てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

【三国志ノート】 三国志巻3から抜書き 前編

いつまでたっても修正とか見直しとかで全く終わらなかった。気づいたら40000字オーバーで三分割になるとは…。なんなんでしょうね(笑)。何の意味があるかわからないけどもとりあえず書いておきます。

【前編】

第十四 いわゆる謀臣・腹心・参謀の伝。

 p36、董昭について、鉅鹿郡・魏郡の統治に当たり、見事に治める。豪族を袁紹の命令をたてに切り殺している。弟が張邈の下にいて、不仲になって、讒言で袁紹は董昭を処罰しようとした。弟と通じるという可能性はあっても処罰まで幾野がわからない。その逆もまた然りなのだから。張邈を選ぶという明確な理由が何かあるのか?家族が向こうにいるのか?本国が済陰、兗州だしなぁ。

 p37、そして董昭は明確に袁曹対決をみてとり、太祖と献帝を結びつける仲介役となる。楊奉の兵馬が最強!?単なる表現?そんなに強い軍隊か?

 p39、董昭が単身城にはいって説得しているけど、張遼にこらっ!て怒ってなかったっけ?軍人と文官じゃ違うのか?魏郡太守として顔良攻めにあたる。魏郡太守袁春卿の親、元長を使って親御さんの元に返ってきなさいと調略。袁一族少ないな~と思ったら、やっぱりこういう人がいたんだな。顔良斬った後いったん鄴城まで攻め込んだのか?この文章を見るとそういう風に読めるが…?冀州牧→徐州牧ってこれあってるんだっけか?イマイチ信用できないからなぁ…。

 p41、烏桓・蹋頓戦のときに食糧輸送のために運河を掘っている。平虜・泉州の二運河を海に。へぇ~、海から輸送って初めてか?ダイナミック輸送、これ絶対画的においしいと思うのだが、何で作品とかで取り上げないんだろ?聞いたことないな。おそらくこの運河ルートが後の海賊につながっていくと予想。

 p42、董昭の五等爵の提言。晋に始まるというよりはもうこの時点で原型があった。董昭の魏公・魏王は後の五等爵を念頭に置いたワンステップだったわけだ。

 p44、参謀の本領関羽の本拠を背後からつく作戦。あえて情報流して二者を争わせる。好判断ですね。さすがといっていいでしょう。

 p45、文帝時代になって、候爵もらうわけですが、件の弟にも候爵が与えられていますね。今まで気にしていなかったけれど功績で弟にもってケースは何回かありましたけど、やっぱり中国的な家の発展という点で大変栄誉になるのでしょうか。関内侯の百戸ですから、その代限りでなくなりそうなんですが。

222の曹休による長江渡河大作戦。ここで注目すべきは「臧覇が最早栄達して満足しているから望まない。彼が動かなければ曹休も自然と諦める」という指摘でしょね。これはいずれまとめたいんですが、戦争=経済・政治的要因が深く関わっていますから、現地の人間の雇用・公共事業となって戦争をせざるを得ないという当時の時代の意識を裏付けているまさにその表れでしょう。

で、これは夏侯尚の江陵攻めの連動作戦ですね。孫権が人質よこさない懲罰戦争だっけ?まあいいや。江陵後ちょっと、というときで、かつ長江渡河が出来るような気候だったらどうなったんでしょうか?疫病といい、曹魏ついてないですね。これも天の思し召しか…。董昭は中洲作戦を危険と戒めてますが、樊城のときの教訓からすれば当然取るべきではないと思うんですが?やろうと思うこと事態がかなり理解できませんが…。

 p47、んで、成都郷候に出世していますが、彼主導で蜀攻めでもするつもりだったんでしょうか?魏諷はともかく、曹偉って誰だっけ?彼らの明らかな反儒教的価値観を弾劾し、これにより鄧颺と諸葛誕が退けられる。ああそうか魏諷も曹爽・鄧颺も、んで反乱起こした鄧颺もつながるんだ。きっと曹植の丁兄弟もこれにつながるんだろうな~。うーんようやく、なんとか魏の政治史が一つのストーリーとして語ることが出来そうだ。丁氏の合流は曹植時代の政争への敗北からか?つまり結果的に合流したものなのか?それとも必然か?沛郷に基づく政策集団だからやっぱり必然という気がする。

 自分たちに近いものには高い名声を、そうでないものは蔑ずむというのは、徒党を組み仲間を作り、相互を褒め称えるというのは、党錮の禁の党派と一緒じゃないのか?こういう矛盾を指摘しないのが笑えるなぁ(^ ^;)。異彩を放っているのは薬を飲ませて従順にするという点かな?連想するのはアサシン集団ですよね。まあそれが比較社会学的にどう異なるかがポイントでしょう。享年は232年か?81まで生きるって凄いなぁ…最長記録は誰だっけ?

 p50、劉曄、この人も王佐の才という評価。蒼天で自分は皇族の端くれだから兵は持たないといって人にくれてやったという説明があったけど、それはちゃんとした兵じゃなくて寇掠集団だからでしょう?誤解を招く表現だなぁ。別に彼じゃなくてもそうすると思うけど。長江・淮河一帯という表現は頻出する。これが一つのポイントか。このころは劉勲。

 p52、劉曄・蒋済・胡質揚州の名士が一括して呼ばれる。ここらもポイントだな。漢中攻めから参謀役。蜀攻めをしないのは当然の判断として、孟達の配置転換はなんでしなかったんだろ?そうしておけば反乱の可能性もなかっただろうになぁ。この地の異民族とか何とか入り混じっていて彼の個人的紐帯なくして収められなかったとか?反魏諷ということは、劉曄とその対立派閥ということなのか?

 p57、224の呉攻めといい、孫権の降伏を受け入れたことといい、ことごとく裏目に出ている印象のある曹丕だが、彼の個人的判断のまずさではなくむしろそう判断をせざるを得なかった国内要因を見るべきだろう。本来ならあそこで呉を攻めていれば終わっていた可能性は確かに高い。ちょっとした将軍号や官位でなく王にするのもまたそうやって度量を示すのがなんか中国の常識にかなっていると見える。p59、陸議ってでてきたっけ?陸遜なんだけど、正史では陸議になる。

 p62、末子の劉陶が品行が劣ったとあるが、やはり曹爽一派に組することになる。これもおもしろいところであろう。

 蒋済、偽りの手紙で合肥の包囲を解かせる。p66、屯田のときは強制移住は良くないといってやらなかったのに、今回の淮南のケースは何でやったんでしょう?というかこれが成功しないのなら、袁紹のときも失敗するものだと思うんだけどなぁ。やっぱり税の負担が違うんだろうな。江南の方が安いんだろう。まあ、鄴とか魏建国・強化のための強制移住なんだろうけど。そこまで成果が少なかったとは思えないなぁ。多少は鄴に流れただろうし、全員が全員逃げられたとも思えない。このときの鄴に行ったものと南へ下ったもので一族内で分けた気がする。危機管理のために。こういう一族内での南北分裂がのちの南北朝の時の民間ネットワークとなって生かされているような気がするなぁ。

 p74、百人の子を生む女を選ぶべし、その他の余計な成年に達しないものを外に出すべし。成年に達しないものとはいわゆる皇后候補以外の人お付だったり、芸人だったりいろいろなものを含むとみるべきか。で彼の子孫も子爵。

 p82、劉放・孫資、いわゆる曹爽・司馬懿二人体制を確立した人間ですね。劉放は袁紹敗北後帰順で、孫資は太学・王允同郷とか珍しい。河東避難で賈逵のコネからか。遼東なり蜀・呉連携だったり、それを防いだ参謀ですね。

 p84、呉の防備を加え、蜀攻めは15・6万人の人手が必要。江陵における情勢、反乱で一万人殺害されたり、一ヶ月も豪族に囲まれている。しかし法令いいから、落ちることはない。つまり関羽政治がいかにまずかったかということになる。

 p86、辺境の将軍・司令官の満寵・徐邈のパイプ役か。

 p92、古い制度の変更と嘆息。代えるのは良くないという伝統主義の表れ。

 p94、んで二人ともやっぱり子爵と。

第十五いわゆる辺境統治に功のあった人たちの伝。曹操の司空とか丞相府からですんで、ワシが育てた!みたいになります。曹操より全員年下、いっこ下の世代か?

 p97、孫策任命の李述が刺史の厳象を殺してから梅乾とか雷緒とか陳蘭が暴れる。さっきの長江・淮河一帯を荒らす話。で、このケースでは数万人の仲間で。この厳象が曹操任命として、李述は袁紹の任命も受けていないのかしら?劉馥は袁術の将軍を降伏させているから袁術氏護勢力瓦解後の交渉を彼が持ったのだろう。やはり袁術が死ぬまで勢力・影響がかなり大きかったと見て間違いない。袁術がいなくなったなら、劉馥だろうということで、雷緒は従ったのだろう。

 p98、合肥の攻めで孫権10万と出てくるけどもそんなに陸戦できる兵士がいるのか?4,5万くらいだと思うのだが。

 p99、役務逃れのための太学に行く学生。貴族の子弟は平民と席を同じくするのを恥とする。もうすでに門閥体制・身分制が完成か?子の劉靖は南に北に、都督を任せられ辺境統治のエースの働き。で、候に。さらに子の弘は西晋末車騎将軍で開府まで。劉表みたいに一地方丸々統治するレベルまでに。これをみると世襲化現象を如実に表すといえる。劉家秘伝の丸秘統治方があるわけでもあるまいし。一地方ならともかく、北方までうまくやっているのがね。その土地でのタテでのコネじゃなかったら、なんだろう?階層化が進行した結果なのかな?司馬炎と同じ里に住んでいたってどういうことなんだろう?

どうでもいいけど、p102野王=地名ですね。p104、司馬朗は董卓の息子と同年齢。つまりこのとき董卓は60近い。50~60だろう、まぁキャリアから言っても。

 p104、関所で逃亡を取り締まっている。重刑でも無駄だと。董卓はおぬしの言うとおりだといっているからなんか取引したと見るべきでしょうか?家族を郷里に帰らせているというのは本来なら罰せられてしかるべきですよね。その後郷里に帰っていますからね~。彼らを説得するとか、郷里を味方に引き入れるとか言ったんでしょう。

 p105、黎陽に行くということですから、袁紹を頼ったことになるわけですね。このときやはり郷里の人、長老は従っていませんから、司馬もそこそこの家でも郷里のトップクラスというほどではなかったんでしょう。そして戦乱の結果ナンバーワンになったという形ですかね。んで一緒についていった張咨は太常、子も晋で驃騎将軍。なんだろう司馬家との関係の深さだけなのかな?曹操VS呂布のときに帰っているのは袁紹の命令か?それとも董卓死で郷里再建か、まぁ微妙なところ。当然曹操にあなた様こそ~なんていわない。どこ吹く風で郷里再建。なんでしょう今で言う震災復興に着手とダブりますね。んで、五等爵復活と、郡・県自衛制の主張。重要なのは狩猟による軍事訓練という点ですね。

 p109、梁習、南匈奴に逃げ込んだり、有力者同士の争いという状況を上手く調停。推挙とあるからまあ権限与えて取り込んだのだろう。曹操が司空で選抜して任命先々の乗氏・海西・下邳で功績を立てて、それを買われて并州へ。んでここが冀州魏国に併合されて、匈奴を鄴に入れたり、建国・禅譲ムード作り、権威付けに重要な役目を果たしたわけです。大司農になるまでですから、太出世じゃないでしょうか?建国の功臣としての評価でしょうね。侯爵です。あれ、これ五等爵制にそのまま引き継がれたとは限らないのかな?

 p110、斬ったのは四桁。降ったのは五桁。斬った数は3桁として、下った数も水増しなのかな?四桁なら別にたいしたことないだろうしなぁ。

 p112、同僚の王思が西曹令史で九卿、何かわからないのはなぜ?大臣クラスもあやふやなの?んで侯爵と。なんでしょう、曹操の個人的な官職から上がるときは西曹が出世ルートになっているんですかね?魏略では彼は非難されていますね。

 p115、人民が行政長官を誹謗する際許されない三つの言葉、降級・免職・死刑。

 p116、張既。河内の張晟に河東の衛固、弘農の張琰がこれに呼応。なんだろう県に食糧の準備をさせる一方で二千石=郡守を並ばせて馬騰を出迎えさせて出発せざるを得ない状況を作ったとあるけども。そういうイベントがお決まりなのか?だから郡守を抑えることで強制的に都入りせざるを得ない環境を作ったということなのかな?政治システムとしての行政の長、二千石は抑えたけども、軍隊は当然抑えられないから,その子飼いの軍隊が反乱に踏み切ったということですかね?それとも韓遂に従わざるを得なかったというか。馬騰がいたらまた別だったんでしょうけど、もう韓遂董卓みたいな存在になってますもんね。この地方のリーダーというか。

 p117、張既は漢中の人口を三輔・長安に移住させて充実させましょうと言っているが、曹操は河北へ移住させていますね。この微妙な違いが意外にポイントかと。水車の臼を作って、民生を安定させた。この地を知っていないとこういうことは出来ないわけで地理+工作技術というかそういうのが誰でもできるのかどうなんでしょ?

 p118、そして氐五万を移住させています。南安とかそこらの民を移住させなかったのはそこに民がいないと交通ルートが確保できないのでしょうね。んで、張既を引き立てた游殷に、対諸葛亮の北伐の最大の功績者である彼の息子游楚の話。純朴で彼の都会に出て栄誉を受けるシーンはほほえましいですね。西域四郡に、異民族の反乱に張既の大活躍。殆どこのあたりの統治は彼の功績ですね。侯爵。

 p123、河西大騒動の乱を、七千余騎を三千の伏兵と成公英の千騎で破る。

 p126、馬超鍾繇の命令で韓遂を討てといわれたといっています。これが本当なら曹操は彼らを許す気、共存する気などさらさらなかったということですか。まあ反乱に追い込まれたと見るべきなんですかね。二人ではなく、閻行を加えて三者の有力者とみるべきでしょうか。そりゃこんだけ分かれていれば統制は取れないわな。

 p127、羌とか丁とか一万騎、相当な規模ですがそれでも結局鎮圧されます。戦争を遂行する補給や統率力、背景の国家機構の不在ですね。そしてこのあたりの山岳地帯は完全には騎馬を活かしきれないということでしょう。もうちょっと規模が大きければ別なんでしょうけど。麴光は麴義の一族でしょうか?とすると袁紹が彼を処罰したのもうなずけます。

 p129、魏略に徐英という当時の家柄が優れた人物ともめて、後に和解しようとしたことが記されています。いくら出世しても超えられないところが当時の世を象徴しているのか、それとも張既流の統治術の上手さと見るべきか。下につけられなかった、屈服しなかったこの家はその後も地方の顔役として存続し続けたのでしょうか、気になるところですね。

 んで彼の息子が件の張緝ですね。中書って将来の皇后を輩出する可能性のある一族のものが就くんでしょうかね?んで彼の娘が皇后になって、彼が光録大夫・位特進(三公の次の待遇)。魏略だと温の令、騎都尉、尚書令で、全然違いますけどどういうこと?

 p131、温恢も5つの令とか相とかこなしてその実績を認められて主簿ですね。太原の人間だからか、子が早死にすると候爵は絶えていますね。探して引き継がせるべきだろと思いますがね。

 p134、賈逵は郭援から出てきますね。張琰を当て馬に使って、高幹にぶつけ、後曹操の下につくと高幹を叩きます。屯田都尉は郡守の管轄外なため、もめて足を叩き追っています。ここら辺は楊沛と同じですかね。都尉が数多く派遣され、曹操の権力に直轄していたんでしょう。水衡都尉なんて初めて出てきましたけど、なんだろうこれ?水利官吏?

 p138、賈逵には悪気がない。派閥とか利害だったら、曹操も処分したけどそうじゃないから気に入ったんでしょうね。典農校尉ともめるとか、もめまくりですね(笑)。本名を後から改めた、このキという字にはどういう意味があるのか?んでこぶの手術をしたいという上申をしていますが、手術に上の許可が要るというのはどういうことなのでしょうか?不思議ですね。

 曹操の葬儀を取り仕切った。これ超重要。青州兵を処罰しろという意見がある中で、この機会に彼らをいたわるべきだという文、原文なんだろ?つまりこれまでいい処置・待遇ではなかったと思われる。曹操青州兵契約論・説はやはり無理がある。

 p139、黎陽の渡で列を乱したものを斬っているけど、列が乱れるってそもそもどういうことなんだろう?そんなに重大な違反なのか?鄴の令に、豫州刺史。相当曹操から重んじられていたんだろうな。

 p142、曹休の敗戦をまあいろいろ言うんだけども、どうだろうなぁ?賈逵が後の晋の外戚だし、魏を落として晋を上げるために脚色している感が否めないと思うなぁ。節を与えないから仲が悪いとか、そりゃ曹氏・夏侯氏都督があるんだから、おいそれと節与えて独自の権限はま与えないだけだしょ。

 p148、李孚、石井先生が触れていた都督の考察で出てきた人。エピソードからしてかなり優秀なのだろう。袁尚袁譚の主簿で、袁譚死後の平原の動揺を収めるために曹操と交渉。後司隷校尉にまで出世。珍しい改姓の例。元は馮だった。

 楊沛、公府の令史ってなんだろう?曹操がまだ司空じゃないから、その府でもないだろうし、三公関係の属官?よくわかんないや。p149、んで豆を備蓄したり、天子を迎えにいく曹操に桑の実を提供してほめられたり、三国時代の良三ですね(笑)。曹洪食客が税を納めないから足を叩き追っていますね。なんか曹洪はゼニゲバみたいなイメージがありますね。戦乱の危機に乗じて土地ころがしでもやってるんでしょうか?

彼も鄴の令。そんなに鄴は統治に大変だったのでしょうか?揉めたとか、治まらないとかそういう記述を何度か目にしましたが。新移住民だったり、新しい政治制度だったり、そういうので混乱したのでしょうか?段階的に既得権削りそうですから、そのたびにもめたんでしょうねきっと。赴任する前から曹洪そして劉勲が気をつけろよ!といっていますから単純にそこに権勢があっただけではなく、商業上の要地として機能していたということでしょうかね。劉勲がそういう人物だというのはなんか重要になりそうなにおいがします。

 宦官と命令書があるかないかで押し問答、果てにぼこぼこにしようとして、曹操の下に泣きつくという話があります。もちろん無罪放免なんですが、なんで宦官がいるの?朝廷の重要儀礼かなんかあるんでしょうか?川渡って西に行くというのがなんか儀式が必要な感じもするし。渡河でどうして逃げないといえるのだ!と楊沛が言ってますが、渡河のような手間のかかる作戦では逃亡兵が多いためなんでしょうかね?さっきの列乱しただけで斬った例とか。だからこそこの軍事作戦で彼のような人間が必要になったのでしょうか?だったら同じように長江の時も逃亡兵とかあった気がするんですけどどうなんでしょ?長江での失敗から今回の規律重視という流れかな?

 p150.興味深いのは黄初年間、儒学の素養によって人事が進められ、事務能力の彼ははじかれて議郎で暇つぶし。京兆尹を経験し、そののち九卿のどれかにもならないのは非常に意外な感があると思う。爵もないし。これこそが曹爽的な浮華、実力を重視する人事を求める集団なのではないか?

この伝なんだろう?ちょっと落ちるけど記す必要ある文官?

 任峻、屯田の功労者。曹操を選んで基準。中郎将ってことはその程度の規模の軍団を持っていたということか。同じく棗祗、彼は呂布のときに東阿を守る。頴川の人間だったのが良かったのかな。良く考えるとそのとき味方についてくれた兗州の人間は程昱だけか?二人とも候に。彼も改姓。おもしろい、棘が棗になっている。食料作るぞ!ってことですかね。名士なら姓変えたりしないでしょうし、新興豪族でしょうか?

 p157、蘇則―学問と品行、平民・孝廉・茂才、平民で茂才?

 p159、張液・酒泉・武威の三種族が麹演に呼応。武威太守毌丘興。毌丘倹の一族かな?まあそんなに目にしない姓だし。豪族全てが呼応とか凄い規模ですね。p160、助けに来たっていってるのに、思いっきり麹演切り殺してますけどね。まあ、前科あるし仕方ないですかね。董昭にワシのひざはおべんちゃらのためにあるんではない!とか怒ってますが、その後の禅譲で泣いた云々の話からすると、漢魏革命に反対だったのでしょうか?

 p161、侍中は身の回りの世話をするから、便器係と揶揄される。虎子=便器か。

 p162、蘇則の子孫は晋で出世しているなぁ。そこまで凄いキャリアか?やっぱり学問が重要なのか。

 p164、杜畿―河東の人。三輔荒れたとき、荊州に避難。官渡以後すなわち袁紹死後帰順。河東の衛固と范先が謀反。張晟が劉表とつながっている。トキと聞いて北斗の拳を連想してしまうのは己だけか(笑)?

 p168、統治をべた褒めされているが全て儒教的基準。それがうそとは思わないが、儒教的価値観の称揚に、彼の子孫が高官であることを考えると素直に受け取るわけにもいくまい。

 p169、河東で二十万石とか凄いなぁ。いったいどうやったんだろう?曹操に可愛がられた劉勲。彼から大きな棗を要求されたのを断る。棗?なぜ?

 p170、『魏略』にいう寡婦を送る命令書。杜畿はそのとおりだったが、趙儼は生きた夫がいるものまで送っている。帝も側近も青ざめたというが、なんで文帝が?趙儼だけが青ざめ、処罰されるとかならわかるけど、一枚噛んでいるのか?兵士に嫁のなり手がいないと合ったように女不足だっただろうしなぁ。

 p171、李豊と親交があった。もちろん子の杜恕にも。このあたりが社預が慎重な政治的スタンスを取ったわけなんでしょうか?

 p174、例の全体の人口は過去の一州程度しかないという話。冀州が桑・棗で国家の倉となるべき土地といっているけど田が主なのはもちろんだけど、桑や棗ってそんなに重要なのかな。趣旨は軍事より農業に力を入れろ!ってこと。牛が二割死ぬなんてことそう頻繁にあるのかな?ものすごい被害に思えるが。

 p182、杜恕の批判、司隷校尉と御史中丞が国のおきてにのっとって悪事を取り締まらない。さてどういうことなんだろうか?尚書郎廉昭という人物がそんなに重要なのだろうか?

 p185、司馬懿キチガイ染みた弟を招聘!まあ、物凄い弾劾。でもこのキチガイ染みた弟さん司馬通の子は、晋の革命に反対して従わなかった。おもしろい話ですね。んで幽州刺史、節持ってましたが鮮卑の有力者の子を切って上奏せずにいたため失脚と。

 p196、鄭渾。河南郡の人。お約束の「袁術が失敗すると思ったので」、QBKならぬESO、E(袁術が)S(失敗すると)O(思ったので)ですね。まあここら辺の人なら袁術派になるんでしょう。

 p200、鄭玄・邴原あと袁家とか楊家とか著名なスクールというか、学派ってあったっけ?

 p201、賊の七割を自分の利益にしていいという取引。婦女・財物を好きにしていいという話にそれを喜んだという例。女性=財という価値観に注意。

一族以外の功績を立てた軍人の伝。呂布とか袁紹とか諸勢力との戦いに注目しがちだけど重要なのは賊。何度も賊退治の話が出てくる。石井先生も書いてたけどね、これも勢力同士の戦争以上に三国時代を象徴する重要な話。というかここを見ないと今までなんでだろう?とか思われていた謎や隙間が埋まらない。個人的にそういう賊がいっぱい出てくるので重要な伝。

 p212、張遼は姓を改めた。聶壱の子孫ってどうなんだろう?かなりホンマかいな?と思わざるを得ないのだが。すくなくとも名の知れた一族であったのか。丁原何進董卓呂布。てっきり丁原の配下のときから呂布の下にいて成り行き上そうせざるを得なかったのかと思いきや。董卓帰順は別みたいだ。まあ呂布のススメもあったとは思うけど。呂布のころから魯を任されて、曹操治下でも派遣され平定。昌豨を東海で包囲し、降伏させ、黒山を降伏させる。賊征討というより、彼の立場・境遇が近いから調略に向いていたのだろう。騎馬も使えるし。

 p215、で件の梅成(梅乾の息子か、弟かなんか)・陳蘭がテイの居住地六県をもって反逆。梅成は一旦降ったが、再度陳蘭に合流。それを切伏せた成果によって仮節。重要なのはまず荊州が落ち着いていない、そこで派遣され対策に当たる彼の軍中で反乱が起こったこと。内部工作があったわけだ。んで、南方にテイの居住地が六県もあること。当然強制移住の結果だろうから、孤立させられており、彼らは不満に火がつきやすいはず。三人並んだ中で雷緒だけ遅いことを考えると、この時彼だけは従順に付き従った可能性もあるな。赤壁でやっぱり反逆しようと思ったわけだから。臧覇のところで陳蘭を孫権が救出しようとする下りがある。濡須口の戦いの近辺だろうから、これも赤壁の前、後かなんか時系列がようわからん。濡須口で孫権をうったことより、賊を完全に叩いて長江より火をつける内部要因を一掃したほうが大きいか、これでほぼ内から崩せる目はなくなったわけだから。

荊州当たりに異民族の居住地があるなら、夏侯商のときもそうだったけど、烏桓も鄴だけじゃなく、ここらに移住される可能性がある。その新移住政策が赤壁とかに関係いている可能性があると踏んでいるんだがどうだろう?

 p218、曹仁救出のときまず、徐晃次いで張遼を派遣するつもりだったようだ。ここで曹操張遼と摩陂で会っている。合肥のときの功を労ったというのが自然な見方なんだろうけど、それだけではなく、やはりこのとき呂布軍から帰順した兵の一部を粛清、もしくは反乱したのを叩いたのだろう。それを行ったのが性格だけの人、夏侯惇。彼だからさして警戒されなかった。んで呂布軍と関係の深い張遼に事情を説明したと見ると話は繋がる。まあでも関羽のところに呂布という同姓同名のやつがいたから、襄陽落とす前のゲリラ軍なんだろうな。素直に考えると。そいつが足止めをしている間に、関羽が城を落とす予定だったわけなんだろうけどね。

 合肥から居巣へ。九江から廬江へ進駐している。合肥で守るより、陸戦で叩くことができるそっちに前線を押し上げた。これで呉はこの方面にまったく手出しができなくなったのだろう。張遼に兄がいたんだな。候にとりあげられ、名前だけ出てくる。同じ車に乗せたり、母に特別待遇をしたり、彼にこの時点で最高の待遇を尽くす。やはり曹操が死ぬ前にいかにして次期体制を築くかということで苦心惨憺したのだろう。

 文帝になって、初めて合肥に戻した戦線を下げたのは万一の不慮の事態に備えた結果だろう。呉に対する備えであり、反乱起こしても合肥に立て籠もれないようにする一石二鳥の案だ。別に張遼が謀反を起こすクソ野郎とかいうことではなくて、一ミリの可能性も残さないようにする手をうったということ。

 本来于禁楽進よりキャリアが浅く、後に続くはずの彼が功績第一になっている。それぐらい呉を叩いて「最終戦争」を鎮めた功績が大きかったことを意味するだろう。まあ、勝手に漢中・関羽合肥戦争をまとめて「最終戦争」と呼んでいるけど。曹操が死ぬ時期に入って、三つの戦線での敗北は魏という国家を崩壊に追い込む重要な転換点だったといえる。もし曹操が死ぬときにこの戦争が続いていたら、間違いなく反乱が起こって漢魏革命は失敗していただろう。袁紹が死んだときのような情勢になる可能性があった。夏侯淵を討つ、漢中王宣言でこれからひっくり返すぞ!と西が動揺する。関羽がさらに北上してくる。しかも于禁楽進という曹操軍ナンバーワンツーの一人が捕虜になるという大敗北を予感させる危機。もし張遼が呉を完全に叩いておかなければ、江陵ではなく合肥をついただろう。だからこそ彼が最大限評価されたのだろう。

 p219、楽進は張超から。肝っ玉の人。肝っ玉って言うと肝っ玉母さんしか思い浮かばないな(笑)。千人集めても中郎将になれないんだな。どれくらいの規模なんだろう?五千くらいからなのかな?中郎将。

 p221、于禁はもう鮑信時代からの部下。一番キャリアがある。もし関羽戦でそこそこの働きをしていたら、間違いなく功績第一になっただろう。んで、例の青州兵略奪の話(p222)。

 p223、曹操が直接徐州に劉備を叩きに行くときは、袁紹の南下を最前線で食い止める役割を負かされる。信頼されていた証拠だろう。袁紹を破った後昌豨が再び帰順。旧友でも許さず処刑。曹操ならそりゃ強い方付くと割り切っているから助けていた可能性がある。このような友情にせよ、張遼の会談にせよ。彼らは賊とは言ってもそんなに彼ら曹操軍の軍人と変わらない。単なる寇掠集団のどうしようもないやつもいただろうけど、郷里秩序の担い手で仕方なく、あるいは良識ある任侠的な秩序の持ち主だったことがわかる。鄭玄の里だから侵すなといった話があるように。

 p225、軍隊なのに財を奪わない!特筆すべき存在。彼くらいだろう。元袁紹軍の朱霊が厳格な軍の制度、法を遵守する権化のような彼の下につくのは自然なことだったのだろう。しかし、曹操は当然反乱を警戒して朱霊から軍を取り上げている。

 面目なさと腹立ちで病気に罹りとか、どうしてそんなことがわかるのか?個人の内面を勝手に推量するのは史書の相変わらずの筆法だよなぁ…。

 p227、張郃も中郎将か。彼の降伏で袁紹軍が総崩れ?彼の場合は袁紹以後と曹操軍参加の時期がかなり遅いけども、その後の夏侯淵死後の西方情勢の中心となり、明帝時代までその中心にあったことが大きいのだろう。街亭の功で千戸加増して四千三百戸になっているけど、かなり多いな。それ以前で三千三百も与えるようなことの経緯が気になる。

冬の水位で船が出せないとあったけど、馬じゃなくて漢水で行くのが当たり前だったのか?ああ、そうか呉を討伐に南下したからか。別に彼を動かさずにそのまま追いとけば良いのに。諸葛亮が動いたくらいで戻すなら。陳倉の守備ってアレなんだろうな。合肥で本隊いない間でも守れるように同じシステムが適応されているんだろうな。本隊が駆けつけるまでは守りきれる仕組みってどんなんだろう?まあ、ちょっと頑張れば勝手に撤退するしね、食が続かないですかね。蜀だけに(笑)。

同郷の人間を博士に推薦したってどういう意味があるんだろう?コネ?

 p234、徐晃―河東出身で、関中戦の前に関係の深いそこをなだめる役目。210に太原で反乱かあったか。于禁ではなく彼が関羽戦で中心の役割を果たした。交流を広げて勢力を作ろうとしなかった。

 で、急におまけのように朱霊が出てくる。6番目といいたいのか?徐晃についで後将軍とあるし。いわゆる袁紹陣営から曹操軍に入るツンデレ宣言があって、他の将軍は帰還した、士卒は彼を慕って留まった。どれくらいの規模だったんだろう?三陣営のうちの一か?家族が殺されていたからこそ、曹操に気兼ねなく帰順できたのだろう。冀州統治が主で功績が認められたか?

独自勢力を率いていた者たちの伝か?第十五のあたりと考えてそんなにキャリアに差があると思えない。曹操に直に辟召されること、それがあくまで重要なのか?あとはもともと官職に就いていて文章行政に熟達していること。それがないとその後に官職世襲できないのかな?

p241、李典中郎将で鄴への移住を選択。これは李通じゃない、臧覇と同じ。独自勢力を持ち、鄴に移住する=曹操の新政権構築の絶対的な協力。

よく考えると、鄴は許についで二番目の革命の重要根拠地。その鄴と許をおとさねば晋の革命は成功しない。そのハードルをいったいどうやって乗り越えたのか?許→鄴→洛陽という三段階を踏んで革命をする。曹丕の魏王継承は革命・禅譲の重要なワンステップだったはず。洛陽遷都とあいまって中華回復を印象付けて、禅譲に導くんだから。まず魏王継承というステップで次が皇帝の座。最終戦争がもっと早くに終わっていたら、そして蜀・呉どちらかでも降さないと曹操の皇帝禅譲はなかっただろうな。それより高祖・光武帝のような都入りで終わるはずが、許も鄴も持たない洛陽をホームとするだけの晋に取って代わられた性質を考えないとな~。この時代の歴史を特徴付けるイベントだしね。

 p243、で楽進・李典・張遼は平素から仲がよくないというやつ。独自勢力を率いる李典に、騎馬軍率いる張遼に抜かれるんじゃねえの?と感じる楽進。そりゃ武官同士出世がたきですからね。仲良い分けない。李典が行け!という鶴の一声は、これで張遼に全権委任する2対1のパワーバランスになりますからね、サポート役としてグッドということなのでしょう。彼は文官になりたかったみたいですが、子供はその後を継げなかったみたいですね。書いていないということは。要職でなくともそこそこ太守クラスにはなれたんでしょうかね?でも二千石の子孫が書かれないってあるかな?それとも36という早すぎる死が後を引いたのか…。彼くらいの世代ならもうちょっと後まで活躍する存在として見込まれていたでしょうしね。この合肥の三人はみな同じような時期に消えていますね。やはり疫病でしょうかね?この早すぎる司令官の入れ替えがなければ曹丕の南征もまた違ったものになったのかもしれません。

 p244、李通―珍しい江夏出身、曹操軍では彼くらいだろう。長江から汝水のあいだ。で彼もまた法の遵守。族とか黄巾蹴散らして勢力を拡大させたわけだが、そこら辺の勢力なら孫策とか袁術とかにつくのが普通。それがいきなり曹操?なぜ?まあ出身がそこで活動が汝南とか予州よりだったんだろうけども。屯田制=支配権容認みたいなのがおおきいのかな?やはり。献帝屯田制→張繍への降伏と反乱そして曹操の敗北→袁術の称帝とよく考えたら素直すぎるほどの1つのストーリーになってつながるなぁ。屯田制=権益そのものだもんなぁ。そりゃ屯田だけでひとつの列伝立てる意味がありますわね。

 一族の都合より法を重んじた。現代人ならそんなの当たり前だろ、と思いがちだが、法・刑は士大夫に及ばず。都合によって捻じ曲げるのが常識。法教の曹操の特徴にぴたりとはまる人物。必ず規律ということが平天下の条件として史書に書かれるんだけども、ここで曹操袁紹ということになる。使者を切り殺してまで曹操絶対をアピールした彼。地元というか袁紹戦争との時は頴川・汝南あたりをめぐって争ったわけで、ここについて絶対袁紹と相容れない自由があったか。大軍・大勢力ゆえの袁紹の治安・統治が上手くいっていなかった何かがあったのか?曹操が鄴に入るとき散々ぱら、諸勢力と戦っていますし。まあ曹操だから逆らったともいえるんですが。そういう諸勢力を彼一代で抑えきれないと判断した故なのか?そういう李通のような勢力を大事にしない、きちんとした一律の基準がなかったことなのか?まあ、そこら辺が気になるところですよね。彼の対応は群を抜いていますから。袁紹勝っていたら即死ですからね。屯田制だけじゃあない気がするんですよね。だって征南将軍ですからね。劉表もまた声をかけたというのが地味にポイントですかね。袁紹ではなく劉表側に立っていたらと考えるとまた面白い。というか出身から考えて同じ江夏・荊州系統が多い劉表陣営に組するのは自然な流れですからね。