てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

関羽についての一考

関羽について思うこと、逆説の三国志(4)関雲長、忠義の軍神ではないとでもいうところなんでしょうけど、いつもの様に固まっていないので、まとめるレベルではない。こういう段階なんで、断言できないから、タイトル設けてやりませんけどね。それなら先に袁術の話を書くべきなんですけども、こっちを先に。ちなみに(3)は袁公路、ハチミツ王子・クマのプーさんではない―ですが。

最近、渡辺センセーが出したし、高岡さんが秘伝で関羽の身体意識を論じていたし、そういや関羽って~という感じになりましてね。

関羽: 神になった「三国志」の英雄 (筑摩選書)/渡邉 義浩

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まあ読んでませんけど、読んだ人います?面白いですかこれ?
曹操墓の真相/河南省文物考古研究所

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 あの墓発見について早くもなんか本が出てますけども、これちゃんとした本なんでしょうかね?なんか大したものが発掘されて、新史料が出てきたって話も聞いてませんしなぁ。
「三国志」の女性たち/渡邉 義浩

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 女性アピールモノktkr、歴女対策。さて、これでなんか言えるのかなぁ?という感じ。ウケそうなものに手を出してますなぁ。そういや「儒教国家」論はどこへ行ったんでしょう?西晋儒教国家だどうだいうことになんか意味があるのか?まあそりゃ多少はあるでしょうが、唐に至る国家のイデオロギーにまで行くのにそんなに重要なものがあるとは思えないんですけども。

月刊 秘伝 2011年 06月号 [雑誌]/著者不明

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月刊 秘伝 2011年 07月号 [雑誌]/著者不明

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 どっちだったかな?多分7月号かな?関羽の身体意識について論じているのは、関羽がウォールとかあって、肩包面が優れているから、馬上から自由自在に十キロ以上もある槍を振り回せたという話。痞え(つかえ)みたいに胸にカーッとなるものを持っていた。それで癇癪を起こして冷静な判断が出来なかった。とかまあ、そんな話。

 で何を書きたいかというと、関羽って本当に忠義の代名詞みたいな人だったかなぁ?という話。別に忠義がなかったとまではいいませんが、本当にそうかなぁ?という疑問がありまして。

 そもそも陳寿が書いた正史のベースになっているのは蜀政権に仕えた人物たちの名誉回復とまでは行かなくとも、蜀あたりの人たちが中央で田舎者扱いされる状況を打破するためのものですからね。まあ成功はしなくとも、蜀ってスゴイんだぞ!PRにはある程度成功したといっていいでしょう(まちおこし運動、一村一品運動ですね)。

 蜀=季漢としてスゴイ、滅んだとしてもそこには意義があった!と印象づけるのが一番いいわけですね。ですから蜀書は『忠義によって生まれた政権こそが蜀漢なり!』というストーリーで成り立ってますからね。劉備関羽張飛の三人幇と劉備孔明の二人幇こそが三国志演義の基本ストーリーであると、博士は分析されましたが、まあ、正史でもその筋はある程度生きているといっていいでしょう。

 敗れたりとはいえ、そこには人と人を結ぶ紐帯として強い忠義心が働いていた!だからこそ、後世朱子学で忠義絶対のテーゼを撃ち出すときに格好のテーゼとなったわけですからね。諸葛亮関羽はその中で格好の人物となったわけで。

 多分、それまで史記漢書に忠義というテーマが全面に打ち出されているものはないと思うんですよね。烈士みたいに、最後まで戦ったとか、お上に尽くしたなんて話はあっても、それを極限まで推し進めてこのように、その人的結合を基盤として政権建設まで行ったレベルではないと思います。だからこの蜀書は刺客列伝の変種、その成功版だと考えるとよりわかりやすいと思います。

 まあ関羽岳飛と重ねられてその人気が高まったというのもあるでしょうけどね。北伐で天下統一というか、失った国土を夷狄から奪い返す天下回復。その絶好の所で後ろから裏切られて夢半ばで破れてしまうという。またエリートの士大夫階級ではないというのも一般的共感を集めた点でしょうし。

 正史の記述だと、河東郡解県の出身で幽州へ出奔しているんですよね。なんでここを選んだんでしょうね。しかも字を長生から雲長に変えているというのは、もう間違いなく一族や地縁から見放されたということですよね。空を流れる雲に自分を例えたかったというのがものすごい象徴的ですね。解県が塩の産地だから塩賊じゃないか?なんてこともいわれておりますが。そのコネで流れたんでしょうか?

 公孫瓚四兄弟が劉備三兄弟の先にいますが、もし10~20年早く乱世が到来していたら、彼らが劉備三兄弟として機能していたかもしれません。このような任侠的結合があったということは、流れ者がそんなに珍しくなかったわけですからね。関中に李堪とか侯選とか流れたようなルートがあったのに、どうして関羽はそっちではなく一人北上したのか?まあ、率いる部曲がなかったんでしょうけど、本当にそれだけなんでしょうかね?もしかしたら鮭の川上りみたいに、一人だけ遡ったのかも?はじめから北、幽州・并州からこの地を経由して関中に流れるという一定のルートが存在していたのではないでしょうか?もちろん河東郡から呂布みたいに東に流れるルートも存在していたでしょうしね。

 他に河東郡出身者は賈逵・徐晃・毌丘倹・衛瓘、裴松之もここ出身なんですなぁ。韓暹の白波賊もここを中心と活動していましたし、彼がおそらく并州の人というのも拙推論を裏付けているかと思います。本貫がはっきりしない身分というのもね。また孫資が太原郡から河東郡に流れて賈逵伝いで出仕してますね。

 あとは於夫羅・去卑が曹操にここでステイしてろって命令出された所でもあります。忠犬ハチ公並の待遇です。264年に諸葛喬の孫、諸葛京と諸葛顕達が河東に移住させられたなんてのもありますね。柳隠が河東に移住し、隠居をする時蜀に帰ったともあります。帰参した勢力を朝廷に呼び寄せるのに都合のいいところが河東郡なのでしょうね。

 あと袁紹勢力をほぼ平定したあと、荀彧が杜畿を河東郡の太守に推薦しています。そのとき関西の将軍=張晟=劉表河東郡の衛固・范先=高幹というつながりを曹操が話しているようにここがリンクの要であることが伺えますね。確か河東郡については前もこんなことを書いた気がしますが。

 ※董卓河東郡の太守になっているじゃまいか…。董卓大好き人間の己が何を見落としているんだorz董卓がここに進駐して雒陽入りを伺っていたというのは象徴的ですね。北・東・西と人のルートの中間点・重要なターミナルだったことはもはや疑いようがありませんね。

 で、劉備に従ってから、徐州で関羽は捕虜になって顔良を斬るわけです。演技なんかだと、劉備の家族が捉えられたからそれを守るために張遼が橋渡しになって降伏するという筋書きですが、正史にはそういうものはないですね。

 思うに、普通に捕まって、普通に出身地の事情で動いただけじゃないですかね?司隷あたりは誰だか忘れましたけど、于禁なり、楽進なりがそっちから攻めてくる勢力を迎え撃っていましたし、結局曹操軍に参加して、その地方の被害を最小限に抑えるために参画しただけにすぎないんじゃないですかね?劉備張飛幽州涿郡の要請があって袁紹に就いたと考えるとスゴイわかりやすいのですが。

 劉備の場合は元々曹操につく気があったのか?献帝の元にただまっしぐらの馬鹿正直ものだったと考えたほうがわかりやすいんですけどね。一貫した理が無いですから。献帝勅令が降った以上、うん(こっくしとうなづいて、またはテヘペロ)であっさりと曹操見放しただけと考えたほうがすっきりする。

 劉備が裏切ったから、董承達朝廷内工作派が粛清されたのか。その逆か。はっきりしないのがなんとも。彼らが先に粛清されてしまえば、劉備としてはもうどうしようもなくなるわけですからね。自分もついでに殺されてしまうわけですから。破れかぶれに暴発したとしか言えないでしょうね。だからあっさり徐州を追われてしまったわけで。劉備に期待されていたのは、そこから攻めて来られないことだけですからね。実際青州を放棄したように、そっち方面から攻めるという選択肢はありえなかったでしょうし。はっきりいって劉備は補欠でしたもんね。参加できないからとりあえず動いたというアホの子論でもいいですがね。そもそも劉備袁紹政権下で曹操政権下以上の待遇を受けるとも思えませんし。結局のところ袁紹ともそこそこいい関係を築いておこう位だったんじゃないでしょうか?何があろうとも、まず100%生き残る。退路を確保しておくという戦略の延長上の結果でしかないという。

 顔良を斬って漢寿亭候ですから、破格の出世ですよね。しかし将軍位は上昇しない。他に軍功で出世した例は結構あったと思いますけど、こんな簡単に出世した事例はなかったと思います。帰参即候爵ですからね。まあ、これは曹操なりのそういう信賞必罰なんでしょうけども。やっぱり顔良を斬ってその勢いを一時的にストップさせたのはかなり意味があったんじゃないですかね?

 秦宜禄の妻が欲しいという話で嫁が美人だからとかどうでもいいんですが、その秦宜禄は袁術から漢の宗室の娘を娶っている。婚姻政策にあったわけですね、これもまた興味深い話。この杜氏という女性がどこの人物なのか?それで関羽がどういったコネを作りたかったが重要なんだと思いますけど、わかりませんねぇ。曹操が奪ったというより、普通に相手方の家族から関羽なんて!と嫌われたと解釈したほうが筋が通っていると思いますけども。

 関羽が去るときに本当に件のやり取りがあったんかなぁ?官渡で守ってる時にもう関羽の出番はないし、普通にどこかに消えちゃっただけだと思うんですけど。まあ、そういうやりとりがあってもおかしくないんですがね。曹操関羽と同様に優れた人物だと賞賛されますから。この正史を書く目的と合致してますね。張遼関羽と関係深かったのがあれですね。徐晃は同郷だから納得ですが。張遼が賊と交渉したように、関羽同様その時代の流れ人、流浪集団の顔役だったんでしょうな。

 関羽はどこまで蜀政権の中で動いてたのかなぁ?なんかもう勝手に動いていたような気がするんですよねぇ。本当に北伐の中の一戦略だったのかなぁ?樊城攻め。孫権関羽の背後をつくことにあまり理がない。魏が得するだけで、その合理的な理由を考えると、孫権関羽の下につくことをある程度是認していた。しかし、関羽が嫁をやるのを断ったり、援助が遅いだろ!っていうのは裴松之はありえないとしていますけど、あってもおかしくない気がしますなぁ。まあお前を樊城落としたあとで滅ぼすぞなんてのはありえないでしょうけど。

 孫呉としては関羽が襄陽まで落として、合肥の背後を断つ。それで初めて孫権合肥を手に入れることができる。まあそういう交渉をしていたはずですよね。襄陽攻略支援の代わりに合肥攻略支援をすると。関羽としては毎回ごちゃごちゃやってダメ。しかも七百でボコボコにされた事例を見て、かなりナメていたとしてもおかしく無いですよね。俺の手助けがなければ合肥を抜けないだろ?と。まあ関羽を独立軍とみなして、娘を嫁になんていうのは外交上君主の承認を得ずに勝手に進めるのは謀反と同じなんていう別の視点もまた提供できますが。

 さて、一番気になるのが曹操関羽の首が届けられて、それを祀ったというモノ『呉歴』という史料は信頼できるのか?さすがに諡号送られてはいませんが、諸侯レベルで葬儀の礼ってどういうことなんでしょうかね?

 司馬懿曹操に蜀に恩を売るために諸侯の礼ってのは演義か。晋書みてもそういう記述はありませんね。お隣の河内郡出身の司馬懿が地元の利益、意向を反映した結果がこの待遇だったのかな?って思ったんですけどね。とすれば敵方の大将に厚遇したことの説明がつくんですがね。あるいは翌年当たり曹操自身も亡くなることが視野に入っているからその葬儀のリハーサルとして調度良かったとかね。他にも重臣なんかはいろいろいるだろうけど、彼らの意向を飛び越えて自由に葬儀を取り仕切れるようなケースはまずないだろうし。

 洛陽遷都=王朝復古プロジェクトの一貫として、関羽の葬儀は組み込まれていたと見るのが自然な気がします。まあ、実際にあったとすればなんですが。そして関羽の葬儀の際に河東郡あたりの慰安、治安維持プロジェクトとしてなんかやったんでしょうね。施しとか。屯田辛い、帰りたいって話もあったし、戸籍を屯田から外してやる、本貫に帰るとか、それもあったでしょうね。地元なら真っ先に祀られそうですから。道教と結びついて広まるというのが己好みの展開ですがね。さてどうなんでしょうか?

 以前気になっていた曹仁関羽との戦争が城を破棄したという云々かんぬんの話は晋書の宣帝紀にあったんですね。

 魏文帝即位,封河津亭侯,轉丞相長史。會孫權帥兵西過,朝議以樊、襄陽無穀,不可以禦寇。時曹仁鎮襄陽,請召仁還宛。帝曰:「孫權新破關羽,此其欲自結之時也,必不敢為患。襄陽水陸之衝,禦寇要害,不可棄也。」言竟不從。仁遂焚棄二城,權果不為寇,魏文悔之。

 これか~。しかし、孫権は結局関羽戦争の後で、劉備が攻めてくることを警戒して結局攻めて来なかったわけでしょう?だったら襄陽以下の拠点が呉に奪われるなんてありえないですね。動いたら合肥から本隊来て挟み撃ちで全滅でしょうし。動くわけ無いでしょう。まあでも水没した城なんか当時じゃもう使いものにならないでしょうから、一旦撤退して新しく作りなおしたのか?それとも補修・修理でやれたのか?どうでしょうね?劉備が一年近くそこらへんでとどまってる間に、修繕してたんでしょうけどね、特にいついつ作りましたとか書いてないということは。まあ、晋書ですから都合のいいように書いてますけど、結局結果は変わらないんだからどっちでも違いはない。曹丕が悔いたってのは意味がわかんないですよね。