てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

書評― 「死体」が語る中国文化/樋泉 克夫+岡田英弘「妻も敵なり」と貝と羊の中国人

「死体」が語る中国文化 (新潮選書)/樋泉 克夫

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 さて、この本の話。これがなかなかのヒット。是非この話をせねばというもの。中国の宗教といえば儒教。その儒教の重要な点をどれかひとつ選んで上げろと言われたときに意外にその本質が見落とされる、儒教とは葬式宗教だということである。だいたい孝とか忠とかを上げる人がほとんどだろう。あるいはあれは倫理学であって宗教ではない、とか言って屁理屈をつける人もいる。そんなことはおいといて、儒教を理解するために、中国人という観念を理解するために、葬儀・葬式をどのように捉えているのか?という点を無視することはできないということだ。

 かつて岡田英弘は葬式に全力を上げる中国人の文化を見て、「中国人は死ぬために生きている」とその本質を喝破した。また道教における願いを叶えてもらおうとするときに功利主義的に「いくらなら叶えていただけるでしょうか?」と神と交渉をする姿を以ってして、なんて宗教心・信仰心の薄い文化・民族であろうかとも言っていた。こういう点では筆者は反中的とでもいおうか、あまり学者として公平・公正なスタンスを持っていないので割り引く必要がある。

 しかしそういう点を別にしても筆者が中国を分析する上で優れた指摘をしてきたのは事実だし、その業績は非常に大きい。中国人がAという目的を達成するためにBという手段をとって、Cを攻撃する。Cを攻撃することで初めてAという目的を達成する。はじめからAの目的を達成するために政敵を攻撃するなり、直接的な手段にでるなりをしない。直接要求するのではなく、遠回りに遠回りに向かっていく(日本人の要求を伝える時、直接主張せずに、遠まわしに要求して、丁寧にお礼をいうそれと絶好の比較対象の行動様式であろう)。

 この原理を「指桑罵槐」―桑を指して、槐を罵るという中国人の性質を説きました。このように中国人の政治ゲームの行動原理を説いたのはおそらく筆者が初めてではないだろうか?これを理解しないと現実の中国政治の流れ、公式声明、内部のパワーゲームを読み取れない。

妻も敵なり―中国人の本能と情念/岡田 英弘

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 この本でその原理を説明して、反日論・靖国批判・歴史批判は趙紫陽ら改革派と長老ら・保守派の政治闘争にすぎないと説明した。内紛・内政争いが外交に反映された形であると説きました。もちろん全てがそうではありませんが、理解しておくべき重要なロジックの一つでしょう。
中国意外史 (Shinshokan History Book Series)/岡田 英弘

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 こっちかな?中国人は死ぬために生きていると書いてあったのは?ちょっとうろ覚えですが。まあ、どうでもいいちゃいいんですが、ツイッターで↓
貝と羊の中国人 (新潮新書)/加藤 徹

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 この本が出てきて面白い云々の話がありまして、うーん、そうかなぁ?と。昔読んだはずなんですが、印象に残っていない。まああんまり面白くないな程度の感想しか残っていなかったんで読み返して、つまらなくはないけれども、岡田氏が言った、「指桑罵槐」の原理の裏返し。京劇が政治非難対象となって、有名役者が吊るし上げられることがあった。両脇から引っ張り立てる人が実は味方で、その役者を守るために敢えて過激に無理矢理その人を引っ張り出す風を装っていたという。政治闘争が日常茶飯事の中国においてそういう思想と行動が一致しないのはむしろ常識なんだという指摘はなるほど!ですが、指桑罵槐を知っていれば、まあそうなるだろうなという話でしかないんですよね。

 つまりもう既に知っていることが多かったから、あんまりそこまで惹かれなかったんですよね。三国演義での話なのか、正史の話をしているのかよくわからず、士か侠かはっきりしないから魅力に乏しい曹操。どっちかはっきりしていたら天下を取ったとか意味不明なことを書いていましたし。文学者ゆえなのか分析がよくわからんなぁ?という気になりましたね。

 タダ、言語の話、中国人の言語は必ずお茶を淹れる一つをとっても、私があなたにしてあげるという、してあげたということを必ず強調する構造になっている。恩をしっかり明確にすること、それによってしっかり後で返せよということを示すようになっている。

 文化人類学につながるテリトリーの話。普通の日本人ならしないが、中国人はテリトリーが広いから、止めてある自転車・店の前にある傘立ての傘は所有放棄とみなしてもっていってしまう。

 そういう感覚は面白いし、そこに絞ってやったほうが良かったと思いましたね。中途半端に手を広げてピンとがぼやけたという感は否めませんでした。

 とそういう余計な話はここで終わり。本義の葬式について。この本で葬式や死生観について極めて綿密で優れた分析が展開されているというわけではないのですが、ヒントがたくさんありました。

 ○葬式場が病院の直ぐ側にある=死を現世と続いたもの、嫌なものと考えない。

 ○なるべく死体を長く保存するとあの世でもいい扱いを受ける(=つまりは身体髪膚を傷つけるなというやつですね、それはあの世でのためなんですね=死体にムチを打つのもこの延長)。棺や玉衣、鎧みたいなやつで全身を包むのもなるべく死体が朽ちるのを避けて、この世に長く残すため。長く残るほどあの世で出世する、またはこの世に干渉できる。

 ○高い棺、立派な棺を重要とする、埋葬品にあの世で生活する一式のものを揃える。勿論お金もある。

 ○光武帝の薄葬令から、毛沢東のそれまで中国は一貫して葬式・墓を重視する

 ○死んでから遥か遠く離れた地から延々故郷に帰る。数年越しも珍しくない。

 さて、これらのことから見いだせるのは一体ナニか?中国人の死生観はこうなる「あの世とこの世は同じ」。日本人や前近代社会ではあの世とこの世でつながっているということは珍しいことではない。中国人の場合はママ同じなのだ。この世→あの世→この世→…。と延々リピートするのだ。道教の社会で階級社会になっているのがわかるようにあの世でまた違う世界の階級社会に転生するのだ。西遊記孫悟空があの世とこの世を自由自在に往来するように、つながっているどころか同じなのだ。

 ヒンズー教の輪廻転生のように六道界を巡り歩くのではなく、この世とあの世を渡り歩く。変種のヒンズー教なんですな。

 中国人のこの感覚を知らずして政治・歴史を読み取ることはできないでしょう。ということで次のテーマは「葬」ですな。「侠」に「巫」に続いて検索してまとめなくてはならないキーワードが増えました。丁度、読んでいるところに季節の衣服だけで、簡単に葬ってくれという記述が目に付いているところだったのでタイムリーすぎる話でした。棺の釘を奪うとか、結局一番当時の中国で浪費されていたのはこの葬儀代だったような気がしますね。葬儀・葬式関係の論文はどれくらいあるんだろうか?専門家いないだろうなぁ…。こんな重要な概念なのに。中国ってエジプトの墓泥棒みたいにそういう専門職はあったのかなぁ?戦乱のたびに荒らされて貴重なものは全部失われているんだろうけど。