てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

【三国志ノート】列伝第二十四 韓崔高孫王伝

列伝第二十四 韓崔高孫王伝 なんだろ?後ろ三人は反曹爽なんだけどどういう括りかな?単に順番に5人のっけただけなのか?

 p60、韓曁―字公至、南陽人。日雇いをして父と兄の仇討ちをする。侠とは書いていないが山中で隠れ住み賊化した人々に牛と酒をやって難を逃れる。顔役とあるし、豪族=侠=賊の典型的な例。気になるのは顔役とも言える人間を仇討ちしてその後何の問題もなかったのか?その後のトラブルを避けるために山中に逃げたんならわかるんだけど。わざわざ姓名を変えたというのもそうだとすると話は通るんだが。司空に辟召されているのはその地方でのトラブル、絶え間ない復讐劇を未然に防ぐための配慮ということはないのかな?こういう復讐は史書で肯定されるんだけど、一族皆殺しにするまで復讐劇ってのは終わらないはずだから、また復讐返しされるケースがあっていいと思うんだけど、なんで復讐の報復がでてこないんだろう。今のところ見たことがない

 韓王信の子孫。袁術劉表(例の逃げて後やむを得ず仕えた)→曹操そういや身の危険を感じて仕えたって、常套句だとは思うんだが、劉表が仕えないからって理由で殺そうとしたりそういう話ってあったかなぁ?これは劉表だけでなく、袁術とかその他の人も同じなんだが。曹操はベットごと縛って連れてこいって話はあったけど殺した例はさすがにないしなぁ。珍しい冶金の話。馬・人力でなく水力で利益を三倍化し、司金都尉・九卿に次ぐ待遇。これで器物は充実した=財政が潤ったのだろう。その貢献の高さ、器物というものの重要性を類推できる。その後太常にもなっているしね。雒陽へ鄴から宗廟を移す提言。4つとあるが、曹騰から曹操まで三人、あとは魏=国家の廟か?薄葬の進言。季節の衣服に土の墓室、即埋葬、瓦の明器=質素・薄葬の条件だとわかる。『楚国先賢』別資料には文帝があとから三公待遇で葬れと命じたとあり矛盾する。当時の貴族の豪葬肯定のためにあとから本人が辞退しても上が命令してそういうふうに祀るように書き換えたか?宮中御用の棺・衣服一揃い、季節の衣服・季夏=朝服五枚、季夏ってなんだ?玉の器物に剣、おび玉。こんなところが高官の葬儀に賜られる慣例とみていいだろう。

 p63、子が晋武帝時代になって故吏をそのまま新任地の部下にして罰せられている。故吏の禁令が出たということか?で、ひ孫の韓寿が、恵帝の時代に散騎常侍、河南尹代行、亡くなって驃騎将軍追贈。賈充に跡継ぎがいないので女婿だった彼の息子謐が跡継ぎになる。珍しい異姓養子ですね。二十歳で秘書監侍中。なにこれ?秘書監侍中っていう新しい役職?それとも二十歳までに秘書官→侍中を経たってこと?書き方悪いなぁ。制度詳しくないから秘書監侍中なんてのが晋にできたと思っちゃうよ。賈充ご指名か、なぜ彼をわざわざ生前から跡継ぎ認定したのか?この異性養子はなんか曹爽を連想させるなぁ。楊氏を滅ぼしているし、興味が尽きないなぁ。賈謐って。賈后とか司馬遹(皇太子ね)とか、王衍の娘を娶り合ったり、ここまでの時点では朝廷の権力を一つにまとめてしまう梁冀時代のそれを連想する。大将軍じゃなくても立派な外戚政治だし。むしろどうして母、皇后がまた出てくるのか?時代錯誤のようなものを感じさせる。そこがわかれば逆算的にもっとよく魏とか漢とかのそれがわかるんじゃないかな

 p64、崔林―字徳儒、清河郡東武城県人。崔琰の従兄弟。親族の誰からも認められなかった、なぜ?崔琰だけが評価。貧乏・馬・車・供なしで任地に赴く。冀州主簿→別駕→丞相掾属→魏国建国のち御史中丞。そういや崔琰が処刑されたことでキャリアに傷はつかないもんなのかな?あんまり一族の者の罪で連座する話って聞かないなぁ。謀反でもなければ連座はそれほど厳しくないという事かな

 文帝で尚書→幽州刺史。同僚涿郡太守の王雄の忠告、北中郎将呉質にコネがあるから媚びろ。節を持つ彼に対して媚をうらない、コネ政治の拒否、結果左遷。評価の低い呉質であるが、そこのラインと関係が保てないというのはなにかあるのか

 p66、『魏名臣奏によると孟達から王雄を褒める上奏が載せられ、文帝以後散騎常侍という官が皇帝側近の官、そこを取ったあとで郡や州の要職を占めるエリートコースになるとわかる。ついでに同書には侍中辛毗の上奏があって尚書令桓階が崔林に尚書の才がないと判断して出したとある。呉質の話と矛盾する。

 大鴻臚で入朝する異民族の王などの待遇を設定。朝貢下賜品狙いの偽の見分け方とかどうやって偽物とか判断していたんだろう?明帝で、関内侯。光禄勲・司隷校尉。散騎常侍劉劭の『考課論』、九品官人で完成ではなく、さらに人事制度について色々付け足そうとしたってことでしょうかね?人事担当者の権限増加につながる改革かな。それともこの場合は実際の職務遂行、成果によってどれくらい出世させるかとかそういう話ですかね?崔林はテストチェック、ああだこうだと細かくやりすぎると失敗するから自重、って言ってますね。

 景初元年(237年)、司空と司徒が空席で孟康が後任に推挙、ダメだったが、のちに司徒・安陽亭侯、領邑六百戸。三公=列侯は崔林から始まる。で安陽郷侯。亭→郷とかこういった感じで出世するとかよくアリなのか

 魯の大臣から孔子を神として祀る提言、博士の傅祗がこれに賛同する。んで彼はそんなことするなら昔の黄帝・堯から祀らなアカンやろ!と突っ込まれて頓挫。この事例は儒教の厳格化とそれに反する流れを読み取れますね。崔林の出世にこの儒教国家化の反対に関係しているんでしょうか?裴松之は何やってんだよ!孔子様祀れ!と憤慨。崔林は淫祠の撤廃とかもあるから、まるっきり既存儒教に反対って立場でもなかったんでしょうね。おそらくは例の権道派、現実の情勢からパワーバランスを取って政策を決定するのが上手い人なんでしょう

 p72、高柔―字文恵、豫州陳留郡圉県人。張邈が陳留を先に思い通りにしたから二人の関係は破滅する。重要な指摘だなぁこれ。袁紹に仕えていた従兄弟高幹のもとへ一族ごと避難。まあ大抵ここの人は袁紹を頼りますよね。父の高靖が任地の西州=蜀で死去した。三年がかりで蜀に行って高靖の遺体を引き取る。この陳留高氏ともいうべき一族は車騎将軍何熙都の縁戚であり、袁紹ともそうだから、そこそこの名家なのだろう。周りの一族の経歴見ると世々二千石っぽいし。
 とすると高幹が曹操に叛逆したのも個人的な動機と言うよりは背後に曹操とやっていけないものがあったと見るべきだろう。曹操の政治方針と決定的に対立せざるを得ない。高氏というネットワークを見て。だから曹操はいずれ罪に問おうと高柔を刺奸令史に任命した。これに任命して法の運用=曹操政権からみて過ちがある政治を行えば殺すつもりだった。ところが、きちんとその職を果たした。こういう時は中途半端ではなく、思いっきり媚びるしかない。というかまあ本来法家的な所がある人なんだろう。曹操の思惑と叶うわけです。その姿を見てむきゅっ(///)となった曹操は衣を着せてやったり、ツンデレ爆発してますね。なっ、なによ、ちゃんと法の運用できるんじゃない!とコネ政治丸出しすると思ったら、見事な政治だったのでそのギャップにコロッと来ちゃったんですね。おそらく高柔もこれに勘違いしないでよね!あんたのためにやってるわけじゃないんだから!法律をちゃんと運用しているだけなんだからねっ!と返したんでしょう(笑)。菅の長のとき、例の役人が自主的に帰る。んでやり直そうと呼び戻す話ですね。こういう呼び戻しってやっぱり現実的な妥協をよくやる人なんでしょうね

 韓遂馬超を討つ前に三輔を味方につければそれで鎮まるといってます。そもそも三輔が不安定というところに問題がありそうな。短期的に三輔を安定化させることなんて不可能ではないかなという気がするが。張魯を討つってのは指桑罵槐じゃなくて、韓遂馬超を討つ婉曲表現じゃなくて、本当に張魯叩きが本質だったんですかね?あの勢力はなんか、殺すぞって脅したらガクブルで即ははーっと降ってこない感じがしないでも無いですし。んで漢中が帰服したら、連鎖的に三輔も西涼も自然瓦解というか、チェックメイトというか。そういう構造・読みがあったのかな?あと鼓吹隊の逃亡兵の家族を奴隷化する厳罰を止めさせていますね。この時代になるともう兵隊を厳罰で縛る必要性が薄れてきた証左ですね。

丞相倉曹属→魏で尚書郎→丞相理曹属→頴川太守→丞相法曹掾→文帝で治書侍御史・関内侯→治書執法→黄初4年(223年)廷尉→明帝で延寿亭侯に格上げ。正始7年(246年)、太常→10日で司空→司徒。

 丞相法曹掾のとき校事の不正を前もって予告。曹操が信頼していた人物が結局罪を犯して曹操は高柔にあやまっていますが、彼らはどんな人物だったんだろう。曹操の郷里の人間か。それとも曹植とかそういう新人事基準系の人だったりしないかな?

 で曹丕即位すぐの時妖言多発で対策として密告を奨励。即位して情勢が不穏だったことがよくわかりますね。んで密告は意味ない、人心が落ち着かなくなるから止めるべきだと。しばらくして安定したらやめたんでしょうね。校事の劉慈が五桁摘発したとありますね。

 魏の初年、三公に職務なし=形骸化、三公九卿制に戻すべきという提言(p78)。これは受け入られたのかな?嘉納はイエスでいいんだよな。まあこの時まで曹丕のやりたい放題っていう感じかな。落ち着いて本来あるべき官制に少しづつ戻っていったっていうことでしょうね

 同じ治書執法鮑勛を処刑するときにはわざわざ高柔を尚書台に呼び出して遠ざけてからでないと出来なかった=取り調べという名の拷問死。鮑勛についてあんまり興味なかったけど、陳留太守の孫邕とかのケースが絡んでいて、高柔も陳留の人。なんか陳留とかそこら辺の事情が色々絡んでいて面白いかもしれないな。彼は家が儒学で代々著名というのもあるし

 上奏文に、曹操が郡・県に学校を、曹丕が太学、州の試験制度を整備(p79)。曹操が全ての教学を設けるってイメージに合わないなぁ。そりゃ学校設けるくらいなら当然の話しでわかるんだが。で博士が期限付きであまり長くとどまれないという状況をやめよ!と提言している。明帝に入ってこの博士の尊重が進む。儒教的なそれが強まったわけですね。後の方に親の死で100日免役が経っても出仕しない、よく見たら本当にやつれて動けないから孝だといって表彰したり、どうも初期の法家から、魏以後は儒家に転換。それもかなり早いうちから政治スタンスを変更した人物っていうことになるんですかね

 宮殿造営と後宮充実を皇子夭折の原因にしてます。邪魔な女は全部返せと。んでよしよしいいこと言ったと誉めながら、提言は拒否。次に出てくる狩猟といい、宮殿・後宮・狩猟は天下が治まってふさわしい国家イデオロギーがないゆえ、儒教的なそれにならざるを得ない。そうすると君主権がなくなるからその代償としての行為でしょうね。宮殿造営について、この部門の担当者は将作大匠だから、この時誰が将作大匠だったかっていうのは結構ポイントになるんじゃないかな?あとで調べるか

 天子の狩猟場での兎狩り(p81)。単なる馬鹿でないとすれば、こういう行動に出るほど狩場がなかったということなのか?

 公孫淵の人質について、前もって反乱を告げていたら許すべき、そうでなかったら市場で斬刑だと。結局金のクズを飲ませて死刑。衣服や棺は与えるというから、あの世では許すということ。この処罰はどれくらいのものなんだろう?復活を認めているからそれほど重くないのかも?金=名誉

 狩猟場での鹿を狩ったら死刑。なぜわざわざ侵入するのか?そんな所で盗みをやったら死刑に決まってるではないか?それほどたくさんあったか?高価?必要不可欠なのか?塩みたいに。鹿虎・鷲鷹一体どういう意味を持つのか、四方千里はこれまでに比べてどのくらいの規模なのか

 で、バーローばりに名推理で解決する話が出てきます。人殺しの冤罪で奴隷にされかけた家族の身分を戻してやるが、もう平民だったのかな?この時代の兵卒は。復帰だから恩赦かな?戦死扱いで

 司馬懿のクーデターの時皇太后に仮節行大将軍事、曹爽の軍営を抑える役。かなりの重役ですな。万歳郷侯→曹髦時安国侯国候!ってこれまでいたかな?→太尉→曹奐で加増四千戸。五等爵で子が子爵ってどうなんだろ?まあやはり子は文句なし元勲の子孫で、高幹ならぬ高官についてますが。

 p91、孫礼―字徳達、幽州涿郡容城県人、劉備とおんなじか。曹操が幽州支配で司空軍謀掾。母が行方不明になってバラ珍のように探し当てる、素敵やん状態に。んで母を馬台という人物が保護してくれたんだけど、この馬台が法に触れ死罪相当に。孫礼は脱獄を手引きして代わりにオレを裁けと。馬台も無逃亡之義―どっちだろ?無罪だってことか?それとも孫礼にかばってもらうほどの人物じゃない、逃げて生き延びるなんて義にあらじ!ってことどっちかね?んで刺干主簿温恢の元に出頭。温恢はこれに感動して、曹操に取り成して死一等を減じさせたと。孝もそうなら、相手を裏切らないということも滅多になかったということですかな。死一等減じられても出世というか士官に影響しないんですねぇ。あと刺干主簿ってなんですかね?さっきも似たような官がありましたが、冀州統治にあたっての厳格な統治を実行するためにできた役職なんですかね

 河間郡の丞→荥陽都尉。魯山の賊が問題になって、懸賞金と投降呼びかけて離間で解決。山賊問題でわざわざ呼ばれるってことは、幽州では日常茶飯事で解決方法を心得ていたってことかな?魯国相→山陽、平原、平昌、琅邪の郡太守を歴任した。

 大司馬の曹休の呉征伐に従軍。彼も曹休に深入りするなと言っていたのか。→陽平太守→尚書。宮室の修復工事を天候不順で穀物の実りがよくない理由として工事中止の詔勅を引き出す。作業監督の李恵があと一ヶ月で完成するからやらせてくださいという上奏を潰して、工事をかなり無理矢理に中止させたのだろう。明帝はこれを咎めなかったとある。越権行為だろうね、本来

 明帝の大石山行幸で、虎が出で皇帝の車に向かってきた。孫礼は馬から下りて虎をさそうとしたが、明帝は来なくていいぞと。これ何エピソードなんでしょうね?結局何もなかったわけでしょう。勇気ある男とか言いたいんでしょうか?大体親衛隊がガードしているだろうに。でしゃばり基質ってことか

 明帝危篤で曹爽が大将軍。その輔佐役として孫礼が直に遺詔を受けて大将軍長史・散騎常侍。で曹爽に嫌われ、揚州刺史・伏波将軍・関内侯で外に出した。これは降格に値するのか?まあなんにせよずーっと外に出しておけるものでもないしなぁ。一時的に外に出るくらいならそんなに珍しくもなさそうなんだけど。続く呉の激戦を見ても、皇帝代替わりで攻めてくるのが眼に見えているわけだし、重要な最前線を託したと見てもいいと思うんだが

 241年、呉の全琮が数万の兵。州兵の多くが休暇で、孫礼自ら少ない兵で芍陂で交戦。味方の過半が死傷、孫礼自身も傷つく。これは普通にミスだと思うんだが、情報が漏れたのか?よっぽど想定しないルートから急に攻めてこられたのかどうなんだろ?→少府→荊州刺史でまた外任。戦死者の祭祀場(p93)、こういう慰霊っていつまでやるものなんだろ?国家の慰霊って皇帝の重要な任務っぽいんだけどなぁ。

 →冀州牧。長年の懸案だった清河郡と平原郡の境界争いを太傅司馬懿と同調して、平原有利に。曹爽は清河郡有利にしたかった。よって反抗する彼とやりあって、孫礼を弾劾、五年の謹慎に。減を求める声で一年で城門校尉に。在家期年、一年家で過ごしたってことか。なんか微妙な職に復帰したな。実権剥奪ってことかな?なぜ司馬懿と同調したのか?明帝が平原郡にいたという理由で?曹爽は清河郡を有利にしたかったのか?あるいは明帝の権威を落として自己の権威を上げたいとか?そこら辺から曹爽の政策が見えてくるのかな?そこまで曹爽は固執はしていなかったけど孫礼の強行な態度、上奏の仕方が鼻についたというだけなのかな?刺史はオレだから文句を言われる筋合いはないと言わんばかりの態度があれだったとか

 匈奴王の劉靖・鮮卑の対抗から孫礼が并州刺史・振武将軍・使持節護匈奴中郎将。この出発の前に司馬懿に挨拶に出向て曹爽の専横は国家の危機や!と司馬懿に訴えたと。で曹爽が殺されて司隷校尉→司空。七郡五州を統治し全て威信があった。劇とかを治める人ってことかな?厳格であんまり出世しそうな感じがしないのに、色々任されるってことはやっぱり統治能力の高さがあるってことかな?山賊とか辺境軍事とか。まあでも尚書をこなせるくらいなんだから脳筋ってわけないしな。西北列将なのかな?彼は辺境任されるくらいで、軍でも重要な人間だと思うのだが、曹爽はこういう軍人をどれくらい抑えたのだろうか?クーデターなんか軍をしっかり抑えておけば起こり用がないもの。曹爽=文治派だったのか

 でなぜか同郷盧毓と馬が合わなかったと。名声・官位はおんなじ。二人のスタンスの違いは何か

 p96、王観―字偉台、東郡廩丘人。幼くして孤ってやつですね。丞相文學掾→高唐、陽泉、酇、任の令→文帝で尚書郎、廷尉監→南陽、涿郡太守。入りてなんとか出てなんとかってなんでわざわざ記すんだろう。今に始まったことじゃないけど。そんなに中央にいることが大事なのか?明帝即位で治安状況を報告させる。例の劇・中・平で、劇と報告すると子供を人質にとらわれる。病弱な子でも構わず送った。ということはごまかして中とか報告してあとから処罰されるとかよく有りそうなもんだけど、なんであんまりでてこないんだろう

 明帝が許昌行幸したとき治書侍御史。行幸することで人事を意のままにできるとか、なんかそういうあれがあったのか?行幸時に行う人事って特別な意味があるのかな?太尉司馬懿の要請で從事中郎→尚書→河南尹→少府。曹爽が使材官張達によって屋材や私物を奪わせる。王観がこれを全て記録して没収。少府にある三つの尚方とか珍しい器物を手に入れるために、彼をパージして太僕にする。少府を抑えること=財物を抑えることか

 曹爽がいなくなって、行中領軍,弟羲の営を抑える。尚書・駙馬都尉・関内侯。高貴郷公即位で中郷亭侯・光祿大夫→右僕射。常道郷公で司空。固辞したが印綬を家にまで遅らせる。そして受けて数日で還す。でまた薄葬。子が五等爵で子爵と。