てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

許子将―許劭についての一考

あんまりたいしたことではないのですが、せっかくツイッターで呟いたのでこっちに一応まとめて転載をしようと思います。許劭や党人・党錮の禁袁紹などの「刎頚の友」グループは政治グループとして、政治活動を行うスタンスとしては距離があるという話から。

 まあ、別にだからといって全く違うというわけでもないし、そんなに目くじらをたてて違うぞ!と否定をする話でもないのですが。この時代のいわゆる清流派・党人というのは川勝論の清流派=のちの貴族である、という史書のロジック・偏向をまま受け入れてしまうことになりかねないので、個人的には力点を置く必要があると思います。ここを理解している・いないは、今のこの時代を研究する学者さんにとっては重要なテーマですしね。

 人物評論は郭太と並ぶ名人であっても、政治スタンスは彼は隠逸であり異なる。李膺=バリバリの反主流と深く交わった郭太と、許劭はスタンスが大きく異なる。彼は陳寔・陳蕃と交流せず、袁紹が一方的に敬意を払っただけで、他の官職就任の招きも尽く辞退しました。最後劉繇と一緒に行動したくらいですね

 ※劉繇については陶謙との兼ね合い、太史慈や薛礼・笮融・王朗・諸葛玄・朱皓・王朗などが関係してくるのでこれまた面白い話。特にあんまり許劭の人物評は残ってない中で、太史慈に対する否定的意見が残っているという点は注目すべきでしょうね。ついでに青州の劉繇と、徐州の王朗に対して諸葛亮孫策が江東を席巻したA級戦犯と名指ししているのも面白いですね。

  樊子昭は許劭・和洽と並んだのに出て来なかったのかな(注樊子昭は行商人あがりらしい。行商人出身で他二人と並ぶほどの名声を獲得できるとは、なかなか重要なことではなかろうか。樊陵、樊ってあんまり見ない姓だなと思ったら、樊稠とかいくらでもいましたね。中常侍樊豊の一族だったり、なんかつながりがあると面白いのだが長安から南陽・女南にいたる樊氏ルートとかね。)。

 女南止まりでその後政界なり、政権参画がない。人物評止まりだったのか。しかし許劭って面白いなぁ。自分が功曹となっただけで、女南の全人事権を握っちゃうんだから。袁紹の侠としての性質を考えれば、お供・子分がワイワイやってくるのは当然。それを帰らせたということは侠に否定的なのだろうか?

 袁紹は濮陽の令からどうして本籍に帰ってきたのか?(注母の喪だそうです)客を帰らせた先は洛陽か?全国に散っていったのか?まあいずれにせよ、本籍の郷里での許劭の存在に敬意を払ったのは確か。んで許劭が頴川に行った時、親玉格の陳寔をスルー。これは女南・頴川対立なのか?そして同郷の陳蕃もまたスルー。

 少なくとも女南許劭は陳寔らの頴川グループとは一定の隔たりがあったことは間違いがない。曹操がまだ無名の頃やってきたというのが面白い。孔融李膺を選んだ話があるように、曹操は許劭を選んだ。頴川の誰かではない。袁紹の後輩である曹操が許劭を選ぶのは至極必然か。なぜこんなことに気づかなかったのか?孔融の後の政治スタンスが、李膺によって規定されるのと同じレベルでこの許劭の選択は重要な話なのだ。

 許劭は三世にわたって、三公を輩出した許氏の一族。中央政界に絶対的な影響力があった。その一族であるがゆえに郷里の女南でまた絶大な影響力を発揮したと。中央政治の「腐敗」を誹謗・糾弾する彼のスタンスからすれば皮肉なものである。その七光りゆえ影響力を持ち、その恩顧政治を非難するのだから。彼の政治非難の原動力はその一族の腐敗にあるという許劭の大いなる矛盾。

 しかし、中央政治家は雒陽で過ごすもの。一時的な郷里の出仕ではなく、女南においての月丹評であるから、元々一族で期待されなかったか?あえて引きこもったか?雒陽で会ったとしてもおかしくないが、礼を尽くしたとあるので、おそらくわざわざ曹操自ら女南に会いに行ったと考えよう。許劭はこれを拒む。

 その人をいやしんだというか、そもそも初めから無名なんだから評価のしようがない。普段から交流があるならともかく。名刺を渡されれば、あの家のあの子かくらいは知っているだろうが。脅したって女南の人間でもない人を評しようがない。曹操はどうしてだ!とゴリ押しをしたかもしれない。まだ若いし若さ故のなんちゃらである。

  許子将が人を評したと色々言われても中央高官ではあまりいない。そもそも中央に推し上げようなどという意図もなかっただろう。本人も出仕をしないくらいだし。だからこそ、人物評論が評価された側面があるだろう。女南においての人物評以外は公平な評価だと世間から受け止められた。党利党略に偏らない公正中立な評価だと。

 曹操に対する治世において姦賊という評価は宦官に連なる今の政治の否定、曹操がそのスタンスになくても、出自・コネに対する警鐘を鳴らした。実はこの言葉は自分の一族に跳ね返ること。自分自身も治世においては姦賊となる一族の人間だから出仕しない。曹操への戒めは自分たちの一族への戒めであり、そうなるなよという忠告を施したとも受け取れる。

 曹操は間違いなく二世三公、二代目として三公のどれかについて、そしてその子や孫がついで三公にまた就任し、許一族のようになるのが目に見えたであろうから。

 宦官虐殺事件の時、袁紹はまさにその一族許相を斬っている。同じく司隷校尉の樊陵も。これが先ほどの樊子昭、もしくは一族か(南陽の人で別人ですね、確か学問を学ぶとか何とかで拒否られたとかそんな話があったようななかったような)?楊彪陶謙に招かれても応じず、劉繇と行動を共にして死んでいる。そこに袁紹による招聘の記録はない。許相を斬ったことが影響か?

 おそらく女南の人間はもう十分、袁紹にとってそこまで重要な人間ではない。招聘するとしても華北を制して、華中を制したあとで良い人物だったと思われる。いずれにせよ、お互い意識する距離の近さにはあったが、政治グループとしての近さはない。強硬派としての侠集団のトップである袁紹と、党錮の禁に関係した政治グループは連続性がある。その党錮の中心人物李膺やら陳蕃やらと距離があった・交流を深めなかったという時点で、その後袁紹と関係を深めたという記録もない以上、許劭はいわゆる「隠逸派」グループに分類される。

 その後の政治的展開次第では、「権道派」、日和見で政権に参画して一族の保全を第一に考える事になった可能性も否定できないだろう。

 のち許靖と仲違いしたとある。月旦評も初めは汝南における人事の相談・格付けから始まったような気がする。それが段々、いろんな地の人物・能力に広がっていき、女南以外にまで影響力を及ぼしてしまった。とどのつまり人事権の延長。許靖と許劭にどんな思惑の違いがあったか気になるところ。

 ということを考えると、ろくに人物を誉めそやしたりしなかったのは偏屈だったり、自己の才に自惚れていたのではなく、相互評価・格付けというものによるコネ人事の否定、反発とも捉えられる。特にオチもなく、おしまい