカだから、教養がないからそういうことを平気で言えるのだろうと思っていましたが、この並行主義という理解があったんでしょうね~。まあバカなことに変わりはありませんが、そういう下地があるのだとすれば理解がしやすい。どうしてそういうアホなロジックが平気で出てくるのか腑に落ちるし、相手の欠陥を指摘できるのでへぇ~となった。ただそれだけです。

 さらにこの並行主義は不謹慎で感じた気持ち悪さを説明できるわけです。戦争いやだ→なくなれ→なんだと貴様戦争のことを口に出すのか!考えるだけでけしからん!という念力主義。思ったり口に出すだけで現実化するという暴論には、言論の自由を平気で蹂躙する恐ろしい全体主義へとつながるわけですが。思えば昔は中共の批判をしようものならキチガイ扱いされるというアホな状況が言論の主流だったわけですからね。今は多少はましになってるんでしょうかね?

 不謹慎だという言葉には間違いなく「自粛を強制する」という矛盾があるわけですね。そしてそういった考えをするのはけしからんという思想統制を平気で行う発想があるわけです。どんなに気に入らない言論でも、それをグッとこらえて我慢するのが自由主義の原則。それを全く理解せずにいるのが今の日本の情けない現実ですね。ちなみに言論の自由、内面の自由の反対は「洗脳」ですからね。不謹慎は紅衛兵の行動様式のそれと同じなんですね。あそこまで激しくはなくともやっていることは同じ。

 並行主義だから、個人の道徳に基づいて、学級会感覚で良いことを追求する。そして、その結果社会はムチャクチャになる。並行主義だから言論の自由をなくして思想統制しさえすれば、そのような素晴らしい社会が実現すると思ってしまう。良い人間だらけになって、悪い人間がいなくなれば社会は良くなると考える。人の心に平気で干渉しようとする。まあ、まさに前近代国家に住む、学問知らずの人間の行動様式ですね。良い人間しかいなかったら、必然的に良い社会になるという。物事を善悪で考える前近代社会の愚かしさよ。現代日本、汝は今でもそれを引きずりおるか!と学問の神様が嘆いてしまいそうですねぇ…。