てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

再評価と忠臣論について あと徐州とか侍御史とか

 これを書く前に宗教原論の宦官制(new!→宗教原論から―宦官が社会にもたらす機能についての社会学的分析)についての社会学分析を引用しようと思いましたが、 まあ先に書きましょうと。三国志関係を書きたい熱があるうちに。最近ツイッターでちらほら三国志関係のことをつぶやくようになった。もはやツイッターは殆ど使ってないけど。忙しくてあんまりつぶやく意義も感じないしね。わかってることは殆ど文句になっちゃうしね。小沢派の復権が始まるとか、みんな知ってるし、消費税増税ふざけるなって単なる文句にしかならないしね。

 さて、三国志関係で面白いことをつぶやく人がいて、その人のつぶやきを見てるうちに久しぶりに幾つか書きたいことが出てきたので、やりっ放しでほったらかしているものにも手をつけなきゃいけないしね。ちょっと書こうと。

 んで、まずチラッと目にした、これおかしいぞ?というもの。それは袁紹袁術再評価みたいな話があって、その評価の中で忠臣だから評価されるべきというもの。忠孝というのは中国にとって重要な価値観だが、忠臣だからどうたらこうたら、あるいはその逆の逆臣だからどうたらこうたらと論じるのは極めて無意味なことだと思う。

 そもそも前近代の歴史というのは勝者の正統性の主張であり、イデオロギー・国家の正統性legitimacy。その中で政争や戦争の敗者は必然的に悪いやつとして記される。異文明圏や異宗教・異国についても同様。自分たちの価値観こそ正しく、相手の価値観は間違ったものに基づくという、ものの見方でどんな歴史も記されている。

 それは現代になって文化人類学などが発達するまで、正しいもの・真理は常に一つだと思われていたから。だからこそ真理・真実はひとつ、正義は必ず存在すると考えられていた。だからこそ世界戦争で「絶対正義」同士がぶつかり合ったわけで。

 非ユークリッド幾何学の誕生ですべての観念・思考形態はひとつのモデルにすぎないことがわかるようになった。それまではユークリッド幾何学以外にモデルはひとつしかないと考えられていた。あらゆる思想・思考形態は矛盾したとしても同時に成立しうるのだと、つい最近になってようやく確立したわけですね。だからこそ真理はひとつと信じていたから、折伏というのが起こるわけです。日本のマルキストマルクス経済学を理解しないやつなんか殺してしまえと言っていたのもそれが唯一絶対の真理だと考えたからですね。

 結局第二次世界大戦まで、冷戦の最中までイデオロギーという宗教戦争やってたわけですね。真理はわれにあり、正しい神は我らの神だ!という。現代のナショナリズムと世界大戦頃のナショナリズムイデオロギーと殆ど同義だったという点で全く違うといってもいいんですけど、なんかナショナリズム関連読んでいてもあんまりわかっている人はいませんね。何学んでいるんでしょうね?

 まあ、よく言いますけど、本当に政治学と哲学は死んでますね(古典研究はまた別でしょうけども)。それをやるなら心理学や経済学・歴史学社会学などなど最低2つは他の学問を修めてからでないとあまり有効な視点だったり、物の見方は打ち出せないと思いますね。サンデルとかネグリ&ハートとか、あれのどこがすごいのか、身内だけで女の子が互いを褒めあうみたいにやってるからそうなるんでしょうね。

 余計なことはさておき、まあ前近代の歴史はまず善悪で記します。しかし歴史学で一番やってはいけないのは善と悪で判断することです。ヒーロー戦隊じゃないんだからこの世に絶対悪なんて存在しません。悪の秘密結社とかね。重要なのは敗者、その悪とされた人達が、一体どういう背景を持っていたか?ということですね。

 ですから、近代歴史学の初期はまず史料に何が書いてあるか?ということを正確に読み込むことで仕方がなかったと思うんですが、それが終わって今なんかはその善悪のイデオロギーのロジックを読みといて、それにとらわれずに正当な歴史的評価を与えることですよね。

 悪いって書いてるから、失敗して負けたから、だからこいつはダメなやつ・ろくでもない奴なんて認定する歴史家は最低の部類といっていいでしょう。一昔前ならともかくね。文化人類学が発達して全てはモデルにすぎないとわかったんですから、そちらの方向から悪人・罪人・敗者とされている人を正確に見つめ直して歴史の全体像がはっきりしてくるんですからね。

 ようやく本題に戻れますが、重要なことは袁紹袁術という人物が当時の社会を見て一体何を理想(または戦略)と考えたのか、そして、その理想・あるべき国家ヴィジョンから実際にどう行動したのか?行動の結果反映された現実とは何だったのか?歴史学(カーだから国際政治学か?まあどっちでもいいか)の理想と現実ですね。その理想と現実を捉えて初めてその人物・政治家(当時は軍人と同義ですが)としての評価が下せるわけですね。

 まあ、言うならば袁術モデルや袁紹モデルとは一体何だったのか?ということを解き明かさなくてはならないわけですね。敗者だから、史料上はボロクソ・もしくは曹操という勝者を引き立てるスパイス、踏み台としてしか記されないわけですからね。

 己は社会学的視点から分析しますから、構造機能分析で物事を考えるわけです。今度論文読んできて、まとめたら載せるかもしれません。簡単に説明すると物事・社会には必ず、組織・システムが存在する。組織・システムがあるところ、当然そこには目的とする機能がある。逆も真なり、何らかの集団的機能が働いているならそこには組織・システムが形成されている―そういう考え方ですね。

 人が二人いたら、そこには社会が発生する。その二人の間の関係を考えるのが社会学ですね。愛し合う男女なら恋人、また親子…、友人…、同僚…とか社会における関係が一体どのような仕組みになって動いているか。またどう変わっているかということを分析する学問ですね。社会学は今ある問題そのものをターゲットにするので何でも学問対象に出来ます。非常にクリエイティブで面白いのですが、いかんせん学問を勘違いして学問のために学問している人が多いので、何やってるの?というものがね…(´-ω-`)。

 軍閥のほうが適当かもしれませんが、その後の曹操政権や孫権劉備政権などと比較して考えるべきなので袁術政権・袁紹政権とします。皇帝名乗ったからどうだとか、名乗ってないから政権じゃないなんていう見方は無意味です。外部上はっきりした形を取ってなくても、機能を満たしていれば、それはもうすでに組織ですから。夫婦として法的に籍を入れてなくても、事実上夫婦として過ごしていれば同じ。まあ事実婚だから夫婦じゃない!なんて見方は本来の分析を誤らせる、事実上の機能に注目しましょうということですね。

 これは董卓とか劉表とか公孫瓚とか全て一括して政権として分析すべきと考えているからでもありますね。まあ公孫瓚とか呂布なんかはあえて区分する上で、他のを政権と呼称して、彼らは軍閥として区分するなんていいのかな?と今ちらっと思いましたが。

 その袁紹袁術政権の性格とは一体なんなのか?社会性・機能分析を行わないと意味が無いわけですね。どのような勢力が参画していて、何を理想として目指して動いていたのか。またその中にはどんな政策対立=派閥が存在したのか。時間・状況が動くに連れて、初期・中期・後期…など時間的にどのように変貌していったのかなど。そういった分析をしないと学術的に意味があるものにはならないのでは?と感じます。

 まあ、このあたりの歴史についての学術的知識がない己がいうのもなんなのですがね。歴史はヨコとタテで見るものですから、つながりがなければ無意味で、袁術袁紹がいきなり突然変異的にああしたいとかこうしたいとか個人的欲求で動くわけじゃないんです。二袁の前からそういう行動を取って欲しいという待望・要望があって必然的にそういう行動をするわけですね。そしてその勢力が根絶でもされない限り、次代に引き継がれていくわけです。プレ袁紹袁術、ポスト袁術袁紹を分析して初めて意味があるわけで。歴史の流れの中でどうだったかという分析をしないと意味が無いと思うんですよね~。

 さて、まあそんな事で一応話を区切りますが、袁紹忠臣説だったかな?袁紹が漢朝再興に尽力することはあっても献帝に忠誠を誓うことはまず無いですよね。あんなのどこの馬の骨か分からないと、終始一貫して廃位を唱えているのですから。逆に袁術は一貫して献帝の忠臣ですね。

 ココで重要なのはおお!さすが袁術様は忠義の人じゃあ!とかいうことではないですね。平時において忠節ということは褒め称えられても乱世において忠義なんてもはや嘘というかどうでもいい話ですから。乱世になったら、もういかに敵対する諸勢力を打破して、乱世に終止符を打って治世を始める。平天下状態に持って行かないといけないのですから。

 名前忘れましたけど、光武帝が当時立てられていた皇帝をお救いせねば!とか救出して、より正統な血統に近い人をもり立てて、私は(副皇帝なんかないから)、司空とか大将軍とかなんでもいいんでそれになるとか。周公にならって摂政をしてもいい。王朝復古というならそうしないと筋が通らないでしょう。それに対する文句や異論が唱えられないということをスルーしすぎですね。光武帝は当時推戴されていた皇帝に、はいおつかれさん、くらいのものすごいっそけない態度で終わりでしたからね。

 同じ劉氏といえども一臣下にすぎない。君臣の分を超えて皇帝に成り上がった。王莽は禅譲という正統性があった。対照的に劉秀は力で成り上がった、その正統性は王莽以下である。ついでに王莽についてコメントをすると、彼の評価が低いというかまともに評価されていないことについて己からすると信じられない。学者の能力とは驚くことだと、東大の伊藤先生だかおっしゃっていたが、どうみてもこのような古代期において平和裏に禅譲という制度で新王朝に移行した。平和的に政権交代を実行したなどと常識では考えられないことであろう。このことを評価しない・注目しないのは門外漢から言わせてもらえば、その世界に慣れすぎて、物事をしっかり見れなくなってしまっているのではないかと思う。

 現代的な政治制度に近い平和的政権交代を実行した王莽と、時流に乗って軍事力で成り上がった劉秀どちらが現代人好みかといえば言うまでもなかろう。勘違いする人はいないと思うが、一応書くともちろん王莽>劉秀なんて言わない。次代に適合した理想を掲げ、次代に適合した現実政策を取らない限り、失敗するという当たり前の歴史法則があるからだ。王莽は先進的であったが、時代に受けいられなかった。またレガシーコストなど内部から引き継いだゆえに旧制度を徹底的に破壊しきれないなどいろんな要素もあったことが大きかろう。

 劉秀を見ればわかるように重要なのは民を食わせるシステムを完備することである。それに劉秀が皇帝を退いて、普通の女の子ならぬ、普通の劉氏にもどってしまったらどうなるか?劉秀という個人の紐帯で政権は動いている。彼抜きに政治は動かない。これはもう時代の要請である。一旦乱世になったら忠誠を尽くしようがもうなくなるわけだ。誰が勝っても必ず新王朝を築く。そこに忠誠のあるなしという要素は全く関係がなくなる。

 袁術政権にしろ袁紹政権にしろ、組織上の要請がある。これは必然的な要請であり、個人の意志・好き嫌いは関係ない。ましてや忠誠心があるとかないとか。そこから必然的に献帝を支持する・しないという結果が導き出されてくる。その組織上の要請を読み解くことが全てである。

 ということで、じゃあ一体それぞれの組織上の必然的要請・機能的要請は一体何だったのか?ということがテーマになるわけですね。まあ当然、

全然分からないんですけども(^ ^;)。

 曹操政権・董卓政権・袁術政権・呂布政権(軍閥)=献帝奉戴派

 袁紹政権・劉表政権=献帝否定派

 ※劉焉・劉璋劉表同様皇帝推戴、光武帝になれる可能性があるからもしかしたら袁紹と協調して否定派かもしれない。

 孫策政権・孫権政権=どうでもいい派?

 ※呉は袁術の影響を受けて献帝派か?袁紹と組んで許を攻めるなんていうプランがあったのなら、どこかで袁術を裏切って、袁紹に就くのは必然だったと言えますね。まあこれは袁術が称帝(己は称帝だとは思っていませんが、)したことによって政権構造が変わった。それに孫策が内部組織上の要請から必然的についていけなくなったとも言えます。それがどっちかは重要なんで今後検討したいと思います。

 あとついでに裏切りについても一言コメントを、これも組織上の要請から必然的に起こることですから、たまに裏切りやがって!この卑怯者!みたいなことを主張する人がいますがそんなこと歴史学上どうでもいい話であって、その裏切りが一体どういう意味を持つか分析することが重要ですね。そうして初めて有意義か無謀かがわかるわけで。

 曹操の場合は勝ったから一応無条件に有意義とされてますが、無謀な要素も当然あるわけでね。まあ○☓式に、どっちかどっち100%決まることなんてありえませんけども。大体7割理があって、3割これは無理がある、また道理が通らない、あるいはそうせざるを得なかったとはいえ、今後かなり苦しい、将来に禍根を残した―といった感じになりますね。まあ要するに個人の性格に原因を求めるのは歴史研究というよりは女性の嫉妬に近いということです。もちろんそれが作用することは往々にしてあるでしょうけどね。

 ちょうどいい流れになってきたので最後に曹操の徐州虐殺あたりの話、徐州攻めはチーム袁紹の要請。とすると徐州攻めと兗州反乱というのは反乱せざるを得ない要因、見えないリンクが徐州攻めにありそう。そこら辺の要因が曹操のチーム袁紹からの離脱につながり、劉備曹操に対する徐州反乱にもつながってくるはずなんですよね~。曹操の徐州攻め前に陶謙孔融献帝奉戴をしようとしている。もちろん、あんな遠いところに呼べるわけがないのだが、曹操だってコソコソ工作してようやく献帝を迎えられたくらいですし。献帝奉戴が持つロジックの意味をもっと深めたいですね。そうすればもっと当時の勢力バランス推移・戦略がよく理解できるはず。

 おそらくは献帝の周辺の勢力三輔派?袁術政権も主流派この三輔派だし、そこらへんの相性の良さがある。北海人士の中心人物の一人である孔融がそうしようというのがかなり示唆的。その孔融は北海人士が結構いる袁紹のもとには行かないんですよね。なぜ孔融袁紹政権に参画しなかったかなんて興味深いところです。

 雲子さんが、『兗州反乱では同族内でも二派に分かれているように見える。薛蘭と薛悌、李封と李乾、毛暉と毛玠、王楷と王必。ただ、同姓でも同族じゃないかもしれないし、そもそも例示した奴らの一部(王必とか)は出身が不明なんでただの予想。応仁の乱みたいに同族内の対立とかもかかわってたらおもしろいよね。』とおっしゃってました。うーん兗州独自の内部対立のロジックがあるのか?袁術系VS袁紹系?

 そうそう、官制に全く詳しくない己は袁紹が侍御史の位にあって、監察系のキャリアを積んでいた。ことで袁紹が「入りては相、出ては将」の理想的な人物。すなわち張奐やら、王甫(王吉だっけ?忘れた)やら、曹操と同じ役割を期待されて同じようなコースを辿っていたときいて、後漢書なんかでもちょくちょく、ああこの人も侍御史なんだ、重要なポストなんだろうなくらいにしか思ってなかったから、それでああなるほど~とすんなり納得していた。そういうもんなんだろと。

 袁紹袁術の官界での交際について袁紹の方に理があった。人脈網について特に袁術に劣るようなところは見られない。とすると、袁家本流安国亭侯の逢の家。逢の後を継いだ嫡子基は九卿、その弟の術は宦官虐殺時は中郎将であるものの、九卿と同格の河南尹を経験している。

 袁術のほうが出世上は優位とみていいのかな?それとも侍御史→司隷校尉という流れは特別なルート。官職にあるランクでは侍御史はそれほどではないものの、現実の権限という点では時代を経るごとにその実力が強大になっており、重要なものであると見ていいのか。有事を想定した侍御史であり、有事になって司隷校尉となった、その時袁術は中郎将で、その官界での地位は逆転するインパクトがあったということなのだろうか?

 官界で要職にないと人脈は普通は作れないけども、袁家であればコネはいくらでも作れる。門を閉ざして僅かな人だけ選んで会っていたというし、要職よりも実務経験を積んだ袁紹袁術よりも理があると見るべきなのか?

 まあ、誰が見てももうこの時代乱が起こるとわかっていたから、袁術袁紹も遊侠(おそらく地元の有力者の武装化、あと流れ者とか)と交わっていた。そんな時にのほほんと河南尹やってる場合じゃねぇよ!と見るべきなのか?まあ一長一短あってどっちがどうのこうのとか言えることじゃないんだろうけども。

 もう一つ付け足しに曹操の官職出世スピードの速さ。なんだっけ?最初のキャリアにいきなり河南尹クラスを要求したって話があるんだっけか?もう忘れた。曹操袁紹袁術と京で顔なじみだったのは間違いない。エリート子弟だったわけでよく知った仲。ただ曹操袁紹は年が10以上違う。その関係が深かったのは間違いなく同じ派閥に属していたか、袁紹が彼を引き立てたか。

 袁紹曹操が同じ役割を期待されていて、そういうコースを共有していた。袁紹も侍御史を経験してから引きこもり、曹操も北部尉、済南の相で苛烈な統治をやって引きこもる。んで、西園八校尉として呼ばれるし、そこら辺なんか似たものを感じるなぁ。北部尉やってたころの司隷校尉・河南尹って誰だったんだろ?その二人と全く無関係に強硬な取締が出来るものかな?

 後宦官と関係ある家でありながら、曹操十常侍だけを処分=穏健対策、袁紹は宦官一掃という極論。まあ袁紹の場合もうかなり前のことですから、関係ない感覚であったかもしれませんが。その対応の違いもまた気になるところ。その理由は次回の宦官の話(宗教原論から―宦官が社会にもたらす機能についての社会学的分析のところで書こうと思ったけど忘れてたΣ(・∀・)!まあ、どこかで書きたいと思います。)の最後にでも付け足して書きます。

久しぶり過ぎてほとんど忘れている。過去のものを見なおさないとね…。