てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

【三国志ノート】 三国志巻2からの続き

【三国志ノート】 三国志巻2から気になったところを抜書きの続きです

 p139、例の人質ごと討つというやつ。夏侯惇殺されないでよかったですね。

 p141、夏侯楙の金儲けと女で、曹操の娘清河公主と揉める。

 p144、官渡の時夏侯淵が食糧輸送で典軍校尉。その重要性がわかる。夏侯惇が2500で、淵が800戸でしかない。

 p152、当時の名刺の話。爵里刺。

 同、曹仁曹操軍のエース。袁術戦で活躍し徐州攻め。以後から騎兵を率いることになる。以後曹操軍騎兵隊は彼が率いている。面白いことにいつも彼は別部隊を率いる。正面からぶつかるのではなく、相手の大軍だったり、強いところは曹操が引き受けてそれを防ぐ。そして騎馬隊・エースの曹仁が搦め手から相手の弱いところだったり、別隊を叩いて勝っている。曹仁がエースなら、別に夏侯淵を西の司令官に使わなくていいんじゃね?と思ったけど、江陵・襄陽の守りがある。南の司令官だからだめ。だったらなんで、彼が馬超のとき潼関でてきたんだろ?と思ったら、関中と荊州のリンクを考えているからか。西の戦線延びるから、その方面は淵で、荊州と三輔くらいが曹仁。んで中央で曹操が行政行うと。場合によっては曹操自身出てくるけどもね―と。そういう戦略が良くわかるね。

 p160、曹洪が蘆江や丹陽で募兵を行い成功している。二千・五千とかなりの大軍を維持できたということは、やはり財産があったことが大きいのだろうか。対張邈で彼が食をつないだ。まあ補給とかそういう役割をしていたのだろう。

 p162、卞が文帝に曹洪の処刑を止めさせる。郭経由というのはどういう意味なのだろうか?郭皇后を首にすると脅しているのは、曹洪と彼女が派閥上の敵対関係にあるからか?曹操はわしと曹洪の財産が同じはずがあるかと言っているし、財が大きく、郷里での影響力は彼のほうが大きかったのだろう。

 p164、曹休がシントクを切り、カンソウ・テキタンを降伏させる。これによって呉の内部は結構動揺したはず。次から次へと寝返りが出ないように、周魴の寝返り作戦があったわけだ。これで以後両方とも寝返りに対して慎重になるから。うまい策だと思うが、結局辺境の独立を保つだけという状況に変わりはない。

 p168、曹操董卓挙兵時に予州刺史黄琬に殺されかかったとある。このころ確か長安にいなかったっけか?任に就いたのか?

 p172、天下に尊重すべきもの三つ―道徳・爵位・年齢。

 p174、司馬が大司馬につくというネーミングの悪さが問題にされて、避けられた。まあ、司馬こそが王莽の誇示を連想させるからなあ。んで太傅に。太尉を失うことに意義がある。明帝の宮殿公共事業に、曹爽の出兵は同一線上にあると見ていい。曹爽の出兵で関右が疲弊したというのがうそ臭いなぁ。

 p175、何晏以後曹爽VS司馬懿司隷校尉・河南尹・尚書とすべて曹爽が中央の権力を抑えてしまう。洛陽と野王の典農が管理している田を奪う。野王=?廷尉の盧毓を処罰、印綬没収。洛陽以外の全部の王のこと?司馬朗のところ見たら地名ですかね、野王。曹爽処罰の名目が反乱だから、おごり高ぶっていたと逆算して記したと考えられなくもない。本当に飲食物、乗物、衣服を天子のそれを真似たのか?と思う。注目すべきは先帝の女官を手に入れていること。楽団や女官を抑えて、それをコントロールしようとしていること。事実鄴にも送り込んでいる。しかしなんで鄴なんだろう?洛陽のそれじゃなくて、なんで洛陽?やっぱり鄴から初めて最後に洛陽に改革を及ぼそうとした表れか?

 よく考えるといくら司馬懿が権力を持っても彼がずっと三公のひとつを占めて権力を持ち続けるというのはおかしい。後漢でコロコロ三公変わったように、年いったものがずっと要職にあり続けるというのは正常なあり方ではないだろう。むしろ名誉職のポストにつくのは自然なことだった気がする。まあだからこそ曹爽のような皇族の権力強化は余計目に付いたのだろうけど。司馬懿に権力闘争を行う実力もないため病と称して出ない=政権内部に確固たる足がかりがないということか。

 p180、殿中・女人・黄門を抑えたということは、曹爽の狙いは廃后か?

 p185、張当が選んだ女人を曹爽に送ったとあるように、女性のやり取りは非常に重要。しかしこれをもって、クーデターをたくらんでいたというのはもう言いがかり以上の何ものでもない。

 p189、李勝=李休=張魯道教徒なんだろう。きっと。まあ宗教より人事的な主導権争い、思想上の違いのほうが大きいだろうけど。

 p190、文欽が淮南に帰還し、夏侯玄が征西将軍、次期軍権掌握者か。

 p192、桓範―沛郡で曹真の次に仕官。曹爽は先輩として尊敬。桓範は処刑されたが、曹爽の投降に反対した主簿は生かされている。主簿という役割について一考に値する例。

 p198、夏侯玄・何晏・司馬師は易でのつながりがあるところからして、この関係から曹爽が追放されるだけで済むと考えたところか。

 p200、夏侯尚の上庸撃破の話がわからない。前後関係が?になる。孟達降伏を受けてさらに攻め込んだということか?江陵攻めで曹真とともに諸葛瑾を破る。このときも疫病。漢水で呉と国境を接していた。西方七百里にわたって、山岳民・蛮民を数千家荊州に移住させる。

 p202、夏侯尚は文帝に、夏侯玄は明帝に嫌われるというか、個人的いさかいがある。これは何を意味するのか?

 夏侯玄の人事制度の提言。おそらく彼の言うことにこの時代の人事・行政制度の要点が整理されているのだろう。漢以来の郡県制を止めてしまえ。そういうことですね。一万戸を郡にということは、かなり小さな規模を行政単位にしてしまうわけで、豪族支配秩序の是認ということでしょうか?刺史などかなりの規模・中王国ができるわけで、五等爵における周時代のような諸国家乱立のような感じのシステムを想定していたということでしょうか。もちろん国ではないですけどね。どうでもいいですがp210例の身分に応じた制度、服装があるというやつがあります。

 そして曹爽派の最後の砦として李豊のクーデターが起こるわけなんですけども。わからないですよね。司馬懿なきあと、司馬師がどうしてこのクーデターを止められたか?かかわってきそうな鍾毓の関係もイマイチ見えませんし。馮翊がクーデターを起こさざるを得ない何かがあったんでしょうか?後宮を司馬一族として抑えていたから情報が筒抜けだったとしか思えないのですが、その理由は何でしょうか?鄴から軍隊を経て許昌に住み、文官に転進。キャリアが意味不明です。どうやって呉にまで名が鳴り響いたのか?んで、明帝に取り立てられると。清廉潔白で死後家に余財なしと。鄴で李といえば、李勝あたりを連想するが、まあ関係はないな。弟李翼の子が河南尹になってますし、そういうコネがあった、強固だったということですかね。

 で、今度は冀州の許允・王経が粛清されています。許允の子は晋でも出世していますし、司馬師亡き後の地位を脅かしかねないという危惧によるものでしょうかね?なんでクーデター騒動であたふたするかイマイチわからない。三輔あたり以外、山東なり沛あたりの諸勢力を叩きたい、そういうことなのでしょうか?曹操以来の影響力がありそうですからね

 

 p234、荀彧は董卓が乱のうちに命を落とすといっていますが、荀攸の行動とつながっていて報告でも受けていたのでしょうか?リカクシに頴川・陳留まであらされます。このとき守れなかった、董卓軍を迎え撃たなかったのはなんででしょうね?袁術に挟み撃ちされるからですかね?

 p239、洛陽の民が彭城に身を寄せる。さて、なぜこの彭城なのかチェックしなくてはなりません。

 p250、高幹と郭援って袁紹死後独立勢力になって袁一族から離れて関中に行こうとしたのか?黄河東部に入って、関右が激しく動揺した。んで鍾繇馬騰が討ったってなってるしなぁ。袁兄弟の分裂より、こちらの勢力が割れてしまったことの方が大きいのか?

 p251、冀州を軸に九州設置。これにより冀州の地が大きくなり、かつその他の州をコントロールすることになる。荀彧はそうすると関西の勢力が騒ぐから(自分たちの領地が削られると反抗するようになる)するべきではない、まず袁譚を討つべきだと主張。

 p257、董昭と荀彧が秘密に会談をしたのに、なぜその内容を史家が知っているのか?義兵を起こしたのは朝廷を救うため、忠誠・謙譲・徳義でそんなことをすべきでないという。前回は関中の勢力が領土を削られると不安になる=帰属させるのが難しくなるから止めろといったのと全然理由が変わっている。河北平定・洛陽復興・劉表征伐の三つが条件だったわけで、殆ど達成されたからうなずいてしかるべき。これは荀彧の方のロジックにおかしいと感じざるを得ない。だからこそ、天下一統は短期間では無理だと検分させるために、荀彧に孫呉を自分の眼で見せようとしたとするほうが理にかなっている。ま、まだいろいろ荀彧抹殺、自殺追い込まれ説を否定する理由はあるけどもったいぶって出し惜しみしておきましょう。

 p259、荀彧が曹魏政権の中心となる人物・名士を招聘した。当然頴川荀氏は晋政権にもその地位を確固たるものにするわけで、その頴川荀氏の正当性のために荀彧伝は誇張されている。誇張というか構成から非難されないように修正される。献帝春秋にみえる伏皇后を守ろうとして自殺説などその際たるものであろう。大体p262みればわかるように荀彧の子荀惲が曹植を選んで、夏侯尚とも折り合いが悪くて重用されなかったとはいえ、それ以外の子さらには彼が若死にしたあとでも重用されているわけですからね。自殺に追い込んだなんてありえないでしょう。

 p270、袁術が支持する王徳弥、そして否定して殺してやる!とまで憤る何顒。やはり袁紹が中心となる奔走の友といった政治グループと袁術の政治グループが違ったのは明白。南陽の宗承に説得されて、味方に。大先輩を尊敬しない=故郷の汝南秩序が変わっていることを意味する。袁術はその秩序維持の保守派で、袁紹は積極的に改革を是認する改革派だろう。許と並んで権勢をきかせることを非難しているからやはり新興階級・豪族なのだろう。

 p319、田疇の鄴に移住しても封爵を受けず、高位を辞退。郷里集団を安定させて半隠遁。

 p300、戦勝による略奪が当然だとわかる事例。p328、審配財産五桁。p333、管彦というのがでてくるが、管承と何か関係があるのか?安丘p336、例の郭皇后の郭憲。p343、銭を木に引っ掛けて神樹という迷信が発生する。p360、孫晧などの名前の晧は四晧からか。p363、動乱の時代だから、氏族をかえる例が後を絶たなかった。p372、焦先・寒貧など、学を納めながら世を捨てる人間の話。インドのように尊敬される例。

まあいわゆるこの列伝は無罪の人が処刑されてしまったよ、みんな立派だったのに…というやつ。丁儀兄弟と対立した人間が主ですかね?

 p388、崔琰の学びは23から。ずいぶん遅い。珍しい。鄭玄が学問が出来ないと解散を表明して、彼は寿春まで四年かけてわたる。劉備みたいに全国を見たわけだ。彼は袁紹への諫言、士卒は乱暴で墳墓を荒らしている。軍、黎陽・延津がここに記載されている。

 p415、何夔安帝時代の車騎将軍の系統。袁術の下にいたが対曹操との蔪陽戦でその郡説得を命じられて出奔。袁術の縁戚であるために罰せられず。袁術の謀臣李業、彼がブレーンか?有名な誰かの子孫か?

 p417、曹操は職務で掾属を杖でたたいた。何夔が長広の太守に。劉備離反以後は治まらなくなる。陳羣や何夔などの名士を起用。袁譚が長広の管承三千余軒を引き込み、何夔が校尉として懐柔。牟平の賊は張遼と討ち、東牟の三千余軒を計略で離散。十ヶ月で治まった。管承に対する取り扱いの甘さが際立つ。

 p420、太祖は楽安・済南で暴れている海賊郭祖退治を何夔に。

 p426、庶子をもって嫡子にかえることへの非難。これは曹丕曹植のケース。

 p427、鮑信は漢の司隷校尉の家柄、このため出世できなかった?珍しい本籍地変え。上党から泰山に。歩兵二万、騎兵七百、輜重五千。

 p436、特進という位階を曹洪は与えられていたらしいが、その官位はいったいどういう特権があったのだろう?曹洪の乳母の当が内親王の侍女とともに無間(さんずい)山の神に仕え、卞皇太后が宣旨を下して処刑を止めさせようとしたが、司馬芝はそのまま実行。曹丕はそれを是とする。曹丕とその宗教戦争を象徴する事件だろう。曹洪処分は間違いなくこの一件が絡んでいる。p438、商業は倍以上の価値を生んでいるが、天下を同一の支配下に置くためにそれでも農業を重視すべき。格差の議論ですね。p439、いわく司馬芝は歴代最高の河南尹。子の岐が曹爽派の鄧颺と対立しているわけですね。やはり河南をめぐるあれなんでしょうかね?曹丕曹叡と来て曹爽の政治はどちらかの先祖がえり的な性質があると思ったらそうでもないのか。うーん曹操から、曹丕曹叡と流れて曹爽政治はどういう位置づけにあるのか整理できないな…。政治の流れが出来ない(巻三見たら少し理解できたけどまだ?の段階)。Wikiに董昭の縁者も裁いたってあるな?別伝記載かな?

 p445、鍾繇にしろ、荀彧にしろ頴川閥は代々知られた人物とはいえない。ならば流れてきた著名な学識がある人物が落ち着くところとしてあったのという可能性はないのか?洛陽にも近いし。自由な研究をするために都からちょっと離れた場所として選ばれたという気がするんだが…?この流れが劉表荊州に受け継がれたとするなら非常に理にかなっていて、スッキリするんだけどなぁ。

 p446、曹操鍾繇を通じて長安のリカクシと連絡を取った。つまり献帝使者を出して長安政権を支持したわけだ。これってかなり袁紹の機嫌を損ねたはず。関東に独自の天子を立てようとしていたくらいだし。これについて袁紹はどういう態度をとったのだろうか?部下曹操長安使者を出すことは絶対認められない行為のはずなんだが?頴川責められた時の、勘弁して下さいよ~的なことだとして袁紹も仕方ないと見たのか?

 p449、侍中&司隷校尉で持節、西方を全面的に委任される。馬騰に韓約が争っているのを調停して、天子に入朝させる。この時点で袁紹側に組しなかったのが?だな。やはり天子に従っておけば、袁紹が勝ったとしても言い逃れが利くからだろう。どっちが勝つにしても勢力を温存しといて、そこから交渉した方が良いとか何とか、言いくるめたんだろうな。曹操が勝ったんだから、この次点で結構交渉は有利なはず。前漢のようにこの地域は降伏して結構それなりに扱われることはわかりきっている。息子に裏切られた馬騰は本当に涙目だな(笑)。

 p450、馬騰は初めは袁尚につこうとしたが、フカンの説得で曹操側に。つまりこのときの高幹・郭援撃破はかなりの功績になるわけだ。ますますもって馬超の裏切りがげせぬなぁ。

 p455、そういえば鍾繇も太傅になっているんだなぁ。初代太傅は鍾繇か。

 p467、洛陽の宮殿の建設に加え、許への行幸。それを民への負担だと諫言している。

 p468、鍾毓は曹爽の遠征に反対。彼の建議で父や君主の死後その誹謗を取り締まる権利を認めたり、士が候に取り立てられるとき嫁を変えるのを止めさせた。つまりそれまではやっていたということ。身分制国家であるならば、やはりそれにふさわしい家柄と結婚しなおすべき。それが行われなくなるということは、もはやそういう大昇進がなくなったということか。

 p471、華歆孫策陣営にいるとき賓客・友人は千余人。

 p483、例の陶謙=趙昱=王郎のあれ。

 p497、また宮殿建築によって民が苦しむというロジックが出てくる。ここでたまたま陵墓に立ち寄ったという話が出てくるから思いついたのだが、墓を作るのははっきり言ってそこに人が住めないから、無意味といえば無意味。ピラミッドの公共事業効果はあるけども。しかし宮殿ならそこに人が住むから意味がある。墓は宗教的建築物、宮殿は政治的建築物。なるほど、このような順番で社会における建築はステップアップしていく。良く考えなくても至極当然の現象なわけだ。とすると曹丕の墓作り禁止はこれを念頭においていたのだろうか?

 p511、淮南の反乱、家族がまだ内州にいる。それを抑えるだけで、関羽軍のように自然瓦解する。王朗の一族から司馬炎が生まれているわけで結局、彼も司馬懿一派の貴族ネットワークの一員。

 p514、大学復活は220以後か。曹操は太学を復活させるつもりはなかったのだろうか?太和・青龍年間は内外に事件が多く、労役逃れから大学に行くものが多かった。よってあまり学問が盛んになったとはいえなかった。

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