てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

【三国志ノート】 三国志巻四 第二十三和常楊杜趙裴伝

正史 三国志〈4〉魏書 4 (ちくま学芸文庫)/陳 寿

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 これ自体夏に書いてたんですが、ずっと放置していたやつですが、まあ一列伝ずつまとめればいいかとちょこちょこあげていきましょう。感想太字と言いたいところですが、もうなんか本文と感想わけるのめんどくさいんで、適宜補ってください(どういうことだ(^ ^;))。

第二十三和常楊杜趙裴伝

 p9、和洽(かこう)―字陽士、女南郡西平人。孝廉推挙、大将軍招聘に応じず。袁紹の女南士大夫招聘に彼だけが応じなかった。戦乱を避けて荊州劉表に一族毎向かう。暗愚の君主の下に長くいるべきではない、必ず君主と臣下の間を裂くものが現れる。暗愚はいつものことだからほっといて、女南出身で大将軍に招かれるほどなのに彼だけが避けた。無論それだけ名があれば、あとから参加してもそんなに冷や飯を食わされることがないからだろう。女南一本の政権ではなく、マルチな構造が派閥抗争を生むと予期していたのは確かだろう。劉表は厚遇、武陵に居住か…。曹操荊州を平定すると招かれ丞相掾属。

 当時の人事の中心は崔琰と毛玠。忠義・清廉、そして節倹から人事起用。和洽は形式上のごまかしが横行しているから止めるべきと拒否しています。そもそも魏建国前の崔琰起用は儒教的価値基準であって、曹操がこんな後漢人事の模造品・二番煎じのような人事基準をよしとするなんて考えるわけがない。まずは誰が何を考えているか、自分の政治と折り合いがつくかどうかを見るためのリトマス試験紙的な様相があったのだろう。崔琰と毛玠は権力固めが終わって、いよいよ新人事基準へ移行するときの必然的な排除・失脚と見ていいだろう。まあもし途中で政権が傷つくような事態になればこういう人間に譲歩する、既存政治の延長のような方針を取ることもあったのだろうけど。こういう順調なときは自分の都合のいい人間をどんどん登用して、そうじゃない人間は排除していくもの

 魏国建国で、王粲・杜襲とともに侍中。丁兄弟あたりかな?毛玠が崔琰の失脚についてお上を誹謗中傷している―という訴訟に曹操は怒って毛玠を処刑しようとしています。しかし和洽が弁護していますね。法廷で毛玠とその訴えた人間白黒つけよと進言することで。結局免職だけで済まされました。軍事問題のなかでいちいち調査なんかしていられないと曹操は却下しました。でも、漢中の戦争まで問題を引きずらなかったようですね。 曹操張魯征伐で、漢中放棄を提言。曹操はすぐには受け入れなかったが、結局は和洽の進言通りに。これは別に彼の進言に従ったというより、しばらく様子を見てから判断しただけだろう。万一蜀が崩れたり、内部反乱あれば、即攻める状況もありうるから。内外情勢を確認してから引いただけかと。まあ別に大した意見でなくても従ったって書くのはいつものことか

 外に出て郎中令→光禄勲。散騎常侍高堂隆の上奏「季節の風が吹かない、実りが悪いのは政策が間違っているから!」という上奏。農業を盛んにするため軍費を削れ、節倹せよというまあいつもの主張ですね。後に出てくる儒狂とも言える高堂隆の上奏に賛同しているところを見ると、まあそこまでではなくともやはり儒教系統の人でしょうね。というかまあ学識がないとなれない大常の人ですからね。散騎常侍後のほうで、魏ができてからここが出世ポスト・登竜門的な感じだと出てきます。最初に出てくるときに注にでも書いといてくれりゃあいいのに。あとから調べ直し、まあ、検索かけりゃあ一発で出てくるんですけどね。自身も倹約、田を売って生活するほど。明帝の在世時に太常。魏建国のときは上辺だけの倹約を装っていると反対していたが、後には倹約派か。子・孫も尚書とか、黄門郎から中書令とかそこそこかな。孫が夏侯玄の娘を娶って敬愛と。子が明帝の時代に尚書とか。まあ名があればそうなりますよねと。たいして建国になんの貢献もしなくてもそこそこ出世できるなら、安牌選びますわな。ついでに許劭の一族の話も出ています。貧しい職業・身分の人間から引き立てた、郷里秩序の担い手・人物評の見事さを讃えられていますね。

 p16、常林―字陽士、河内郡温県人。司馬懿と同じということで注目に値しますね。『魏略』清介伝に伝があり、寒門・貧乏・厳格だと。貧乏で他人の施しを受けずに太学に行き、農耕しながら学を修めるというところがポイントですね。儒教はこういうの大好きですから。

 対董卓挙兵のとき河内太守の王匡は県に書生を派遣し、官民達の罪を調べさせ財産没シュート&従わない相手は一族皆殺し。常林の叔父が食客を鞭打ちしたことで王匡に逮捕される。食客の鞭打ちは罪か。というか事実上の奴隷状態なのかも?レビイーム・ゲーリーム然り、こういった時代には客といってもかなり扱いが悪くなるんだろう。んでそれを罪として咎めたと。常林は叔父を救うため、王匡と同県出身である胡母彪を説得し、胡母彪の取り成しで王匡は常林の叔父を釈放。

 上党の地に移り、山奥で農耕。彼のように山に逃げるというのが一般的な行動様式かな?彼の田畑だけは豊作だったため、周囲に施し。天が恵みを与えるという例のやつですね。そういやこういうのって多少離れてて、関係なくてもその土地の人がちょっとした有力者にごますって、貴方様のおかげです~ヘヘッという習慣があったのかな。また河間太守陳延の保塁を頼る。地元の陳氏と馮氏が地元では最も古い氏族で、その婦女子・財に目をつけた張楊の圧迫を受けると、常林は計略を立て、60日の包囲を守りきった。ここでも腐女子=財(ふじょしと入力して腐女子が出てくるのが己のクオリティですね(笑))。女性を持っておけるだけの条件ってあるのかな?「婦女子」という言葉もチェックしないとな。寒門・貧乏で学を修める、賓客のように敬意を持って―とあるからには、食客のような軽いものと、賓客のような重い者の違いがあるのだろう

 并州刺史高幹の上奏で騎都尉彼はこれを断る。曹操任命の并州刺史梁習に、楊俊・王凌・王象・荀緯とともに推挙されたとき応えて、県長・南和を統治。州界の名士を推挙とあるけども寒門でも構わないのか?この時代の言葉で使う「名士」にはそれほど門閥の意味合いは強くないのかな?政治の感化。→博陵太守→幽州刺史。曹丕が五官将(ってWikiであったんだけど、五官中郎将と同じ?)で、功曹。曹操の西方遠征時、田銀と蘇伯の反乱。曹丕が自ら討伐しようとするのを諌めやめさせる。

 外に出て、平原太守・魏軍東部都尉→丞相東曹属→魏国建国で尚書→文帝即位で少府・楽陽亭侯。『魏略』に常林は小役人を鞭打つ音が役所が向かい側にあった大鴻臚の崔林に聞かれてあなたは廷尉なのですか?といわれて揶揄されていますね。少府が鞭打ちってどういうことなんでしょう?革命的リゴリズム・厳格、厳罰法治主義ってやつの一例ですかね?→大司農→明帝即位で高陽郷侯。これは盧毓の推挙。→光禄勲・太常。この頃高官の司馬懿が常林を同郷の先輩として礼をとる。それをやめさせてはという意見を、司馬懿の長幼の礼が素晴らしいのだから良いと無視します。 晩年の三公推挙を重病と称して辞退。83歳で亡くなった。相当な長寿ですね。驃騎将軍を追贈・貞公と諡。子の常旹が跡を継ぎ泰山太守。法に触れたとして、晋書では司馬昭に病と称して処刑されたとある。やはり同郷の先輩格というのが邪魔くさかったということなんでしょうかね?司馬昭と年齢がどうだったかわからないけども。満寵伝でも満寵の子孫が司馬昭に消されてますが、何だろう司馬昭の晋建国に邪魔な人間をのぞく粛清プランでもあったのかな。?

 p21、『魏略』清介伝面白い。他吉茂、沐並、時苗を彼と並ぶ人物としてあげています。吉茂はあの吉本の一族で関中が平定されると蘇則とともに武功の南山に入って修行をします。完全な隠者・修行者。それに讖緯が加わってますからもう決まりですね。この地方の人はまた張魯的な感じになりやすいのかな?仏教の影響かな曹叡の庶子という官についていますが、これが一体何なのか?このような人物を次期皇帝継承者に就ける所がもうあれですね。吉本の連座の時は内学=讖緯と兵書の禁を破って書物を持っていたからそれで引っ張られたと勘違い。吉本が彼を頼りにしていなかったか、それともそれくらい突発的だったかどっちでしょうね?議郎になってるからそこそこのエリートかな? 九品制について功業・徳義・才能・品行となっている。つまりこれまでの価値観に付け足した並列評価なわけだ。んで同郡の中正となった護羌校尉王琰→子の王嘉の容姿がだめという評価にうるせーバーカと文句をつけます。兄の黄が法令に逆らって張温の葬儀に故吏関係から駆けつけて処刑されてしまいます。そして自身も鍾繇に呼ばれたら二つ返事で官に就きました。そりゃ乱を起こして警戒されている一族なんだから慎重にならないとね。本来なら行かないところなんでしょうけど、尻尾振らないと危ないですからね

 沐並―融通が効かない人、校事のもてなしができずに、吏に罵られてブチギレて校事共々追い掛け回して髠刑。薄葬。

 時苗―妬みキャラですね。蒋済が酒に酔っ払って士官の面会が出来なかったのに腹を立てて、木彫りの人形作ってそれに射ったとか。問題はそんな所ではなく、どうしてそのご折り合いを付けられなかった。そこに政治的背景があるはずですね。蒋済と結びつかなきゃいけない背景だったら、そんな事言ってられませんからね。まあ単純にそこそこの人だから、つながりようもなかっただけですかね。蒋済が抜擢でもしない限り、というか蒋済のこのエピソードは貴族・門閥的なあれでこういう人間を抜擢する時代じゃなくなったことを表したりするんですかね

 p27、楊俊―字季才、河内郡獲嘉人。辺譲の元で学問を習い高く評価された。珍しい辺譲の弟子です。戦乱が発生すると、交通の要所であるから京県・密県に非難。百余軒ついてくる。また山とあるが塢かな。老若や財産の有無に拘らず通じあった。また、親族旧知で誘拐された家六件あり、財産を傾けて救済した。

 河内においては司馬朗の名声が高かったが、楊俊はその弟でまだ若年であった司馬懿の才能をいち早く評価した。司馬懿わしが育てた!うーんこれは面白い人物ですね。マイナーなのが信じられない人物だ。また、司馬一族の中で無名であった司馬芝も評価した。并州へ避難。戦乱で孤児となり奴隷・羊飼いである王象を買い取って救い、嫁を世話して家を立ててやった。戦乱において後に飛躍する人材の世話をしたトレーナーですかね。并州の支配状況がよくわからないのは、ここに刺史を置くどころじゃなかった。格好の避難場所だったからかな?塢とか真っ先にできそうだしな。并州の方が危険そうな気もするけど、匈奴とか鮮卑とか、それほどでもないのか。後にあっさり曹操に討たれているし。并州の方は塢とかで守れるってことかな?関東と対象的に。袁紹が支配するまで、天下が落ち着いたら勝手に帰属・帰服するそういうものなんじゃないかな

 曲梁長→丞相掾屬→茂才→安陵令→南陽太守→征南軍師。魏建国で中尉。魏諷の乱で罪になると思い込み、自らの責任と弾劾して辞職を申し出ていますが、果たしてどうして彼の責任なのだろうか?魏諷と深いつながりがあったんじゃないかな?魏諷は河内郡出身か?沛国だと思うんですけど、なんかの史料に河内郡ってあるんですよね、重要なのはどうして間違えられたかということですね。誤認されるだけの材料があるってことですから。で平原太守に左遷南陽太守。このとき散騎常侍の王象は中央に戻すべきと主張。曹丕曹植どっちと曹操に聞かれて、一方的加担はしなかったものの曹植のほうが立派と答える。で曹丕に疎まれるようになり、宛の市場が繁栄していないことをもって自殺に追い込まれる。曹丕に近い尚書僕射司馬懿や常侍王象・荀緯の助命も無駄。楊俊は「私は罪を弁えております」と自殺。

 兵士出身の同郡の審固、陳留の衞恂が太守を歴任と御史・県令という例がわざわざ記されるくらいですから、現実にはありえない話なのでしょう。兵士がいかにさげずまれているか実証する話ですね。しかし兵士からどうやって見出したのかなぞが残る話ですなぁ。まあ戦乱、混乱期型にはまらず統率能力があればそれで応用させて賄ったのでしょう。実際文字なんか知らなくても軍隊統治する応用で官吏くらい出来ますからね。無論成熟すればこういうことは許されなくなり、排除されるんですけども。彼の場合は兵卒でも学問教えそうな気がしますね。そっから見出したのかな

 『魏略』で王象は王粲らが亡くなったあと新進の人物の中で最も才能があったとされています。『皇覧』を著し、儒学の宗家といわれた。郡県に迷惑をかけぬようにと通達したのが勘違いされて、市場が閉鎖された。いわゆる皇帝の巡遊ですから、歓迎のために莫大な準備を行うことはないということだったんでしょうね。それが市まで閉鎖して経済に影響を与えるような全く無駄なこと。騒がしくするな、警備を万全にせよとでも勘違いしたんでしょうか?これで曹丕がわしゃ!盗賊か!と怒って処刑となっています。おそらく五銖銭復活させたり、経済の中心のここを復活させるのは大事なテーマだったはずですから、ブチ切れたんでしょうね。しかしなにかあったら、楊俊は殺されることは既定方針だったと考えていいでしょう。やはり魏諷の乱に何らかの形で関わっていた。関係があったということではないでしょうか。

 p31、杜襲―字子緒、頴川定陵人。祖父杜根は和熹鄧后の治世に抗議して処刑寸前に到って安帝時代にその功績を認められた人か。二代揃って薄葬で県の高官がまずこの墓を参るのが慣例化するほど。ということは相当地元で影響力があったのではないか?

 荊州劉表の元に行って賓客。杜襲は劉表を評価せず、友人の繁欽が劉表に厚遇されていたの非難。繁欽もまた一緒に長沙に。また長沙か。劉表の下につかずに南に流れるということは、張羨のケースもあったし、反劉表同盟・勢力のような形でそこに集まったんでしょうか?豪族叩いて支配を確立した経緯があって、そこまで強固な支持を得られませんからね。孫堅が元太守ですし、そういう関係から拠点になりやすかったとか?調査のほうが歴史ありますし、江陵と比べて戸口数全然違いますから、拠点といっても江陵の方はあとから劉表が開拓・拠点として力を入れて作ったところですかね。対呉の関係上からも江陵→長沙が自然でしょうから。でも和洽は武陵なんだよなぁ、彼は巻き込まれるのを嫌ったとか

 曹操献帝許都奉戴で郷里に戻り、曹操の任命で荊州に隣接する西鄂の長。劉表の元から去ってその最前線に。賊の侵入で城に立て籠もらざるをえず満足に農耕もできなかった(『九州春秋』だと劉表)。例のごとく農耕と防備に力を発揮する。荊州から歩騎一万攻めてきて、一丸となって抵抗。敗れて官民殆ど戦死も、裏切り者なし。敗れたとはいえこの指導力が評価されると

 荀彧・司隷校尉鍾繇が推薦し、議郎参軍事→実際は丞相軍祭酒。この違いはなんだろう?あんまり変わらない気もするが、より曹操に近いのかな。魏公擁立に関わり、魏公で侍中に。王粲や和洽と共に用いられる。王粲は記憶力があり見聞が広かったことから、曹操が物見にいくたびに同行することが多かったが、曹操から杜襲・和洽ほどは尊敬されなかった。王粲が何を話しているんだろうとあわてたとありますね。杜襲・和洽>王粲か…帰属時期の早さかな?王粲は重用されなかったのに二人のように南に行っていませんからね。和洽のあなたは昼間だけでいいという台詞を考えると二人でこっそり密談している杜襲>和洽になるのかも

 のち丞相長史。曹操の漢中支配で駙馬都尉=軍事の監督。駙馬都尉って皇族の嫁をもらったものじゃなかったっけ?劉氏を娶っているのか?安帝との感じを考えるとありそうな気もするけど。で漢中から洛陽・鄴へ進んで移住した数は八万だと。それだけコネ=指導力が広くあったということでしょう夏侯淵戦死で、張郃郭淮とともに抑えます。臨時都督に張郃を任命。曹操帰還にあたって、長安に留府長吏を置きますが、担当官が選んだ人材をことごとく否定して直々に杜襲を留府長吏に抜擢し、長安を鎮守させました。自分との関係の近さ、戦乱にも対応できるゆえの抜擢というところでしょうか

 曹操に従わず、不遜な態度をとっていた将軍の許攸の討伐を辞めさせる。周辺が落ち着かないときにやるべきではないと。もっと強大な敵がいるときに小さいやつをいちいちたたくなと言ってます。んで懐柔方針に変えて許攸はすぐに帰服した。これあの許攸の同姓同名ということですが、本当かなぁ?同一人物だと結局独自勢力を持っていて危険だから後に排除したということで話が繋がるんだけど。将軍の~ってあるからにはやっぱり別なのか、一応鄴陥落後に処刑されたことに成ってるしね。でそのときの処刑理由なんだけども、処刑しなければならない事情があったとするならば、彼が裏切った理由南陽と女南の経済利権争いにあるのではないか?彼が生きていることで鄴における経済関係に力を発揮する=復讐する。それを恐れたという感じがするなぁ

 曹丕が魏王で関内侯→帝位に上ると督軍糧御史・武平亭侯→督軍糧執法→尚書曹丕太子時代夏侯尚と仲が良かった。杜襲は夏侯尚を人に益を与える人物でないと評し、特別待遇を与えるまでもないと曹操に言上した。曹丕は不機嫌になったが、後に夏侯尚の行状が乱れると、杜襲の言葉を思い起こすようになった。夏侯尚の行状の変化、曹丕との関係性の悪化には何かあるのかな?これに杜襲が絡んだりするのかも。当初は夏侯尚路線、しかし失敗→杜襲路線ってことなのかもしれない

 明帝即位で平陽郷侯→諸葛亮の侵攻で大将軍曹真の大将軍軍師。曹真から司馬懿が蜀への司令官となっても軍師変わらず。病気のため召還・太中大夫。逝去して少府追贈。最初のキャリアがそうだからか、一貫して軍事、軍事機密を預かった参謀格ですね。次の趙儼なんかも参謀総司令部のなかの一人みたいな感じで杜襲は結構軍事戦略をどうするかとか、非常に発言権があった気がするんですけどね。なかなかクローズアップされない人物ですね

 p38、趙儼―字伯然、頴川郡陽翟人。同郡の繁欽や趙儼らとともに荊州に避難。繁欽らとは住居を共にし会計を一つにした。曹操が許に献帝を迎えると出仕を決意。197年、27歳のときのこと。許に都、これだけの時点でなぜ?まあ頴川人脈だろうけども。朗陵の長。このとき例の李通の親族処刑。

 袁紹豫州諸郡の調略に対し、陽安郡だけ応じず。都尉の李通の徴税を荀彧に手紙を送り相談して、租税を全て民に返して人身掌握。→中央に戻り司空掾属主簿。李通が袁紹に文章を唯一送らなかったのは、趙儼が説得したゆえんだろうと曹操が言ったという話が魏略にありますが、これは文章を焼き捨てさせる前にチェックしたという話でしょうね。嘘というか、確認した後で焼き捨てたというほうが現実的にありそうな話ですし。こっそりチェックしたあと見なかった振りして焼いたというほうがそれらしい話ですけどね

 于禁が潁陰、楽進が陽翟、張遼が長社に駐屯。彼らの行動を趙儼が参軍となりコントロールした。曹操荊州征伐時、趙儼は章陵太守・都督護軍。于禁張遼張郃・朱霊・李典・路招・馮楷の七軍を統括。→丞相主簿・扶風太守。参軍=参謀総司令部的な感じか?出先の監軍みたいなやつかな?都督護軍ってあるけども、仮節・都督とかまだ将軍に全件委ねる前は、中央から指示を下す中間に参謀に都督を与えていたってことかな。これを見るかぎり前五人はああ、やっぱりね、といえるクラスの武将・将軍ですけど、後ろの二人=路招・馮楷はこの時初出か?まあ多分もっと前から功あるんだろうけど、とにかく一軍を任されるほどに伸びてきた人物ってのは間違いないでしょうね。確か漢中あたりで戦死したんだっけ?あとで確認しよう

 頴川にあって、荊州・対南担当者といったところか。張遼は外様だからともかく、于禁楽進までこちらにあるのはおかしい感じがするな。まあ篭城に必要ない、それなら背後を固めて置けということだろう顔良とかそのときは参戦していたし。 馬超韓遂らを破ると、元馬超らの軍五千を平難将軍の殷署が率いる。趙儼は関中護軍となり、諸軍全てを統括。護軍の方が中央司令的な意味合いかなこうなると、護軍が後ろに備えて諸軍を束ねる感じかな。このとき屯田寄留民の呂並の反乱が起こっています。屯田民もつらい生活境遇にあったことが伺えます。陳倉に立て籠もってますし、結構な規模だったでしょうね、記されるくらいですから。羌の進入を大いに打ち破る―とありますが、こういう侵入に呼応しての反乱でしょうか?殷署が漢中の守備のため派遣されたり、大本営に降伏兵を送り届けたり、処遇が落ち着かない投降兵を何とかコントロールして、二万人東へ。扶風から漢中のはずが、情勢不穏を見て急遽東へ送る方針へ転換。東ならなんで良かったのか?東のほうがまだまし?とどまれた人間はほっとして、移動組もあえて歯向かわなかったとあるから違うしなぁ。ここの情勢は本当に変事を未然に防いだ危機一髪だから、よっぽど不安定なんだろうな。その不安定の原因は何か?

 屯田民の動向を物語る貴重なエピソードなんですが、そもそも曹操政権は屯田民、彼らをどうやって支配・管理していたのか?袁紹以前と以後では政権規模がもう全然違うから、それ以後帰参してきたというか新しい支配下においた民は条件が更に悪くなっていたのかも?青州兵と対称的に。

 乱を起こす人間って、乱のメカニズムってやはり首謀者は処罰されてもその群れ・集団は待遇良くなるんでしょうかね?徹底的に叩かれてバラバラに組み込まれる例もなくはないですけど、基本的に反乱に対して力でねじ伏せるというのは抜本的解決にはなりませんからね。張角なんかも彼本人は死んでも、その下の集団の待遇改善を願って反乱を起こしたでしょうしね。漢帝国倒して新王朝開くなんて考えてもいなかったでしょうしね。世の中の変革を願っても。

 落ち着かないから東に送らなくてはならなかった。馬超の兵をそのままつかった。これは意外に重要な話だと思います。やっぱり根本的に徙戎政策みたいなもんで、土地から切り離されれば言葉も通じない外国みたいなものですから、管理はしやすい(家族と離れることになって落ち着かないというのが反乱の要因として記されているくらいですし)。しかしそんな状態ではその土地と馴染めず、浮き上がってしまう。当然地元の集団と揉める。どうしていたのやら?五年とか、十年経ったら元の故郷に返してやったのか?屯田のシステム・構造が気になるなあ。当然劉備馬超たてて攻めてくるとき裏切りとかそういう懸念があるはずなので、孫権・呉とかに移されるはずですよね。そういう兵は。そういう記載がないとすると、とりたて馬超に忠誠を誓ったと言うよりか、乱を起こさないと生きていけない集団=軍団が馬超の下にいたと見ていいのではないでしょうか?

 さて、その現地扶風あたりの兵ですが、彼らは先兵として使われたか、それとも屯田兵としてこき使われたのか?殷署が関羽のときに参戦していますから、この戦いに一部は送られたでしょうね。関中とか、荊州とかなんかあったらすぐ刈り出されるからなのかな?不安定の要因は。鄴とか長安とか洛陽とかに移住させられた人間って下層民にならなかったのかな?一族で行動するからまとまってじゃないと無理なのか?鄴とかいいところに移されるってのは戸籍からするとすごい良い感じがするんですけど、どうだったんでしょ?あと言語の問題どうしたのかなぁ?そんなに問題にならなかったのか?一世代くらい入れ替わりを待てば新しい子供は言葉くらい覚えるし。

 1000人選抜して見張らせて抑えたというのが割って支配するの原則そのままで面白いですね。東から到着すると、彼らも送られますが、寡婦のとき無理やり女性を送ったり、ホントやり手ババアみたいですね。

 関羽戦争のとき曹仁救援、趙儼は議郎の資格で曹仁の軍事に参画。徐晃と共に進撃。趙儼は連絡をとることが重要だと進言し、諸将達は地下道と矢文を使って、度々曹仁と連絡をとった。関羽を追撃すべきかどうか問題となったとき、趙儼は漁夫の利のため争わせておくのが良いと関羽追撃をしなかった。地下道?ってどんなんだろ?そんなものがあれば相手にも利用されてしまいそうなもの、もちろん機密だろうけど。それがバレて城が落ちたとか聞いたことがないなぁ。責任はオレが取る!と違って本隊到着を待った。もし焦って無理攻めしていたら、そこで中央軍到達前に敗れでもしたら…。歴史は大きく変わっていたでしょうね。んで功を焦って関羽追撃もしない、この方針は曹操とも同じ。つまり来るべき禅譲・革命の前にヘタを打たないことを最優先する方針だったのでしょう。

 本隊が到着してから大会戦、勝敗・戦果がないというところからすると結果は五分。んで関羽は一旦引く。包囲を解いたのか?だがまだ船団が占拠して連絡を断ち切っていると。城を囲んだままでは迎撃に不利なんで船団を残して、戦いやすい場所に移ったか?孫権討ちに南下している間、この船団はどうなったんでしょうね?ベン水ってどこだ?漢水の支流か? 南下して関羽討ちで、ホイホイ釣られたところに孫権が急遽方針転換して一緒に魏を叩くというのもなくはないですからね。まあ関羽の直情的性格を考えると難しいかなという気もしますが。というか、その後孫権にあっさり敗れすぎのような気がするなぁ、関羽。敗れるにせよもっとダメージ与えられるハズという気がするが。戦略拠点というか本営といったいどういう感じだったのか?本丸落ちるの早ければ、帰還部隊が消滅するのも早いって一体どんな軍隊・組織なんだろ?この点関羽の魏の軍隊を壊滅させた強さの裏返しとかそういう性質があるのだろうか

 文帝即位で侍中・駙馬都尉、河東太守・典農中郎将を代行、222に関内侯。孫権の揚州侵攻時、曹休が五州の軍を統率。趙儼は曹休の軍師。撤退させると宜土亭侯・度支中郎将・尚書。後曹丕広陵侵攻に随行、撤退後も留まり征東軍師。 明帝の時都郷侯。監荊州諸軍事・仮節、病気のため尚書に再任。→監豫州諸軍事・大司馬軍師→中央に戻り、大司農。 斉王の時代、監雍涼諸軍事・仮節・征蜀将軍。→征西将軍・都督雍涼諸軍事。243年老齢のため召還、驃騎将軍・司空。245年に死去。こんなところからすると都督=現場指揮官より、まだ監~の方が作戦決定権がある重要な役職なのだろうか?でも最後のキャリアは都督なんだよね。ということはこの頃に監という役職は都督に発展解消した、吸収されたということなのかな? 同郡の陳羣、辛毗、杜襲と並んで名が知られていた。辛陳杜趙と呼ばれていた。ついでに四征将軍の独立した帳簿、財政・料理場が自由に出来るという話があって、あ、薬がないといったらたちまち薬が付け届けで送られてきたという当時の状況・事情を連想させて面白いです。これじゃあ、何か欲しいとつぶやいただけですぐ賄賂・贈り物となって届いたんでしょうね。

 p46、裴潜―字文行、河東郡聞喜人。母の身分が低く、また自身も礼を軽んじ、父に好かれなかったとある。まあ一応生母の身分とかのために書いとこう。 例のごとく戦乱を避け劉表の元へ。王粲や司馬芝と仲が良く、後劉備とも交流した。そしてやはり長沙へ下る。長沙組みですね。しかし早いうちから南へ移っていたなら劉備と関係を持ちようがないはず。劉備が下ってきてから彼が会いに行ったのか?それとも劉備が下ってたずねにいったのかどっちだ?いずれにせよ次を見据えた拠点が江陵の他に長沙があるというのは間違いないでしょうね。そうでなければ揃いも揃って長沙にあつまらないですもん

 曹操に帰属のち、参丞相軍事。三つの県令→中央に戻り倉曹属。曹操に以前交流のあった劉備の人物像を質問され、中央においては乱を平定するまでの才能を持たないが(=曹操ほどの才はない)、地方において一勢力を構えるだけの器量は持っている(=南での独立政策のことだろう)。やはり劉備はゲリラ戦の申し子だから、万一のことを考えて長沙でも次を考えて歩き回っていたんだろうな

 代郡太守。曹操が烏丸対策のため大軍を断る。当時横暴だったとある、その彼らから信を得て、単于たちは被り物を脱いで、地面に頭をすりつけて謝罪。略奪した婦女子・器具・財を返還した。さらに単于と繋がっていた者を一掃。現地の豪族や官吏でも普通に単于とつながって暴れていたんでしょうね。単于から印とか将軍とかもらって指揮下に入って。大軍なし=武力なしでいったいどうやって彼らを恐れさせたのだろう?後任者は私の逆で恩恵をモットーにやるから反逆するといって、結局反逆しているし。その力の源泉は何?兵馬・弓士五桁とかあるから、それをやりくりするだけで十分押さえ込めたということか?三年後、丞相曹属。烏丸の長が反乱を起こすことを予見し曹彰が討つ。

 沛国の相→兗州刺史。曹操は、本営が置かれている摩陂に駐屯する裴潜の軍が整然としてるのを見てこれを賞賛した。兵隊の統率能力に優れている。摩陂は度々出てきますが、軍隊を駐留させる要衝か、何でしょうね、曹操の地元に近く安心してとどまれるというところなんでしょうか?温恢伝にその前の話がありますね。孫権合肥への援軍に豫州刺史呂貢と共に行くよう指示される。が、揚州刺史の温恢の忠告に従って軍の派遣を遅らせ不意の召集に備えた。于禁が敗れたため、裴潜達は軽装の軍のみで出陣し、徐晃の援軍に。これだけ不意の備え、幾部隊も援軍が駆けつけるような体制が出来ていたなら関羽が勝つのは難しかったでしょうなあ

 曹丕禅譲散騎常侍。→魏郡・穎川の典農中郎将。このときに郡太守と同様の人材推挙の権限の付与を典農中郎将にも認めるよう提言し、農政官僚の出世ルートを広げた→荊州刺史・関内侯。これまでここから出世することが出来なかったということ。下部組織、屯田民管理はあまり重要な役職・出世ルートではなかったということなのか?典農中郎将というのは屯田の民屯かな?中郎将だしやっぱ兵のほうが意味合いが強いか。そういうものをかなりの規模で管理する独自権限があるそれという感じがするんだけども

 鄧艾伝によればこのとき、州泰を従事として取り立てている。州泰は後に都督荊豫諸軍事であった司馬懿に見い出され、上庸の孟達征伐の時に活躍する。

 曹叡の時代尚書→河南尹→太尉軍師→大司農・清陽亭侯、外に出て河南尹・中央に入って尚書令ってあるけど、大司農って外で行える官職なのか?屯田とかそういう情勢を考えると大司農も中央より現場に近い所でこの時代は役職についていたとか?確か桓範も印綬持ってるから大丈夫とかって言ってたしな。でも洛陽の門を開けさせてるからやっぱり都にいたわけだし。よくわからん尚書令となり、人事制度の改革の提言をし辣腕を振るったが、父が死去したため官を引いく。→光禄大夫。244年死去太常を追贈。

 まあ裴松之の一族ですからむちゃくちゃ情報がありますね。まあいいことしか書かないでしょうけど。

 魏略の列伝に、厳幹、李義、韓宣、黄朗という人の人物情報がありますね。厳幹、李義は馮翊郡の寒門。名族桓氏・田氏・吉氏・郭氏、元の侍中鄭文信に認められることで官吏経の道が開けたようです。三輔の混乱で皆流れていったのに、二人はとどまって土地のために尽くした。おそらくこれが大きかったんじゃないでしょうか?その後出世していきます。名門などでもやはり出身地から離れていけば影響力を失う、もしくはとどまった人により権力が移るのでしょう。

 詔勅によって馮翊郡は東西に分割され、本来出身地がは西側の左内史郡に属すのに、イヤと言って東に仕える。これはどっちなんだろうなぁ?この詔勅曹魏の意図に反する漢の延命を図るものだったのか?曹魏政権に好ましい動きなのか?その逆なのか、イマイチ判断できん。その後曹操が魏の建国のときに臣下としてチョーダイっていって、招かれていることからすると前者っぽいんだが。九卿にも付いているし、大出世。んで、子供があの李豊ですからね。これ以外は杜畿伝の情報なんですよね。全部、杜畿と李義の関係から言えることとは何か?

 厳幹は至孝か、孝廉の一番いいやつか?高幹とか郭援とかそういうのに関係していますね。んで馬超のときに郡が動揺して人民が逃げてったとあるんですが、それでも出世に影響しなかったのか?かなりマイナスポイントだと思うんですけどね。んで学問で鍾繇にやりこめられても、まいったしてないやい!といってます。

 韓宣―曹植とあーだこーだもめて、曹丕に対してはへへ~とへりくだる。そんなところからか?出世した人。他に情報があまりない。尚書大鴻臚ってなんだ?当たり障りない普通な人だったからたまたまポストが開いたときにはまったのかな。

 黄朗―父が少使、県の下級役人。発奮して洛に留学・出世。母の身分が卑しいものでも自分と同じ母のように扱うのが珍しい=立派とありますから、もうこの時代でも身分間の格差・待遇、行動はかなり悪化していったんでしょうね。それでもこいつ馬鹿じゃないか?ではなく立派と言われるだけまだまし・健全と見るべきでしょうか。そんな彼も典農中郎将か。こういった貧しい人が出世するときなるのが典農中郎将なのかな?

 まあいずれにしても貧しい人、将来的に名を残すような門閥につながって行かない人の記録をわざわざ残そうという意識がもう薄かったんでしょうなぁ。魏略にしか残らなかったというのも。徐福、游楚も付け足しですしね。

感想多っ!ほんとうに疲れる作業やわ。