てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

漢末の人口について+昔の見直し

>政権末期で急激に国家が把握する人間の数が膨張した

 とまあ、このことから漢末の人口についての一考を書こうとして、そのまま忘れていたらしく。たまたま半年か一年前ひょっとして二年?のそれをリンク貼るため、さまよっていたら見つけた。ああ、これ書いてなかったなぁと。なかなかう~んで、その続きがどうもまとまらず放置してそのまま。今回ちょっと思いつきがあったので復活させようと。あとはいろんな思いつきレベルの付け足しでお茶を濁そうと。石井仁さんの三節の見直しから思いついたことを足してね。

 人口動向についての分析。157年人口が5600万を超えただけでなく、戸も1000万を超えている。全盛期和帝時105年には5300万、戸は900万。参考として前漢のAD2年平帝時には、人口5900万で、戸は1200万を超えている。さて、この最盛期の数字に共通するのは数字だけではない。あんまり具体的な裏づけはないが、色々考察してみる。

 まず、前漢後漢末という政体末期ということに着目してみる。なぜ国力=人口の時代にこういった事態が起こっているのか?国家が管理できる人口が減っているのならば、簡単に説明が出来る。年代順に、5000→4000→3000万と減っていってくれるのが、常識にぴったり合う。無論、184黄巾の乱まで、約25年間かなりの人口流出があっただろう。

 ~と、この2段落しか書いてなかったのよね。んで続き。だいたい平均して人:戸は一戸あたり5~6人。 105→157で300万人増加しかし戸はたった100万、単純計算で増えた人数を戸に割り当てれば一戸あたり3人。少なくとも健全な伸びではない。国家が把握する戸籍上の人間は全員自由民でいいと思う、その前提が間違っていたら無意味だけれども。新設できる戸が少ない=余剰がない、新家族・分家がかなり厳しくなっていると考えたい。

 国家として既存の方針=なるべく多くの人を管理したい、戸を増やしたい。戸籍の数字=国力というやつだ。しかし前漢末のように、納税できない名前だけの自由民・数字上だけの人口・家屋というものが膨張した結果なのではないか?と考える。

 天災・反乱・異民族の侵入で世紀末覇者のようなカオスのようなイメージを抱いていたが、あと光栄ゲームのような洪水・日照り・イナゴ・疫病の嵐で人間はバタバタ死ぬというそれ。実際はそれほど人は急激に死んだりしなかったのではないかと思った。そしてそのほうが流れとして説明が合いやすい。そう考えると政治の流れと辻褄があう。

 己の考えるのはこうだ。通常天災や反乱の勃発で混乱<disorder>が発生する。そこで亡天下で人が1000万単位で亡くなり、国力・食の喪失→反乱・夷狄侵入→人が死ぬ→更に国力が…という悪循環が止まらなくなる。しかし本当の姿はこれではなく。むしろ人が想像以上に「死なない」からこそ後漢末の問題は起こったのではないかと思う(おそらく前漢も)。

 黄巾の乱が起こるまで人がバタバタと死んで、血も涙もない状況だったらとっくに全国レベルの反乱になっている。理不尽な身内の死ではなく、新天地で生活できないという要因のほうが大きい。

 一箇所に人が急激に集まる。膨大な数にふくれあがった人の群れをコントロールしきれなくなる。それこそが本当の反乱のメカニズムなのではないか?と思う。

 むしろ人が1000万・2000万という莫大な数で死んでいれば、自然に人口調整が成立して反乱が起こることはなかったのではないだろうか。自然環境の変化から、社会環境の変化からすると、むしろもっと天然痘レベルで一つの地域・国が消滅する規模で死ななければ、社会の均衡が成り立たなかったのではないかと思う。

 本当の問題は人が「死ぬこと」ではなく、「生きていけないこと」。中国人は生まれながらに政治的動物であり、政治学の達人であるから、生存するためのネットワークが張り巡らされている。彼らの行動原理は<survive>であり、彼らの生存本能が見事に発揮され多くの民が生き残った。ちょうど名士さんたちが各地に流れたり、分家してネットワークを貼っているようにね。そうして流れ着いた先で新しい生活を始めた。それも膨大な数の人々が。

 反乱とか天災とか、それらはそれらで大問題なのだけれども、それは直接的要因ではなく、本当の問題とはその新生活だと思う。南朝でいう僑民・白戸籍だっけ?その対策失敗が本当の問題ではないだろうか?まあさんざんもったいぶってきたけども、徐州虐殺もこの元からいた人間と新しく来た移民の衝突が原因だろう。

 黄巾がその発生初期で(#゚Д゚)ゴルァ!!と王朝から目を付けられて叩かれなかったのも、もはや国家が既存のシステムで吸収できる枠をオーバーしてしまった結果にある。彼らや豪族があぶれた人の群れを吸収したから、そうしなければ混乱への対処の仕様がなかったら国家も黙認したのだろう。というより豪族が吸収していく一形態としてしか黄巾の動きは認識されていなかったんじゃないかな?

 で、肝心なことは157年かどうかはさておいて、だいたいそこらへんが既存制度のターンオーバー・転換点で、これまであまり豪族の強大化など公的には絶対許さなかったと思うんですよね。あってもここまでだという暗黙の了解で留めるそれがあった。おやつは300円までみたいに、一豪族1000人超えたら潰すぞみたいな。

 ところが国家がもうどうしようもなくなってしまったから、豪族に対してその枠を取っ払った。んで豪族が奴婢として客として、どんどん吸収する。国家が既存システムで管理できなくなったゆえ、治安維持として豪族たちの吸収を容認せざるをえない。またコントロールしようとしても、変化しつつある情勢にどう仕様もなかっただろうしね、手がつけられない。抜本的対策を取り用もない。あるとしたら夷狄を新中央軍で叩いて安定させ、辺境に流れてきた民を移すことか?相当非現実的だと思うが。

 もしくは国家基本方針を完全に転換した。国家→自由民、から国家→豪族、の形へ。もちろんこれはざっくりすぎだけど。巨大な豪族の誕生や、方によって組織化された黄巾の前兆・プロトタイプをここに見出すことができますし、同様に宦官政治の理由もここにありますよね。

 地元で急激に豪族化する、あるいはその逆で社会構造の変化についていけない。そういう勢力が中央宮廷に宦官として入り込む。豪族・黄巾・宦官全てのをひとつの流れとして理解できると思うんですけどね~。この考え方は。

 またそうすると順帝時代に宦官が一定の地位を占め、桓帝時代になって宦官一尊ともいうべき、宦官偏重も同様に理解できると思います。あとは梁冀とかそれ以後の外戚がどういうスタンスだったのかというのが気になるところですね。なんか最近外戚がよくわからなくなってきた。竇憲とか梁親子とか竇武とか何進とか自分の中でうまく流れにはまって来なくなった感じがする。もやもやする。

 そういや梁冀は人口最盛期を記録する前後に当たるなぁ。梁冀の大政翼賛会はそのふくれあがった民を吸収した豪族が一時潤ったためそこまで文句が出なかった。その変化にうまく適応した人間を取り込んだ結果なんだろうか?梁冀の革命もこの新変化をいち早く公式な制度にしようという性質があるのだろうか?

 (そういえば宦官について、書き忘れていたことですが、己も宦官を分析してこの時代の重要なことがわかるとは思ってはいません。むしろ唐とか明とか後世の方で重要なテーマになることかと思います。その変容をたどるための端緒としての研究意義ならあると思うのですが、多分この時代の宦官やってもあんまり史学的な意味は出てこないかと思います。何より史料が少なすぎですしね。

 人事権という切り口で宦官を研究するのが関の山でしょうか?それでもかなり狭い・小さいテーマですしね。あくまで己が宦官を重要視するのはこの時代というか結構著名な先生でも宦官糞野郎とかいてあるから、史料に騙されて平気で宦官の悪政によって~とか意味不明なことを言ってしまうからで。本当に史料読解能力がある人はそんな珍論を言い出したりはしないのでしょうけども。)

 外戚といえば下倉渉先生の論文が面白そうですな。母ということについて、この時代父系制や宗族というものがまだ完全なそれではない。この時期にどうやってそれが生まれていったか。非常に重要で面白そうな話。こういった重要な話がなぜ一般書・概説書でその研究内容を簡潔に触れておかないのか…。そりゃ素人は知りませんよ。

 

 母というものが大事、呂后以前の流れを受けているってことですかね?王莽の外戚はそれに何か影響を与えたのでしょうか?外戚のハシリですしね。王莽の学問によって、父系制のようなそれが確立した・移行に大きな影響を与えたということはないのかな?孔子は当時の家族制度変更に大きな役割を果たしましたしね。呉なんかで母が大事というやつは、その影響をまだ受けていない故なんでしょうね。ひょっとしてそういう宗族体制の確立ということと、袁紹のIfもし、袁紹勝てばどういう政治体制になっていたかの理解のヒントになるのかなぁ?

 っと話を戻して、黄巾。以前黄巾を郷里秩序から弾かれた存在と書いたけども、まあこれはそんなに深い思い入れがあるわけでもない思いつき。結局のところ彼らが流入したことは間違いないのだし。張角さんはキョ鹿の大豪族だそうですし、黄巾=大豪族+黄老的道教の教団化になりますかね。黄巾の全てがその地方・地方の大豪族か気になるところですが。

 まあどこでもそこそこ影響があった豪族だということは間違いないんでしょうね。まだまだ道教なんていうのが浸透してもいない時代ですから、初めは豪族の転化としての宗教団体でしょう。必然的に宗教につきものの<狂信>や宗教的信仰がそれほど強くないことになるわけですね。本格的な宗教は東晋という感じがしますし。反乱は魏の時代からいくつも起こってますけどね。そこに宗教的紐帯が最優先かといえばそうでもないですから。

 霊帝の黄老・道教と黄巾の黄老・道教がどれくらいの差異があるか。そもそも教義的にあんまり深みがあると思えないですから、双方に宗教的信仰が確固たるものとして存在して、それぞれの宗派によってお前は邪教だ!死ね!異端者は殺してやることこそ神の望みだ!ってのはないでしょうから。

 ただ確かに下級官吏を主体とする黄巾とトップダウン霊帝では政治的スタンスは確かに異なっていただろう。そんなに折り合いがつかないというイメージはないんだけどなぁ。西園軍とか苑とか黄老思想とかいろんなことが霊帝の一連の改革につながっているから、その改革構造とはまらない。下部組織としてすんなり組み込めるなら歓迎したのだろうけど、そうじゃない。このあたりの折衝の不在が気になるかな。

 国家的な郷里秩序・儒教的な里とか亭とか郡県とか、そういう制度でなければ成立しない何かがあったのかな?結局のところ既存の権力構造と妥協、三公九卿の合議制の方に戻りますからね。まあ、それだけかれらの構造基盤が脆いということでしょうが。黄巾という宗教的紐帯を打ち出していても既存反乱の延長を出ないという事でしょうかね?規模は大きいけども、あれほどの規模にしては人を派遣したら簡単に鎮圧されましたからね。

 あれですね。横の紐帯を広げすぎた分その絆は薄くなったんでしょうね。だからこそ縦に狭く深く紐帯を構築する張魯のような形になったわけで。張魯道教っていうのはこの失敗を克服したがゆえの勢力なんでしょうね。教団という規模で言えば間違いなく彼が始まりと言えますからね。まず狭いながらもしっかりとした組織を作ることによってのちの道教の基礎が築かれたと見ていいでしょう。

 黄巾によるダメージというよりは、それが起こった事自体のほうが問題なんでしょうなぁ。黄巾を私兵として組み込んだというより、その地方の有力者と個人的紐帯でより結びついた、結びつき方が変わったという事のほうが重要なんでしょうね。乱の事後処理でいろんな社会の再編、下部社会の問題を有力者が抱え込んだりとか、そういうことが。だからこそそれを正式なシステム化しようと袁紹の宦官皆殺し事件に発展するわけで。

 そういや霊帝太平道のようなものを嫌っているってどこら辺の記述になるのかな?確認してなかったなぁ。青州兵って本当に太平道のそれなのかなぁ?本当に曹操と取引したのだろうか?いずれにせよ大淵先生の著作を読まないとね。なんで読んでないんだろう?近くになかったかなl?

 青州兵は優遇されていたとあんまり思えないんだけどなぁ。そりゃ支配領地も兵士もまだまだのころには重宝されたと思うんだけども、青州兵という記述やそれを統括する将が出てこないところから、むしろ屯田兵の「屯田」部分のほうが主な役割だったような気がするんですよねえ。戦力というよりは民力とでもいいますか。于禁の時のケースをもって、略奪を容認されていたというのはどうでしょうかね?まあお目こぼしはあったし、ほかより良く扱われていたと思いますけど、流石にそれはないと思うんですけどね。

 青州兵が降伏するはずない。裏取引があったんだろうというのは、おそらく彼らに対しては軍役も納税も比較的高待遇だったんだと思うんですよね。んでその好待遇が曹操の死でおしまいで、曹丕以後ずっと反乱・不安定という情勢に繋がって、最終的に組み込まれておしまいと。だからこそ宗教団体にも関わらず、その実態がよくわからない感じで終わるわけで。

 張魯のギョウ移住で道教の始まりになってないのがわかりませんねぇ。どうして曹操は彼を移住させたのか?そしてその影響がはっきり見て取れないのか?曹操の政権というのは国家が土地・民を兵士&製品・食料源として確保するもの。国家=曹家の荘園みたいなものですから、共産主義っぽいっちゃぽい、そんな感じの国家理念の一つとして採用しようとしたんじゃないのかなぁ?丸々張魯の宗教を採用すると言うよりは、都合のいいところ一部で。寇謙之とあまりにも差があるんですよねぇ。国家イデオロギーとして採用するのに失敗しつつも、その後の道教や政治制度に影響が見られるという段階でないと筋が通らないんだけどなぁ。

 ああ、そうかその後曹操・魏は民衆の間に広がった道教を研究して、民を支配するために、彼らの教義を都合のいいように再編しよう。国家統治に都合のいい用に研究して昇華してそれを広めようとしたってところか。黄老思想との折衷は二の次か?あまりうまく思想的整合性は行われなかったってところかな?寇謙之とか葛洪とか後世まで手付かずなんかなぁ?

 霊帝道教黄老思想とどうして彼らの民間道教が結びつかなかったのかという視点で見るべきなんですよね。対照的に南朝や五胡ではどんどん政治と結びついていったわけですから。彼らの道教は個人福利、水による治病、その地で生活が営めればそれでいい。無論そこには世の中の変革・新世界・太平の世を望む思想があったんですけど。それが現実の政治とどう結びつくか、どう妥協すべきかという現実性がなかった。理想と現実の調停がうまくいかなかったということなんじゃないですかね?宗教の発端、初期にはまあよく有りそうな話ですし。

まあ、黄巾の話は一旦こんなところで、次は董卓とか何進とかの話。

 董卓の場合は黄巾の流れによる社会変動を経験していない。地元が巻き込まれていませんからね。そのへんも彼の裏切り・反逆ということになるのでしょうか。それとも相次ぐ反乱があり、社会変動が先行しているがゆえなのか?袁家主導の、袁隗が宦官皆殺しに賛同していたかどうかはともかく、この政変が成功裏に終わった場合、どうなっていたか?董卓が裏切らないという目論見のほうがかなり高かったわけですからね。

 袁家の人間だけで本当にいっぱい人材いますからね。司馬家がむちゃくちゃ人いたように。司馬家の場合後世のそれがあると差し引いて、袁家の人材輩出のそれ、レベルの高さはやっぱり飛び抜けていますよね。楊家もそれほど人はいなかったと思いますし。一体何だったんだろう?袁家だけで三公九卿独占できるんじゃないかなっていうくらい袁家の人材は豊富ですよね。その学問を成立させたコツでもあるんかいな?楊家とか、そういう家はもっと学問を重視してなかなか出仕しないとか、彼らがでてこないだけで、袁家がグイグイ前に出ていたということなのかな?

 クーデター成立以後、何進大将軍下の袁隗・袁紹袁術・袁基・袁遺とわんさかいます。袁隗子供三人くらいいますけど彼らは官界でどうだったんだろ?まあ、宦官追放にせよ虐殺にせよ、それが成功して実際政治を動かすのは袁隗・袁紹になっても、まだ完璧とは言えないですよね。他の名門・二世三公とか、累世二千石とかそういった取り込んだ上に立つくらいで。

 司馬家だって王朝は曹爽専横がなければひっくり返そうとしなかったでしょうし。この段階でも袁家というものがあれば、世々三公たちと合議制。三公九卿を外から支配するもう一つの合議制のようなものを作ってしまい、それで政治を動かすものだったかもしれないなぁ、とか考えています。まあ早く言えば琅邪の王氏みたいな?それを1~2世紀早く実現することこそ袁家・袁紹のプランだったのかなぁ?と。晋の恵帝なんかみてもね。そういうシステムを見据えていますし。

 多分本格的に完成するのは袁紹の子の世代になるんでしょうけどね。彼らの時代にいたって、袁家にあらずば三公にあらずじゃないけど要職を占めて政治を主宰するという。革命が考えられないのならばこういう形が一番妥当かな?琅邪の王氏ならぬ女南の袁氏という形で。

 袁家の場合は地元とどれくらい密接だったんでしょうかね?冀州で袁家の統治を懐かしむというのは、その冀州の地元と密接だった人々を重用したということになるんでしょうか?出身地から離れても文化的価値観を持つゆえに重宝されるというのが「名士」の定義だとするとまさしく袁紹は「名士」の代名詞ですねぇ。

 梁冀・梁商の外戚政治時代の袁湯にその袁家政治の先駆けを見ることができないかなぁとか考えているんですけどね。袁湯はそのキャリア・長生きで袁家の基礎を築いた。晋なら司馬懿に値する存在かなと考えたり。袁湯=司馬懿なら、袁術とか袁紹司馬師司馬昭とかになって、司馬炎につなぐことが出来なかったのはなぜなのかなんて考えることが有意義な比較分析になると思うんですがね。

 何進を宦官が殺すことに、その先がない。手詰まりになってしまう。彼を殺しても袁紹たちは解散しないし、意味が無い。袁紹を抱き込めるという目論見があったのかなぁ?袁紹が実は何進を殺したら助けるよ!と言っていたなんていう陰謀論はそれで終わってしまいますし、あまり生産的ではない。考えられるのは弟の何苗ですかね。

 何進がいなくても、その本人の罪だけで許して、何太后何苗と宦官たちでやり直すという。これならまた元通り手を組めるという。もともとこの二人は宦官派ですし。何進もグレーゾーンなんですけどね。何苗が断っても何太后なんか垂簾政治やる気満々そうですし。董卓がもし反逆していなければ、そして袁紹が宦官虐殺をせずに殺害者の処分だけにとどめていたら何太后の垂簾政治という目が一番大きかったのではないでしょうか?までも大将軍府政治が確立しているからなぁ?どうかな?

 霊帝が死んで、明らかに何進・何太后は排除される路線でしたし、霊帝はそもそも外戚を置きたくなかったんでしょうね。黄巾が終わればさっさと何進を廃するつもりだったと考えるのが自然だと思いますね。だったらもっと早く何進を大将軍にして外戚政治をとっていたでしょうから。何進の方もそれを察して霊帝の従順な部下として振舞ったような。士人と何進が結びついて彼らの言うことを聞いて宦官排除を進めたのも霊帝に除かれるという危機感からかも?

 霊帝は急死だったのかな?仮に何進とか取り除いて献帝に権力を継承させることができたとしても、まだまだ幼い。誰に輔弼をさせるつもりだったのだろう?この当時もう嫁をもらっていたっけ?弁皇子の方はもうもらっていたはずだけど。霊帝があと一年くらい生きていて、何一族を除いたら宦官主導か?まあ三公九卿動かせないからね。必ず誰か立てないと無理だろうし。

 西園軍にせよ、何進外戚・大将軍にせよ、本来の霊帝の政治路線とどれくらいズレがあるのか気になるところ。黄巾がなければ、本来もっと違った形の改革になったと思うので、本来のヴィジョンから修正を加えていると考えて引き算すれば、もっとよくその本質がわかるのではないかなと思います。

 董卓袁紹の政策対立とはなんなのか?手元にたまたま転がり込んだラッキーなくして董卓の政治はありえなかったでしょうけど、その根源に自分が政治を執らなくてはならない=今後の袁家政治への反発があるからこそですよね。もしくは外戚政治=大将軍政治でないと治まらない。それは自分でなければならないという認識の根源に何があったか。

 それこそ王朝を絶対に変えなくてはならない、袁家はそれをしないということかもしれないし。まあ答えは一つである必要はないのでしょうけども、個々の分析・説明をもっとしっかり出来るようになりたいなぁ。そもそも董卓の革命優先・新王朝建設優先ってなんなのか意味が分からないですよね。関中がいかに豊穣地帯とは言え、河北・河南を放置して一体何の意味があるのか?まあそういう偏った状態である以上、あんな感じで暗殺されるのは目に見えていたでしょうね。

 とにかく表面上のナンバーワンにこだわるというのは軍人・武力を中心に考えるものにはよくあることですけどね。皇帝となって西域との貿易でもやりたいというのがあったのでしょうか?桓帝霊帝黄老思想尊重は前漢の全盛をもう一度、商業を盛んにしよう!ガンガン貿易やろうってことかな?何進=弁皇子=袁家だとそれができないとかあったりして?貴族制的な荘園経済になるからとか?

 そうそうあとは、董卓との戦いの時に見せた袁紹の南下について。この失敗をもっと官度のそれと照らしあわせたいですね。この失敗は袁紹の威信を大きく傷つけたでしょうしね。なんだ袁紹はまともに河渡れんじゃないか?的なものが意外に大きな一つの要因なのかもしれないとか思ってますね。黒山賊とか董卓の勅で後押しされてず~っと抵抗できたこととかも。

 ○黄色い頭巾、一般人・自由民、士・庶・人だっけ?その一般身分は白い頭巾を普通まとっている。当時と言うかだいたい身分制社会では身分が外見から一目瞭然でわかるようになっているからね。その必要性がない社会以外は。蒼天=上帝が、黄天=黄老・太上老君へと変わる。色の問題はさておき、この頭巾にもっと注目してもいいかなと思うんですよね。今や数少なくなりつつある一番低い自由民たちが反乱に参加するというね。身分的に一番低いということではないですよ。奴隷とかいますし、一般民・自由身分の中で今まさに奴隷に落ちかねないというギリギリ平民という意味で。

 最初、頭巾で髠刑とか入墨刑などで自由民から転落した没落した人間を救済するという意味合いで、それを隠しやすくするためかなとか考えていたんですけどね?どうでしょうね?彼らがその瞬間からもう一般人に戻れない、被差別者として落伍する。そういう救済の意味合いがあるんじゃないかな?って思ったんですけども。まあワンピースの太陽の入墨ですね。奴隷身分を示す印をわからなくするための。そういう機能があったんじゃないかな?って気がするんですけど。

 この奴隷ってのがおもしろくて、ローマ帝国と比較分析したときに意味合いが全く異なる。奴隷制前近代的悪習ではなく、奴隷でも普通に這い上がれますから。ギリシャで奴隷が哲学者として高値がついたように、奴隷でも尊敬される人は尊敬されましたし。ローマはクリエンテスでしたっけ?奴隷が解放された場合人的紐帯・コネとして機能する。解放されたあとは~~家のグループに所属するわけですね。

 もっと読んでいけば出てくるかもしれませんが、今のところ楊俊が王象を奴隷から買い取って解放してやった事例しかでてこないんですよね。中国ではローマのようなそういう関係性は発生し得なかった。異民族だろうがなんだろうが優れたものが中央に入って帝国を豊かにするというベクトル・力学は弱かったわけですね。前漢とかなら有りそうなんですけど。荘園制に向かいつつある後漢ではまずその必要性がないでしょうから。飼うだけで十分でしょうし。霍光のとき確か異民族出身の大臣いましたよね。

 ○南陽黄氏―ツイートで目にして、黄忠とか黄蓋が元は南陽黄氏という同族から来たものだという話を見てへぇ、そうなのかと思ったので一言。そういや黄祖もそうなんですよね。南陽の一大豪族がその規模を広げたのか、それとも南陽でやっていけなくなった結果南へさらに散っていって、生き残りを図ったのかその差異は気になりますよね。黄蓋黄忠はその伝手で通じ合ったりしなかったんですかね?両方共老将軍、そこそこの武人としての出世はやっぱり学がない=そこまで地盤がない。しかし、そこそこの人とコネがある中級くらいの豪族ということの裏返しなのか?

 黄忠という荊州の南部でそこそこの影響力有りそうな人が蜀→漢中と地盤を離れてしまう。そんなところにも荊州支配の脆さ、陥落につながっているのか?と思ったんですけども、それを主導したのが呂蒙だからなぁ。黄蓋が主導してやってくれたら、その辺りの伝手がある黄氏というものの力で説明がついたんだけども。

 まあそこらへんはわからないままですが、その南陽黄氏の黄忠が蜀で五大将軍という地位にあることから、劉備の軍事体制は①関羽軍=司隷とか辺り②張飛軍(=劉備同様幽州系統。)③趙雲=常山、④黄忠荊州、⑤馬超涼州辺りってな感じでしょうか?趙雲冀州あたりでの兵ってどうなんでしょう?荊州に滞在しているころに流れてきた兵を吸収して結構なそれになったのかな?蜀攻めは謀反みたいな形だし、本格的な軍事功績は漢中ごろ。趙雲が独り立ちできるようなそれの背景ってなんだろう?趙雲だけイマイチどこら辺の勢力の兵なのかわからないですね。なんか黒山のボスに常山の出身がいたし、その賊からの流れ者かな?

 蜀政権も時代が立つに連れ蜀の本土や漢中、西方あたりの兵とそういうものを統率する軍人が台頭して行って入れ替わっていくと思いますが、重要なのは劉備が諸国の余剰な人員を吸収していったのに、一時徐州という地を支配したのにもかかわらず、軍に徐州勢力が確立されていないことでしょうね。糜竺でも誰でもいいから五大将軍の一人として徐州兵を率いる形になっていないといけませんよね。刺史として統治していたんですから(あれ牧だっけ?どっちだっけ?)。豫州牧になってもそういった勢力を確立出来なかったことも同様に注目すべきことでしょうね。