てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

【三国志ノート】 三国志巻2から気になったところを抜書き

正史 三国志〈2〉魏書 2 (ちくま学芸文庫)/陳 寿

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から、気になったところをちょくちょく書きます。なぜか二巻から。

列伝七

 p10、呂布の裏切りについて―第一のケース丁原。同郷ならそのグループ・人間紐帯から追放されてしまうから、呂布とは同郷ではない。確か并州ではあったはずだが?粗野・名門ではない・文字が読めない。董卓丁原なら董卓ということなのだろう。ヴィジョンのなさ、将来性のなさに裏切ったというところだろう。呂布のなわを緩めてくれ、主簿がダメっていうからダメ。で、先進んで読んできたとこから返ってきて、気づきましたが、主簿である呂布が裏切るということは相当な状況であると見ていいでしょう。主簿が裏切るという例は他にあるのだろうか?聞いたことがないが…。

 まあ、いつものごとく、個人的因縁で不仲を説明し、裏切りの理由付けをするけれども信頼するに値しない。戟を投げつけられたとか、女に手をつけたとか。大体どうして王允呂布の会話の記録が残るのか?コレを書いた人間はそれこそゾルゲ並のスパイを雇っていたんだろう(笑)。こんな記録はそもそも論ずるに値しない。価値のないもの。

 p11、董卓を討ってから奮武将軍・付節・同三公という地位。この朝廷公認の地位から二袁政権のランクなど所詮自分たちの自称(笑)ではないか、俺のほうが偉いという立場であって、嫌われる原因、相容れない事由になる。呂布はブランドに弱かった。名門袁家が自分たちだけで権威を作れるという時代の転換を見落としているのはやはり辺境の人間ゆえの漢朝絶対・王朝絶対が根付いているからであろうか。以後董卓キラーは彼のキャッチコピーとなって最大限「董卓を討った男」の肩書きをこれ見よがしに売ることになる。アイドル界じゃないが、こういった肩書きはかなり重要であったはず。一定の説得力を持ったであろう。まあ裏切りの結果だから、名声天を衝く!といったことはないんだが。

 p13、袁紹は彼を追い払うのに司隷校尉のポストを、リカクシ(李傕・郭汜のセットね。めんどくさいからセットです。バリューセットでお得です(笑))は頴川太守のポストを。それぞれなるべく相手方に追いやりたいはなつまみもの扱い(笑)。リカクシにとっては憎むべき仇相手、それと和睦!さすが大義もクソもない時代の行動様式ですね。光秀と秀吉が仲直りするようなもんですからね。まあ、同盟というより不戦条約みたいなものですが。同郷の張楊がいることからわかるように、この地方を拠点に北方から来る異民族たちの中継ルートがこの河内にあったのだろう。河内を拠点として中継、東か西に流れなくてはならない。んで兗州にはいって、徐州に抜けるという東ルートになる。まあ、西は涼州との因縁があるし、そっちは無理だろうね。羌もいるし。

 p14、張邈は三公、辟召か?まあとりあえず三公直属、騎都尉ですから。曹操と騎都尉の時に仲良くなったんでしょうか。キャリア的にはかなり上のほうですね。上の下くらいかな?曹操に衛茲を就けたり、仲良しこ良しでした。袁紹はもうはやくから張邈とぶつかっていますね。この二人はいずれぶつかることが目に見えていたわけだから、曹操に殺して良いぞと命令したわけですし。しかし曹操はそれを拒否、二人はますますラブラブになっていくわけです。

 面白いのは第一回の徐州征伐のときに、もし私になにかあったら家族に張邈を頼れ!と言っていることです。んで、帰ってきたら涙を流して再会を喜んでいるところですね。つまりこのときかなり危機だった。もしかしたら曹操にせよ、張邈にせよ死んでもおかしくなかったということです。徐州虐殺にせよ徐州大乱にせよ、この二人の危機感を念頭に置かなくてはならないでしょうね。袁紹が間違いなく徐州攻めに協力している、というか袁紹がリーダーでしょうから、袁紹が脅威ではないでしょうし。もしかして袁紹が攻めてくるとか?ちょっと状況からいって考えづらいですし。袁術か金尚あたりが脅威だったか?一番考えやすいのはやっとこさ鎮めた黄巾残党でしょうね。

 で、裏切ったのが張邈というより弟の張超の決断だったこと。張邈も一回目は何とか内部を抑えたけども、二回目はそうすることができなかった。この内部要因に注目すべきでしょう。従事中郎許汜袁術への使者になったり、劉表の前で劉備にバカにされたり地味に生き残っていますね。なかなか面白い経歴ですね。曹操怖くてずっと逃げた。天寿をまっとうできたんでしょうか?

 p17、どうも呂布劉備を裏切ったという話がよくわからない。スッとこないんですよねぇ~。まあ裏切りだらけの不穏な情勢に徐州はありましたが。弟と呼んで仲良くしようと思っていたら、袁術に手紙でデレられたから調子こいた。ただそれだけなのでしょうか?それこそ石井仁氏評の曹操=お調子者以上のお調子者っぽいですね。利用できれば利用するし、利用価値がなければサヨナラというのは戦国乱世の常ですが、単にそういうことなんでしょうか?

 p20、丹陽兵を中心とする裏切りで劉備呂布に徐州を盗られるわけですが、河内の郝萌などの裏切りを呂布は鎮定しています。この違いはいったい何なんでしょうね?陳宮呂布を追い払った後自立するつもりだったのか?それとも袁術政権の重要ポストにつくことでよしとしたのか。いったいどういうプランだったんでしょうね?張邈たちの酸棗集団・徐州系グループで独立するのか?つまり呂布はその当時の曹操のポジションに過ぎなかったのか?でもそういう徐州の人がいないですよね。名のある張超みたいなのが生きていたなら話は早いんですけどね。

 p23、献帝が最初に呂布を頼ったように、一番使いやすかったのが呂布曹操は平東将軍、つまり東のことは呂布先生あなたにお願いしますよとデレたわけだ。袁術になびかれたらかなり困るという状況。このとき曹操はデレッデレになって呂布を何とかしてこちら側につなぎとめようとしたわけですね。んで勢いがひっくり返って袁術呂布を討つころにはものすごい冷たい態度でつぶしますけども(笑)。

 まあ時代環境・状況が読めなかった結果ですね。屯田かなんか内政がうまくいって食が確保できた結果でしょうかね?曹操呂布という結果は。天運の話ですが、イナゴにやられて食が確保できなければ、呂布にも勝てず、袁紹の下から抜け出せることもなかった。天候、運が曹操にとって何よりついていましたね。鷹にたとえられた話で呂布がほっこりして、陳親子を許す意味がわからないんですけどね。

 やはり軍あがりの呂布のほうが、韓暹・楊奉とかそういう軍人の心をつかみやすいんでしょうか?もし裏切られなかったら袁術の運命はかなり変わっていたでしょうし。一度袁術に身をよせた呂布だからこそ、彼らの境遇に近いものがあったということでしょうかね。あんまりたいした待遇受けなさそうですし。略奪しまわっていますから、それがかなり大きかったんでしょうか?それこそ略奪とは切っても切り離せないのが兵隊ですから。東へ流れてきた韓暹・楊奉はそういう点で呂布と近しいのだろうというのはわかりますが、その後出てきませんね。結局自前の軍隊を整備できなかった勢力頼みの、寄らば大樹の影的な点が、袁術の失敗の原因でしょうかね。袁術の下に身を寄せた呂布ならではの作戦勝ちというところでしょうかね。この二人は境遇が呂布そっくりですし。

 琅邪の相蕭建というのが出てきます、この人が呂布に帰順せず、斉の田単の故事を用いて口説いていますけど、呂布はこういう故事を一通り常識として知っていたと見ていいんでしょうね。とすると脳筋のようなイメージで彼を捉えるのはかなりまずい気がしますね。で和解をして、帰順させますが、臧覇が彼を叩いてしまう。臧覇を叩きにいきますが、落とせず。これは呂布の致命的弱点、飛将と呼ばれた最強軍人が天下を取れなかった理由でしょう。まあ軍事的に騎馬兵の規模が小さかった、食糧が足らなかった。それだけではなく、騎馬兵では城攻め意味ないですからね。城攻めに向いていなかった。それがすべてでしょうかね。対照的に曹操は白兵・城攻め&守りほとんどうまくこなしていますから、ただ海上はダメでしたけど。

 p28、再び袁術についた―とありますが、劉備攻めは呂布から口火を切ったんでしょうかね?だったら攻める前に袁術との外交を完璧にしておけよと思うんですがね…。なんという行き当たりばったり。

 p32、呂布の縄を緩めてくれというお願いを、主簿の王必が許さないからどうしようもないなといって曹操は認めませんでしたが、呂布もかつては丁原の主簿。主簿っていうのはかなり裁量権があったんでしょうかね?(こっから上の着想にいってます)

 カクボウ(カタカナで読むとカネボウみたいだな…)の謀反以降ますます高順を信用しなくなったとありますが、彼はカクボウと同郷なんでしょうか?

 p38、まあその地の名の通った士を賞賛する史料からとったとはいえ、陳登の評価は高いですね。陳宮といい、陳のつく人は高待遇される法則でもあるんですかね?まあ陳登の方はず~っと名族ですから当然なんですけど。んで彼の支配をしたって広陵の民がついてきたと。わしがいなくてももう大丈夫じゃけん、心配する必要はないぜよと帰らせています。広陵は良く出てきますね。

 そして臧洪もこの広陵の出身。んでまあ琅邪の趙昱とかそこら辺のエリート、劉繇や王朗と並んで県長になってますから、相当名の通ったキャリアなんでしょう。パパが匈奴中郎将で名を残したとありますし。袁逢に質問されて、西域情勢にものすごく詳しかったとあるのが気になるところ。このころ西域は36が100に分裂したといっています。ということは交易がうまくいっていなかったということなんでしょうか?南の出身でありながら北方国境担当ですね。まあよくある話ですが。んで、よくある官を辞して広陵の張超が彼を雇うわけです。

 酸棗同盟。名の通った、というか要職の五人が会盟。事実上の派閥立ち上げですね。彼らも劉虞を押していますし、このころは袁紹の要請で素直に臧洪も青州に就いていますから。この酸棗集団も袁紹集団・曹操集団と政策的スタンスにそう差異があるわけではないわけですね。このときまでは。派閥をとりあえず~集団と書いておきます。集合論的な感じで。この時点では袁紹という最大集合の中の小集合ですね。酸棗集団も曹操集団も。対抗的な集合として、袁術集団・董卓集団がありますからね。

 p44、あくまで裏切ったのは張超のほう。彼によって張邈も臧洪も動かなくてはならなくなるわけですね。いい話っぽいですが、臧洪の場合もう救出どころではないんですから、戦っても無駄なんですけどね。酸棗集団はやはり徐州攻め広陵との関係が影響して反旗を翻したということになるんでしょうかね?董卓が消えて目下の標的が消えたというのが一番大きいのでしょうけど。

 この反袁紹の代表的人物とでもいうべき臧洪をどう見たらいいんでしょう?反袁紹といえば臧洪、臧洪といえば反袁紹のインカネーション(受肉)。人間的紐帯、連帯があったということもそうなんでしょうけども、その背景に袁紹集団と酸棗集団の絶対に相容れない何か事由はないんでしょうか?考えられるとしたら豪族的な傾向を推し進める袁紹に、それに逆らう臧洪というところでしょうかね?だから既存秩序をよしとする=漢朝を守れ!従え的な主張をするとか。だからこそ下層の人間まで彼を慕って討ち死にしたというのが自然なストーリーでしょうか。呂布にしろ、劉備にしろ、そういう声を背景にしてトップにすえられたということなんでしょうかね?

 徐州&広陵あたりのコネがありますから、徐州攻めをきっかけにして怒りが爆発したというところなんでしょうか?p52に袁紹は張邈を兄と呼んでいた。とあって、兄さんを無視して、徐州攻めやがって!とかそういうのがあるんですかねぇ…?曹操と張邈の関係って信長と浅井の関係に比喩されがちですけど、これは袁紹と張邈がそれと見たほうが正確でしょうね。袁紹と張邈の官職上の関係とか気になるところですね。八厨という奔走の友=テロリスト時代の仲間助けの兄貴分だったっていう関係だけなんですかね?袁紹が彼らの反対を押し切って、徐州攻めに踏み切った結果対立しただけと見るのが正確か…?

 だいたい劉邦あたりが出たこの近辺は人間的紐帯が強い傾向は当然あるでしょう。高官同士の横のつながりだけでない、強固な人間紐帯こそが階層を越えた団結を作った。そういうことなのでしょうかね?演義なんかじゃ劉備の桃園とか、孔明との水魚の交わりなんていアピールされてますが、はっきり言って人間的関係性の強さ・絆の深さから言えば臧洪の二歩も三歩も後をいっていますからね。

 p65、劉虞が皇帝なんてなるか!と匈奴に出奔した話がありますが、彼のような人物が匈奴にしばらく留まれるくらいの形を成していたということでしょうかね?匈奴はなんか不安定だったイメージがありますが、なんか拠点あったのか?

 p73、公孫瓚が商人・占い師と義兄弟の関係を形成しているのは劉備三兄弟ならぬ公孫瓚四兄弟。そして彼らは財で何とかしようという集団だったのでしょうね。ゲームの影響か、北方なんか貧しいくらいにしか思っていませんでしたが、北方のほうが豪族化=当時の社会・経済状態にいち早く対応していたわけですから、かなり豊かだったはずですね。だから300万石という食糧があったわけですし。この豪族化がもうちょっと進んで中央に名族・豪族を送り込めていれば、話は違ったんでしょうかね?というかもうそういう余地がないですかね、北方は。西方と違って。并州でさえちょっとは中央に人がいますが、幽州は本当に人いないんじゃないですかね?誰か忘れましたが、ちょっと時代が下がって魏ぐらいには誰かいた気がしますけど。

 p78、歌の制作が望まれる。平和=歌が整えられるという意識。公孫瓚袁紹をなめて和睦勧告を蹴っています。なんだろうこれ?公孫瓚袁紹が並列するわけないだろうに。袁紹は一時的に公孫瓚と結んでどうしようとしたんだろうか?まあ、公孫瓚がそこら辺の支配者・豪族の支持を取り付けているわけではないですから、いったん講和して、調略・工作で巻き返そうということですかね?

 p81、陶謙は丹陽出身ですから、劉備のときの丹陽兵の裏切りは彼らが主流派から外されたゆえの反抗だったんですかね。だったら呂布のときはどうなったんでしょう?名士を遠ざけて、評判の良くない人物を使う。そして叩かれるのはたいていトップダウンで進めたということですからまあ無視していいでしょう。彼なりの改革を進めた結果。しかし劉備に国譲りしたことからわかるように、その失敗と限界を悟ったんでしょうね。この当時の徐州は豊かで民が避難してきた。コレがポイントでしょうね。

 p85、広陵太守で趙昱はそのキャリアを終えていますね。まあ例の笮融に殺されたわけですが。

 p88、呉書に曹操が徐州の武装解除を命じたのを、この当時曹操献帝を奉戴していないからありえないと否定していますが、曹操長安に攻め込む前に承諾を得ようと裁可を仰いだ可能性はあると思うんですがね。んでそれに応じない陶謙の返答をもって初めて攻め込んだと考えておかしくないと思うのですが…どうでしょう?軍隊解散して本来の仕事に戻れ!←コレを見逃すべきではないですね。

 p89、陶謙の評価は異民族退治と妖賊退治。まあ学とキャリアがあるといってもその本分は治安維持。

 p92、公孫瓚―中郎将徐栄と同郡から遼東太守。豪族・名家を処分。へぇ~地味にそんなコネがあったのか。

 p95、インポ=国を治める資格なし。この時代でもこういう観念がある。

 p120、反乱を起こしたゆえ、一族の公孫晃はそれに反対していても処刑される。所轄の役人が許さなかった。

 p121、霊帝は楊鳳に黒山校尉の官位を孝廉・計吏の推薦権。まあ数ある賊を内ゲバにさせるために、官位を与えたのだろうけど、なんでこいつだったんでしょうね?校尉にこういう権限がつくんなら、やっぱり西園八校尉にもこういった権限があったんじゃないかという気がするんですけどね。というか以後コレを中心に拡大させる意図があったと思いますね。

 張燕と張繡。例の黒山賊が五百戸に対して、張繡は二千戸。やっぱり官渡前というのが重要なんでしょうね。あとどんな人間でも引き立てるぞ!というアピール。んで破格といったら一万戸(!)の張魯ですね。さすが道教の開祖的人物。その後の動向が気になってしょうがないのになぜ記録に残されないのか…。最大の封地でしょうに。それではドロンといって消えたわけでもないでしょうし。一代限りだから、彼が死んだらすぐなくなってしまったのか?

 p123、曹操胡車児に黄金を与えた!金がないこの時代に?なぜ?そりゃ破格の待遇ですよね。本当なら…。

 p126、三輔の妖賊駱曜。こいつ重要だと思うんですけどね~。あんまり注目されないですね。またp131、に劉雄鳴なんて仙人めいたやつもいますし、こういうのを無視するべきではないと思うんですが、そのまま人の流れを意味しますし。こういうのが中心となって人が動いたのだろうと類推できますからね。曹操が夢で君を見た!なんていってキャッホーイと喜んでいます。重要なのは自分の意志でなく、集団の意志で漢中に逃げざるを得なかったこと。もし逃げなかったら張魯までとはいかなくても結構重用されたんじゃないでしょうか?そういう人間の支持って迷信深い庶民の支持を得るには最適ですからね。結局、怒りを買って地方に飛ばされますが。

 p132、河東人は漢中に逃げて、のち帰順。これは何夔がやはりまとめて落ち着けたのかな?彼がこの辺のまとめ役だし。補給で20万石供給したのは実はこのでも取りたちを支配下におきたかったからだったりして?そういう性質ってないのかな?後彼は出世しているわけだし。この地方での名声を確固たるものにしただろうしね。

 この伝は自守の賊で評価に値しない。後半三人は賊の癖に身をわきまえて処世を施して全うしたから、まだまし。

なんか後はろくなこと書いてないけど、字数的に半分できるしかない。呂布とか張邈とか書きすぎ(^ ^;)。

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)/陳 寿

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こんなんありますね。まあ、間違いも多いですが、三国志ファンにはオススメです。どうぞ。