てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

宦官の続き、宦官についての若干のコメントと侠について

これの続きです→宗教原論から―宦官が社会にもたらす機能についての社会学的分析

漢の宦官政治・制度は唐・明・南宋後期(確か)・清などの政治を見る上でも非常に重要な要素を持つ。宦官制度の端緒はこの後漢の時代にあるのだから。どういう経緯を以ってして誕生したかを解き明かすのは非常に重要だ。

 政治腐敗・組織の機能不全を避けるためにはcheck and balancesが果たされなくてはならない。官僚政治の必然的・不可避的な腐敗、それを防止するための制御因子として宦官制は存在する(注当然のことであるが、これは必ずしも宦官性でなければならないという事ではない。そうでなければ現代政治は宦官制なくして動かないだろう)。

 では後漢宦官制度はどのようにして生まれたか?霊帝桓帝→順帝→…?間違いなく順帝にまで遡るのは論を待たないだろう。三公九卿の既存政治制度に宦官・外戚という新制度が加わった。桓帝で宦官一本化、その本格化がなされ、霊帝外戚や三公九卿主導の改革などが見られることからまた少し、順帝政治の方向にベクトルが戻るという結果になっている。

 宦官が宮中勢力として何度もクーデターを起こし皇統を正すということをやっているので、そのあたりに答えが求められそうなのだが、カンでしかないが、和熹鄧皇后あたりにその端緒があるのではないか?という気がする。垂簾政治に最も必要なのはその政治を実行に移す手足。それに宦官が選ばれるのは歴史が証明するところ。

 幾度か、皇后によって執政、摂政があるため皇后による政治というのが非常に大きな役割りを果たしただろうと思う。皇后による政治は必然的に宦官の制度化、システムとしての成熟を要求する。彼女が一体どういうビジョン、どういうシステムとして考えていたのか?それとも全くビジョンはなく現実的な運用に任せていった結果、宦官政治家(あえてこういう表現でさしずめ既存の政治家は地方名望家政治家と中央名望家政治家かな?あとは売官による商業政治家、騎士階級でもいいけどね、ローマを応用して)の層が厚くなっていったのだろうか?

宦官についての言及はこんな所で。次に侠について。

 まだ、侠についての史料中の検討しなおしをやってないうちからこういうことを書くのはあれなのだけれども、ちょっと侠について若干のコメントを。

 袁紹が侠のリーダーであることを失念していたわけではないが、どこか中央の政治に影響のある彼らと劉備のような侠はぜんぜん違うものとして捉えていた。豪侠、任侠、義侠、遊侠、そして以前ちょっと書いた軽侠などというものもある。侠とはいっても幾つかタイプがあったことが想定される。史書ではただ侠と記される例も多いようにもみえる。

 司馬遷の任侠についての評価、刺客列伝などの評価などを見てもわかるように、ある一定の評価をしている。親の仇討ちとか、復讐の手助けが肯定的な評価をされているようにね。確か宮崎市定教授の分析で、戦国四君の趙君だったかな?客を専任単位で連れて歩いており、その中の客が村のどっかを通った時、バカにされたとかいう理由だけで、その村一つをまるまる滅ぼしたという話がある。

 このように侠は社会に良い働きをしたり、悪い働きをするものでもある。印象だが南のそれにのみ表現される軽侠というのは社会秩序が未だ整っていないために、侠は簡単に粗暴な態度・行いをとるまさにヤクザの面がより強く出たのではなかろうか?だから孫堅は軽侠を以ってして婚姻の差し障りに成ったわけで。

 未だ分析していないので、断言はできないが、好意的なそれは任侠や義侠。遊侠は一定の所ではなく、広い範囲でネットワークを持ち渡り歩くもの。豪侠は豪族など社会の上の階層に雇われる客のようなそれ、武家に囲われる浪人用心棒のようなものではないかと考えている。

 あの時代に名をなした殆どの群雄は侠という評価をされている。袁紹にしても袁術にしてもそう、あの董卓にしてもそう。侠という評価をされる人物でなければあの時代一個の領土支配者・経営者としてやって行けなかったのだろう。曹操のような官職でそこそこ間違いなく出世するような人物がなぜ侠と交流を持ったか、乱世においてはそういう勢力こそが力になるということを知っていたからだろう。

 劉備袁紹のもとに奔る時、そこになんの共通点もない。違和感しかなかったが、そうか、侠というそれでつながっているのだ。中央政界のコネだけではないし、官界の非主流派である奔走の友グループ、さらには劉備のようなおよそ政界に入れない、せいぜい地方の官吏止まりの人間にまで及んでいたということか。

 中央官界のそれ、雒陽の子弟のグループというだけではなく、侠としてのそれでもあったのだろうなぁ。曹操袁紹の中央侠グループはあらゆる地方の侠と深い関係かはともかくとして、交流を持っていた。侠で有名な人間は大概知っていたのだろう。官界でのああ、あそこの地方のあの人か、なんていう名刺がある、侠ならある程度しか知らなくても、その地方の顔である侠に有名な誰々を教えてくれと言われたら、すぐ名前が上がるようにはなっているだろうし。

 重要なのは袁紹にしろ曹操にしろ、侠の誰かが政権参画を願ってきた時そこまで難しくなかった。至極当然だったということだろう。公孫瓚が黄巾を降して30万くらい自軍に取り組んだという話があるが、それもこの一端だろう。黄巾にしろ、侠にしろ、人の群れに違いはない。李通のように一族を率いる部曲が政権参加したように、そういった部曲が政権に帰属するか、黄巾に入るか、賊になって流れるか、全て同じ。現れの形態が違うだけ。

 袁紹曹操袁術政権の違いとは、この点に大きく帰因する。袁術の場合、侠のようなものは政権参画しても重用されない。それこそ孫策が離反した大きな要因ではなかろうか?李通がその後そこそこ出世したようなパターンは袁術政権下では望めなかっただろう。おそらく後期にもなれば賊に軍を任せるだけではなく、もっと政権内で重用しようという動きも見られるのだろうけども。

 さて、そろそろ黄巾・道教の話を書くかもしれないから、また黄巾について少し。黄巾の組織形態はやはり、侠や賊。そういう集団を取り込んだ教団。果たしてそういった集団をどこまで統率できていたのだろうか?張陵が弟と三人での組織形態にしていたのも、大きく3つほどに分割する必要があったからではなかろうか?将軍自称は軍隊としての統率、強い指揮権の必要性かもしれない。

 最後に宦官と黄巾のつながりについて、宦官と黄巾がつながっていることについて、なんてことだ!賊と内応するとはこの不届き者め!なんていう的外れのことを書いている人が誰か忘れましたがいました。宦官は商人や地方の有力者とつながりがある人間。それが宦官になって中央政界に入ってくるわけで。最初から地方人事や政事に深い関係を持つ。まああとから出世して地方に影響をあたえることもありますしね。

 党錮に代表されるように地方政治・人事などをめぐっての争いの裁きは中央に依存せざるを得ない。地方の新興か旧来かわからなくてもそういった対立を前提として宦官がいる。宦官が主導して、地方秩序を取り締まろうというのだから、結局色んな政治勢力につながるに決まっている。史書にある濁流的な話は殆ど後世の作為。当時から権力に近い人間には当り前のようにアプローチしたに決まってますよ。張譲の門前にずら~っと人や車が並んだって書いてあったでしょう。あんな感じです。

 宗教勢力が出た時点で、邪教だ滅ぼせ!なんてならない中国の風土ですから、治安維持に貢献すれば、そのまま社会扶助組織として公認するに決まっているでしょう。まあ黙認でしたけどね。そのような新興扶助組織をスルーするはずないでしょうに。

 こういったつながりを理解しないとこの時代の本当の社会分析はできないのではないかなぁと思うわけです。

 さて、次は「侠」と「巫」どっちからやろうかな?また史書に手をつけて逐一地道にやっていくか。