てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

曹丕と曹植の政治的立場の関係性から色々

「私家版 曹子建集」ブログさんから臧覇曹植の関係について書かれていて、それに関するツイートが結構溜まったので、ちょっと一本にまとめておきます。

 そもそも曹植の臨淄候はこの地方のためってことですもんね。曹操を祀りたい=儒教国家路線への抗議だろうなぁ。結局のところ曹丕政権=儒教中心の国家、既存漢王朝の路線継承。曹植政権→曹爽政権に至るまでの新理念、仮に文学としよう。その文学派の魏王朝本来の路線に戻れという要素を無視すると魏王朝時代の政治の流れがわからないと思うんだよねぇ。本来の路線というのは、曹操は本当は曹植にしたかったけど、現状維持・現状に合わせて仕方なく曹丕にしたという考えでね。落ち着いたら当然、曹植路線にすべきだ!というね。

 何晏に代表されるような玄学、仏教などを混合した新学問。儒教VS新学問という流れかしら?玄学は当然教団としては道教系統の教団としてつながっていき、儒教系統の既存政治秩序とぶつかる。漢代を通じての自由民がいて、その多数の自由民を前提として成立する郷里秩序。その背景にある儒教政治体制。それに対し屯田兵など兵戸のような身分、また奴隷・豪族所有の部曲民など自由民がゴッソリいなくなった現状に合わせた新時代の玄学、まあ仮に道教的政治体制としましょう。そういう世の中にふさわしい思想を中心にすべきというね。

 まあこの時代の思想・学問というのは=政治ですから。これまでの学問から中心のそれが大きく変われば政治も必然的に大きく変わるという。何晏が論語の注をやったのがまさにそれといえましょう。儒教道教かっていうようなイエス・ノー、白黒・ゼロサムではないんですけどね。どっちにせよ必ず儒であれ道であれ、昔からあった思想を必ず包括しますから、中国思想・宗教史見てもわかるように。中華で生まれたかどうかってのが重要なところで、異端だ!といって排斥する考えはあんまりないんですよね。

 道教教団といっても、後世のようなそれではなくて、変種の隣組とでもいうか、まあ既存体制に合わせたシステムになったでしょうけどね。まあ道教教団はともかく、概ねそういう流れだったと思うんですよね。

 曹丕魏王朝に逆らう漢王朝派、曹植曹彰臧覇…という連合は己はありえないと思うんですよね。曹丕を討つために漢朝復興までは行かない。または漢王朝復活でそれに臣従する臣下としての魏王国・魏王曹植とか。曹植が死んでしまえば魏王朝は潰れちゃうだけのようなきがしますし。

 これに袁家が絡んで、漢王朝を廃さずに、東国武士・幕府みたいに袁家私領を永続化せるプランがあった。そのプランがあったからこそ曹丕曹植にそれをやられるんじゃないかと恐れていたなんて筋があれば面白いんですけどね。まあ裏付けが無いので単なる妄想になりますが。

 実際漢の復活って支持する勢力いるかどうか。殆ど魏のもとにシフトしているから呉とか蜀とかに大敗でもしない限りうちからそういう子王勢力が出てくることはありえないと思うんですよね。まあだから万一のリスクマネジメントで曹植を殺すことに躍起に成ったという話は理解できるんですけどね。

 曹彰曹植って袁熙・袁尚を連想させますよね。今度の曹家では袁尚が負けましたけど。袁譚曹丕で既存システム護持、いわば保守派ですね。んで袁尚改革派というか革新政治派が勝ったと。曹操政権で屯田民、私兵・私領が多いという性質と、袁紹政権の豪族統治がかなり進んでいるという事情が影響しているのでしょうかね?そうだとするとむしろ袁尚の方が保守派・袁家的な意味で既存秩序維持という形になるのでしょうか?

 曹彰=袁熙だったとしたら、なんか結構説明がつくかもしれませんね。袁紹は北方遊牧民とそもそもそんなに対立しなかったですから、袁熙の出る余地は自ずから小さくなるというか。外交官として幽州、もとい優秀だったということになりますかね。

 というか曹植暗殺するくらいならその前に献帝殺すと思うんですよね。どっちでもいいですけど、蜀だったら必ず魏を倒して、献帝もしくはその子孫を一旦就けて、王室復興→禅譲の流れですからね。蜀・呉に負けるなんて到底予想してなかったでしょう。余裕こいてた証拠だと思いますよ。献帝生かしていたのを見ると。

 明帝の継承事情を考慮するにそもそも曹丕にあんまり子供がいなかったですから、曹丕の死待ちというのもありえますしね。曹丕が結構あっさり亡くなったのは道教徒たちの呪いの結果だったりして(笑)。

 まあ絶対ないとは言えませんが、当時の情勢考えて曹植始末までは行かなかっただろうなと感じます。曹植が酔っ払って任地に赴かなかったのも、わざとで、曹丕を安心させるためだと考えてます。曹植はお家争いで新王朝を台無しにしてしまうようなことだけは絶対避けようと思っていた気がしますね。

 そして非主流派というものに共通することですが、そういう人たちは有力者と連携を取らないといけないですから、連携が絶たれてしまうともうだめぽなんですよね。曹彰曹植どっちか除かれればその時点でもうアウトですからね。仮に組んでクーデターを図るなら、どちらかが欠けてもできなくなっちゃいますから。なにより曹植政権の中心人物が軒並みもう魏諷の乱とかで除かれちゃってますから、そういう意味でもかなりムリゲかと。

 武力で政権取った!→政治を実行に移すブレーンが、手足がいない→混乱→王朝おしまいですからね。

 曹彰公孫瓚型みたいになるならともかく、辺境での軍功のみで中央政界にコネありませんから、彼が主体となるのはかなり厳しいでしょうね。江南に、蜀に辺境討伐を一任されるくらいの成果を上げて、無数の故吏・コネをつくるまで数十年は転戦しないと厳しいでしょうね。まあ司馬懿みたいにね。80くらいまで長生きしないと無理でしょうね~。

 政治基盤がある中央の有力者が、継承権を持つ曹彰を担ぎ出すという可能性はもちろんあるんですけど、当時の曹丕政権で曹彰担いで、次期皇帝に就けて取り入ろうという動きをして成功しそうな有力者ってあんまり思い当たらないんですよね。十年・二十年経って政界のパワーバランスが変わったらまた話は別なんでしょうけども。

 曹丕の粛清―楊俊や鮑勛、蘇則などは粛清というか自己の権力・好ましい政治体制に触れるものはどんどん潰していくものであまり政権転覆の話と関係ない気がするんですよね。勿論その要素があっておかしくないんですが。むしろ曹丕は粛清で政権を強化するという点で弱かった気がしますね

 そこら辺手をつけていないので印象なんですが、曹丕のそれらの粛清と尚書や都督の人事は関係があったとあまり思えないんですけども。そこら辺の人事は粛清関係なくてもそうなったんじゃないかと。粛清して地方への影響力をもっと強めてもおかしくないかな?という気がするんですけどね

中央政治についてはそれほど曹丕政権に危うさがあったという気があんまりしないんですよね。青・徐なんかが安定しないように、むしろ魏が出来てもまだまだ漢末の混乱を引きずっている辺境が危ういんだろうな~という方が強いですね。

 あと、以前書いたように、臧覇=反乱とか青州兵っていうのはどうなんだろうなぁ?という気がしますね。その後曹丕に軍事機密の相談に預っているように、兵権取り上げられたとはいっても、彼は別に失脚はしていませんからね。曹丕政権に反対して任地を勝手に離れて、どっかいったってのは間違いな気がするんですよね。

 そんなお家の一大事に任地ほったらかしてあさっての方向に行くとは思えないんですよ。もしそんな事やったら、問答無用で魏王朝成立後討たれるでしょう。いくら臧覇の影響力が強いといっても、そこまで反抗の意思を見せたら妥協の余地は普通無いですよ。

 曹丕とその後の関係が悪くないことと、もう一つありえないと思うのは彼はギョウに家族を預けてますから、反抗というのはまずできないはずなんですよ。曹丕が賈逵と一緒に雒陽から遺体を運ぶ最中ジャーンジャーンなんてやって逆らったら、ギョウに就いた瞬間一族皆殺しでしょう?そんなリスク犯すなんて思えないんですよね。

 むしろこれは3割くらい曹植殺すなよという牽制で、青州兵の暴動とそれにともなって不安定な青・徐を彼が真っ先に緊急動員・任地に駆けつけたと見るのが自然だと思うんですよね。遼東・孫呉の連携に、反乱そのリスクのために真っ先に緊急配備された、自主的だから独断ですけども、そういうことだと思うんですけどね。

 そんな、己のお気にの臧覇はおいといて、制度の話。気になるのは魏の制度下でどれだけ中央・地方人事のピラミッド化、中央集権が進んだかということ。後漢は普通の帝国に見られる中央>地方のような明確な序列化はされていなかったから(中央政界に進出するのはその地方の一番ではなく、二番・三番手豪族)、曹丕・魏になってそれがどうなったのか?

 魏や晋が中央と地方の人事制度をどう変えていった、どういうモデルで動かそうとしたかというのが大事なテーマだと思います。唐に至って、科挙など人事のピラミッド化・中央集権は一応完成するわけでその過程としてどういう制度だったのか?

 

 国家が把握できる人口がごっそり減りましたし、地方郷里の人事・官制はかなり無力化していったのかな?という気がしますね。北魏あたりで里とか、戸籍が再編されるまで中央と地方の人事一体化はなくてかなりカオスだったのかな?というイメージなんですけども。まあよく解りません。

 漢→魏晋と表面上の基本構図・官制は一緒でも、地方郷里の私有化=豪族による人民管理は比較にならないほど進んだから、むしろ中央の官職はあまり重要にならなくなったのではないか?晋の王国による分割支配も領域を区切って管理しないと上手くいかないだろうという現状があったんじゃないかなぁ?晋の場合は州牧以上、王公未満という中間形態の政治枠組みが求められたゆえの司馬王家の封建だったのかな?という気がする。晋の封建された王国の規模ってかなり小さいような気がしたんだけど、どうだったっけ?

 

 そんなところから必然的に王家同士が中央権力を求めて争うという構図につながっていったんじゃないかな?