てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

【三国志ノート】列伝第二十六 満田牽郭伝

列伝二十六満田牽郭伝  

 満寵―字伯寧、山陽郡昌邑県人。身長は8尺、巨人です。18歳の時に督郵。他の人がかなり曹操に近い、変わらない年代で彼だけ若いんですよね。郡内で部曲を率いる李朔の乱暴を止める。というか自主的に止まったか?→高平の令代行、督郵の張苞を逮捕・辞職で故郷に帰る。曹操兗州支配で從事→大將軍で西曹属→許の令。曹洪配下の将が略奪したとき、満寵は速やかにこれを逮捕。曹洪の訴えも聞かず、曹操経由で許してもらおうと働きかけると、直ちに処刑。曹操は官吏たるものこうでなくてはと褒めた。

 元太尉の楊彪の逮捕(何の罪で?)の時も、荀彧や孔融を無視して笞打ち・訊問。ただ殺すことはせずに、前もって曹操に確認した。最初荀彧や孔融も自分達の訴えを無視されて怒りましたが、機転を利かせ殺さなかったので感謝したと。裴注では楊彪を鞭打ちするなんてこのやろう!と当時の人間の価値観が反映されていて面白いです。

 →官渡の戦いで汝南太守。兵五百で二十の砦を落とす。指導者十人くらい集めて一気に殺して=だまし討ちで平定。二千人と二万戸を手に入れ農耕に従事させる。これも戦果十倍か?これはまともな数字な気がする。二百人とかだったら少なすぎだもんね。大して大規模な反乱ではなかったということか?でも汝南の黄巾崩れだからそんなに人もいないしこんなもんかな?

 →荊州征伐時、奮威将軍も兼ねる。当陽に駐屯、関内侯。→征南将軍曹仁の参謀。この時からこの地方の専門、対孫呉の要となるわけですね。219年関羽戦争で、曹仁を励まし降伏論を退ける。関羽が許に向かっていかないのは背後を突かれるのを恐れているから籠城するのは意味があると。安昌亭侯。白馬を水中に沈める誓約ってどういう意味あいがあるのだろうか?儀式的に馬である必要性アリ?

 →曹丕で江陵の戦いでの功績で伏波将軍。新野の防衛に。南方遠征で敵の夜襲を返り討ち、南郷侯。仮節→224年前将軍→曹叡で昌邑侯。

 →228年石亭の戦いで賈逵の監軍、賈逵の死後豫州刺史兼任。229年降伏者の情報から孫権の襲撃を未然に防ぐ。秋、またもや曹休が敗れ、今度は朱霊に救われる。曹休死後、代都督揚州諸軍事。で、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていく。護軍は処刑すべきと報告、詔勅は親衛兵千人を率いていくことが許し不問とした。こんな事件が満潮の以後の立場を危うくしたのでしょうか?活躍からして衛尉・軍の責任者都督あたりになってもおかしくないのになかなか出世できません

 →230年征東将軍。冬、孫権合肥攻めを察知、兗州豫州の軍を召集。孫権の撤退で撤退の詔勅が下るも、満寵は孫権の撤退は偽装と読み、従わず。孫権は10日ほどして再び攻めてくる。で、守り切る。

 231年、呉の孫布という武将が投降を申し入れてきた。揚州刺史の王淩はこれを受け入れるも、満寵は偽装と読んだ。たまたま入朝する用事が出来たため、留府長史には、王淩が兵士を要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍にわずかな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせ、孫布の夜襲により兵を多く失うことになった。

 満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚も、王淩の息のかかった者の讒言から。満寵と目通りした明帝は大丈夫と判断したが、満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。出世したかったからか?それとも現地の王淩都の無用の対立をこれ以上避けたかったからどっちだろ?両方

 232年、呉の陸遜が廬江侵攻も、落ちないから大丈夫。陽宜口まで行って、呉軍は退却。

 233年、満寵の合肥新城の提言。護軍将軍蒋済は反対。尚書の趙咨の支持で合肥新城に。合肥城は寿春の遠く南にあって、呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすかった―というが、だったらなんでそんなところに立てたのだろうか?もともと孫呉用ではなかったのを、やむなく防衛の最前線として使っていたということか?水流が変わったのか?ボロが来て新しい城の必要性が生まれたのか

 同年、呉の孫権合肥に攻め寄せたが、合肥新城が水から遠いため、上陸しなかった。しかし、満寵は孫権は魏が弱気になっていると宣伝しており、必ず襲撃してくると判断、伏兵歩騎六千で、数百の首をとった。

 234年、孫権は、諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)に呼応して、数十万と呼称して合肥新城に。当初満寵は合肥新城を放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出ている。満寵はあれか?せっかく作った合肥新城をあっさり放棄する案なんか出すところ、あまり最前線を広げるよりは向こうが勝手に攻めてくるから、ラインを押し下げてなるべく、なるべく後ろ=本拠に近いところで戦いたい派か。民養重視か?寿春でも別に問題はないし、陸に打ち上げられた魚でどうせ、孫呉はそんなに強くない。むしろ陸戦で返り討ち、カウンターのほうが効率がいいと考えていたのかな。満寵は数十人の義勇兵の決死隊、火攻めで呉軍の攻城兵器を焼き払い、孫権の甥の孫泰を射殺する戦果を挙げた。

 235年春、呉は江北に屯田を始める。満寵は、収穫の時期に襲撃、焼き払う。詔勅により軍功が称され、鹵獲品はすべて将兵の恩賞に。

 →曹芳で238年3月ようやく老年のため中央に召喚され太尉に。長かったですねぇ。普通前線でここまで権力握っていると召喚されて衛尉なり、大尉なりで兵権取り上げられそうなものなんだが。どうしてここまで無警戒・信頼されているのか?寿春に引き払ってまえというように、現地淮南の声の代表者になりえないということかな?満寵への信頼は後の反乱と絡めて重要な点になると思われる。家に余財なし。領邑は九六〇〇戸、子と孫二人が亭侯に。 242年3月に満寵はなくなってますが、彼が生きていたら曹爽・司馬懿はどうなっていたんでしょうねぇ。満長武は魏晋革命のさなか司馬昭に疎まれ、殺害され、父の満偉も平民に陥されました。魏に忠誠を誓った?なんかやること中途半端な感がありますね。満奮、満偉の弟の子は西晋の時代に尚書司隷校尉ですから、うまく転身を遂げたのでしょう。結局武断→文治政治に適応できないとあっさり消えてしまうということですね

 p164、田豫―字国譲、幽州漁陽郡雍奴県人。年少の頃から劉備に従い、公孫瓚劉備。しかし劉備豫州刺史で、母の老齢を理由に帰郷。徐州くらいが劉備についていく限界というところか。本籍地に帰る。むしろこのほうがまともなのだろう。年少の頃からというのがやっぱり任侠的な性格を暗示するのかな

 公孫瓚の下に戻り、東州令代行。公孫瓚の将である王門が袁紹に寝返って、一万の兵を率いて攻めてくる。周りの人は降伏しようとした。んで器物を人に貸したりしないものと言って、せめてこんかい!(#゚Д゚)ゴルァ!!と。王門は恥じ入って退散。公孫瓚が田豫が臨機応変の策略に長けていることが分かっていても、任用しなかった事実とあわせて考えると、王門と田豫はなにかつながりがあるんだろう。別に王門攻めてきたらおんなじ出身とか故吏関係とか繋がりあるから、そっちにつこうぜという日和見人間の発想があったんでしょうね。んで王門も降伏するだろうと思ったから押し寄せて、ありゃ、しないの?じゃあ帰ろうと。そのくらいでしょう。公孫瓚もこのように裏切られるのが怖いから使えなかったんでしょうね

 公孫瓚が失敗すると、漁陽郡の国人・太守代行の鮮于輔の下で長吏。田豫は曹操に帰服することを勧める。曹操は丞相軍謀掾→頴陰、朗陵の令→弋陽太守。

 →鄢陵侯曹彰の相で代郡の烏桓討伐。易水の北に宿泊していたところ敵の騎兵の伏兵で窮地に陥ったところ円陣・弓や弩で敵を防ぎ、偽兵で敵が進めないようにした。敵が撤退したところ追撃して大勝。代郡平定は田豫の策略が大きかった。

 →南陽太守。侯音の乱の影響で盗賊が問題に。その仲間500人の囚人を説得し釈放。真人間になる道を開いた=身分の上昇か?まあ本来あるべき刑罰をチャラにしたのは間違いない。前太守は全員死刑っていってるし。アメでつって治安安定化に成功と。

 →曹丕で持節護烏桓校尉。牽招・解俊とともに鮮卑を監督。互いに分離し、常に争わせるべく策略をめぐらせた。割って統治するですね。協力して馬を出さない=重要商品である馬を安く買い叩かれない協定を結んでいたんですが、結局彼によって素利族はこの馬同盟・カルテルを破ってあっさり崩壊します

 偽計をもって・行軍を読み取れないようにして、一気に相手の背後をついて粉砕するというのが見事ですね。こういうのは兵の扱いだけではなく、そこの地理に詳しくないとできないでしょうね。また、烏桓王の骨進を百騎ばかりで相手の部落にいって骨進をいきなり斬り殺すなど肝が座ってたんでしょうね。

 幽州・冀州の山賊の高艾数千を鮮卑の素利と共に撃破。首を都に送り長楽亭侯。漢と北方の異民族の一体がありますから、協力しないとうまくできなくなっていたんでしょうな。幽州刺史の王雄の一派はこの強行的態度、徹底的に叩く田豫の方針を非難しています。そこで女南太守・殄夷将軍に

  太和年間、公孫淵の反乱で曹叡は指揮官に悩む。中領軍の楊暨が田豫を推薦で、田豫は仮節・太守のまま青州諸軍を率いた。呉が公孫淵と同盟したことと海をわたることから(=黄河だよな?)、明帝は田豫に引き上げの命令を下した。田豫は風を計算に入れて、賊の船の進路を予想し、要害をおさえさて待ち受けた。諸将は誰も居ない所で待ってどうするんだと嘲笑したが、田豫の予想通り、賊の船が流れ着き、田豫は全員を捕虜とした。諸将が追討しようとするのを兵法どうり逃げ道なき敵を叩かない。公孫淵と孫権の中間である青州。成山どこだろ、北京辺り?女南太守のままというのはなんででしょうね?こういう太守のままってのは結構よくあるんですが、女南ってのはそんなに簡単に持ち場を離れていい所ではないと思うんですが。やっぱり対孫権の意味合いがあるからその一連の行動の中で捉えられたということでしょうか

 青州刺史の程喜は田豫に軍権を奪われたことから不満を持ち、意見もしばしば対立した(強硬派、穏健派かな?)。程喜は田豫が戦利品を国庫に収めていないと讒言したため、田豫の功績は取り上げられなかった。このとき明帝が真珠を宝物としているということがわかります

 孫権が公称十万の軍勢を率いて合肥新城に攻め寄せると、征東将軍の満寵はこれを諸軍を率いて救援しようとした。田豫は籠城のち反撃作戦を主張。大軍は相手に同行がばれてはならない。それだけで相手は疑心を起こし引くと。呉の軍が撤退して、再び侵攻してきたという噂を、多分情勢が落ち着かなかったんだろう。だがそんなことはありえないと見抜いていた彼は騒げば切ると落ち着いて対応。結局そんなことはなかった。歴戦の猛者だけに統率能力が高いことを示すエピソードですね。

 景初年間末三百戸加増で領邑五百戸→正始年間使持節護匈奴中郎将・振威将軍・并州刺史。辺境を安定させる。→中央に召還で衛尉。たびたび辞任を請うも太傅司馬懿が留任。司馬懿派?でなくても司馬懿が好ましいと思った理由は何でしょうね?70を超えて官にあるのは恥~という意識がわかりますね。→太中大夫、卿の俸禄。特別な貴族待遇なんかな?卿って

 晩年は官職を退いて、魏県で質素な生活をした。西門豹に己をなぞらえたといいますね。あとは例の清貧・余財なしですね。健脚という、神足歩行術を連想させるような飛脚が初めて出てきましたね。うーん、もっと忍者みたいなのが出てきて欲しいんですけど。そういうのはもう当たり前すぎて記されないのかなぁ。残念

 p172、牽招―字子経、冀州安平郡観津県人。同県楽隠の下で学び、楽隠が車騎将軍何苗の長史となると、牽招もついていく。宦官虐殺事件に巻き込まれて何苗と楽隠が殺され、他の門下生と楽隠の棺を持って帰る。途上賊に襲われ、他の門下生が逃亡するなか、牽招だけがやめてくんろと懇願。賊はその勇気をたたえ去っていく。例の棺の釘を奪うというやつですね。いきなり、賊がハードボイルドになって見逃すのもいつものパターンです。史書に記されるということは失敗して普通に殺されることもあったんでしょうなぁ。というか殺されるのがほとんどか

 →冀州袁紹下で、督軍従事・烏桓突騎担当→袁尚。建安9年(204年)、袁尚使者并州刺史の高幹のもとに。高幹は曹操にも袁尚にも味方しない中立。そして牽招を殺害しようとする。牽招は逃走したが袁尚の下に戻ることができず、そのまま曹操に降る。→冀州従事→袁譚を支援する峭王(烏丸の有力者蘇僕)を曹操派にスタンスを変えさせるために使者として赴く。ちょうど柳城では遼東の公孫康(のちの遼東王に対して、このときは平州牧の自称)からも使者・韓忠が来ていた。で論戦となる。峭王は袁紹曹操もおんなじ、と言っています。まあここに来たら曹操につくことがほとんど決定しているんでしょうけど、有利な条件を引き出そうとしたんでしょうね。でも警戒して五千騎をだそうとしているところだから、袁尚につくほうが割合としては大きかったのかな?んで韓忠が公孫康の正統性を主張し、曹操を批判するとブチギレます。この時代の人はいきなりスイッチはいる人が多いですね。こんな使者という役目なのに、いきなりブチギレるような人で大丈夫なのか…?よくある話なんですかね?でこの調略に成功と。 建安10年(205年)袁譚滅亡後、軍謀掾→烏桓征伐時護烏桓校尉。建安12年(207年)、公孫康が袁尚袁煕の首級が届き馬市で首がさらされる。牽招はこれを悼みその場で祭祀を行う。曹操は罰することなく、茂才(秀才)とした。なんだろう?門生・故吏だから?曹操も自分に好ましい部下があえてこうすることを認めることで、既存理念に従順なスタンスを見せることで統治をやりやすくする意味合いでもあったのかな?冀州統治を落ち着かせる上で袁二人の祭祀をすることは有効に作用したんじゃないかな?※辟召だからでしょうね、きっと

 建安20年(215年)漢中征伐時、中護軍→鄴で平虜校尉兼都督青徐州諸軍事、東莱の賊を破り、大首領を斬る。ボスを殺したのは彼だったのか。他にもいろんな重鎮が起用される中で一番の功績を上げたのは彼ということか。都督青徐州諸軍事と東莱の賊はキーワードやね

 黄初元年(220年)、曹丕で使持節護鮮卑校尉・昌平に駐屯。牽招は寛治。民族問わず帰順してきた者を受け入れる。鮮卑族の大人の素利・弥加ら部落十数万家や、歩度根・泄帰泥ら部落三万家を招き寄せる。→右中郎将兼雁門太守。このときの中郎将ってあれかな?烏丸突騎を率いているのかな?やっぱり。雲中郡で泄帰泥らを指揮し、軻比能を叩く。田豫の厳しさに対する牽招の穏やかな統治ってことなのかな。河西の鮮卑族十余万とよしみを通じ、上館城に守備兵をおいて、内外の抑えと。反逆逃亡を親戚も匿うことなし。これも決まり文句かな?んで学業を興し、郡庁の広武に水を引いて便利にしたと。

 黄初7年(226年)、明帝で関内侯→太和2年(228年)、護烏桓校尉田豫が馬邑城で軻比能に包囲されると、中央の指示を待つまでもなく独断で救援。田豫を救出し軻比能を撃破。諸葛亮が軻比能と連携することを予見したが、離れているため皆信じられなかった。現実化すると勅命でこれを討て―と指示が下るももう逃げたあと。対策として雁門に二牙門を置き陘北において外を鎮撫し、内に兵で田を耕させる。んで備蓄が整って、秋冬に馬が肥えた時に討ちに行くと。馬って秋冬に溜め込んで動きやすいものなのか?寒い時期に遠征なんかして大丈夫なもんかね?で次の漁陽の傅容(ふよう)もその統治をよくしたと。

 次子は牽弘蜀討伐に参加し鄧艾が成功すると振威護軍。晋の司徒李胤と母を同じくするってどういうことだろう?なんか面白そうな話だな。晋代に平北将軍。 荀綽の『冀州記』に孫の牽秀の話がある。太康に衞瓘、崔洪、石崇の引き立てで新安令・博士→司空從事中郎。帝の舅黃門侍郎王愷と仲が悪く、愷は司隸の荀愷をつかいスキャンダルをでっち上げると。冤罪は晴れたが名誉は損なわれた。で張華の長史→尚書→河間王により平北將軍・假節。馮翊で殺されたと。詩賦の才があって惜しまれた。

 p179、郭淮―字伯済、并州太原郡陽曲県人。郭氏譜だと祖父の全が大司農、父の縕が雁門太守ですから、世々二千石ですかね。エリートなんだな。イメージ的には叩き上げだったけどこの地方じゃバリバリの名士ですね。建安年間孝廉→平原の丞。曹丕が五官将で門下賊曹→丞相兵曹議令史→漢中征伐に随行→漢中制圧後、征西将軍夏侯淵の司馬。ただ劉備軍の侵攻の際は病気で参戦していなかった。219年定軍山の戦いで夏侯淵が討たれると、軍は混乱したが、郭淮は混乱する兵士を取りまとめ、盪寇将軍張郃を立てて、落ち着かせる。そしてさらなる劉備の来襲を水にそって布陣するより、渡るところを叩くようにすることで相手の行軍を抑制する。曹操は漢中に到着する張郃に節、郭淮をその司馬に任じた。

 曹丕が王で関内侯→鎮西長史・征羌護軍兼任、左将軍張郃と冠軍将軍楊秋を監督。山賊鄭甘・盧水の胡を討って、関中は初めて落ち着く。

 曹丕の帝位の祝賀で途上で病気にかかり遅れる。文帝は咎めたところ、今は堯舜の世だから=曹丕が名君だから処罰なんてありませんとゴマをすって、ははは、こやつめ!んで雍州刺史代行・射陽亭侯。五年後正式に雍州刺史。羌族に対し、親族関係・男女の数・年の長幼などを調べておく。そして面談で一つ・二つの質問で相手の心情を理解することができた。

 228年、祁山で諸葛亮と対峙。諸葛亮の軍の一部が街亭を占拠。張郃ととも迎撃に出向き、蜀の将軍の高翔が守る列柳城を攻めて破った(街亭の戦い)。このとき、隴西の羌族の名家唐蹏を枹罕で破る→建威将軍。

 231年、諸葛亮が鹵城(ろじょう)に攻めてきた。隴右は穀物がなく兵糧不足。関中大輸送の議論があるも、羌族を手懐け兵糧を出させ、労役も均等に割り振ったと。→揚武将軍。

 234年、斜谷にでてきた諸葛亮は蘭坑で屯田。ことごとく諸葛亮の進路・意図を見ぬいて防ぐ。諸葛亮死後 240年には蜀の姜維が隴西に侵攻してきたが、これを防いだ。羌族の迷当を攻撃し、さらに従順な氐族三千余部を降参させ、関中に強制移住→左将軍。涼州の休屠胡である梁元碧を雍州に帰順したので、郭淮は安定の高平に移住させることを要請し、彼らのために西州都尉の職を設置するよう取り計らった→前将軍・州の宰領はまま。

 244年、大将軍曹爽の蜀征伐時、征西将軍・都督雍涼諸軍事夏侯玄の先鋒として従軍。形勢不利を覚った郭淮はいち早く味方の軍を脱出させ大敗を防ぐ。→付節。 247年から248年、この年は蜀ではなく、羌などが連合してやってきて、蜀の呼応を待ったとあります。珍しい異民族主導のそれですね。戦いは北伐という枠組みを超えて、胡漢というそれに移る一つの証左でしょうか?隴西、南安、金城、西平から餓何、燒戈、伐同、蛾遮塞(がか、しょうか、ばつどう、がしゃさい)が乱を起こします。乱というか侵入か。涼州の名胡治無戴(ちぶたい)もこれに参加。 討蜀護軍の夏侯霸は諸軍を督して為翅に駐屯。淮は軍を狄道に、みな先に枹罕を落ち着かせる。羌を叩いてから姜維を討とうと言ったが、淮は姜維が霸を討ちにまっしぐらに来ることを見ぬいた。=速戦即決を選んでくるだろう。姜維にとっては大チャンス、勝負をかけてくると考えた。相手の性格を知り尽くしていたのかな?そうでなければこういう博打(かどうだかわからないけど、多分結構な賭けだと思う)はうてないだろう。で渢中から南へ霸の支援に行く。やっぱり姜維は為翅を攻めていて淮が来ると、到着する前に退いた。でそこから改めて羌を討ち、餓何、燒戈を斬る。降服者は万余落と。結構な規模の羌の蜂起なんだから、姜維としてはこれにもっとかけるべきではないか?姜維がここで郭淮をとどめておけば、羌は城を落としていたんじゃないか?だったら帰路をなくして挟み撃ちということになるのでは

 で治無戴とか、令居の惡虜とかを叩いている間に、姜維が石営に出て、彊川をわたり、西へいって治無戴を迎えた。陰平太守廖化は成重山に築城。斂破羌保質=?魏が羌からとった人質、家族を奪い返したってことか?ぐるっとまわって西の異民族との連携を断つという提案を拒否して兵を割って、廖化を叩く。廖化が落ちれば、姜維も狼狽すると。兵を割る、半分位で叩けるという判断はすごいと思う。もしくはここらあたりの戦争って大軍がどうこうと言うよりは先に見つけたほうが、襲いかかって相手を一気に大破できるっていう地勢なのかな?場合によってはあまり兵の数は重要ではないのかな。で例のごとく自身の相方覇を姜維に向けて、直に叩きに行く。で成功をする。蜀が弱いというか、補給が続かないから長く滞在できないからなのか。ここでもまた敗れると。郭淮が単純にすごいということなのかなぁ?→都郷侯。

 249年、曹爽が誅殺され、中央に召喚された夏侯玄に代わって征西将軍・都督雍涼諸軍事。雍州刺史の陳泰と協力し、蜀の牙門将句安らを降参させた。 250年、長年の功績を詔勅で讃えられ、車騎将軍・儀同三司→都督雍涼諸軍事を兼任。陽曲侯・二七八〇戸。うち三百戸を分割し子が亭侯に。張郃亡き後、実質彼がここの司令官だったような。都督が遅すぎる気がする。ちょうど彼の世代がこういう都督になる頃には魏晋革命の間にあって任命が難しかったってやつかな?それとも一族しか都督にはしないってやつか?三十年一任地を守り続けたというのは彼だけか?結構北に南に任地を変わるものなのに。ここだけ?彼だけ?西域情勢などを考える上で、有効なデータになりそうな気がする

 251年、太尉王淩が司馬懿に討伐され、郭淮の妻は王淩の妹であったため、妻は罪人として中央に召された。郭淮の配下や周辺の部族の長はこぞって郭淮の元へ押しかけ、助命を嘆願したが、郭淮は聞き入れなかった。妻が雍州を離れる際になり、郭淮の子供たちが額から血を流すほどに叩頭して請願し、ここにいたって郭淮は妻を取り返す。そしてこの件を司馬懿に言上し「子供らが母親を哀れみ、もし母親を失えば彼らも亡くなるでしょう。そして子供らが亡くなれば、また私もないことでもあります。故に妻を取りかえしてしまいました。これが法律上成立しないのであれば、私も然るべき罪に服す所存です」と述べた。司馬懿は不問とする(『世語』)。事実かどうかはさておいて、王淩の妹の影響力。ここはやはり母が強いという例のやつだろう。彼女一個人のコネがかなり築かれていて、彼女抜きでは治まらないというやつがあったのではないか?董卓に求婚・妾だっけ?迫られて、一括して処刑された女性も烈女伝にあったし、女性が強いのは辺境ではむしろ普通だろう

 255年逝去で大将軍追贈。孫の郭正が例の晋の五等爵で子爵。

 郭淮の弟が賈充・裴秀の舅なんですよね。つまり郭一族と晋の次世代を担う中心が非常に深いつながりを持っている。ここがポイントかな?将来の中華を考える上でやっぱり雍涼をどうするかというのが次の課題になってくるという事がわかっていたんじゃないでしょうか?だから故吏がいて経験・人脈豊富な彼を取り込んだという気がしますねぇ

 p187、徐邈―字景山、燕國薊人。曹操の河朔平定で、丞相軍謀掾。→奉高の令→東曹議令史→魏建国で尚書郎。曹操が禁酒令に逆らって、酒を飲む。バレて「聖人に当たった」と答えて、曹操の怒りを買う。度遼将軍鮮于輔の弁護で法にあたっても、刑は免れた。

 →朧西太守、南安太守→曹丕即位で譙の相→平陽太守、安平太守、潁川の典農中郎将を歴任、関内侯。許昌行幸で文帝はかつての聖人発言を揶揄したところ、徐邈は韻を踏んで返す。ダレウマで評価され憮軍大将軍軍師。やっぱり行幸というのは人事権の行使という点があるのかな?名が立ったのは偽りではなかったというから、評判がかなりよかったということですね。

 曹叡涼州刺史、使持節・護羌校尉兼任。諸葛亮が祁山に出ると、隴右の三郡が之に呼応した。參軍と金城太守を向かわせ南安で破ると。んで例の教化をしくというやつですね。武威、酒泉の塩、田を開き、学校を建て、厚葬を減らす、民間にあふれる武器を没収。軍用米の残りで金・絹・犬・馬を買う。面白い話ですな。西域との交易を確保。柯吾を討伐→都亭侯・三百戸、建威将軍。

 異民族に対しては、わずかな過失には目をつぶる一方で、大きな罪には指導者への告知をして手続きを経た上で行った。死刑の際には必ず通告した。よって異民族の心服と敬意を得た。信頼第一路線ですね。死刑でも通告しないのが当たり前だったんですね。前後の反乱とかとなんか関係が有りそうですね。死刑をめぐって揉めてそれが反乱の一要因になったんじゃないでしょうか

 徐邈は部下に施しをよくする一方で、私腹を肥やそうとしなかったため、妻子は衣服も不足がちな状況であった。そのため明帝は随時支給を行った。んで地域の安定化に貢献と。

 240年、中央に戻り大司農→司隷校尉。公的な事件のため官を辞した。曹爽かな?→復帰で光禄大夫。数年後、司空推挙を道義と老齢で固辞。249年、大夫身分のまま、78歳で世を去った。三公待遇で葬られると。

 254年に、同じく既に亡くなっていた田豫と胡質と並んでかつての功績と清廉が評価され、家族に対し穀物二千石と銭三十万が給与。この年に三人を並んで表彰することにどういう目的があったか。司馬家の人心掌握の手段かな?

 徐邈と同郡の豫州刺史韓観は彼と並ぶ名声を持ち、孫礼、盧毓より上と称されていた。また、盧欽も徐邈の人品を絶賛した。昔洒脱も今狷介。これは世の中が変わっただけで、本人の態度は常に一定だったからと。普通は逆なんですけどね。昔狷介と言われるはずで、これも中華の宗教・清廉ってやつのためですね。かえって世俗ウケ狙わない事で見を全うできるといういい例でしょうね。

 p191、胡質―字文徳、楚国寿春人。年少から蒋済、朱績と並んで名を馳せた。蒋済が曹操に仕え、揚州の別駕となったとき、曹操は胡通達の子孫について蒋済に尋ね、胡質のことを知って、頓丘の令。パパの名声で登用される。地方を掌握するのに名士を使うというやつから始まる。でも別に二千石じゃないんだよな。彼の名声は彼独自によるものと見るべきなのか?蒋済いわく、父に品行と智謀の面では及ばないが、事務処理の精密さの面では勝る。

 でまた、冤罪を見破る話と。偽りの自白を見抜いて厳しく吟味をし事実を明らかにしたと。丞相東曹議令史も州の要請で治中に留まる。揚州刺史温恢に張遼が胡質を部下にしたいと温恢に申し出るが、胡質に断わられる。張遼がわざわざ胡質の元に赴いてその理由を尋ねると武伯南(武周)と仲違いしているからだと。で張遼は武周と仲直りをしたと。これもまた例のやつですね。なぜ張遼と武周は始め仲がよく、ケンカしたか。そして彼がどうして結びつけたかと。まあこの地方に関係が深いというのもありますが、武周の子孫が晋で栄達しているということを見るとまたなんか面白いことがわかるかもしれませんね。どうでもいいですが、武周というと則天武后を連想しますね

 →再び曹操に召され、丞相属。黄初年間に吏部郎→常山太守→東莞太守。再び殺人事件を解決。軍功の褒美は人に与え家に余財なし。郡での務め九年になり、よく治まったと。東莞太守であった時代に呉侵攻作戦の監軍と。

 →荊州刺史・振威将軍・関内侯。241年、朱然が二万の兵を率いて樊城を囲む。周囲は駆けつけても無意味と反対。しかし軽装の軍でも救援しないと場内の兵が不安を感じてしまうとメンタル面を重視してすぐに駆けつける。よって城内は落ち着き、朱然は退却した。

 →征東将軍・仮節都督青徐諸軍事。有兼年之儲=二年の蓄えと訳しているけどもこれでいいのか?その年で来年分の収穫までまかなえたってことじゃないのか?なんか不正確な気がするが…?諸郡の水利を切り開いて、船の行き来を良くして、防衛力を高めた。東征台ってのがどれくらいの規模なんだろう?灯台みたいな相手の行動をよく把握できるやつなのかな?で、海邊が落ち着くと。

 不以其節檢物,所在見思=これ面白いですね。つまり、他では節倹の人物は他者にそれを強要して、嫌われがちだったってことですからね

 250年に死去。家に余財はなく、楊陵亭侯・百戸。254年に徐邈と田豫と共に顕彰された(前述)。子の胡威は徐州刺史・三郡の太守歴任と。『晋陽秋』には一族皆清廉だったとありますね。んでこの胡威が旅に出ているとき自分でロバを乗り降り、あるいは馬具の取り外し、飯炊いたりと書いてありますから、これくらいの身分の人は使用人にやらせて一人旅というのはありえないのでしょう。んで都督がぴったりついて世話をしてやったという話があって、それを胡質があとから知るとフルボッコにします。これはなんでだろう?彼の絹を狙ったとか?やっぱり故吏だからということで過剰に仕えたということなのかな?公の範囲を超えて奉仕をすることを戒めたってことかな?普通ならこういうのをさも当然にして奉仕を受けるものだろうしね。帝にどっちが清廉か?と聞かれて、答えが面白いですね。父です。私は他人が知らないことを気にしますがにしますが、父は清廉を知られることを気にしたと。時代が変わって清廉ということを再びアピールしなければ鳴らなくなったってことかな?

 p196、王昶(ちょう)―字文舒、并州太原晋陽人。父は人物評の郭太に兄弟で褒められているヒトか。王昶は若い頃から同郡出身の王淩とともに名を知られ、年上であった王淩に兄として仕えた。曹丕に太子時代から仕えて太子文学、太子中庶子。→曹丕即位で散騎侍郎→洛陽の典農(校尉?中郎将?まあ洛陽で独自軍を率いることなんかないから校尉か)。で林が茂っていた機内を開墾。→兗州刺史→曹叡即位で揚烈将軍・関内侯。秦漢の幣制で法が厳しく細かいから古の法制を復活させる必要があった。で、『治論』を著す。ついでに兵法『兵書』も献上。古の制度に叶う=法律によらない統治法が求められたってことでしょうね

 一族の子弟に心得を論じるのですが、長っ!5pこれかよ。コレ全部載せる必要がどうしてあるのだ?こういう心構えを重視したってことなんだろうけど。まあ今からじゃあ理解できませんわね。ああ、ここに出てくるのか魏風の出身地の誤り(p201)。しかも済陰じゃん、違ったか。山陽の曹偉、魏風と並べられる人物。孫権とよしみを通じ、私腹を肥やした?まあ呉と貿易かなんかやったんでしょうね。珍しい珍物でも高値で取引していたんでしょうかね

 郭嘉の子の話が出てきますね。潁川郭伯益じゃなく、北海徐偉長を真似ろ。東平劉公幹でなく、樂安任昭先を真似ろと。対比される人物なんでしょうかね?昭先=嘏。『別傳』では樂安博昌人、世為著姓=名族ですね。黄巾賊が郡まできても彼の名を聞いて去っていったと。学業のエピソードに、母の死に際し幼いながら大人のように泣くと。州郡から孝廉に推挙。魚を売って生計を立てたが、利を求めなかった。んで奪われても自分のものだ!と主張しない。例のジョセフ・ジョースターのそれは私が上げたものですよおまわりさんです。曹操の創業を起こす頃で、四海から人を招くそれにあたって、臨菑侯庶子→相國東曹屬→尚書郎。曹丕即位で黃門侍郎。自筆で書く、原本をもっておく、封をしない。いずれも丁寧というか、普通このくらいにある人には考えられない謙虚さだったのだろう。残した学業が詔勅で編纂されるほど。

 青龍4年(236年)、卿校がひとりずつ賢人をあげよという詔勅で太尉司馬懿が推挙(こういうのってドラフトじゃないですけど、かぶったらどうするんでしょうね?選択権を逃した人は違う人を挙げるんでしょうか?)→正始年間、徐州赴任で(役職不明)武観亭侯→征南将軍・仮節都督荊豫諸軍事。軍事の役所を宛からより呉に近い新野に移し、訓練と農業。 曹爽誅殺で司馬懿が臣下に意見を求めると王昶は教育と人事の五箇条を提言。1、学問、ノーモア浮華。公卿大夫の子弟を太学に入れて学校制度を整えること。2、勤務評定について、おそらく画一化のことか?虚しく能力があるないを論じないこと。3、官の長期化、そして功績ありで爵を給うこと。4、冗官を削り、民と利を争わない。5、奢侈根絶・節倹、身分秩序の徹底、穀物・絹帛蓄えを民に返すこと。彼のこの5つの主張は魏が滅んで、晋が起こる理由そのままですよね。もっと強調されてしかるべきだと思うのですが。ままこの方針が晋の国策であり、その逆が魏の国策ですからね。曹爽分析をこの観点からもっとやるべきだと思うんだけどなぁ

 嘉平2年(250年)、呉の二宮の変につけ込み、呉征伐を上奏。新城太守州泰に巫・房陵方面、荊州刺史王基に夷陵方面を攻撃させ、自身は江陵(南郡)方面を攻撃。大将施績を物量と兵器で圧倒し敗走させた。さらに江陵城に逃げ込んだ敵を誘い出すために、撤兵するふりをしつつ、討ち取った敵の首を馬にくくりつけてわざと怒らせた上で、追撃してきた施績を伏兵によりさんざんに破り、その将の鍾離茂・許旻らを斬った。施績って朱績のこと?「呉主伝」だとちょっと記載が違うみたいですね。

 州泰、王基もそれぞれに軍功を挙げた。この功績で征南大将軍・儀同三司・京陵侯。『晋書』景帝紀司馬師時代の四方都督の一人として胡遵、諸葛誕、毋丘倹、陳泰と共に名が挙がったそうですが、一人多くね?ああ四天王みたいな数じゃなくて四方の中での名都督ってことね。五大都督の内二人が背いていることは重要ですね

 嘉平4年(252年)、呉の孫権が死ぬと、胡遵や毋丘倹と再び征呉計画。も、失敗と。255年、毋丘倹・文欽の乱の功績で、二人の子が列侯・驃騎将軍。

 257年、諸葛誕の乱で江陵で呉の朱績を牽制。この功績で詔勅により食邑を千戸を加増、計四千七百戸。持節・都督のまま司空に。やはり晋王朝建国最大の功臣ってやつでしょうか?まあまだ最大かどうかはしりませんけどね

 

 p209、王基―字伯輿、東莱郡曲城県人。孤児で叔父の王翁が育てる。んで孝を賞賛されると。十七歳で郡に召されたが、好みに合わなかったので、職を離れ、学問に。好みに合わないってどんな職だろうか?役職が低かったってことか?黄初年間、孝廉→郎中→青州刺史の王淩により、青州別駕→中央で秘書郎→王淩が呼び還す→司徒王朗の招きも王淩は拒む。よっぽど優秀な人材、もしくはその地方に欠かせなかったということでしょうか?王朗はなんでよこさないんだと文章を以って弾劾と。三公が弾劾しても平気ってどういうことなんだろ?王淩の評判は州に広まっていたが、それには王基のサポートも大きいと。→大将軍司馬懿の招聘で到着前に中書侍郎に抜擢。王朗>司馬懿といったような、もしくは前者は嫌だが、後者はよしといったようなものが王基にあったのだろうか

 中央に入って例の諫言、すなわち明帝の宮殿造営。疲弊する民衆を水と船=民と君に例えている。そしてここでも同様に文帝、賈誼の諫言を引用して同姓の王を立てることの主張、正確には同姓諸侯の締め付け政策への批判。建築政策と諸侯締め付けというのはどうつながってくるのだろうか?そしてこのロジックはそのまま晋建国の正当化ロジックとして成立するのだろうか

 散騎常侍王粛が鄭玄説を改変して新説・王粛説を説いていくのに対し、彼は鄭玄説の方の正当性を説き続けた。散騎常侍王肅著諸經傳解及論定朝儀―この朝儀ってのは単なるプロトコルにとどまるんじゃなくて、政治のフォーマットを決定するものだから、システムによっては君主権が強かったり、下の諸大臣の権限が強くなったりするってことだと思う。まあこういう細かいことが重要なんじゃないかなという気がします。公事去官―ってたびたびでてくるけど、なんだろうこれ?曹爽の事件かと思ったけど、違うみたいだな。晋にとって都合の悪いふせなくちゃいけない事件か?それとも一般的にある不正な事件で伏せる独特の用語なのか?なんかの連座とか。安平太守に昇進したが、公的事件のため官を去る(ちなみに安平太守時代に管輅と知り合っている。この土地柄と何か関係があるのかなやっぱり?琅邪王氏とか管輅みたいな存在は意外と重要な関係があるかも?)。→大将軍曹爽招聘で従事中郎→呉の前線安豊太守。呉の軍事行動について揚州刺史の諸葛誕から意見を求められて、今回の軍事行動は陸遜死後の内部統制のため。軍部掌握のためで実際に軍隊を動かして侵攻することはないと的確に見抜く。曹爽によって引き立てられたのに曹爽の専横を『時要論』で批判。病気により中央に召されて免職。起家為河南尹―これ平民に落とされたってことを意味するのか?よくわからん。まあ河南尹に抜擢されたってことに違いはないんだろうが。河南尹に突く前に、曹爽が失脚し、かつての属官であるから慣例通り免職。

 →同年(=すぐ)復帰して、尚書荊州刺史・揚烈将軍。まあ曹爽故吏といってもスタートは司馬懿の推挙ですからね、政治批判もしてましたし。スタンス的には司馬懿の方に近いのでしょう。しかしそんな彼を河南尹に抜擢しようとした曹爽の意図ってなんなのでしょうか。どちらでも要職についたらそれなりの働きをするっていう実務派なんですかね。250年の王昶を中心とする呉征伐に、州泰と共に別将として参加。王基は夷陵の歩協を攻撃。城門を閉ざし戦おうとしない歩協を牽制しつつ、別働隊を編成し兵糧庫を襲撃し、30万石の兵糧を奪い、安北将軍の譚正を捕虜とし、数千人を降伏させる。夷陵県を設置し、降伏者を入植させた→関内侯。上昶の地に江夏の役所を移し、夏口を牽制。これで呉の長江超えが難しくなる。でお決まりの軍・農・学の整備。南方で名声を博すと。朝廷は呉征伐に対して王基に権を求めたところ、まだ内政に力をいれるとき。沮、漳水のところの開拓に力をいれるべきだと。ここが充実してから江陵、夷陵に向かって夏口を取る。長期的ビジョンとしてこれが一番妥当だと。蜀・呉の連携が立てるから、これで呉は滅ぶと。呉が先に滅ぶと見ていたのでしょうか?だとしたら面白いのですが、まあこっちの方面の司令官だからこう書いただけかもしれませんが

 司馬師が政権を握ると、王基は書状を送り許允、傅嘏、袁侃、崔贊を正直の士として挙げている。『晋書』「景帝紀」では州泰、鄧艾、石苞と共に州郡を治める諸将の一人として名があがっているか、なるほどね。→曹髦(高貴郷公)即位で常楽亭侯。255年毌丘倹・文欽の反乱で行監軍、仮節、許昌の軍を統率。王基は司馬師に軍の先頭を任された。官民は脅されて従っているだけで、彼らの動揺があるうちに、さっさと進軍して内部が界を誘発すべきだと強攻策を取る。対して司馬師は歴戦の将である彼らと対決をする事をもって慎重策を取る=諸軍の集結を待つ。王基は譙、沛、汝、豫が不安に陥る=不安定化する。さっさと攻めて南頓を取る。そこには四十日の軍糧があるからそこをなんとしても抑えなくてはいけないと諸将の反対を押し切って南頓を取る。毌丘倹も南頓を抑えようと出ていたが、先に南頓を王基が抑えたことを知ると、毌丘倹は項城に引き返す。兗州刺史鄧艾が樂嘉に駐屯、それに文欽を派遣。王基は戦力が二分された隙をついて、項城を攻撃し毌丘倹を下した。→鎮南将軍・都督豫州諸軍事・豫州刺史兼任。安楽郷侯の爵位を得たが、王基は上奏して、養育の恩のあった叔父の子の王喬に関内侯と所領の一部を与えることを要請し、認められた。王基のこの速戦即決はかれの出身地が関係しているのかな?早く叩かないと自分の故郷が傷つくとかそういう背景はなかったのだろうか

 257年の諸葛誕の反乱で鎮東将軍・都督揚豫諸軍事を兼ねる。諸葛誕は精兵を率いており、呉の朱異の援軍も来襲していたため、軍を安全な場所に移動させるべきという意見が多く、司馬昭もそれに賛同し命令を下したが、王基は寿春の包囲陣を強めることを主張し、司馬昭にこれを認めさせた。城東と城南の二軍を指揮し、司馬昭は王基の部署においては自身の軍吏にも自由な行動を許さなかった。寿春陥落後、司馬昭は王基に書簡を送り、その判断の正しさを賞賛した。前回の事例と絡んで、まず慎重論が出てきて、王基が覆すという流れ。なんでしょう?大きな官僚機構・硬直化するシステムにおいては英断が下せないということなんでしょうかね司馬昭は勝利に乗じて呉への侵攻を企てたが、王基は諸葛恪や姜維の失敗の例を挙げてこれに反対した。軽装の兵を以っても食が続かないと。→征東将軍・都督揚州諸軍事・東武侯。部下に功績を譲り、部下の長史、司馬の七名が侯にとりたてられた。

 258年に母が死去するが、朝廷は王基にはただちに知らせず、亡父の王豹に北海太守を追贈し、洛陽に改葬した上で母と合葬させた。かなりレアケース。259年には征南将軍・都督荊州諸軍事、新野に駐屯(『晋書』「文帝紀」)。261年に、呉将鄧由が投降してきたと襄陽太守から報告があったが、偽の投降と見抜いた。司馬彪『戦略』に詳細に記されているけども、曹爽の遠征は長雨で橋が腐って輜重が進めない、輸送が滞ったからか。当時の人間は天罰と捉えたのかな?文欽や唐咨のような重装兵が寿春で利を貪りってどういうことなんだろうな?軍隊でも重装兵だとそういう性質があるのかな

 死後、司空追贈。子の徽が嗣いだが、早くになくなった。例の五等爵で孫の廙を候に、東武の残った町(ってどういうことだろ?)を一子に与えて関内侯とした。で詔勅で讃えて、奴婢を二人贈ると。珍しい事例だな。やっぱり晋建国の元勲ってことでの特別待遇かな?候に報じられたのも多分、そんなにいないはずだし