てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

【三国志ノート】 三国志巻3から抜書き 中編

【中編】

 p249、臧覇と文聘は非常に劉備に似ている。青州兵とか道教をテーマにする己にとって、臧覇は大好物です(笑)。めっちゃ長くなります。独立勢力であり、曹操との対応など、非常に興味深いところ。臧覇は任侠という点で似ており、文聘は劉表の爪牙。劉備が帰属せずに、彼は帰属した。もし臧覇が幽州出身で、劉備青州出身という逆の関係だったら、全く逆の関係になっていたかもしれない。

そもそも徐州は劉備でないと治まらないというのはこの任侠的な諸勢力の結果だろうし。彼自身が陶謙の黄巾退治に応じて徐州で兵を集めて後離反という流れ。呂布についたことは書いてあるが、劉備にどうしたかは書いていない。まあ中立かな?陳家もあるし、劉備の徐州支配は本当に名だけのかなり危うい状態だったんだろうな。南は陳家で、北はこういう臧覇みたいな勢力で。いくらあって気に入ったからって、青・徐二州を任せるなんて抜擢もいいところ。実際は徐州の北方だけだろう。

んでちょっと先の話になるが、この時点で青州兵を率いていることはありえない。彼自身が独自の兵を率いているし、そもそも曹操軍直下の青州兵とは帰属時期が異なる。さらに臧覇が黄巾と戦っていたのに、その黄巾側である青州兵と関係が良好であるとは考えづらい。いや臧覇が戦ったのは徐州の黄巾だといういいわけが成り立たないわけでもないし、この地方の顔役である臧覇と黄巾が繋がっていた可能性もあるだろうが、以上のことから考えて臧覇青州兵とまず関係がないと見ていい。もしあったならば、その後青州兵の略奪を咎めた于禁と関係が気まずくなったり深刻な派閥対立を巻き起こしたはず。

 ああそうか于禁臧覇は同じ泰山郡出身か。泰山=斉のイメージだから青州のイメージがあるんだけど兗州か。なんか無理やり兗州にしたような感じがあるのは気のせいか?んでその青州出身かと思っていたけど兗州出身の臧覇青州兵と関係あろうはずがない。青州兵で主に兗州が迷惑をこうむったはずですから、その代表的人物である于禁がこやつらを叩きのめすのは非常に自然な流れにありますね。臧洪は広陵郡ですからね。関係ないか。絶対関係あると思ったんだけどな~。臧覇と臧洪。

 何進は鮑信に泰山で募兵させ、河内太守王匡も泰山郡で集めた。泰山は任侠たちの中心だったんでしょうね。梁山泊じゃないけど駆け込み寺、食い詰め物が集まりやすいところだったんでしょう。商業・宗教の中心地だし。後山とか川という土地柄、工作兵という観点でも使い勝手の良い兵隊になることが考えられますね。歩兵としてオールマリティになりやすいという性質でもあったんでしょう。後は単純に身長でかいから。竜騎兵みたいな感じかな?

 袁紹戦争のときの最前線を担う。で、おそらく徐州の北方もまた彼らが占めていたから劉備を討つのはさほど難しくなかっただろう。劉備袁紹南下の時間稼ぎ程度にしか考えてはいなかっただろうし。

 李典と臧覇どちらが鄴移住先だったのだろう?臧覇はあちこちしているし、任侠丸出しだからあんまり一族=総兗州人という感じがしないからわかるんだけど、李典も山陽郡で同じく兗州。しかし彼の場合はこの人間が多いだろう。兗州の人間だから移住しやすいというわけでもあるまいしなぁ。他に鄴移住例があるとわかりやすいんだがな。この二人しか曹操に付き従った者はいないのか?軍人・武人が新王朝で確固たる地位を永続できないなら、こういう移住も選択肢として適切かな?

 反乱した徐と毛の二人を曹操にお願いして許してもらい、兗州の郡守レベルに。三つの州に渡っての影響力。劉備が本来こういう役割を果たすだろうなと思われても実際現地に根を張っている彼のほうが一歩も二歩もリードですね。彼がいなかったら劉備曹操政権下で働く余地が多少はあったかもしれません。

 p250、居巣を破ったのってこのときが初めてか?んで陳蘭を叩くと。孫権軍に救出をさせませんでしたと。張遼と一緒にこの方面の一司令官になるわけです。節を与えられました。呉は全く勝てていませんね。長江以北にあったところを全然守りきれないわけですね。もしこのとき孫呉を救助する友軍を関羽が出していたら…。歴史は違っていたでしょうね。何やってたんだよ…。いやまあ反乱とか賊狩りとか、蜀の漢水方面とかやってたというのはわかるけどもね。呉との関係を円滑に進める上で共同作戦の水軍なり、ゲリラ的に陸地から出兵したり、相手の補給つぶしとかいろいろあっただろうに。まして一時期大雨で張遼は引き返そうとしたとあるし、協力で張遼を退けることはそれほど難しくなかっただろう。

 で例の魏略の臧覇が私なら南を下して見せるといって、青州兵の暴動にかんでいたとされ、中央に償還。臧覇から軍権奪って曹休に与えたという話。だから臧覇青州兵のトップだったと『実録三国志』の于濤さんが言っていたけども、うーんどうだろうなぁ?これは違う気がする。青州兵と連動・連鎖反応することはあっても臧覇が主導することはないと思われる。賈逵伝にあった栄達した臧覇にその意思はない―とあったのと矛盾する。多少の影響力はあっても青州兵と臧覇は本来的には無関係でしょう。単純に軍隊内の強硬論を代弁して、わかった来年ねといった軍事上の話に過ぎない気がする。んで曹休にそれが任されただけ。巡行の折に軍権を取り上げたとしているけど、曹休について南征参加しているし、軍事機密も曹丕から相談されているじゃん。宗室軍事体制に移行しただけで臧覇の失脚はない。

 p254、文聘―遅れて帰順。曹純とともに劉備を追撃。なんで曹純なんだろ?彼がその地を知っているということもあるけど、降伏した人間を真っ先に先兵に使う=矢面に立たせるのが古代というか戦場の常ですなぁ。漢江を渡るまで降らなかったのは最後の最後の特攻だろうね。わたっている途中彼が一か八かで突っ込んだらどうなるかわからない。劉備がもし攻めてまとめることが出来たら(可能性は限りなく低いが)、文聘が裏から突いて挟み撃ちになったはず。彼にとって果たしてどちらがよかったかねぇ?

 で例の夏侯尚の江陵包囲作戦。夏口で敵を防ぎ、石陽で孫権に五万の兵・二十日の包囲を耐えて追撃し、打ち破る。数十年江夏にいたというから、そのキャリアの長さで評価されたのかな?

 p256、呂虔―任城、兗州の人。例のごとく賊退治。泰山太守で袁紹の中郎将の郭祖を手なづける。梁山泊状態のここに治安をもたらす。んで解散させて、泰山兵を再編。この時点で州郡の筆頭となったとある。つまり泰山兵>青州兵となるわけですね。袁紹の中郎将を降伏させているわけだから、袁紹との対立後か?賊に暗い上げただけの関係なら対立する前でもありそうだけど。で、済南の黄巾が荒らしにくるのを彼が叩いています。青州諸郡の兵を率いているから、泰山兵を独自で動かしていたわけではなさそうだ。中郎将でもないし。ということはやはり曹操軍の中核はかなり早い時期に補充された泰山兵がその主体だったであろう。青州諸軍の兵と青州兵もおそらく違うだろうし。一括して青州兵と表記されないから、黄巾となって流れたように流浪民だろうから。

 p257、泰山十数年で徐州刺史、琅邪の王祥を別駕にして民生を委ねる。まあこの時代の史料だから賢者に任せたことを賞賛されたというのは多少割り引く必要があるが、この王祥が初めて登場した貴族政治の萌芽かもしれない。気になるところ。刺史で民政も彼が担っていたか、臧覇とかは刺史でも多分民政はノータッチだろう。孫観とかも同じく節もって、刺史になっても同様。彼のほうが臧覇よりかなり重要な気がする。呂虔って何で日の目を見ていないんだろう?かなり重要な人物だと思うのだが。

 で王祥は母のために氷を肌で溶かして魚が現れるという孝の人。儒教的価値観そのまんまの人ですね。

 こっから許褚とか典韋とかなんかおかしくなる。身辺警護とかの人物を前五者と一緒にするべきかなぁ?その忠誠心の高さを称揚したいからまとめちゃった感じ?セットでおまとめ?お荷物おまとめしましょうか的感覚だなぁ?まとめるべきではないと思うんだけども。後の五人はないよう薄いから独立した伝にするとスカスカになるから一緒にしちゃった感じがあるな。

 p259、許褚と典韋は身辺警護ですね。しかしこれどっちが先なんだろ?汝南ってあるし、兗州呂布と戦争しているからやっぱり典韋が先かな?許褚は曹操と同郷ですからね。彼以上に信頼できる適任はいないわけで。とすると典韋と一時期被っていたんでしょうかね?身辺警護役は?張繡との戦争で典韋が護衛していますから、外ではキャリアが深い典韋が、内ではマダ浅いけど将来ずっと身辺敬語をやることになる許褚とか?役割分担をしていたのでしょうか?許褚が登場して、これから典韋はますます独立して活動することが出来ると飛躍のときを迎えた時点での死と見たほうがいいのかもしれませんね。それとも許褚に留守を任せる=家族専用の特別身辺警護だったかもしれません。まあどうでもいいといえば、どうでもいい話ですが、ちょっと気になったので書いてみました。

 p261、曹仁と個人的付き合いをしない=個人的(家の)栄達を考えない曹操オンリーの忠誠心。子が爵位を継いで黄帝世襲の身辺警護になって司馬懿クーデターのときに討ち死にしていたら完璧なんですが、その様相はないですね。郷里関係で身辺警護を特別に世襲してもいいと思うのですが、なんでやらなかったんでしょうね?

 p262、典韋史記の刺客列伝びっくりの刺客ですね。司馬の趙寵の部下とありますけど、誰だこいつ?後漢書でなんかいたっけ?ああそうだ大司馬、三公と間違えちゃった。ただの張邈の配下の一武将か。そこで夏侯惇に変わっている。なんで張邈から曹操に代わったのだろうか?やっぱりスカウトかな?曹操軍なら戦争チャンスが大きそうだけど、張邈はそうでもないし。年齢的に若い曹操軍での出世チャンスにかけたと見るのが自然かな。張繡は十日で背いたとあるけど、曹操は十日も宛で何やってたんだろ?戦死した場所を通るたび、牛と豚の生贄をささげた。で子の典満をかわがって司馬=身近なポストにおいたわけですね。

 p265、龐悳―郭援切って中郎将に任命されていますが、これは馬騰馬超の扶風郡の軍隊とはべつに独自の軍を率いていたということかな?南安の人だし。ついでに郭援・高幹って袁尚じゃなくて袁譚なんですね。彼らは袁譚派なのかな?なんでだろ?

p267、あれ家族は全滅しているのか?鄴にでもいれば裏切るはずないと思うが。龐悳の場合は一族がいるということもあって、蜀に降伏すれば返してもらえないから降伏しないというのはわかる。しかしその軍隊は別に降伏しても于禁同様の扱いになっただろうし、降伏して相手の補給・食を圧迫することは非常に役に立った。龐悳の命を捨ててもという忠誠心は賞賛に値するんだろうけども、実際のところどれくらいの意味があったというと?かなり疑問。むしろ犬死に近いのではないだろうか?まあ、死して虜囚の辱めを受けずで、彼の戦死が士気を挙げて全軍奮い立たせた可能性も大きい、それを無視することは出来ない。事実曹操の「最終戦争」はかなり危機的状況にもあったしね。

 p268、龐淯―酒泉郡の人で張奐の息子といざこざがある。この地を理解する話なんだろう。単独で読んでも無意味なので飛ばす。閻温―天水郡の人。この人も同じ。

第十九曹操の諸子の伝

 p287、曹彰の将軍・指揮官になる発言に対して曹操は快く思ってはいるけど、武人を匹夫のすることといっている。文官>武官の価値観が曹操にもある。まあ殆ど乱世平定の目処が立ったからともいえるが、曹植ぐらいがちょうどいいのかな?文治の時代が始まる世代として。任城に封じられたことはどれくらい意味があるんだろうな?なんか泰山の周りって王国でぐるって固められているなぁ。これはやっぱり泰山周辺を囲む意図からなのか?

 p290、一万戸、221公に。222王に。223死去。死後一年間国替え、子の楷が継ぎ232任城国に。235中尚方に違反を咎められて削られる。正元・景元に加増。

 p292、211平原候→214臨輜候、呉の南征のとき鄴の守備につく。魏国の範囲だから関係ないにしても、やはり臨輜という要地を考えるとその意味は大きい気がする。これがしかりできていて、南征が成功すれば、曹植に!という面があった可能性は大きい。

 同、曹植が太子となりかけたことがあった。節度がない曹植に対し、節度ある曹丕。これが決め手か。飲酒・感情が記述されている。儒教的価値観そのまま引きずる曹丕に対し、新文学的価値観を持ち込もうとした曹植。側近はともかく宮女が曹丕を支持したというのが気になるな。どうして後宮が曹丕支持なのか?曹丕じゃなかったらパワーバランスが変わるのか?同じ卞だし関係ないよなぁ?うーん。

217に太子・曹丕が決定して、加増され一万戸。さらにそこからわざと逆転の芽を潰すために酔っ払って、曹仁救援を取り消してもらうように示したフシがある。南中郎将=独立した軍を率いる危険性を考慮したのだろうか?罰されやすいように天子専用道路を通った感がある。これで魏の安定が確立されるのだから。以後曹操は警戒して諸侯を一緒に引き連れていかなければならなくなった。

 あんまり関係ないけど建安七子の文人を南征に同行したのは文化的価値観で揺さぶるためか。今で言うと優れた論文ちらつかせて、ほら、これがないと研究できないだろ?と学者魂に訴えて引き抜こうとするものか。結構ボディーブローのように効いたんじゃないだろうか?彼らが確か疫病で早死にしていると思ったが、疫病で早死にしていなかったらどうなっただろう?結構呉は揺さぶられたかもしれないな。

 p301、曹植の楊修に対する、曹丕の呉質。

 p302、楊修の子は楊家だし、その後も名前が残ってますね。彼の孫が晋時代の冀州刺史か。曹植を太子にするとしたら楊家との路線が絡んでくるわけですね。最終的に処刑されることになるわけですが。崔浩は曹丕だ!と明確に自己主張をしましたけど、楊彪はどうだったのでしょう?219魏王継承前の楊修の処刑。

 丁兄弟も処刑されて、一族の男性皆殺しになっているなぁ。あれ?曹爽の丁謐?はこの丁氏じゃないのか?丁斐の子なんだけどなぁ。丁兄弟に限ってという意味で一族の男性皆殺しか?なんか若いイメージあるからそんなにいない感じがあるんだが、若くもないのか?そういえば金に汚い丁斐というのがなんか曹洪との関係を思わせるなぁ。

 p304、221鄄城候二千五百戸に格下げ、222王に戻す。→223雍丘王(p306)→225曹丕が巡行の際に立ち寄って五百戸加増→227浚儀へ国替え→228雍丘に戻る(p312)。このときは曹丕死後の警戒のための国替えかな?

p321、→229東阿国替え→231親戚に会いたいと上奏。で、結局同年陳王で三千五百戸(p326)

 p323、例の身分=服装の事例。

 p328、呉がハマグリ、蜀がムササビ、このたとえは何でだろ?単純に海と山?

 p332、若者を徴発する。これなんだろ?そういえば漢は王国から絞る方針だったが、魏の報告についての方針はどうだったんだろう?最初から藩屏という名の絞りとる王国の必要がなかったから、諸国の王を設けなかったのだろうか?漢と魏と晋の王国方針の違いが知りたいな。

 p336、曹丕の属官は商人かそれ以下の劣等のもの。兵士は老残200人更にことあるごとに減らされた。つまり要警戒人物としてマークされた。しかも曹丕死後にまで。

 p337、曹植は232年、41歳で死んでいるけども、散々私を使ってくれと説いている。曹真・曹休の下でもいい、家臣扱いで。詩の悲運のプリンスとしてみるだけでは不十分で彼の人事提言は曹植一派の復権運動であるだろう。罪状書・大臣以下の非難した議論を処分しろといっている。んで文章を編纂しなおせと。つまりそれまで曹植に対して非難ごうごうだったわけですね。彼の起用が一大人事になりえた。曹丕が消えて彼が皇帝はないにしても、明帝の輔弼の臣はありえたわけですからね。曹丕が在位六年(226)で死んでいる。232年まで曹植は生きていますから、この六年の期間、魏の内部ではとうとう曹植の出番か!という曹植待望論みたいなのが存在していたのでしょう。曹丕死後に国替とか、過酷な対応をさせる必要はないはずですからね。曹植イジメは曹丕の思惑だけではないはずです。んでこの三年後に曹叡は亡くなってますしね。この曹植派が明帝後に、曹爽に繋がったということでしょう。すなわち政権交代だったはずですね。曹爽政権の登場とは。

 p338、三国志のロジックでは魏が滅んで、晋になったことを正当化しなくてはなりませんから、その正当化の根拠として曹丕VS曹植の親族対立。さらに五等爵を採用しなかったことを挙げています。古の善政である五等爵に家族重視の儒教倫理ですね。まあこじつけ以外の何者でもありませんけどね。

 また曹志の話が出てくる。学問・品行・才能○。鄴に常道郷公を迎えに行く。斉王司馬攸を曹植と重ね合わせたか、革命に協力はしても彼の追放待遇は賛同しなかった。親族を遠くに出すなと言って免職される。

 p344、曹昂の国も正元・景元に加増。周辺諸侯・王には加増でえさを与えて革命のステップにしたんでしょうね、きっと。

 同、曹沖の字は倉舒で、曹宇の字は彭祖。曹昂からのメインの三人以外で字が残っているのはこの二人だけ。字が残るということはそれだけ重要な人物であるという証なのか?

 p346、曹沖のエピソードで曹操曹丕にいなくなってよかったね。いたら跡継ぎにしたからね!とか嫌味を言ったといいますけどありえないでしょう。曹丕太子を変えなかったのは当時の曹操の体調を考慮してですし、早期の蜀・呉崩壊もない。そんななか曹植をさしおいて彼なんてことはまずない。大体年が若すぎる。曹植にすることはありえても曹沖

 しかしこの曹沖は面白いエピソード・可能性をもたらしている。彼の性格がいい子で、機智があるから、後継者候補になったわけではなく、幼子で民事・民政安定を重んじた政治方針を採る二代目として可能性があった。または重罰→恩愛型の政治でもいいや。皇帝が幼帝であっても政治は動く=国家としてのシステムの完成度の高さを表す。赤壁で負けていなかったら=統一されていたら、曹丕が途中で死んでいたら、彼の可能性もあっただろう。まあ晋の恵帝のような役割を担わされていた可能性が高いですね。いわゆる和番制・集団合議体制のリーダーとして、象徴としての君主になったでしょうね。郭嘉と並んで残念無念の皇子ですね。まあ結局そんなことはなかったので生きていても別に活躍の場はなかったでしょうしね。

 同、中尚方で天子用の器を作ったという罰で237曹沖の息子曹琮が罰せられていますね。これはもう一人この年同じ理由で罰せられていますから、この器を作ったな!貴様!(聞いたな!コイツ!の口調で)というのは諸国の王を罰する口実だった可能性があるのか。漢代など全てに共通する原則かどうか気になるところ。曹爽かな?そういう口実で罰せられていたしね。曹沖の息子曹琮は王位を追贈されたり国替えされたり、公になったり器事件で削られて、また候になったり、えらいコロコロしているなぁ。曹植の比じゃないですね。同じく景初・正元・景元に加増。一つ加増年代が早いですね。

 容・貌・姿が優れていると記されていますね。袁紹でいうところの袁尚ですね。

p348、曹拠―211候→217国替え→221公→222王&国替え。曹拠は環夫人の出身が彭城であるということで彭城王。曹丕は義陽が南方の湿地帯であることを理由に、そして同上の理由で彭城に国替え、さらに済陰に国替え。224の詔勅で一族王侯の所領を一斉に削る宣言をしている。財政事情がさらに厳しかったのだろう。諸王は県王にすると。曹拠も県レベルの王になる。→232再び彭城を与えられる。しかし237例の中尚方で二千戸削られる。239元に戻されて正元・景元に加増。

 魏書にある注釈を読めば、中尚方の件は普段から儒教的価値観にそったいいやつなのに、こんな過ちを犯しおって!というイメージがある。んで239に削った分を元に度しているということは、その後の行動によって許されたということ。まあ執行猶予で元に戻した。執行猶予とは違うけど、まあそんな感じ。

 p350、曹宇はさっきの話の曹沖と同じ環夫人の子。もし夫人によってそういう役割が固定されていたとするなら、曹宇は曹沖政治の後継者ということになる。その可能性はあるのかどうなのか?明帝が幼いころから行動をともにしていたというコネだけではないと思うがどうだろう。さらにこの曹宇の子、曹奐が常道郷公ですしね。さてどういう関係があるのだろうか?

 曹宇も211候、217国替え。あれ?都郷候って立てられるだけで報地はないのかな?国替えならさらに候としての支配地が、宗家・魏側の支配権が広がるからそのための国替えかと思ったんだけど。名前だけの候で都住まいか?224削減→225燕王。

 211=魏公、217=魏王、220~221=魏王朝誕生、224=一斉削減、225~226曹丕・文帝死の前後の対策、237~239明帝の死の前後対策大体こんなところかな?公式化するとしたら。

 曹林も大体似たような感じかな?加増まで。

p351、曹袞―珍しい216年の候。学問好き。222北海王で黄色の龍がでて、上奏して黄金をもらう。曹丕にとって好ましい出来事&人物。233首都禁令違反、領土削られますます謹厳、で234に削ったのは戻される。

 p353、彼の警告にある安楽のみを知れば、不遜と傾国―このあたりが革命のロジックでしょうか?

 p354、著述は二万余字。曹植ほどではないが、彼と張り合えるレベル。またしても儒教的価値観の人物かな?同じく景初・正元・景元に加増。

 p355、曹玹パス。陳留恭王曹峻、字は子安。あ、字持ちいましたな。まためずらしい216の候。陳留王って漢の献帝からか、重要なイメージがある。字も残っているし、重要人物なのかな?字も卞夫人の子についで、子の字がついているし。郿侯、襄邑、陳留王、襄邑県王となんか要地ばっかりという感じがするなぁ。

 p356、范陽閔王曹矩、樊安公曹均の子曹敏が臨晋侯に封じられ、後を継いだ。曹敏は琅邪王に。同じく景初・正元・景元に加増。

 同、まためずらしい215型、高平亭侯、国替えはさみ、217燕公→222河間王→232趙王に封じられた。234賓客と交際したことで注意を受けただけで済んでいる。何か政変に繋がりそうなにおいでもあったのか?まああったなら、罰せられるから単なる誤解か?同じく景初・正元・景元に加増、計五千戸。

『魏略』に曹操は涙を流しながら、曹丕に後を頼み、曹丕は曹幹をそばに置き、他の弟たちより厚遇。曹幹は曹丕の事を父と呼ぶため曹丕は「私はお前の兄だ」よと言って、不憫に思い涙を流した。親がいない曹幹の振舞い、悲しさはエエ話や~です。

 p359、曹彪、字は朱虎。あ、字ある(笑)。216寿春侯→221汝陽公→222に弋陽王→同、呉王→224寿春県王→226白馬王→231入朝→232楚王→来朝時に禁令を犯し、233上奏で領地を削られる。→234大赦で元に戻る→239 500戸加増。

223年に曹植と一緒に領国に帰ろうとした際、監国使者に妨害され、互いに別の道を通って帰国せざるを得なくなった。これに怒った曹植が詩を書いている。

 嘉平元年(249年)、太尉の王淩(王允の甥)と外甥の兗州刺史令狐愚が曹彪を擁立するクーデター。嘉平3年(251年)に発覚、王淩ら自決。曹彪も勅命で服毒自殺。妻子と共に平民に落とされ、配下の官僚は監国謁者全て処刑。領国は没収された。

これとか何回かクーデターはあるけど全部で何回だっけな?その性質を考慮しなければね。よくわかってないから。つうか二年もかけて未遂って。傅・侍御史の調査・逮捕と、廷尉兼任大鴻臚が節・玉璽つきの詔書で裁いた。このあたりがポイントかな?

254に罪を許され、息子がまた王になっているから、やはり無罪?因縁つけた取り潰しか?

 p363、曹整~曹京、曹均、曹棘パス。

 p364、曹徽234年属官に寿張県の役人を鞭打たせていたことで、500戸が削られ、同年のうちに元通りとなったくらいかな。あとは医書解寒食散方を書いたことくらい。晋の時代でも曹志についで名声があったか、どういうことなんだろうね?

 p366、曹操のラストサン曹茂、217万歳亭侯→218平輿侯→222乗子公226→中丘公。彼はめずらしく、性格は傲慢で剛情で曹操に愛されていなかったと書かれる人物。曹丕が文帝になっても彼だけ王になれなかったという異彩を放っているな。曹操が年いくつのときの子供だろう?多分五十くらいに作った子供だろうから、十歳くらいでもう嫌われていたのか?

 227聊城王。曹叡詔勅に礼の教え、賢人など儒教価値観が出てきて、このごろは前非を悔いているから、また太皇太后の思し召しもあるのでという理由。後述のように儒教的価値観に反している人。その人が警戒されなかなか王になれなかったこと。むしろ王になれば格好のクーデターに担ぐ人物として選ばれただろうから、その配慮に思える。

 →232曲陽王→242東平霊王曹徽の葬式の時、喉が痛いと言って哭泣の礼をとらず、生活や宮殿の出入りも通常通りやった。所管の役人は国土を没収するべしと言ったが時の皇帝曹芳(斉王)の詔勅により500戸を削るにとどめられた。

 →244楽陵に国替え。詔勅で領国の租税が少なく曹茂が子沢山であることを理由に削った戸数を元に戻し、その上700戸を加増。今度は嘉平・正元・景元の間に加増五千戸。最後の曹操の男子、彼が死ぬまでかなりヒヤヒヤしたんじゃないかな?という気がする。大事に扱うと同時に警戒という感じかな?

 ここまでで曹操の子の話はおわり。こっから曹丕の子。まあ特に書くこともないかな。東海定王曹霖がDVで後宮の侍女や婢をしばしば殺してしまったということくらいかね。これが四代目の曹髦(高貴郷侯)のパパっていうことくらい。貶めるために書かれたのか?それとも曹髦が親の血を受け継いで武人タイプを意味するのか?

 p380、曹冏の上奏、州牧・郡守は諸侯化している。一族で権益を固めているから、こちらも一族を派遣し、皇族重用で王朝を守るべきだと曹爽に言っているが、曹爽はそれを受け入れなかった。まあ、結果は八王の乱になるということだから当然なんだけど、地方の既得権に手を下せなかっただろうしね。はっきり言って地方の専断・専横が強まったという点では宦官時代の政治と全く同じなんだけどね。それを指摘する声を聞かない不思議。宦官はクソ野郎で、名士の支配だとハハーッになる。さすが歴史家(笑)、文学者(笑)、大儒(笑)。

文学者・詩などの文人、および漢や魏の制度に貢献した人物の伝

 p383、王粲、曽祖父・祖父の二世三公。その祖父が李膺と並ぶ「正義」の人。宦官に嫌われて二人とも失脚と。パパは何進の長史で婚姻関係を断った人。門閥社会を象徴する事例ですね。

 王粲の長安移住は、遷都による首都民の強制移住によるものでしょうか?んでここで蔡邕にその際を認められます。ということはこの長安遷都によって、新人材選抜を蔡邕に委ね、彼がその候補に当たったと見ることも出来ますね。でもまあ名家の人なんで抜擢ではないですから、違うかな。司徒招聘、黄門侍郎いずれも断って劉表の下に。そもそも宦官との軋轢があったなら、黄門侍郎なんて選ばれるものなんでしょうか?董卓が一掃したから(もちろん袁紹が、ですけどね)、その後しっかり取り締まれよ!という意味だったんでしょうかね?このとき劉表の元にあっさりいけたということは劉表との関係が良好だったということでしょうか。このように洛陽・長安から避難的に劉表の下に流れた人は数多かったはず。蜀にも流れたでしょうけど。

 p385、劉琮への降伏提言。容貌が実質に反するため=当時の文人としての価値観・顔相、手がどうしたとか胴が長いとかなんとかそういう条件によっぽど反していたのか?おそらく単なる口実で彼のような門閥を単純に重用できなかっただけと思いますけどね。劉備諸葛亮に任せるような状況ではないと思いますから、劉表政権の場合。新制度制定の中心。劉表も都入りするような状況になれば、そのとき王粲に新制度を作らせたという気がします。彼を使うような環境になかっただけという気がしますね。

 p388、216例の七士の南征ですね。で、217道中病死と。曹植派の重要人物が一気に消えるという異常事態ですね。41歳奇しくも曹植の没年齢と同じでなくなります。んで魏諷の乱で子二人が関与したとして処刑。この事件なんですが、本当に魏諷の場合反乱だったのでしょうか?どうもくさいですよね。

 七士の南征に曹植の鄴の留守という行為を考えてみると、どう考えても曹植政権のテストにしか見えない。さっき文人による詩を用いての信条に訴えかける工作、ある種立て篭もり犯に母さんが~夜なべ~をしてという相手の投降を呼びかける篭絡作戦といったけど。これにはもう一つ裏があると思える。裏というかこれこそ表で、文人たちの彼らに軍事能力がどれだけあるかのテストで、十分備わっていると見えれば、曹丕より少しキャリアが足りない曹植を十分サポートできる。曹植に任せていいだろうと、そういう意図があったように思えてなりません。

 さらにそれをあわせて考えれば七士という重要なブレーンを失った曹植にもはやなすすべはない。それゆえのやさぐれ、酒飲みボイコットだったということかもしれません。曹操としては曹丕で決定だけど、何があるかわからないのが、この時代の寿命。曹丕曹植という変則事項を想定しての曹植への曹仁救出命令だったのでしょうね。もし曹植がこなしていたら、明帝ではなく曹植が三代目になっていたかもしれません。曹操曹丕に続いて。

 で、この魏諷事件で当年代での曹植派の重臣はいなくなったけど、これによって未来の・次世代の曹植派まで一掃されてしまったわけですから。本当に反乱だったのか?曹丕に対する不満・暴動を反乱として無理やり一斉検挙、即処刑だったのではないでしょうか?本当に関羽に呼応したものなんでしょうか?なにせこの魏諷って良くわからないですからね。

曹操が王粲の跡継ぎを処刑することなんかさせなかったと言っていたり、鍾繇の子が絡んで、免職だけですんでいるのがくさいですよねぇ…。いくら重臣とはいえ。

 p391、荊州征伐のとき劉備に与えた文章と、馬超征討のとき韓遂に与えた文章は阮瑀が作っている。

 応瑒も劉楨も丞相掾属か。単なる詩人じゃなくて、もう完全に曹操の秘書、内閣顧問みたいなものだもんな。彼らの支持を受けていた曹植のほうが時期皇太子として本命にあったと見たほうが自然かな、やっぱり。曹丕には罪を当てられ、後吏として退けられたか。やっぱりな。あの制度史のプロの応劭の息子なんですね。劉楨だけが曹丕の夫人をみて曹操がそれを聞いて死刑免除の懲役ってなんか出来すぎているような気がするなぁ…。むしろ将来処刑されないのを率先して守ったといえるかもしれない。

 p396、邯鄲淳の一名は竺、もしかして胡人か?劉表の下にいたからやっぱり王粲と関係が深そうだな。頴川の邯鄲淳・繁欽(ばきん)、陳留の路粋、沛の丁廙・丁儀、弘農の楊修、河内の荀緯(頴川の荀氏ではないのか…)が、建安の七士に次ぐ七人であり、このなかの四人がまた曹植と関係が深いというのがなんともね。セカンド七士?それとも十四士とでもいうか?邯鄲淳は曹植曹丕ですから。興味深いのは夏暑いからすっぱになって水浴び、おしろい、頭むき出し、踊って役者の小話をしてから威儀を整える。その後宇宙開闢の話をして古の偉人、政治や軍事の話で語り合って、肉・酒→結果曹植を天の人と絶賛。

 繁欽は太子に文を送っている。丞相って曹丕が引き継いだっけ?曹丕の主簿か?めずらしい明確な曹丕派である路粋は漢中で禁令に反してロバを買ったということで処刑。彼は若いころ蔡邕に学んで、遷都で三輔へ。京兆の厳象とともに抜擢、尚書郎。文武の才で揚州刺史か。彼は孫策任命の廬江太守李述に殺されていますね。マイナーだから見落としていたが、②・⑥巻にも出てくるなぁ。マイナーすぎると見落としちゃうんだよな。索引でしっかりチェックしなおさないと。荀緯は太子庶子になっているが、これはどっちだ?曹丕限定の教育係?まあ後一応出世しているけど223に亡くなっている。曹爽政権を風刺した応貞。しかしなんかあんまり明確に対立した感はしないなぁ。言辞が迎合とあるからどっちつかずの保身第一というか。そして夏侯玄ともつながりがあるという。司馬炎にも重用されるわけで、まあ応劭という超重要人物から一貫して高官にあるサラブレッドだね。儒学を買われて新制度というのと、太子中庶子という官位が気になりますなぁ。

 p401、阮籍と蘇門山の隠者の話。

 p402、嵆康は譙気。曹操と出身が同じというのが、どう影響しているのか気になりますね。あれ?沛国譙県じゃなくて、郡?後から作られた郡で微妙にずれていたりするかな?侠気か、これも遊侠かな?会稽出身であり、移り住んできた。ケイの字の下に山加えて姓とした。または近くの山の名前を取ったという説もある。いずれにせよ山から取ったということですね。神仙=山ですから。山涛もおそらくあとから姓を作ったんでしょうね。山なんて姓みたことないですからね。索引見ても他にいませんでしたし。で、河内の山陽県に住むと。山濤も河内ですから、ここで二人でイチャイチャしたんでしょうか?鍾会が大将軍のときも山濤は自分の代わりに彼を推薦していますしね。

 東平の呂昭が仲が良くて一緒に処刑されてるんですが、子供二人も巻き込まれていますね。その子が兄弟で嫁に手を出した、出さないのスキャンダルですか。不孝者で処刑と。p176で鎮北将軍の彼が急遽冀州刺史になることで、杜恕が上奏していますから、そこら辺が何か関係しているんでしょうけども。まあ、魏→晋は全然わかっていないんであとで整理しましょう。176ですけど三男の呂粋が河南尹でその子が御史中丞ですか。

 p405あれ?何これ?裴注で否定されてるけど、どっちだ?よくわからんな。司馬文王昭に二人ともついていたから、そんなことないとか?

無駄に長い…続きます