てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

【三国志ノート】列伝第二十五 辛毗楊阜高堂隆伝

 辛毗―字佐治、豫州頴川郡陽翟県人。先祖が隴西郡から東方に移住。珍しい本籍地替えの話。その先祖の話も出てこないということは貧しいとか罪があったということかな?別に普通の平民でもおかしくないし、官に付き従ってついてきた人とかもありうる。ここだから経済・商売の人間と考えるのが妥当かな?あんまり先祖が奴隷とか罰があっても、世代変わったら関係なくバーンと出世したりするからなぁ。兄が袁紹の重臣で辛毗もそれに従った。荀彧とか荀氏、おそらく同族の郭図・郭嘉の郭氏とかと違って、曹操のもとに保険として一人位というか弟の辛毗がいればよかったのに、なんで袁紹一本だったのかねぇ。本拠に一人くらい残るべきかなぁという気がするんだけど。それほど袁紹が強かったってのもあると思うんですけどね曹操が司空になると召し寄せられたが、応じることができなかった。なんで?喪とか?理由書かないってどういうこと? 袁紹の死後、袁譚派。辛毗が和睦の使者に郭図の進言が大きかったというby『英雄記』から、辛毗も郭図ももう曹操に降るつもりだったんじゃないかな?勢力から考えて、袁尚VSになった時点でもう曹操の一配下になることを袁譚自身も同意していたんじゃないかな

 で曹操は結構迷っているんですね。荊州討ちに予定が進んでいたらしく、西平に駐屯。袁譚の帰順で、大きく喜んだといいます。まあ名目は同盟なんでしょうけど。で数日するとやっぱり荊州攻撃プランを続行する方針に。袁譚袁尚を争わせ共倒れ方針に。辛毗は宴席で曹操の様子が変わったのに気づいて、郭嘉に相談。郭嘉の取り成しで曹操を説得することに成功。んで黎陽に駐屯と。もう完全に曹操に魂売ってますよね。んで荊州に食があるってのがやっぱりポイントなんでしょう。んで袁二人が今食なくてピンチというのも。荊州を一つ叩いておかないと背後を突かれるし、食を奪いたかったんでしょうね。前々から荊州を叩こう叩こうと何度もやってますし。あと杜襲がやられた過去があったり、劉備が背後からチクチクやってきたり、うっとおしくて一度懲らしめてやるって必要があったんだと思いますね。別に先にこっち叩くことになったとしてもそんな大して結果変わらなかった気がしますけどね。辛毗の言葉で決心したように、彼のような人間がいないと再び袁兄弟が最結束して向かってきてしまう。それこそさっき触れた関羽孫権のように。だからもうちょっと様子を見てからとしてもおかしくはいですね。辛毗が説得をする=袁兄弟の結束はないという確信がほしかったというところじゃないでしょうか?というか袁紹が死んだ時点でもう先は見えているといっていいでしょうね。袁譚が降参せざるをえなくなってきたようになっちゃうんですから。ポイントは軍内部に荊州を叩きたいという要請があったことでしょうか。それと用兵上どっちを攻めるか相手に悟られないほうがいいですし、別におかしな話ではないですね。なんか曹操の迷いとか優柔不断とか、変な解釈をする必要はありません。むしろリーダーというのはあらゆる可能性を考慮して、諸勢力・配下を慮ってあれこれ思い悩まなきゃなりません。リーダーの優柔不断というのはある程度までは必要不可欠な資質ですから、もちろんその後に判断・決断がなければダメですけどね

 んで鄴攻略で審配が兄辛評の家族を殺したため殺害を要求したと。審配が仕えないから曹操も処刑(「袁紹伝」引『先賢行状』)。両雄並び立たずでは無いですけど、この二人が相容れないという理由があったんですかね?豫州の経済権益でもめぐって。んで議郎に。 曹洪に下弁攻略のとき、辛毗は曹休とならんで曹洪の輔佐。女好きと金好きを前漢の高祖の事例を引いて戒める。このとき都護なんだが、都護で軍隊の長ってなんだろう?軽い感じがするんだが。この時にわざわざ注意をするということはこの遠征時に女に手を出したり、金儲けに走ったりする恐れがあったのか?→丞相長吏。 曹丕派で太子決定で曹丕は辛毗のうなじを抱いて喜んだ。アッー腐女子歓喜!んで漢魏革命に邁進すると。曹丕が即位で侍中、関内侯。なんか例の曹爽派で失脚したから魏晋革命に積極的に協力して生き残りを図ったアレに似てますね。むしろ辛毗がそのハシリ、先駆者でしょうか。しかし袁譚に続いて曹丕と長男好きなんですね(笑)。今度は報われてよかったね。正朔の議論で辛毗は孔子が夏の暦って言ってるから夏でしょうと言って採用。曹丕政権は儒の匂いが強いですなぁ。まあ他にないんだろうけど。

 曹丕冀州の士卒十万戸を河南に移住させたかった(p104)、蝗害があって群臣は反対。辛毗が袖を引っ張って離さないほど諫言。食料がないと、―で半数に減らす。河南に人を移すくらいだからそりゃあんまり人が充実してなくて食わせるものもないんでしょうが。そんな急にやらないで五年とか十年単位で少しづつやりゃいいだけの話じゃないのか?同様に狩猟・雉打ちも諌めた。で曹丕の狩猟は稀になったと。群臣にとっては(狩猟・雉射ちが)辛いことってのがやっぱポイントなんでしょうね。狩猟で消費税みたいに周辺の民から労役とか税を出させるんでしょうか?そもそも曹魏政権は許→鄴→雒陽と三回のステップを踏んでいるわけで、このときさらに雒陽周辺を充実させるってのはどういう意味があったんでしょうね?皇帝直轄民を増やすってことなんでしょうかね

 曹真の江陵・朱然攻撃の時、辛毗が軍師。帰還後、広平亭侯。曹丕の呉征伐に反対。民衆の休養を優先。結局軍を動かすも、長江まで行って帰還(p107)。これは半ば行幸。軍を動かす事自体に意味があったんでしょうね。実際自分の目で見てもし可能ならやることもありえたんでしょうけど

 曹叡即位で、頴郷侯・三百戸。んで中書監劉放と中書令孫資の時代に移るわけですね。大臣の多くが誼を通じたのに辛毗は通じなかった。子の辛敞は諌めた。自分の出世に関わりますもんね。対称的に辛毗はもう元勲レベルになりつつありますから、十分か?別にあえて媚びうる必要もない。冗從僕射畢軌が尚書僕射王思の後任として辛毗を推挙。劉放と孫資は辛毗の誠実さは評価しつつも、強情で妥協性がないからと却下していますね。辛毗はもっと出世している感がありましたがまだ尚書についていなかったんだ。んで明帝は辛毗を衛尉に。衛尉が外?九卿なのに?侍中とか尚書は内ってことなのかな?曹丕時代の人は言うこと聞かないから若い皇帝には邪魔ですわな。しかし二人の名前が揃って劉と孫って、蜀と呉じゃないですか。図ったような名前だなぁ。中書監と中書令に権限が移るのは明帝から?尚書ゼロってことはないだろうけど、中書5:尚書5くらいにはなってるのかな?その後明帝の宮殿造営について批判。孫権が遼東から馬を買っている。中央騎馬軍構想かな?北芒山を平らにし、臺觀を作り,そこから孟津を見る(p108)。辛毗の反対で取りやめ。これって一体どういう儀式なんだろ?宗教的意味合いが気になるな

 蜀の北伐で張郃が戦死。明帝はその死を強く愛惜し、司空の陳羣もこれに同調。辛毗は弱気ダメよと発言を撤回させたと『魏略』にあるが使っている言葉から裴松之はこんなことありえないと否定しています。

 んであとは五丈原司馬懿が交戦の許可を求めるのを、辛毗が明帝の命を受けて大将軍軍師・使持節でステイしろという命令を伝える役ですね。命令だけじゃなくて辛毗個人の力に司馬懿以上に軍を強く統率するものがあったんでしょうか?武官ポストのトップともいえる衛尉が影響か?大将軍は独立したそれとして、衛尉にはもっと広範な人事の影響力があったかもしれない諸葛亮が亡くなり蜀軍が撤退すると、また衛尉。娘の憲英が羊祜とも関係しておもしろいですね。泰山羊氏に嫁いでます。

 p113、楊阜―字義山、雍州天水郡冀県人。若い頃、同郡の尹奉や趙昂とともに名を馳せたby『魏略』。曹操袁紹で、州牧韋端は従事の彼を許都に赴かせる。んで安定長史。楊阜がというより、韋端が曹操を選んだということか。もちろん楊阜も曹操に賛同したんだろうが。一人くらい袁紹についてもよさそうなものだけど、そういう人はもう消されていなくなっただけかな?関東の出来事は我関せずは光武帝の時と一緒か?曹操袁紹というよりかはこの地方の場合は朝廷権力に依存せざるを得なかったという気がする。中央政治をどうこうする実力も意図もあまりないというところかな

 長史の任務が合わず辞職、韋端が太僕に、その子の韋康が涼州刺史になると、別駕として召し出され、孝廉→丞相府招聘、涼州側は参軍として行かせない。ここらへんは彼らをつなぎとめておくために厚遇したって話ですな。長史があわずってなんだろ?安定でうまく統治出来なかったとか

 馬超の渭南、潼関の戦いの敗北後、羌族をまとめて再起。楊阜は韓信、黥布に擬えて、馬超の対策を訴えるも、河間蘇伯達の反乱が急務だったか?曹操は引き上げた。馬超は隴上へ入ると冀城を除く全てが馬超に呼応している。むしろ潼関の戦いより、こちらのほうがインパクトが強いんじゃないか?冀城には刺史の韋康や諸郡の太守達が拠っており、最後の拠点。ここが落とされれば全て失ったも同義。これに漢中の張魯も将軍楊昂の援軍を派遣。これでも兵は一万人程度に過ぎないのか

 楊阜は城の士大夫の子弟のうちから戦争ができる者を千人を集めて即席の軍隊とし、従弟の楊岳に城壁の上に偃月の陣を敷き馬超に抵抗した。正月から八月まで籠城も援軍はやってこず。もうゲームオーバーですね。なんで来なかったのか?それほど河間蘇伯達の反乱が大きかったのか?それとも例の同士討ち、両方共弱まったところを従わせるというやつか?援軍の使者別駕の閻温も殺され、韋康達は降参。馬超は楊岳を冀で軟禁する一方、楊昂に命じて韋康達を殺害。

 妻の葬儀を理由に帰郷。歴城の姜叙、姜叙の母、趙昂や尹奉といった郷人、武都の人間、冀の楊岳、安定の梁寛や南安の趙衢。ことごとく馬超は嫌われているといった感がある。羌のような異民族の支援を得ても、地元の有力者たちのそれはなかったということか

 212年9月、楊阜は鹵城で兵を挙げ、馬超が動いたところ梁寛や趙衢達が冀城を襲撃し、楊岳の身柄を奪い返し、馬超は釣られて挟み撃ちと。たった一ヶ月で反乱はまとまったのか?馬超の支配は不安定すぎるなぁ。どうして馬超は彼らを信頼したんだろう?やっぱり籠城で助けにこないから、見捨てられたと感じていると思ったのかな?ここに出てくる会話は明らかに創作なんだろうが、一体どうやって作ったのかな?公式発表のセリフみたいなやつなのかな?この時代もまだ市での講談からネタにして作ったりしたんだろうか

 歴城襲撃で姜叙の母や馬超の人質趙昂の子、楊阜の一族七人が馬超に殺され、自身も重傷。214年春正月までには夏侯淵の援軍で、馬超を漢中においやる。馬超の冀城にいた妻子一族も処刑。 隴右平定の功績で11人列侯。楊阜は関内侯を上司韋康を守れなかったことから辞退。曹操がごりおし。趙昂の妻王異とか、常に策略を立てる帷幕に参画したり、女性が元気ですね。辺境ほど女性が元気なものなんでしょうかね、やっぱり

 漢中討伐、益州刺史→帰還、金城太守→直ぐ武都太守。国境・最前線であるから法の厳格な適用をしないことを訴える。まあ常識ですよね、内乱呼応がないように負担を軽くするという

 218年、張飛馬超が下弁に、氐族も呼応。曹操は都護の曹洪を送り馬超達を退却させる。面白い宴席のエピソード、以前曹操が注意させたように曹洪は勝利を祝って宴会で薄衣を身に付けた女性達に舞わせた。同席していた諸将は喜んだ。が楊阜だけが退席。曹洪は謝って舞楽をやめさせた。軍人的な人物ほど女・金に染まりやすい、商業的な傾向があり、楊阜のような人間は農業・儒教的な傾向になるってことかな

 劉備が漢中を取り下弁に再び迫ると、曹操は武都の住民を京兆、扶風、天水へ移住させようとした。氐とあわせて一万戸。楊阜の信頼と権威。地元の名士・有力者の影響力の大きさですね。こういう最前線で曹洪のような商売人を派遣するのはそういう秩序を揺るがしかねないって懸念がやっぱりあったんでしょうね。楊阜と衝突するのは必然でしょうな。まあ曹洪はそれでぶつかったりするところまではイカない人物だから良かったですけど

 武都郡十数年の統治を曹丕は評価。侍中の劉曄達などから武都の太守の評判がいいことを聞いて召す予定が崩御でかなわず、曹叡で城門校尉→将作大匠・少府。ピーコばりの服装チェックで明帝に法服を守らせる。将作大匠のとき狩猟・後宮・宮殿例の3点セットの非難。少府のとき大司馬曹真の蜀遠征の撤兵進言。どうして少府がそんなことを上奏するのか?越権行為じゃないか?と思ったけど、これは財政上の観点か。無駄な駐留で軍費がかかるからやめ給えってことか。工芸愛玩品=上流階級の贅沢品?(p125)

 宮女を減らせと主張して、何人いるか把握しようとして担当官が逆らって人数言わないところ笞打ち(p126)。マジキチですね。いわゆる儒狂ですね。次のとあわせて。娘淑が幼くして死ぬとこれを悼んで平原公主に封じて、洛陽に廟をたて,南陵に葬った。明帝自ら野辺送り、この葬儀を行うことに権力掌握のそれがあったってことでしょうかね。楊阜は文帝、武宣皇后もやらなかったのに、なんでこんなことをやるねんと諫めます。帝既新作許宮,又營洛陽宮殿觀閣―とあるように、雒陽遷都プロジェクトの一貫ですかね?まあ宮殿作って君主権拡大はこれまで通りなんですが、それ以上にやっぱなんかあるのかな?曹爽の貿易・商業と土木の明帝で違いがあったりしないかなぁ

 孝経に天子に諫臣7人いれば、君主無道でも滅びず(p128)か、なるほど。

 

 p130、高堂隆―字升平,泰山平陽人。なんで結構出てくるのにwikiにないんでしょうね?まあさっきの楊阜以上の儒狂ですね。前漢儒学者、魯の高堂生子孫。こんなにはっきり先祖がわかっている人も珍しい。バリバリの儒学者だったんでしょうね。それにしては親とか官吏で出てこないんですね。泰山で薛悌の督郵をやっていて、督軍の諍いで名前を直に呼ぶ無礼で切り殺そうとする。いきなりのキチガイエピソードですね。孔融とか儒でもそれにとらわれない、自己の主張とか考えがありますが、彼はもう筋金入りですね。これ曹操の支配下ですよね、督軍と太守が諍いを起こすというのが当時の軍権の拡大とこれまでの太守の権限のそれの衝突ってやつなんですかね?官を退き、済南に避難。

 丞相軍議掾→歷城侯徽文學→そこの相→堂陽の長→平原王=明帝の傅(守り役)→給事中、博士・駙馬都尉→陳留太守。犢民の酉牧が七十で至行、挙げて計曹掾。これを帝も嘉し?なんで?年寄りを抜擢することがいいことなのか?普通の人にはできない珍しいこと?犢民ってなんだろ?羊飼い的な感じかな?→散騎常侍・関内侯

 青龍に宮殿を大修復。長安から大鐘をもってくる。これ、董卓が鋳潰さなかったっけ?小人が好んで秦・漢の奢侈を説く、亡國の器を取り寄せる。労役で国を消耗させる。まあこんなところからすると中央にあるもの、君主権の拡大=貿易・経済やめろっていうのとつながってますね。労役で動員するとどっちかっていうと貴族・重臣の動員する余地が減るから傷つくってことなんじゃないかな。このころもう国家に帰属する平民より、曹家や豪族の民の方が遙かに多いんだからあんまり労役=民力をそこなうとか関係ない気がするんだが

 帝幸上方,隆與卞蘭、尚方じゃないのこれ?上方でもおんなじなのかね?音楽への意識がわかる―簫韶九回で鳳皇がきて、雷鼓六回で天神が来る。大鐘は音楽のためにならんのかね?でっかい鐘ってなんだろうね?権威付けだけか

 →侍中領太史令。崇華殿の火災=女を増やしすぎ、これ以上宮殿増やすなと。明帝も宮殿を作って災異を防いだという例があると引かない。結局崇華殿作りなおして九龍が見えたという報告から、九龍殿に改名。円丘=冬至で祀る祭壇。方沢=夏至で祀る祭壇。

 宮女の費用と戦争・軍・国家財政費用が等しい(p135)。法・刑罰ではなく、大道で治めよ。明堂を作り、修三雍=太学・明堂・霊台=天文台を整え、大射(朝臣でやる弓射)、養老(年老いた賢者を敬う)、郊廟をたて、儒士を敬い、逸民を挙げ、制度を明示し、正朔を改め、服の色を変え、布愷悌(=わからん。愷悌和やかで楽しげってことだから、周りをそういうふうにしろってことかね。)、倹約・質素をたたえ、封禅を行い天地にその業績を帰すべし。天地に雅頌=泰平の歌が満ちて、後継ぎも生まれるようになる。これこそ腐朽の事業だと。まあ良く儒教的価値観が表されて面白いですね。で服は黄色に、生贄は白に変えたと。

 →光禄勲。宮殿、觀閣を彫り飾り、太行山から石英岩を持ってきて、穀城の文石で、芳林園に景陽山を起てる。太極之北に昭陽殿を建て、黃龍・鳳皇の大気な像を、金墉・陵雲臺・陵霄闕を飾り立てた。公卿以下学生まで動員し、万を数えた。面白いのは帝乃躬自掘土以率之―明帝自ら土掘ってやったっていう点ですね。ガテン系です。皇帝自ら土木作業やった例って他にあるんですかね?秀吉も真っ青です。狩猟・酒宴にとどまらず、一緒に働くことで民と苦楽を共にする明帝にはむきゅっときますね。一大イベントだったんでしょうね。ピラミッド・古墳に近いものがあるんでしょうね、やはり。戦争ができないんなら、宮殿作ればいいじゃない!ですね。而遼東不朝。悼皇后崩。天作淫雨,冀州水出,漂沒民物。だから入朝はしないし、皇后は死ぬし、洪水は起こるんだという表現は儒教的価値観の反映ですね。こういうことを非難するのはもうお決まりですね

 諫言だからどうかわかりませんが、劉備孫権が帝号を称し中国の皇帝を争おうとしている(p141)ってあるけど、辺境の賊以上の意識が当時の人間の一般的な感覚としてあったのかな?国家に一年の蓄えもない。将校・官吏の俸禄は五分の一更に自宅待機になっている。税を払うはずのないものが半額を出している。収入は倍になり、支出は三分の一以下になっている。経常支出は不足って日本語がおかしいなこれ、まあ支出が多すぎて赤字が恒常化しているって言いたいんだろうけど。牛肉の現物徴収ってどういうことなんだろう?牛飼い?牧畜民がそんなにいたのか?なんかの決まり文句かな?俸禄減らされるとやっていけないから勘弁してくれって言ってますね(p142)。やっぱり公共事業で金とかを配分したんでしょうね。曹魏社会主義とでもいいましょうか、日本並の土木国家・土建国家だったわけですな。謀反や反乱が起こらなかったところが、別にそんな大したことでもなかったんでしょうね。それか曹爽ぐらいの時に限界が来てそれが爆発したか。曹魏国家=戦争国家でしたから、あミリタリズムのことね、戦争なくなって困るから兵を動かす代わりに土木に転換したってところでしょう。んで晋に至ってそれすらやめて、大暴発って流れなんでしょうね

 高堂隆が、諸王に兵を率いさせ首都を鎮護すべきだという意見は非常に重要な提言ですね。権臣を抑制するため?呂氏になぞらえているのは単なる偶然なんでしょうか?それが起こるってことですよね。ふーん、こりゃ相当注目すべきじゃないかな?曹爽&八王の乱を考える上で

 で、封禅の実行者・プランナーとして選ばれたんですが果たす前に死んでしまいました。例の薄葬ですね。彼死して学問廃れたと。で最後いきなり任城の棧潛とかいう人の諫言が出てきますが、まあどうでもいいんですけど、ここに首都圏=お膝元は昔っから現物を収めたらそれでええんじゃい!という話が出てきますが、もしかして狩猟場とかにしてそういう農地・システムにしなかったのは、首都民=都市戸籍というか富裕なものが集まる。そういう待遇をしなかったということなのか?都だろうと負担に差があってはならない。そういう平等な発送からこういう狩猟場という形になったのだろうか?軍隊の水陸両用の輸送。海運を使って輸送ができたのか