てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

ロンドン暴動 解説(のはずが終わらず…)

 さて、最近全く書く気がおきなくて、続きを書くはずがほっといてしまったので続きを。なぜか、山岡洋一さんの死去で拙ブログの変なコラ画像に引っかかってアクセスが4000ぐらいいっていたが、それは殆ど釣りに近く、全くブログ読者拡大に貢献することはないわけで。そりゃまともなこと書かなければ、読む人もいないだろうということで。まともなことを書きましょうと。

 島田紳助引退も面白い話で、書きたいことありますが、こっち先に書かないといけませんしね。やっぱり金本=島田=山口組かね?


【暴動って?デモって何?】

 ロンドン暴動、そもそも暴動ってなに?と問うことからはじめましょう。暴動を考えるにはまずデモから考えなくては、デモを知らなくてはなりません。ではデモとはなんでしょうか?

【デモとは権力者に要望を直接訴えること】

 デモを見たことがある人はどれくらいいるでしょうか?デモンストレーション、主義・主張を訴えて練り歩く。それを見たことがある人は都内に住んでいる人でないとあまりいないと思います。デモの目的は社会問題の取り組み・解決を要求する人々の集まりですから、当然解決能力がある立場の人間のいるところで行います。

 あたりまえですよね。全く関係のない佐賀県あたりで労働問題訴えてもしょうがないわけです。一番効果が現れる場所、問題解決に繋がる場所でやるに決まってますよね。解決能力のある立場の人間とは?権力を持っている人間=決定権を持っている人間ですね。それが誰かといえば、政治家であったり、官僚であるわけですね。

 だから必然的に都内で行われることになるわけですね、霞ヶ関永田町の人間にアピールすることで、要求を現実化させたいですから。

 政治家の場合は苦しんでいる人たちの集団の要求を真摯に聞くことによって確実に票に跳ね返りますから。まず間違いなく700人近い政治家の誰かは食いついてくれるわけです。デモというのは政治家=法律の作り手に訴えかける、その点非常に効果があります。政治家にとってデモの参加者が少なければ魅力はありません。多ければ多いほど政治家は食いつきます。政治家にとって魅力・見返りが大きくなりますからね。

 デモに仮に10万人集まったとしましょう。デモにわざわざ来る人たちが投票行動に参加しないわけありません。彼らの要求に沿った行動を国会でやります!と約束すれば確実に支援票・票田になります。それが最低でも10万票。潜在票はもっとある!―となれば、落ちたらただの人である政治家は必ず食いつきます。民主主義は国民の票を一票でも多く集めたものが権力を握りますから、権力者は国民の声を無視できません。

 民主主義というゲームの上では投票行動もさることながら、事前に政治活動をする、こういうことをしてくれる議員に票を入れるよ!というアピールが重要なわけですね。上にいる政治家も、ああこういう政策を実行すれば支持されるのかと、わかりやすいわけですから、まさに国民が望んだ政治を行うことになるわけです。まあ、デモによって政治家に訴えかけて国政を動かす、そういう性質をここでは抑えておいてください。

 ロビー活動という、議員にこういう問題があるんだ。これをなんとかしてくれ!と訴えるロビイストがアメリカでは有名ですが、このロビイストが論理で説得するなら、国民の直の行動・数で訴える変則のロビー活動と考えてもいいでしょう。本来は大衆の直接行動・メディアの権力チェック・ロビイストなどによって議員の政治活動は成立するのですが、日本はどれも成立していない。必然政治レベルが下がらざるを得ない。まあ、いまのレベルの低さは当然中の当然ですね、負けに不思議の負けなしです。デモの参加人数や種類が多いということは政治意識の高さの裏づけですから。くだらないデモといえどもその権利行使は民主主義のルールを理解しているといえますから、政治的傾向としてはいい傾向といえます。

 デモ=強い抗議・主張=票→政治家→国会(立法)

 このような図式でひとまず抑えておいてください。いうまでもなく一応法治国家ですから法を作ることで、要求は実現化されるわけです。最終的に立法にいたってデモの成功となるわけですね。霞ヶ関はどこいった?となる人はセンスがいい人です。おいしいところは後回しです。お待ちくださいm(_ _)m。

 また頭のいい人は、立法で作られて、その法が施行されたといっても、それが必ずしも望んだ結果を反映するとは限らない!デモの目的が達成されたとするのは、その法律施行後の結果で目的が達成されたかどうかだろ!というかもしれません、もちろんそのとおりですね。まあその辺は省略で。あくまでモデルですから。

【デモとは秩序ある政治主張】

【民主主義は多数の参入により効果を発揮する】

 さて、以上の図式からデモをやることは民主主義上のルール・原理原則に組み込まれていることがわかると思います。デモが盛ん、政治活動が盛んであれば、必然的に政治ゲームの参入者が多いわけですから、参入者・プレイヤーが多ければ多いほど、市場原理同様、規模が働いて活性化するわけです。裾野が広ければ広いほどレベルが高くなるのは競技者が多いほど、レベルが高くなるスポーツを見てもらえば解ると思います。政治への参加者が多いほど、政治が良くなるわけですね。政治がよければ社会も、それに伴って経済も健全になるわけです。

 独裁>寡頭>(輪蕃>も入れてもいいかもしれません)民主の順番で政治に参加する人数が多いわけですね。もともと独裁(哲人政治のほうが表現がいいかな?)など少数参加者を前提とした政治システムならともかく、民主政治=多くの国民の政治参加を前提としているシステムで参加人数が少なかったら上手くいかないに決まってますよね。6人くらいで野球やるようなもんです。やれなくはないけど面白みが減るでしょ?遊びとして雑になりますしね。

 まあ、お上の人は愚民どもが、ロクな学もなく、理解もせずにギャーギャーわめきやがってと、黙ってしたがってろ!と民主主義を理解せぬ者も大勢いるでしょうけどね。民主主義のルールを理解して、ウン、自分たちもしっかりやらないとな、と襟を正すくらいの気持ちでいればいいんですけどね。

 民主主義の原理は多数の参加者がいることで、効率化&腐敗が防げると考えるものですから。1+1=2ではなく、1+1=∞ですから。本来一人ずつやっていることでも、十・百・千と数が集まれば集まるほど効率が高まっていく、付加価値が高くなっていく。生まれるものが多くなっていくのですから。そうじゃなかったら、人がいくらいたって意味ありませんからね。ほかの前近代的システムは足し算でしかないから、近代的な民主方式に取って代わられたんですから。

【政治・宗教は関係ないものという日本人の異常な常識】

 日本の場合あんまりデモに参加したことがある人はいないでしょう。デモを子供のころ見ていて、バカだろこいつらと思ったことがあります。そんなことやってる暇あったら、努力して働け!その分キャリア磨いて稼げばいいじゃないか?バカじゃないかこいつら?多分そう思っている人は多いのではないでしょうか?子供のころは努力が認められない、身分制社会だなんて思いもしませんでしたから、単純にそう思ってました。あるいは負けたやつが次の努力もしないで、僻み根性から文句ばっかり言っていると。

【デモをやるのはおかしいやつ】

 というのも農業とか漁業とか、あるいは平和運動家とかが、利権を守れ~!とか9条がどうたらこうたらとくだらないことを主張しているのが殆どで、頭が悪い人間・気持ち悪い人間がやることだと思っていましたから。ハッキリいえばモンスタークレーマーのようなイメージで捉えていました。そのイメージが今でも強い人はいると思います。プロ市民という言葉に代表されるように、おかしな主張をする人たちであり、政治と宗教にはかかわるべきではない。バブルによって食えるのが当たり前の豊かな時代には、ノンポリという言葉で形容されるように政治なんてやるものではないのが当たり前でした。

 日本人が政治や宗教なんか触れるべきではないという頓珍漢な感覚を持っています。世界の常識はまま日本の非常識のようなビックリ感をさらけ出すのは、江戸時代の太平ミラクルピースとバブルのような水と平和はタダの精神にあります。政治・宗教からかけ離れて人は人足りうるのか?と世界の人間は考えて当たり前。日本社会を見るとまずその行動様式が理解できないのはごく自然ですね。政治と宗教がぽっかり抜け落ちていますからね。日本社会だけが。

 平和が当たり前だから、食えるのが当たり前だから、政治と宗教がどこかへ飛んでいってしまう。これが平安時代からの日本の宿痾です。だからあっという間に危機・問題が起こって腐ってしまう。どう対処していいかわからずにオロオロしてしまうというのが日本の歴史上見られる共通点でしょう。

 世界中どこへ行っても政治と宗教が根付いている。中国人の儒教は家族教ですけど、その本質に政治教というのもありますからね。中国人は政治的動物といわれるゆえんです。

 政治と宗教に一定の知識がなければ普通一般的な学識を持ったものとみなされない。まあ大学生レベルなら当然あってしかるべき。だからこそ学生運動のようなことになるわけですし。仮にわからなくても自分たちの社会と生活を守るために政治活動に携わるのは下層階級でも普通でしょう。自分たちの権利を守るために行動するわけです。

【政治・宗教活動の本質は相互扶助、一方的貢献などありえない】

 日本の場合自分が下層に所属しているのにもかかわらず政治活動をやるとなったらボランティアとか、アフリカとか変な活動ばかり。一方的善意・行動を要求するものになっている。本来あるべき政治運動・活動のための組織がスッポリ抜け落ちてしまってますね。下層労働者、派遣のための組合・活動、労働党なんてあってしかるべきなのにどこにもないでしょう。まあ、一応そのようなものはあっても、有効な政治活動となっているかといえばかなり疑問。自分が奉仕・貢献して自分の権利を守るという組織は下層に最も根付いていなければならないのに、何があるといわれたらまずパッと出てこないでしょう。

 ギブ・アンド・テイク、共存共栄になっていない政治・宗教組織というのはどこか病んでいます。そんなものは本来ありえません。

 本来あるべき政治・宗教活動は一方的奉仕なんかありえないわけです。それに奉仕することで、その組織は強化され、その組織が自分を助けてくれるわけですから。まあ組織というかコミュニティですけど。慈善事業がなぜアメリカで盛んか?それを行うことでアメリカというコミュニティ内に貢献・奉仕してその見返りに名誉をもらうわけです。名誉はその社会で生きていくうえで社会の上層に所属する重要なアイテムですからね。上のものが下のものに奉仕をすることで社会的一体感を生み出し、国家の中で強い絆を作る。国家・社会の秩序を保つ上で不可欠なシステムな訳です。

 政治活動・宗教活動の良い点がしっかり見据えられている欧米と日本は天地の差があるといえるでしょう。もちろん悪い点は欧米でもありますし、問題になりもします。だけど交通事故があるから車なくせといわないように、それが重要・必要だということを当たり前のように知っているわけです。日本人はこの点車なんて乗るべきではないと思ってる異常な感覚を持っているわけですね。


【尊敬されない政治家・宗教家、ゆえに表に出てくるのは狂信者ばかり】

 んで政治や宗教をやっている人ってどこか危険な匂いが漂っているのはそのためなんです。自分の権利を守るために当たり前のルール・範囲で秩序ある、良識ある行動をするんじゃなくて、人の迷惑を帰りみないで暴走してしまう、自己目的化して活動している人が殆どでしょう。言論のルール、人の内面にかかわるルールをわかっていればそんなこと起こりようがないはずなのに、これが正義だ!これが正しい!なぜあなたはやろうとしないのか!やらないあなたも同罪だ!etc…まあ大体こんな感じで狂っていくわけです。狂信的行動が引き起こすトラブルは枚挙に暇がないでしょう。

 あれですかね?ゲームや漫画を槍玉に挙げるアホがいるでしょう。こんなことがおきるのは~っていうアホが言うように、政治や宗教が取り上げられるときって新興宗教かネズミ講とか、政治資金規正法違反ぐらいでしょうからね。狂ったやつだけとりあげるわけですから、そういうまあよくわかんない怪しげなものというイメージがつくんでしょう。


【個人を守るのに必要不可欠な組織を担うのが政治・宗教の役割】

 自分の所属すべき政治や宗教団体がないということはいざというときに自分の身を守ってくれる社会組織がないということです。日本の場合はいまのところ家族がその機能を代替しています。どの社会でもまずは家族が来ます。その次に地域だったり、政治・宗教団体だったり、中間・中規模のコミュニティが相互扶助団体として現れますが、それが日本の場合はぽっかり抜け落ちてしまっているのですから、社会組織上非常に問題があるといえるわけです。

 それもこれも社会生活上豊かすぎて、そういうコミュニティを形成しなくては!という状況が消滅してしまったからなんですねぇ。今では家族すら崩壊していますしね。本来近代化は独立した個人を要求しますが、日本の場合個人を作るんではなく、孤立した個人。『孤人』を作ってしまったわけです。これが日本社会最大の問題になっているわけです。畢竟全ての社会問題はこの『孤人』化、孤独化にありますからね

【自己の批判を許さぬ報力団】

 というかフジテレビのデモが一切報じられない例でもわかるように、新聞・テレビといった不法・違法活動をしているものに、非難の声がこれまでぶつけてこられなかったこと一つとってもわかります。民主主義=資本主義、言論の自由を守れ、自由な空間を常に守っておけ!という当たり前の声が全く上がらないんですからね。肝心の報道の側から。今回の件で思いましたが、暴力団が問題というなら、お前たちこそ報道を暴力に、シノギをしている報力団以外の何者でもないだろと。

 たとえるなら信長による政教分離が、ヨーロッパのそれと違うようなものですね。宗教を政治問題にするのは止めよう、それをもって争うと終わらないからやめて言論のルールを確立しましょうと。そういう政教分離でなく、お前たち宗教勢力が大名化するな、現実政治に発言権を持つな。宗教勢力は一切政治活動をするなという有無を言わさない形になったような構造に似ているといえます。

 国民は政治活動するな!黙って見てろ。もしくは報道のわれらが分析(?)することにしたがっておけ!というメンタリティでしょうね。そこには当然失敗した場合自分たちに対する非難の声が上がってしかるべきなのに。おかしな非難であれ、何であれ、キチンと対応しなくてはならない。言論には言論をもって、私たちが考える理由はこうです、としっかり説明して納得を得なければならないでしょう。

 フジテレビなら、フジテレビなりの一貫する政治スタンス・言論スタンスを提示してそれに則って言論・商売を行うべきなのです。ハッキリ言って客をなめてますよね。無論これはフジテレビじゃなくテレビ全般・新聞全般に言える話なんですがね。その結果クソテレビ!テメーなんか二度と見るか!になってもいいし。よくいった!お前んとこのテレビ・新聞は立派だ!これからもお前を応援するぞ!となるかは客が決めること。全てにおいてまず公共の報道機関はフェアであるべきなんです。スタンスをしっかり提示して、あとは客に判断してもらうべき。それが言論で生きるものの原則・ルールでしょう。それにほうっかむりでシカトなんて考えられませんよ。

【おまけ―日本の政教分離言論の自由を生まなかったわけ】

 せっかく政教分離の話をしましたから、ちょっと触れますね。ヨーロッパ的な政教分離であれば言論の自由が確立されるはずですが(政と宗(=言論)は別次元の存在にする。次元を異にするという考え方ですね)、日本の場合そうなっていません。つまりヨーロッパ的なそれとおのずから性格を異にしているわけです。

 日本のそれは政教分離というよりは、政治勢力による宗教勢力封じ込め、分断。そうとらえるべきでしょう。宗教勢力から政治的発言権を奪い従わせた。政>宗の序列化、従属化でしょう。ですからそこに信仰の自由や言論の自由は発生しない。武士の下の階層に組み込まれた宗教家が言論の自由なんて主張すれば火あぶりでしょう。これは言論上のことですから許してね、テヘッなんて言って、あなたの政治は間違っていますと面と向かって言えば即くびちょんぱでしょう。

 今でいえば、会議で社長の経営方針は間違ってますといえば、平社員が即クビになるようなものでしょうか?まあ場合にもよりますけど、議論における反対理由を述べただけで即追放なんてことは近代ルールからありえないわけで。しかし言論についてはいまだこういう不合理が結構まかり通ってるのが日本の現実でしょう。

 日本の歴史を知ればわかりますが、平安貴族は政治をそもそも放棄していました。ですから、武士やら僧やらが現地のニーズに応えて政治家になったわけです。軍人的政治家宗教者的政治家の争いが戦国時代の本当の姿でしたからね。

 徳川家康がもし、幕府が滅びるなら薩長の実力と天皇の権威―その二つが結びついたときと知っていました。そのためにさまざまな対策を採ったのは周知のとおり。そこに神道・仏教のイデオロギーによって民衆反乱が起こる。それによって幕府が危機に陥るなどとは考えなかった。それによって幕府が滅びることなどないと知っていた。現にそれを裏付けるようにその二つではありませんが、キリシタンの反乱は九州を席巻するほどでも幕府はびくともしませんでしたしね。

 というのも宗教勢力とはいえ、その実は局地的な救済を要求するものにすぎなかったですから。宗教反乱は局地的反乱にしかなりえない。いくつかの大名が反乱を起こすくらいにしかなりえない。下層の民衆がいっぺんに反乱を起こすなど社会構造的にありえないからです。天皇の命令で特定の上層・大名が結びつく反乱でしか幕府はひっくり返らないわけです。まあ、実際は天皇教という天皇を信仰する信者、下級士族が大きな役割を果たしたんですけども。

 彼らはなぜ信仰したのか?それは失政・暴政で末期的な状況に追い込まれたゆえだから。本願寺などは彼ら貧しい下層民衆の心を救うだけでなく、現実生活を救うシステムを作ったからこそあそこまで広がったわけです。それは素晴らしいことでしたが、信者でないものを排除するシステムでもありますから(特に異端は皆殺し)、戦国大名および信長がそれに関係なく市場システム、(政治的に言えば帝国でもいいです、経済的に言えば市場がわかりやすい、馴染み深いしね)全国一律に誰でも救われるようなシステムを作ってしまうと、それに勝てないから崩壊してしまうわけです。規模の経済に飲み込まれて解体されてしまうんですね。信長の市場のほうが、局地的な宗教大名の領土内の経済システムよりはるかに効率がいいわけですから、自然とそちらに組み込まれてしまうわけです。

 そして豊かになれば、生活できるようになれば、信仰を理由に死ぬまで戦うなんてことはないのです。逆に言うと末期的、末法的な『混乱disorder』状態になれば宗教・信仰は表面化するわけです。満州国のときの法華教みたいにね。

 そういえばオウムも末法と感じた信者たちが引き起こしたという側面がありました。どう考えてもこのときはまだそのような危機・苦境はなく、単なるカルトの反乱、暴走としかいえないのですが、これはちょっと面白い側面があるのでここで軽く触れておきます。

 せっかく書いたのでまた余計な話をしておくと、信長の市場・資本主義とは現代的なそれとは比べ物になりません。民主主義=資本主義が成立しませんから。ただしアジア一帯にまで世界進出していたらどうなったかわかりませんけどね。そういう点では信長の市場・資本主義とは民主主義に支えられたものではなく、信長教という思想が民主主義の変わりにあって、信長教=資本主義という両輪の思想構造で成立していたものといえるでしょう。事実信長は神になろうとしていましたしね(これについては逆説の日本史読んでください)。信長教VS法華教・日蓮宗という思想対決の結果が信長教の勝利で終わったんですねぇ~。まあ、余計な話です。飛ばしてください。

 信長教の勝利で終わったわけですから、秀吉や家康でそれが修正されようとも結果は一緒。信長教の修正・亜種にすぎないわけです。長々書いてきましたけど(^ ^;)、結局ヨーロッパの言論の自由というのは勝ち取ったわけではなく、諸勢力の見事な実力伯仲の結果生まれたものです。今シーズンのヤクルトの引き分けみたいに、どちらも痛みわけばかりで何も得られない無駄な結果を生むだけだから、言論の自由・信仰の自由というルールが作られたわけです。

 あれですね。よつばと②巻の『復讐は何も生まない』ですね。そんなことで永遠に殺しあっても仕方ないから、そのルールが生まれたわけです。偉大なる引き分けの結果生まれた言論の自由政教分離という原則が、信長教の一方的勝利で終わった以上まあ日本で生まるわけがないのですね。日本では勝利者、支配構造の上層にある為政者に物申すことが出来る言論の自由など生まれなかったわけです。

 いうまでもなく信仰の自由がきっかけになって少しずつ言論のルールが確立されていくわけで、いきなり下の人間が王に対等に議論できるわけはありません。

 民主主義も明治天皇から与えられたものですしね。偉大なる現人神が授けた憲法だから変えるなど思うべきではないぞよ!―なんていうのは民主主義の精神からかけ離れているわけです。ウンコとカレーライスぐらいかけ離れています。もし一神教のエッセンスを理解して、ヤハウェのように天皇がおわしまして、一平民が預言者に成り代わって天皇陛下に契約について問答するようであれば全く違ったんですけどね。その結果神から新しい権利を引き出したりすれば日本に民主主義が根付く端緒になったんでしょうけど。いかに不都合・不条理な契約であれど、交渉の結果変わっていくのでしたら、立派に民主主義になりますから。天皇陛下の気持ちを忖度することだに恐れ多い!ひかえろ!という精神では進歩しようがないわけです。

 まあ明治ならともかく現代でも殆どメンタリティが変わっていないからあきれるしかないわけです。貴様ら下郎のものが質問をするだと!控えろ!というのが報道界での言論のルールですからね。普通ならどこまでもどこまでも、そこまでしてくれなくていいよと思われるくらい、しつこいくらい丁寧に説明責任を果たすようでなければ言論機関とはいえないんですけどね。それは下の者、下層階級や一般民衆の代弁者となって、その利権を守る!という精神が欠けているから、そういうことになっているのでしょう。

 結局自分たちの利権を守ることばっかり考えているから、そういう態度になる。ムラ社会のアレですね。テレビムラ。自分たちテレビ局ムラの利権を守ことばっかり考えているから、ムラ自体焼き討ちにあることになるわけです。事実、焼き討ちの犯罪者・異常者がやってきた!程度にしか思ってないでしょう。ムラを守る自衛活動で手一杯な感じしますよね。今の対応見ていると、まあパニクって判断不可の思考停止状態に陥っているんでしょうけど。不測の事態に動けなくなるのはいまの人間の特徴ですから。

 ついでに言うと昭和の混乱・国家の命運をかけるときにあたっては民主主義より、天皇の赤子、一億みな天皇の子供という天皇教のほうがはるかに説得力があったわけで、皆さん揃いもそろって天皇教を選択したわけですね。民主主義という宗教はいつになっても信者を得られないわけです(笑)。いまの戦後民主主義もアメリカから与えられたアメリカ教的匂い、変なウィルスが混入していますからね。民主主義は外から与えることは出来ない、自分たちで勝ち取るもの・選択するものという常識がわかりませんからね。

 まあ、ここで宗教という言葉を使いましたけども、民主主義というのは宗教と同じイデオロギーですから。宗教とは人間のOSであると橋爪さんはいいますけど、人間の心を決定するOSが宗教なら、民主主義もまたある種のアプリケーションではありますね。たいていの国家は民主主義というアプリケーションを導入するけど作動しない。民主主義というアプリケーションを動かすのはきわめて難しい。あのソフト入れて、このソフト入れて、最新にアップデートして…。きわめてめんどくさい使用になっている(笑)。

 まあ、何とか動くことは動く。しかしちょっと下手するとすぐ他のアプリが潰れて変な感じに陥る。そういった性質があります。民主主義は政治を動かす上で極めて重要なルールをいくつか踏まえなければ作動しない。一応動いてはいるけど、ソフトは残りあと5分と表示されながら20時間ぐらい次の瞬間変わる効率の悪さ。つまり機能していないのと同じ状態になります。

 使いこなすには設定、必要な環境を十分把握しなくては動きません。OSでもアプリケーションどちらでもいいですけどね。重要なのは民主主義を動かすにはそのルールを知っておくこと、そのルール・法則をキッチリ守ること。まあくすリと一緒ですよ。使用上の用量・用法をしっかり守ってご使用くださいってなんにでも書いてますよね。あれをやぶればクスリが毒になるのと同じでむしろ逆効果になるということです。

 民主主義のルールを知っている人間、あるいは信者が多ければ多いほど、上手く作用するし、その効能は増えて社会に富・幸せが多くもたらされるし、逆なら当然なまじ民主主義のルールを採用している分倍付けで悪い部分が跳ね返ってくるわけですね。まあ天罰というやつですかね?悪いことしたら、その分罰になって帰ってくるのは子供でもわかる話です。ただそれは一般的な社会常識と必ずしも同じではない。なんとな~くよさそうなことをやっていれば、それでいいんだと思ったら大間違い。実は最悪のことになりうる。だからこそ教育でしっかり社会法則・ルールを教えなくてはならないのに、民主主義って何かわかっていないから、こういう腐ったことになるわけです。報道以前に、教育自体が教えられないからどうしようもない。次から次へとルール知らずが生まれるわけですから手がつけられませんね。

 まあ民主主義という信者が多数を占めないと民主主義は動かない、あるいはそのアプリケーションを知り尽くしていないと見事に作動しない、かえって有害なソフトであるということを何度も言ってきたわけです。これほど重要なことはありませんから、またしつこく書いてしまうわけですね。

 なんか、デモと全然関係ない話になってきたな…。書きたいことと全く違う(笑)。まあもったいないから残しとこ。島田紳助事件があって、どんどん話がそれた。続きはまたあとで。まあちゃんと一応書いた意味はそこかしこに散らばって、続きに生きますから良いでしょう(^ ^;)。